2009年1月30日金曜日

アメリカドッキリ物語 10

アメリカ・ドッキリ物語(10)

古枯の木

Close Out Sales

 いままで9回にわたり肝を冷やしたり、びっくりすることばかり書いてきたが、最後はドッキリではなくてナイスサプライズをご紹介したい。

 ロス郊外のブエナパークという町にKnott’s Berry Farm という遊園地がある。もともとこの遊園地はカリフォルニアのゴールドラッシュのときに繁栄し、後にゴーストタウンと化した町にあった学校、消防署、教会、サロンなどを集めて展示したものだが、それ以外にアメリカ東部のフィラデルフィアにある独立記念館のレプリカが置かれている。
 
 この遊園地のすぐ近くにCrystal Factoryという店があり、ここではガラス製品、陶磁器、ボーンチャイナなどを販売している。よく行く店だが、いつ訪問しても“Close Out Sales”(店じまいセール)と書いた大きな旗が店頭に掲げられている。これはおかしいと思ってあるときこの店のオーナーに訊いてみた。
 
 筆者―“いつ来ても“Close Out Sales”の旗が掲げられている。でも閉店するのを見たことがない、これはインチキではないか“
オーナー“いやインチキではない。われわれは毎晩9時に閉店している、だから今売っているのは店じまいセールだよ”
古枯の木―アメリカ在住35年

アメリカドッキリ物語 9

アメリカ・ドッキリ物語 (9)

                  古枯の木

教師に反論する

 わが家の長男は小学校をアメリカで学んだ。あるとき先生の意見に反論したいが。そのためには反論の根拠、理由を3つ上げなければ先生はとりあってくれないと言ってきた。反論の理由を2つまでは発見したが、最後の一つが見つからないのでヘルプしてくれというのだった。先生の意見とまったく別のことを長男は書いたが先生から“A”の評価をもらってきた。先生も自分の意見に反しても、根拠のある反論には充分価値を認めるという度量の大きさに驚くと同時に感服した。先生に反論するという長男の言葉に驚いたが同時にいろいろ考えさられることもあった。

 アメリカでは小学校の3年生から生徒にいろいろの本を読ませ、それをレポートにまとめた後、教室の中で発表させる。小さいときからこのような訓練を積んでくるので自分の意見や根拠を持つ習慣ができ、聴衆の前でのプレゼンテイションが上手になる。よくアメリカ人は口がうまいといわれるが、その理由はこの辺にあろう。

 幼児からの訓練も大いに関係してくるが、もっと重要なことは“個”に絶対的倫理観が根付いていることだと思う。西洋の倫理観には生命と活力に溢れたキリスト教の倫理観に基づくものが多い。日本人にはかかる強力な倫理観が欠如しているため個が未だ確立していない。日本人には子が親に対する、または妻が夫に対する相対的倫理観はあるが絶対的倫理観はない。隣がテレビを買えば自分も買う式に無定見に雪崩を打って傾斜するという欠点がある。このような状態では生徒が先生に反論するなどドダイ無理な話だ。生徒は先生の言うことに従順に従えというのが日本人の一般的感情だろう。これはわが民族の最大欠点の一つだ。この点から日本でも幼児期から倫理教育の必要性を感じる。

古枯の木―ロス在住35年、著書に『アメリカ意外史』『ゴールドラッシュ物語』など)

アメリカドッキリ物語 8

アメリカ・ドッキリ物語 (8)

                古枯の木

日本人旅行者に肝を冷やすこと

 アメリカのホテルやモテルには水泳プールのほかにジャクジを持っているところが多い。ジャクジとは小型円形の小さなプールまたは風呂場のようなもので、ジェット水流を流して中に入る者の疲れた筋肉をほぐし、精神的にリラックスしてくれる。

 このジャクジによく日本人が風呂を間違えてフリチンで飛び込む。するとジャクジやプールにいるアメリカ人男女が悲鳴をあげて逃げ出す。この話をあるホテルのマネジャーから聞いたときは大きな驚きだった。ジャクジに入るときはプールに入ると同様水泳パンツ(英語ではswimming pantsとは言わない。これは和製英語。英語ではbathing suitという)こんなことをしていると日本人は野蛮人と間違えられる。ホテルのマネジャーには日本語の注意書きをジャクジに立てるよう伝えた。

 日本人旅行者をレストランに連れて行くと、スープを飲むとき大きな音を立てる人がいる。スープは音を立てずに静かに飲むものであり、音を立てるとアメリカ人の顰蹙を買う。サラダの皿を上に持ち上げてサラダを食べる人もいるが皿なテーブルの上に置いておいた方がいいい。同じテーブルにアメリカ人が座っていても断りもせず、平気でタバコを吸う人がいる。必ず事前に次のように断って吸うべきだ。

 “Don’t you mind me smoking cigarettes?”(タバコを吸ってもよろしいでしょうか)
 ~“No, I don’t mind.”(吸ってもいいですよ)

 便所に行った日本人がよくズボンのzipper(チャックは和製英語で、英語ではzipperという)をかけるのを忘れることがある。そのようたとき、アメリカ人は、

 “What are you advertising?”(何の宣伝をしているの)

と言って相手の注意を引く。

 またときには日本人旅行者が公園などで平気で立小便している光景を目の当たりにする。立小便はいかなる場所でもしてはならない。

 日本人のホームステイの面倒をよくみているアメリカ人から、日本人は便所で用を足したとき必ず便所のドアを閉めてしまうという。アメリカ人は便所が空いているときは必ずドアを開けておく。閉めてしまうと家人には誰かが未だ便所に入っているという感じを与え使用すうことを遠慮してしまうという。

古枯の木―一橋大学大学大学院修了後、アメリカで勤務、歴史愛好家、著書に『楽しい英語でアメリカを学ぶ』『アメリカ意外史』など)

  

アメリカドッキリ物語 7

アメリカ・ドッキリ物語 (7)


                    古枯の木

Japanese Indians

去年の秋、アリゾナ州のインディアン居留区(reservation)の一つを訪問した。そのときある店のインディアンの老婆からニューメキシコ州に自他共に日本人の末裔であるといわれるインディアンの存在することを教えられた。このインディアンをズーニー(Zuni)と呼ぶ。ズーニーはGallupという人口2万人の比較的大きな町の南方35マイルの地点におり、人口は6千人。部族の団結力が強く、男性は非常に勤勉で他のインディアンとは異なり酒は飲まないという。女性は日本人と同様手先が大変器用で彼女らが葦を材料に織るバスケットは水を漏らさぬというし、彼女らの作る銀とトルコ石の装身具は日本的に極めて精巧で他のインディアンの追随を許さぬそうだ。値引きは絶対に不可能とのこと。日本人がアリューシャン列島やアラスカを経由してアメリカにやって来たという説があるが、こんなに具体的にJapanese Indians の存在を聞かされたのは初めてでこれも一つのドッキリだった。

 早速図書館に行き、ズーニーインディアンの特色を調査した。次にそれを箇条書きにするが果たして日本人との共通点はあるだろうか。

1. 太陽を神を崇め、酋長が絶対的権力を有する。
2. ズーニーは孤立性が極めて強く、その言語は他の種族の言語とまったく類似性がない。インディアンに共通語は存在しないが、それでも例えばホッピー族の話す言葉はアパッチーに対しで30%は通じる。他の70%はダンスによった。ところがズーニーの言葉は100%他の種族には通じない。
3. 南米のインディオと異なりインディアンは農耕をまったく知らなかったが、ズーニーだけはコーンの栽培を知っていた。この点彼らは農耕民族である。
4. 争いを好まず、他の種族特に好戦的なアパッチーやナバホとの交渉を意識的に避けてきた。部族内では和の精神を大切にしている。一方、積極性と自己主張に欠ける恨みがある。
5. 儀式が好きで、動物の超能力を信ずる。
6. 他のインディアンと異なり男がマスクを着けてダンスする。
7. 世界的なマラソン走者を輩出している。

 だが読んだ本の中でズーニーが日本人の末裔であるという記述はなかった。インディアンの居留区には彼らの政府、憲法、法律がある。ズーニーもその例外ではない。ただズーニー政府は非常に保守的でカメラ、ビデオの持ち込みを許さず、風景をスケッチしたり村を散歩するにも許可がいる。本年春にはズーニー族の町を訪問する予定だが、事前にズーニー政府に連絡して、当方の目的を告げ、極力協力してもらうつもりでいる。

古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など)

 

アメリカドッキリ物語 6

アメリカ・ドッキリ物語 (6)

          古枯の木

バンザイ、バンザイ

筆者の家の近くに“こぐま幼稚園”と呼ばれる小さな幼稚園がある。この幼稚園は日本人や日系人の子弟だけではなく白人や黒人の子供も受け入れている。今年のイースターの休み中にこの幼稚園の運動会があり、孫の一人かここに通園しているのでそれを見に行った。

園児が赤白に分かれてする競技が多かったが勝ち組が勝つたびに大声で“バンザイ、バンザイ”と連呼しでいた。先生や見学に来た父親、母親もそれに和していた。みんなそれを当然のことのように行っていた。ところが筆者の横に座っていた80歳ぐらいの白人の男がこの光景を見て筆者につぶやくようにしかも皮肉を込めて“日本人はまだ戦争をしているのか”と言った。バンザイと戦争―最初はこのこのことにまごつきさらにドッキリと肝を冷やしたが白人の男と話すうちにそのなぞが解けた。

バンザイは太平洋戦争中のバンザイ突撃と関係がある。バンザイ突撃は身を殺して国を救う崇高な犠牲的精神の発露でありまた生還を期せざる者の悲壮な肉弾戦であった。バンザイ突撃が有名になったのは1944年7月7日未明サイパン島北部のマッピ山に追い詰められた5千の日本兵が行った玉砕作戦である、これは今日でも多数のアメリカ人が知っている。アメリカでは帝国陸軍を“戦争の下手な残虐な素人集団”(cruel amateurs)と侮蔑していたが、帝国陸軍が実施した戦術の中で一番愚劣でしかも乱暴な蛮行がバンザイ突撃であると信じている。筆者は隣の白人の老人にバンザイは戦争とは関係なく、単に喜びの歓声であると説明したが、彼がどれほど理解できたかは分からぬ。手元にあるThe American Heritage Dictionaryを開くと“バンザイとは日本軍による戦争中の雄叫び”としか書いてない。どうもバンザイという言葉はアメリカ人には不快感を与えるようだ。

古枯の木―在米35年以上、歴史愛好家。著書に”日本敗れたり“など。


 

アメリカドッキリ物語 5

アメリカ・ドッキリ物語 (5)

                  古枯の木

礼は1回で充分

 空港や駅で日本人同士が“どうも、どうも”と言いながら、何度も礼を繰り返す光景をよく目にする。中には最初から終わりまで礼をしている人もいる。あるときこれを見たアメリカ人が、“日本人が礼をするのはアメリカ人が握手をするのと同じだと思う。だがなぜ日本人同士は何度も礼をするのか。アメリカ人は1度しか握手しない”と訊いてきた。日本人でありながらそれまで長く気の付かなかった点であり、アメリカ人に指摘されて驚いた次第である。それ以来注意しているが確かにアメリカ人が何度も握手を繰り返すことは見たことがない。

 このとき以来筆者は礼は1回で充分であり、常に1回しかしないことにしている。ついでながら日本人で握手するとき、同時に礼をする人があるが、これはやめたほうがいいい。握手すろときは相手の目をじっくり見るべきだ。


古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』など)
                     

アメリカドッキリ物語 4

アメリカ・ドッキリ物語 (4)

                    古枯の木

帝国海軍はチキンだった

 まだ現役で働いていた30代後半頃の話である。ニューメキシコ州のアルバカーキーに出張した。目的は新たに任命した代理店との間に代理店契約を締結することだった。事前の調査によりその代理店のCEOが米海軍の元提督であることが分かっていた。会ったその提督は眼光鋭く、小柄ながらしっかりと引き締まった体をしており、全身精気に満ち溢れ若々しかった。代理店契約書について2-3質問を受けた後、サインしてくれランチに招待された。

 ランチがほぼ終わったとき、筆者から帝国海軍の戦いぶりについて彼の意見を求めた。こちらとしては、帝国海軍が劣悪な条件下にあっても善戦したとの回答ぐらいが返ってくることを期待していた。だがその期待はまったく裏切られた。彼は帝国海軍がチキンだと言ったのだ。チキンとは臆病者を意味する。勇敢なる帝国海軍を信じていた筆者にはこれはドッキリだった。チキンであったことの具体例をいろいろ説明してくれたが、あと一押しすれば完勝できたものをねばりがなく早々に引き揚げてしまったと言う。以下に述べる3つの例が今も強く印象に残っている。

 真珠湾攻撃のとき帝国海軍は旧型の戦艦5隻を沈没させさらに13隻に損傷を与えたが真珠湾に隣接する巨大な石油貯蔵庫、潜水艦基地、海軍工廠、艦船修理所などは無傷だった。さらに近くの海域にいた敵の正式航空母艦4隻の索敵さえも実施せずにサット引き揚げた。この貪欲なきあっさりした行為が提督にはチキンと映ったらしい。一方帝国海軍に言わせれば深追いしないのがその伝統であるということになるであろうが。

 第2の指摘は帝国海軍が持てるものを臆病のため最大限利用しなかったことである。帝国海軍は戦艦大和と武蔵をトラック島の泊地に繋留していた。この2戦艦が水兵のホテル代わりに利用されていたことを米海軍は知っており、これらの戦艦を大和ホテール、武蔵リョカンと呼んでいた。大鑑巨砲の時代が去り、航空兵力中心の時代であったが、これら戦艦を艦隊決戦用ではなく、コンボイ(輸送船団)の護送に使用していれば相当の戦果を挙げられたはずであるとの説明だった。最高速度が20ノットという足の遅い戦艦だったが、輸送船の速度もそれぐらいだった。彼によれば臆病風に吹かれてこれら2戦艦をみすみす無意味に温存したことになる。乾坤一擲の勝負に出ようとするアメリカとあくまで艦隊保全主義を信奉する山本の連合艦隊では勝敗は戦う前から明らかであったかもしれない。因みにドイツ民族の最大のプライドであった戦艦ビスマルクは艦隊決戦用ではなくて,敵のコンボイ撃滅用の戦艦だった。ドイツ贔屓の日本帝国がなぜドイツに学ばなかったのか不思議に思う。

 なお余談ながらアメリカ海軍は山本五十六がトッラク島にいることを知っていた。山本を殺すべきか生かしておくべきかが一時米海軍部内で議論の対象になったと聞いた。生かしておくべき理由は連合国の早期講和の呼びかけに応じられる者が彼以外にいなかったためである。そのインテリジェンスと深謀遠慮にはまたもドッキリした。

 また発想を転換して戦艦郡を艦隊決戦用ではなくてアメリカ陸軍基地の砲撃に使用したならば相当の効果を挙げえたはずであるとも彼は述べた。発想の転換ができないのもチキンであることの証拠か。

 最後の例はレイテ湾の栗田艦隊である。1944秋、フィッリッピンのシブヤン海に進撃した栗田艦隊が1週間前にレイテ湾で荷揚げ作業を始めたマッカーサーの輸送船団を2-3時間の眼前に見ながらこれを攻撃せず、栗田の臆病のため反転北上した事実である。後に栗田はそのとき余りにも疲れていたと説明している。滅多に訪れないチャンスを疲れのために生かせぬようではチキンということになるかもしれない。

 彼の説明した上記3例が果たして帝国海軍の臆病のためだったのかまたは別に戦略上の理由があったかは定かでない。でも帝国海軍が千載一遇の好機を逸したことは間違いなかろう。

古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『アメリカ意外史』など)

アメリカドッキリ物語3

アメリカ・ドッキリ物語 (3)

                  古枯の木

子供に対する期待

 あるとき、わが家の三男の高校卒業式に出席した。アメリカで式とよべるものは卒業式だけであり、入学式、始業式、終業式などはまったくやらない。この点日本人は式好きである。日本の会社の営業会議ではいつもセールスマンの表彰式ばかりやっていた。わが家の息子たちがアメリカの小学校から日本の小学校に転校したときのインシデント。初日は始業式だった。息子たちはこの日からアメリカ式に授業が始まるものと思っていた。ところが授業はなく、しかも校長がながながと話をしていたが、聞いているものは一人もいなかったとのこと。冒頭述べた三男の卒業式に日頃親しくしていたアメリカ人の夫妻も彼らの息子のために来ていた。

 そのときアメリカ人夫妻に対し、息子は将来何になってほしいかと訊いた。日本人的発想では息子が一流大学に入り、一流会社に勤務すること、または医者、弁護士、IT技術者、大学教授になってくれることであろう。ところが夫妻の回答は意外なものだった。“息子がいい職業に就ければそれに越したことはない。だが人生にはこれよりもっと大事なことがたくさんある。息子が幸福で存分に個性を発揮し、自由で個人の尊厳に満ち、しかも独立心ある人生を送ってくれるよう期待する”とか“自分の幸福だけではなくて他人の幸福も追求するような人間に成長して欲しい“とか述べた。

 これにはまったく参った。そこには親が子に対し確固たる倫理感を持った個に成長する希望があった。また力と生命に満ち溢れたキリスト教的倫理観、道徳観、人間愛、隣人愛さえも感じられた。実利、栄誉、栄達、名声のみを求めていた人間には衝撃の言葉であり、ドッキリした。同時にかかる浅はかで世俗的な自分に深く恥じ入った次第である。いい学校、いい職業よりももっと重要なものがこの世の中にはあると再認識した。

 このインシデント以来、誰に対してもかかる愚問は一切発しないことにしている。

古枯の木―アメリカ在住35年、歴史愛好家で歴史の探索屋を自認している。本年2月ロスの近現代史研究会で“万次郎余話”と題して万次郎に関する第2回目の講演を行った)

アメリカドッキリ物語2

アメリカ・ドッキリ物語 2
                  
                 古枯の木

 現在アメリカでは日本食が大変なブームである。ブームとかラッシュというものは必ず終わるが、さて日本食ブームはいつまで続くのか。カリフォルニア州だけで日本食レストランは現在2,600軒、全米規模で6,000軒ぐらいあるといわれている。わが家の近くにもたくさんあり、新しいものもどんどんできている。今回はこの“日本食とアメリカ人”についての話題を2つ提供したい。

1. 懐石料理には事前の説明が必要
 
昔、名古屋で勤務しているとき、アメリカのディーラー社長夫妻がやって来た。ある晩、彼らを懐石料理に招待した。懐石料理は初めて食べるとのことで夫妻は非常にエンジヨイしていた。懐旧談に時間の経つのも忘れた。食事が終わりに近づいたとき、突然社長が、“Koji, what is the main dish tonight?”と訊いてきた。最初は何のことか分からずドッキリしたがすぐに彼の質問の意味が判明した。社長は懐石料理をアペタイザーと勘違いし、この後にメインコースがあると期待していたのだ。
 
 懐石料理には変化はあるが、量に乏しい。しかもアメリカ人は大食漢が多い。せっかく一流の懐石料理店に案内したのに彼らに満足してもらえなかったことに大きなショックを受けた。このインシデント以来、外国人を懐石料理に招待するときは事前にその意味を説明することにしている。

2. シャブシャブは避けよ

 やはりある晩、別のアメリカ人夫妻を今度はシャブシャブの店に案内した。席に着くや否や夫人が肉を見て、“オー、ノー”と叫び、シャブシャブの肉に一切箸をつけようとはしなかった。彼女の説明によると脂身の多い肉を食べることは不可能で、アメリカでこのような肉の販売は許可されないだろうとのことだった。脂身がおいしいと言う女将の言葉にもついに彼女は首を縦に振らなかった。せっかくシャブシャブの一流店に案内したのそこに現れた肉のためにシャブシャブを断られたときのショックは大きかった。

 アメリカの大きな社会問題の一つが肥満の問題である。肥満は英語でobesityと言い、テレビの中でこの言葉に出ぬ日はない。男性の63%、女性の55%がobesityに苦しんでいるといわれている。肥満が高血圧、高コレストロール、糖尿病、心臓病の原因であるらしい。

 肥満の最大の元凶が脂肪(fat)である。アメリカ人のfatに対するイメージは極めて悪い。Fat chanceというとチャンスがたくさんあるような感じを与えるが、これはまったく逆でチャンスのないことを意味する。Fat bookというと分厚くても余り内容のない本を意味する。
最近アメリカの商品の中には脂肪のないことを強調するため箱に“Zero grams of fat”とか“Fat Free”(この場合のfreeは“自由”ではなくて“ない“ことを意味する。最近China Freeの商品が人気を博している)と大書しているものが目立つ。学校によってはfat入りsoft drinksの販売を禁止しているところもある。

 日本人は肉の脂身が好きである。筆者も渡米直後ステーキの脂身を食べようとしたら、アメリカ人から食べぬようにとたしなめられた。霜降りの肉を英語でmarblingというが、アメリカのカウボーイたちはなぜ日本でこれが売れるのか不思議に思うらしい。

 一般に日本食はヘルシーと考えられているが余りに脂身の多い牛肉や豚肉のシャブシャブはヘルシーとは言えまい。以前“うに”がすし屋でアメリカ人に非常に人気があったが、最近ではコレステロールが多すぎるということでその人気はがた落ちだと聞いた。中にはうには“baby shit”(赤ん坊のくそ)だと言って敵愾心を示すアメリカ人もいる。

 いずれにせよこの1件以来、筆者は外国人をシャブシャブには連れて行かないことにしている。

 古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など)
 
アメリカ・ドッキリ物語 2
                  
                 古枯の木

 現在アメリカでは日本食が大変なブームである。ブームとかラッシュというものは必ず終わるが、さて日本食ブームはいつまで続くのか。カリフォルニア州だけで日本食レストランは現在2,600軒、全米規模で6,000軒ぐらいあるといわれている。わが家の近くにもたくさんあり、新しいものもどんどんできている。今回はこの“日本食とアメリカ人”についての話題を2つ提供したい。

3. 懐石料理には事前の説明が必要
 
昔、名古屋で勤務しているとき、アメリカのディーラー社長夫妻がやって来た。ある晩、彼らを懐石料理に招待した。懐石料理は初めて食べるとのことで夫妻は非常にエンジヨイしていた。懐旧談に時間の経つのも忘れた。食事が終わりに近づいたとき、突然社長が、“Koji, what is the main dish tonight?”と訊いてきた。最初は何のことか分からずドッキリしたがすぐに彼の質問の意味が判明した。社長は懐石料理をアペタイザーと勘違いし、この後にメインコースがあると期待していたのだ。
 
 懐石料理には変化はあるが、量に乏しい。しかもアメリカ人は大食漢が多い。せっかく一流の懐石料理店に案内したのに彼らに満足してもらえなかったことに大きなショックを受けた。このインシデント以来、外国人を懐石料理に招待するときは事前にその意味を説明することにしている。

4. シャブシャブは避けよ

 やはりある晩、別のアメリカ人夫妻を今度はシャブシャブの店に案内した。席に着くや否や夫人が肉を見て、“オー、ノー”と叫び、シャブシャブの肉に一切箸をつけようとはしなかった。彼女の説明によると脂身の多い肉を食べることは不可能で、アメリカでこのような肉の販売は許可されないだろうとのことだった。脂身がおいしいと言う女将の言葉にもついに彼女は首を縦に振らなかった。せっかくシャブシャブの一流店に案内したのそこに現れた肉のためにシャブシャブを断られたときのショックは大きかった。

 アメリカの大きな社会問題の一つが肥満の問題である。肥満は英語でobesityと言い、テレビの中でこの言葉に出ぬ日はない。男性の63%、女性の55%がobesityに苦しんでいるといわれている。肥満が高血圧、高コレストロール、糖尿病、心臓病の原因であるらしい。

 肥満の最大の元凶が脂肪(fat)である。アメリカ人のfatに対するイメージは極めて悪い。Fat chanceというとチャンスがたくさんあるような感じを与えるが、これはまったく逆でチャンスのないことを意味する。Fat bookというと分厚くても余り内容のない本を意味する。
最近アメリカの商品の中には脂肪のないことを強調するため箱に“Zero grams of fat”とか“Fat Free”(この場合のfreeは“自由”ではなくて“ない“ことを意味する。最近China Freeの商品が人気を博している)と大書しているものが目立つ。学校によってはfat入りsoft drinksの販売を禁止しているところもある。

 日本人は肉の脂身が好きである。筆者も渡米直後ステーキの脂身を食べようとしたら、アメリカ人から食べぬようにとたしなめられた。霜降りの肉を英語でmarblingというが、アメリカのカウボーイたちはなぜ日本でこれが売れるのか不思議に思うらしい。

 一般に日本食はヘルシーと考えられているが余りに脂身の多い牛肉や豚肉のシャブシャブはヘルシーとは言えまい。以前“うに”がすし屋でアメリカ人に非常に人気があったが、最近ではコレステロールが多すぎるということでその人気はがた落ちだと聞いた。中にはうには“baby shit”(赤ん坊のくそ)だと言って敵愾心を示すアメリカ人もいる。

 いずれにせよこの1件以来、筆者は外国人をシャブシャブには連れて行かないことにしている。

 古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など)
 
アメリカ・ドッキリ物語1
           岡本孝司

アメリカに来て早や35年、この間に日米両国でアメリカ人相手に貴重な体験をいろいろ積み重ねたが中には肝を冷やすことや驚いてドッキリすることも多々あった。数えたらこれらは100を優に越すだろう。その内の10篇をアメリカ・ドッキリ物語として10回にわたり短い文章で紹介してみたい。

他人の食器に手を触れるな

1998年の晩秋、その頃勤務していたオレゴン州セイラム市のキワニスクラブから講演の
依頼を受けた。演題は任意といわれたので、明治末期、和歌山である日本人が村人を津波から救済するため自分の稲むらに火をつけたという犠牲的精神について1時間半余り話をした。小泉八雲の随筆“生き神様”を基礎に構成したものである。アメリカ人はモラルによって動く民族であり、このような話が大好きだ。120人余りの聴衆の反応はよかった。彼らの中には質問してくる人も数人いた。聴衆の反応は講演終了時の聴衆の顔つきを見、彼らの交わす雑談を聞けば大体分かる。ニコニコ顔が多かった。講演の後、ゲストスピーカーとして円形のヘッドテーブルに座らされランチをご馳走になった。ローストビーフのおいしいランチだった。
 
 小生の横に座ったのは金髪碧眼の超美人だった。英語ではこのような目も眩む美人をdazzling beauty という。彼女はまさにdazzling beautyで、クラブの会長夫人だった。着席するや否や彼女は小生の講演が大変印象的であったと言って褒めてくれた。そこまではよかった。だがその後がいけない。彼女が自分のコーヒーカップとソーサーを捜し始めたのだ。彼女の席の前にはそれがなかったためだ。

そこでおせっかいにも小生が遠くにあったカップとソーサーをとり、彼女の前に置いた。彼女は一応“サンキュー”とは言ったが、そのカップとソーサーをウエイターに命じて直ちに撤去させ新しいものを持ってこさせた。一時に冷水を浴びせられたような超ドッキリだった。それまでの講演後の有頂天はどこかに吹っ飛んでしまった。成功したかにみえた講演への感情はこの1事により無残にも打ちのめされてしまった。ローストビーフはたちまち味気のない炭みたいなものに変化してしまった。水だけをたくさん飲んだ記憶がある。

 彼女の真意がいずこにあったのか未だに分からぬ。小生がむさくるしいオリエンタルの男であったためか。本来衛生的であるべき食器を小生が手を触れることによって、非衛生なものになったと彼女が判断したのか。もし白人の美男子が同じ行為をしたとき、彼女はどのような反応を示したであろうか。ゲストスピーカーであることのプライドはこの彼女の驚天動地の行動によりたちまち雲散霧消してしまった。抜きがたい屈辱感のため腰が抜け、食後容易に席を立つことができぬほどだった。

かつて日本では女性の教育といえば行儀、作法のことを意味する時代もあった。日本の銀行の新入社員教育には男子行員も含めて今でも行儀、作法が大きな比重を占めると聞く。アメリカではこんな非生産的なことに時間を割く会社は1社もない。日本では当然テーブルマナーもうるさいだろう。テーブルマナーに関する本の中で、他人の食器に触るなというルールがあるかどうか。

いずれにせよこの1件以来、小生はいかなる場合にも他人の食器には一切手を触れないことにしている。


岡本孝司 歴史愛好家、ロス在住、著書に『日本敗れたり』など。



 

イデオロギーとは何だったのか

イデオロギーとは何だったのか
    古枯の木

 わが日本国民は多くの長所を持つと同時に短所をも有する。短所のうちの一つはあらゆる文明の実験者として他人の唱道する原理、原則に飛びつき、貪欲に取り入れ、しかも主体性、自主性なくこれに溺れることである。ソ連が平和のチャンピオンになるとそれにのった。また近時アメリカがグローバリゼーションのラッパを吹くと同じように小型で借り物のラッパを吹いた。ここで日本の敗戦後の偉大なエセ科学であった共産主義のイデオロギーについて私見を開陳しておきたい。
 
 祖国日本は100年近く共産主義のイデオロギーの悪夢、呪詛にさいなまれてきた。その間に浪費した時間、エネルギー、金銭はどれぐらいに達するであろうか。この悪夢から国民が開放されたのは、1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊したときである。第2次大戦終了後40年間も恐喝と圧力で西欧陣営の結束を破らんとしたソ連がアメリカとの軍拡競争、経済戦争に敗れ西側の経済援助を必要とするに至った。民主主義が冷戦で共産主義に勝ったのである。諸悪の根源が資本主義にあり、明日にでも共産政権が実現するかのように宣伝してきた無責任な日本のマスコミや進歩的文化人はどのような責任をとったであろうか。

 ここに有名な歴史的事実がある。共産主義の抑圧下にあった東ドイツで1980年代の初めに深刻な食糧危機が襲った。人々はスターリンギフトと呼ばれる粗末なアパートに住み、卵1ダースを買うのに長い行列を作って月給の152パーセントを支出しなければならないような羽目に陥ったのだ。それにもかかわらずわが国の進歩主義者はこの事実に目を覆い共産主義を賞賛し続けた。共産主義に裏打ちされたソ連の軍隊は絶対に略奪、暴行、強姦などしないと主張する大学教授がいた。そのような人格高潔な軍隊が世界のどこに存在するだろうか。

 イデオロギーにはイデーが含まれている。それは何千、何万年後には実現するかもしれない理想、幻想を意味する。それは夢とごまかしの世界であり、虚構であり神の世界である。マルクス理論の根本は、“人がその能力に応じて働き、その必要に応じて取る”社会の実現だった。人の能力といっても測定不能のものであり、人の必要、欲望は最大無限のものである。かかる妄想や神秘的世界は、到底この世界では実現不可能の夢の世界である。このような地上の楽園が明日にでも実現するかのごとく説いて、世の善男善女を騙したのだ共産主義のイデオロギーだった。

 学問とはレアリティー(reality)の追求である。レアリティーを追求せずに夢を追ったマルクス説は非学問的とも言いうる。司馬遼太郎はマルクス理論を一つの“宗教的真実”と喝破したがけだし名言であろう。かかる実現不可能な宗教的真実であっても、それは資本主義を攻撃するための戦術理論としては非常に有効であり、ある種の訴求力をもっていた。

1980年代よく仕事で中欧、東欧、ソ連に出張した。働いても働かなくても同じ給料だから人々の労働意欲はまったく低い。生産性が低いため貧困が支配し、共産党がすべてをコントロールしていた。進歩的学者がこの世のパラダイスと礼賛していたこれらの国で発見したものはすべて共産主義の奇形児に過ぎなかった。共産主義などこの地球上のいかなる場所でも実現していなかったし、また今後とも実現することはないだろう。

 日本人は古来海外の文物を輸入するのに極めて鋭い触覚を持っていた。そのためその背後に存在する原理、原則、精神などを深く考慮せずに外形のみを真似てきた。それにしてもいったん吸収した文物を廃棄するときのスピードも速かった。マルクスの理想、夢そして戦術理論の中には資本主義の負の部分を指摘した価値ある見解もあるのだが今日、日本人は誰もこれに見向きもしない。進歩的学者が信奉していた剰余価値説、唯物史観、階級闘争などは海の底に溺死してしまったのだろうか。マルクスはロンドン郊外のハイゲート墓地に埋葬されているとのことだが、彼は日本人のこのような性情に苦笑していることだろう。

 古枯の木―歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』など。ロス在住。



2009年1月16日金曜日

ズーニインディアン

ズーニーインディアン
    古枯の木

 2008年5月上旬ニューメキシコ州のZuni Puebloを訪問した。ここはロスから東へ600マイル、海抜6千4百フィートの砂漠のど真ん中にある。人口は11,700人、部外者に対し大変厳しいところでカメラ、ビデオの使用は禁じられ、風景をスケッチしたり町を散歩するにも特別の許可が必要である。聖職者への接近は固く禁じられている。ズーニーは日本人の末裔といわれているが、Visitor Centerで所長この関係について訊ねてところ、ズーニーが日本人と兄弟姉妹の関係にあると信じている者は皆無であろうとのことだった。

 所長によればこの問題を最初に提起したのは人類学者Nancy Davis の著書“The Zuni Enigma-Possible Japanese Connection(2005)” であるとのこと。彼女は平安時代の1350年日本人の大グループが大型船に乗って太平洋(彼女は太平洋をユーモラスにliquid highwayと呼んでいるそうな)を渡りアメリカの西海岸にやって来、そこから660マイルも東に歩いて現在のZuni Pueblo に到着したと説く。彼らは戦争と地震のない土地を探していたらしく、彼女は彼らをJapanese Pilgrims と呼ぶ。その後、土着のインディアンと混血して現在のズーニー族が生まれたと主張する。農耕民族でコーンの栽培を知っており、灌漑の設備まで持っていたそうである。

 Nancy Davis の著書をまだ読んでないが、筆者は次のような極めて素朴な疑問を持つ。まず第一に当時シナ人や日本人の造船技術者は竜骨(keel)の存在を知らなかった。竜骨無しで多人数が乗る大型船の建造が果たして可能であっただろうか。次にZuni Pueblo の中を観光バスや自分の車で廻ったがズーニーが文化的遺産として誇れるものは1629年スペイン人坊主によって建立されたカトリック教会だけだった。かつて平安時代、東大寺、唐招提寺、法隆寺、興福寺などをを建設した偉大な日本人の文化的遺産の痕跡はどこにもなかった。どうもズーニーは他のインディアン同様、文化不毛の土地らしい。最後にNancy Davis はズーニー語と日本語には共通点があり、両者に類似する単語を20語取り取り上げているそうだ。例えば鹿は“shoita “と発音し、日本語のシカに近いと主張する。無理はないだろうか。ズーニー滞在中調査したが両者に共通するような表現は一つも発見できなかった。

 彼女はズーニーの女性は日本人女性同様手先が大変器用で彼女らの作る装身具は素晴らしいという。これは事実だろう。彼女らの作る銀とトルコ石の装身具は日本的に極めて精巧で他の種族、たとえばナバホやホピーの追随を許さず値段も非常に高い。だが手先が器用というだけで日本人の末裔とするのはちょっと無理があろう。ズーニーの産業といえばこれら装身具だけだがこの販売はズーニーが行うのではなくすべてインド人とパキスタン人によって独占されている。

 だが日本人との共通点がまったくないというわけではない。争いや変化を好まず、いつも無抵抗、平和に徹することだ。かつてアパッチーやナバホ族に侵略されたことが何度もあったが、一切抵抗しなかったらしい。ズーニーがその際行ったことは屋内、屋外の灯りを全部消して祈祷師を中心にして静かに祈ることだけだった。そうすることによって、他部族の侵略はいつか終わったという。この点平和憲法の9条さえ守っていれば平和が維持されるという日本人の真情と共通するものがある。

渡米時の思い出

渡米時の思い出

                       古枯の木

 筆者がはじめてアメリカの土を踏んだのは1967年1月21日午後4時ごろである。ある会社の駐在員としてである。当時、東京―ロス間の直行便はなく、羽田からハワイ経由。ホノルルでは乗降客全員が首にレイをかけてもらい、ジュースを振舞われた。ロス空港の税関吏は親切だった。戦争中、アメリカ人は鬼畜だと教えられていたので随分親切な鬼畜もいるものだと感心した。それ以来1970年代後半の5年間を除き今年でちょうどアメリカに35年も住んだことになる。ここで渡米時のことを振り返ってみたい。

 ロス空港から南東15マイルに位置するトーレンスの町に向かうフリーウエイを走る車のスピードには度肝を抜かれた。日本では当時名神高速道路の一部が開通したばかりで、筆者に高速道路をドライブする経験はなかった。日本では女性ドライバーの数はまだ僅少だったが、アメリカ人女性の多さは驚きだった。

 その夜、会社が手配しておいてくれたアパートに落ち着いたが、アパートの部屋の大きいこと、清潔なこと、水道から湯の出ること、さらにプール付きであることはナイス・サプライズだった。子供は1歳と3歳だったが、プールが珍しいのでその周りを「歩く、歩く」と叫びながら夜遅くまではしゃいでいた。

当時、日本製の自動車は日産の小型トラックが少し売れている程度だった。乗用車ではトヨタはコロナという車1車種のみを販売していたが、この車はほとんど街で見かけなかった。はじめてこれを見たとき思わず「コロナ、お前英語が分かるのか」と叫びたいような衝動にかられた。交通信号で待つとき、トヨタの車を発見するとお互いにクラクションを鳴らして手を振った。筆者が渡米したときはそうではなかったが、その1-2年前までは、サービス部の電話が鳴るとまたお客からの苦情かと社全体に緊張が走ったと聞いていた。

日本の企業に比較してアメリカの企業は非生産的な仕事が極めて少なく、上下の関係が大変オープンで、従業員は皆大人であり気持ち良く働けた。新入社員に行儀作法を教える必要などごうもなく、日本的形式主義はどこにもなかった。そのため渡米6カ月目にしてアメリカ永住を決意した。そのための第一歩として庭付きの家が欲しいと思って捜したところ北トーレンスに適当な家があった。2ベッドルームで価格は1万9千ドル、頭金9百ドル。買ってから2世の人に話したら、「よくトーレンスで家が買えたね」と言って驚いていた。当時、トーレンスは“Sun Down City”と呼ばれ太陽が沈んだら白色人種以外のあらゆる人種は出て行けといわれた町だったらしい。筆者の知人の黒人が夜間トーレンスでドライブしていたら、警官から「ニガー(黒人の蔑称)は早く出て行け」と言われたそうである。

 渡米当時、日本では名古屋から東京へ電話するのに市外電話といって申し込んでからつながるのに30分以上を要した。ところがロスからワシントンD.C.まで直通である。しかも日本に比較してその料金が格段に安いのには驚いた。そのころまだファックスはなく、いつも夕方になると日本本社にテレックスを打っていた。

 日本にいるとき、筆者の書いた英文の手紙をチェックできる上司はいなかった。いつもフリーパス。ところがアメリカに来で書いた手紙は最初から最後までアメリカ人によって赤鉛筆で徹底的に添削された。この添削の記録は今でももっており、個人の貴重なアセットだ。発音もいろいろ矯正してもらった。でもこれはホープレス。ある言語学者は日本人の舌は日本語の単純な発音のために退化してしまったと述べているが、これは本当かも知れない。

一世や二世から人種差別の話をいろいろ聞いた。プールに行ったら水が黄色になるから入るなと言われたこと、白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントをもって出かけたところ、その母親から「ここはお前ら黄色人種の来るところではない。プレゼントをもってすぐ帰れ」と追い返されたこと、戦後シカゴに住んでいたある日系老人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアプのためロングビーチまで車で来たが途中彼にベッドを提供するモテルは一つもなかったことなど、このような話は枚挙にいとまが無い。筆者に人種差別を受けたことがあるかと訊かれたら、なかったと言えばそれは嘘になろう。

当時、円とドルの交換比率は1ドル360円だった。日本を出るとき日本の法律では日本人はドルを100ドルまでしか持てない、それ以上のドルは円に換えることが義務付けられていると人事部の人から告げられた。ドルは大変貴重でダウンタウンへ行けば1ドルは380円にもなった。ロングビーチの闇市では400円だったそうだ。筆者はドルを日本のために稼ぐ企業戦士の覚悟で渡米した。車が1台売れるとこれで日本に何ドル落ちるかとほくそえんだものだ。アメリカで働くのはドルを稼ぐためとほとんどの駐在員が考えていたと思う。だがすべてに移ろいやすいのは世の常である。その後ドルを稼ぐのが罪悪であるかのように見做されることと相成った。

9年前にリタイアーし今は日米間を行き来したり、ロスを基点に世界各地を旅行している。調査したいことはまだ山とある。だが馬齢を重ねて74歳となり手持ち時間は少ない。一橋大学の同窓会報である如水会報7月号によれば故城山三郎の最後の言葉は「一日即一生」であったらしい。一時間、一日を大切にして力強く生きていきたい。
古枯の木― 歴史愛好家。本年5月トルコ旅行のあと6月ロスの近現代史研究会で「トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして」と題して講演をおこなった。


 

トルコ女性のヘッドスカーフ

トルコ女性のヘッド・スカーフ
 
                       古枯の木
            
2007年5月17日から31日までトルコを訪問した。主な目的はトルコの英雄アタチュルクに敬意を表するのと彼が現在いかに評価されているかを知るためだった。18日にイスタンブールに着き、19日からトルコ3千キロのバスツアーが始まった。19日は偶然にもトルコの独立記念日であり、しかもバスは彼が力戦奮闘したガリポリ半島の古戦場をめぐるものだった。各古戦場は休日のためもあって見学者で満ちあふれていた。「アタチュルクは生涯一度も戦争に負けたことがない」と熱意を込めて説明するバスガイドやアタチュルクの銅像の前でひざまずく老人もいた。先生に引率された小学生は「アタチュルク万歳」を叫んでいた。小生がトルコ訪問の目的を告げると「アタチュルクは偉大であった」と握手を求めてくる青年もいた。

トルコ滞在中のある日、スーパーでアタチュルクの絵葉書2枚求めカートに入れて歩いているとき、トルコの青年3人が「それは誰か知っているか」と言って近づいて来た。答えるとその絵葉書と筆者に向かい挙手の礼をした。アンカラのアタチュルク廟に詣でたとき、売店でアタチュルクのポスターを買った。売り子がトルコ訪問の目的を訊いたので、アタチュルクに敬意を表するためにわざわざ来たと言ったら、「サムライ、サムライ」と叫び金は要らぬと言う。

トルコの街にはいたるところに国旗が掲げられていた。国旗とともにアタチュルクの肖像画の並んでいるところもあり、乗ったタクシーの運転手が肖像画を指して何度も「アタチュルルク」「アタチュルク」を繰り返していた。

アタチュルクは現在も大変高く評価されている。彼は軍事、政治、外交の天才であった。が同時にイスラム世界における宗教革命の先駆者でもあった。ここでキリスト教とイスラム教の関係に触れたい。キリスト教とイスラム教の対立の歴史は長くしかも根深い。キリスト教ではキリストの福音と神の愛を説き、霊魂の救済と倫理道徳の涵養を使命とする。マーチン・ルターに始まる宗教改革を起して古い宗教的権威を否認し、ルネサンスの嵐を呼び起こした。これに対してイスラム教はキリスト教を敵視し、神の啓示を文書にしたためたとするコーランを国法としてそれを科学の中心に据えている。632年マホメットが最後の説教でマホメットの後に神の啓示を伝える預言者は最早出現せず、また新しい教義も生まれないと説いた。イスラム信者は今でもこれを固く信じ、アラーの神のみを正義とし、極端に教条主義的で妥協を許さず、イスラム教徒がいかなる宗教に改宗することを禁じ、信教の自由を一切認めない。キリスト教は自助努力により、時代とともに進化してきたが、イスラム教徒は現在に至るも“マホメットの時代”に住んでいるのだ。

だがこのようなイスラムの世界にも変化はあった。1870年代、数千年にわたる“後進未開”の状態を脱却して、西洋的文化や制度の導入、西洋的教育の奨励、立憲運動の推進を初めて唱えたのはアフガニスタン出身でエジプト人のエッディン(J ed Din)とエジプト知事のサイト(Said 1854 –63)である。だが彼らはイスラム教がイスラム世界の停滞の理由とはしなかった。

これに対しアタチュルクはイスラム世界の後進性はイスラム人の心の中にあるイスラム教が原因であり、これがイスラム世界の人知の発展や国家繁栄の重大阻害要因であると道破したのだ。イスラム教徒でありながらイスラム教を批判したのは彼が最初であると思う。イスラム教の支配する世界でイスラム教徒を相手にかかる発言をするのは非常に大きな勇気と覚悟を必要としたであろう。

ここでアタチュルクの生い立ちを簡単に述べたい。ムスタファ・ケマル・パシャ(Mustapha Kemal Pasha)(1881-1938)が本名である。ケマルはトルコ語で“完全”(perfection)を意味するがこれは小学校でいつも算数のテストが100点と完璧であったため先生が与えたもので、アタチュルクはこれを生涯の誇りとしていた。パシャはオスマン帝国の文武高官に与えられた称号で、軍人なら将軍というところであろう。アタチュルクは現ギリシャのサロニカの生まれで、母親は息子をイスラム教の坊主にしたいと願ったが、彼はイスラム坊主の腐敗、堕落を知悉しており、坊主よりも陸軍幼年学校から各種軍学校を経て最後は陸軍大学校を卒業するという軍人への道を選んだ。同期には後に陸軍大臣になりドイツに味方してトルコを破滅させたエンベル・パシャがいる。

1914年6月28日ボスニア州のサラエボでセルビア人青年がオーストリアの皇太子夫妻に向け放ったたった1発の砲声がわずか1カ月のうちに全ヨーロッパの戦争に発展した。第1次世界大戦である。トルコはしばらく洞ヶ峠を決め込んで戦塵外にいたが、8月30日東プロイセンに侵入した10数倍のロシア軍をドイツ軍参謀本部の鬼才ルーデンドルフがタンネンベルグで包囲粉砕した。これに幻惑された陸相のエンベル・パシャは無分別にも11月11日連合国に対して“ジハード”と称して宣戦布告したが、アタチュルクは彼のドイツ不信論から参戦に強く反対した。だが一旦戦端が開かれるとアタチュルクはダーダネルス海峡のガリポリ半島で分かれて進み、合して撃つという1点集中主義の戦術で10カ月以上も連合軍を悩まし続け最後にはこれを撤退せしめた。連合軍のこの作戦を企画したのは海相のチャーチルで彼はそのため海相の地位を追われた。後年チャーチルはアタチュルクを評し、「お前がいなかったら世界の歴史は変わっていただろう」と述べている。その軍功により彼は“首都イスタンブールとダーダネルスの救済者”と呼ばれ名を馳せることになった。

ドイツの敗北によりトルコは連合国に休戦を乞うよりほかに道なく、18年10月31日ムドロスの休戦条約が調印された。19年5月15日名目上の戦勝国であるギリシャが大ギリシャ主義に酔ってアナトリア(小アジアのこと、トルコ語でアナトリアとは東から太陽の昇る地域を意味する)の西半分を要求して西部のイズミールに侵入した。これではトルコ人の住むところがなくなってしまう。でもトルコの戦力は枯渇していたので、アタチュルクは戦力持久の方針に決した。農民にも協力を呼びかけ、ギリシャ軍の補給が伸びきった地点で果敢な反撃を試み、アンカラの北50キロ、サカルヤ(Sakarya)の会戦で大勝利を博した。その後, トルコ得意の軽騎兵隊がギリシャ軍をイズミールに追い海に落とした。ギリシャ軍5万人のうち、4万人が殺された。トルコ人はこの戦争を“トルコの独立戦争”と呼んでいる。このときアタチュルクは天敵であるソ連のレーニンともある種の協定を結んでトルコの安全を図った。なおアタチュルクはサカルヤの勝利が大変嬉しかったようで、彼の馬を“サカルヤ”と名付けた。

22年11月1日700年以上も続いたオスマントルコが正式に消滅し、23年10月29日トルコ共和国が誕生すると彼は初代の大統領に選出され、アタチュルクの称号を賜った。アタはトルコ語で「父」であり、チュルクは“Turkish”、つまりアタチュルクはトルコ人の父を意味する。彼は23年10月から死ぬまでの15年間(38年11月10日死去)深い慈悲心と鉄のような意思をもってトルコ人によるトルコの建設に邁進した。彼が目的としたのはトルコ帝国の再建ではなくて、トルコ人のためのトルコの建設だった。政教を完全に分離してこれを不磨の大典とし、宗教が国家権力や個人の公的生活に介入することを禁止し、全宗教学校を閉鎖し、公立の小学校、中学、高校を設立した。宗教省、宗教警察、宗教裁判所も廃止した。すべてのイスラム法を廃棄し、モスクの所有になる土地を没収してこれの国有化を断行した。信教の自由を認め、世襲の帝政を廃し、婦人に参政権を与え、一夫多妻制を禁じ、文字の改革も断行した。

これらはイスラム教に対する完全な反逆であり、革命であった。イスラム教はしばしば国政からベッドルームのことまで事細かに干渉、規制するといわれるが、アタチュルクはイスラム教の持つ束縛、制限、桎梏を極力排除しようとした。だが彼はイスラム教そのものを完全には否定せず、必要最低限はこれを残した。なぜなら完全に否定するとトルコ国民はバックボーンやアイデンティティーを喪失し、倫理道徳も見失って、無色透明の民族に陥る恐れがあったからだ。

アタチュルクの断行した諸革命の中でファッション革命とでも呼ぶべきものについて触れてみたい。彼は宗教と深い関係のある服装やファッションをすべて禁止した。婦人のチャドル(chador またはabayaともいう)着用を禁止した。イスラム国では今でも既婚婦人は黒か白のチャドルを着て、夫以外の他の男性にその姿を見せない。6世紀マホメットが婦人の髪はセクシーだからこれを隠せと命じた。それ以来ヘッド・スカーフで女性は髪を隠すようになったが、アタチュルクはこれの使用も禁じた。一般的に女性は自分の好きなドレスが着られないと非常な苦痛を感じるようだが、アタチュルクはこの点でも女性の解放者であった。さらにフェズと呼ばれる男性のトルコ帽の使用も禁止した。これは円筒形の帽子で赤色が多く、頭のテッペンから房の下がったものである。

今回トルコを訪問する前にこれらはすでにトルコの社会から消滅しているだろうと想像していた。ところがチャドルやヘッド・スカーフが復活しているのだ。マーケットではフェズも売られている。フェズを一つ買おうと思って値段の交渉をしたが、余りに高いことをいうので止めた。店を出るとき店員が笑顔で「ドケチ」「守銭奴」「貧乏性」などと叫んでいた。

これらは完全にアタチュルク革命への逆襲である。ヘッド・スカーフを着用する女性の比率は現在27%であると聞いたが、この比率はさらに上昇する傾向にあるらしい。女の子が8歳になったらヘッド・スカーフの着用を義務とする町も出てきた。公立学校の女生徒たちがヘッド・スカーフをしてイスラム教の歌を歌っている光景がいたるところで見られるそうである。農村の女性がヘッド・スカーフを着用するとお祈りなどに時間をとられて農業の生産性が降下し、さらに農地の荒廃に至るケースもあるそうだ。アタチュルクが“イスラム文明の裏切り者”であるとして反アタチュルク旋風が吹いているという人もいる。特にアラブ諸国がその後押しをしているらしい。以前トルコ政府はヘッド・スカーフの使用は公の場所や学校でのみ禁ずるという政策だったが2008年2月憲法を改正して大学における女性のヘッド・スカーフを容認するという方向に転換した。

トルコ政界は現在親イスラム主義と世俗主義(英語ではsecularity、日本語訳はむずかしい。よくアメリカ人は“I am a secular Christian.”と言うが、これは「教会から足の遠のいたクリスチャン」の意味だろう)または自由主義に2分されている。現首相のエルドアンは親イスラムであり、現大統領のギュルもイスラムシンパだ。ギュル夫人はヘッド・スカーフの愛用者だが、大統領府という公の場所でヘッド・スカーフを脱ぐかどうか。

トルコのイスラム回帰にEUの加盟問題が関係しているかもしれない。加盟のためには35もの交渉項目があり、そのうち8項目は現在凍結されている。一つの問題が解決されるとさらにまた別の問題(トルコ人はこれを皮肉を込めてホームワークと呼んでいる)が提起され、これが無際限に続く。結局イスラム国は加盟不可能ではないかと考え始める人が増えてきた。トルコ訪問中に見たアンカラの英字紙はEU加盟はrealityではなくてillusionになってしまったと報じている。もしEU加盟が不可能ならば当然ながらアラブ諸国に向かう傾向が出てきても不思議ではない。

トルコからの帰途ドイツで購入したHerald Tribune紙は現在トルコでは従来オフリミットであった領域にイスラム勢力が浸透しつつあり、世俗主義に大きなひずみが生じているという。公立学校でイスラム教の授業が復活し、政教分離が音を立てて崩壊しつつあるとも報じている。チャドルやヘッド・スカーフの着用者数が増加しているとも記している。同紙は最後に面白い逸話を引用している。それは次の通りだ。あるとき一人の少年が湖でボートを漕いでいた。そこに突然マホメットとアタチュルクが現れた。二人は少年に対しボートに乗せてくれと依頼した。ところが乗れる席は一つしかない。しばらく考えた後、少年はマホメットを乗せることに決めた。理由はアタチュルクには才覚があり、どんな困難にも対処しうるが、マホメットにはそのような力がないとのことだった。

一体トルコはどちらの方向に進むだろうか。トルコ国民の77%は現在の世俗主義、自由主義、民主主義を擁護しているといわれる。だがこの国にイスラム革命の起こらぬ保証はない。なぜなら77%の国民が現体制を支持していても、革命とはその歴史に照らしても明らかのように一般大衆、人民大衆が行うものではなくて、いつも少数の精鋭分子によって行われるからである。ある人はいざとなればトルコ陸軍が出てきてイスラム化を阻止するという。確かに1960年と1980年の2回にわたり陸軍が武力により阻止した。だが武力にも限界がある。強力なトルコ陸軍とはいえいつまでも同胞に対して銃口を向けられるものではないからだ。


古枯の木 歴史愛好家、ロス在住、2007年6月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして”と題して講演を行った。著書に『アメリカ意外史』『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『楽しい英語でアメリカを学ぶ』など。








                     

太平洋戦争と日系人の苦悩

ゴールドラッシュとジョン万次郎
         古枯の木

 カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。この金塊は今でもコロマの博物館に展示されているがこれがアメリカと世界の歴史を変えたのである。金を産出した地をゴールドカントリーと呼んだが、これは南北250キロにも及ぶ。その最南端の町にはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来た。彼らの働きぶりには各民族の特性が現れていて面白い。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身やって来た。メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者だった。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持した。シナ人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していた。
 アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は1人もゴールドラッシュに来ていないと記している。日本人が来なかったのは鎖国のためだ。だが少なくとも1人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへーブンの町で教育を受け、航海術まで学んだ。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったが、1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。各種情報を精査の後、カリフォルニア行きを決心しホイットフィールドに別れを告げた。海路サンフランシスコに来て、現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働いたが、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができた。
 ゴールドカントリーは超ワイルドな男たちの世界だった。良い鉱区が分刻みで減少していたため鉱区を巡る紛争が多発し、復讐劇であるリンチ裁判が横行し、娯楽に飢えた鉱夫たちはネクタイ・パーティーと呼ばれた絞首刑を見るのを楽しみにした。人種差別が激しくシナ人やインディアンは人間の数に入らなかった。シナ人の雑役夫の日給は25セント。しかもこの地にはひどいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるスコップが1本60ドルもした。ホテルでトーストが1枚1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルといわれたほどだ。金はあるにはあったが、鉱夫たちはこのインフレと好きなギャンブルのために稼いだカネのほとんどを使い果たしてしまった。
 彼らゴールドハンターは若干の例外を除いて金持ちにはなれなかった。だが彼らは多くの人々から深く尊敬されている。それは彼らの勇気とパイオニア精神のためだ。白人の支配する世界で白人を相手に働いた万次郎であるから通常人の倍以上の用心、努力、交渉力を要求されたであろう。
 1850年万次郎はホノルルに来て、金で稼いだカネでボートを購入してアドベンチャー号と名づけ、ホノルルに置いてきた漂流仲間2人と共に沖縄に帰国した。アドベンチャー号は沖縄近海から沖縄本土への上陸目的を果たすためのものだった。
 その後、黒船来航に直面した徳川幕府に雇われ、中浜万次郎と名乗った。
 1860年咸臨丸が海を渡った時、万次郎は通訳や航海士として活躍した。一方、幕府に対しては攘夷の無謀を説き開国を薦めるなど万次郎が近代日本の黎明期に果たした功績は測りしれない。同時に万次郎がゴールドラッシュの時に示した素晴らしい才覚、未知の世界にチャレンジする冒険心、素早い決断力などは高い賞賛に値する。
2006年9月コロラド州のコロラドスプリングズでジョン万次郎大会がありこれに出席した。万次郎5代目の中浜京さんにゴールドラッシュで示した万次郎の商才について触れたところ、中浜家の一族郎党の中で彼ほど商才のある者は誰もいないでしょうと言って笑っていた。万次郎を助けた船長の5代目ボブ・ホイットフィールドは日本人の筆者がゴールドラッシュの中の万次郎を研究していることを大変喜んでくれた。
 コロラド大会の後、万次郎が育てられた東部のヘアへーブンに飛んだ。地元の歴史協会の人たちにいわゆる“万次郎トレール”を案内してもらった。この中には14歳の万次郎が小学校の1年生と一緒に勉強した学校、野球を楽しんだ隣接のグランド、彼が寄宿した船長の家、英語を個人的に教えてくれた先生の家などが含まれる。さらに町のミリセント図書館で多くの資料に目を通すことができたし、地元の人たちが開催してくれた座談会にも出席できた。
 ゴールドラッシュの万次郎については未だ不明な点が多い。彼の入った金山さえも分かっていない。当時のゴールドハンターの多くは数人が分業と協業により採金したが万次郎が誰と採金したかは判明していない。採掘した金をいかに隠すかが大きな課題だったが万次郎がどのようにこの問題に対処したかも知られていない。最近ゴールドカントリー全体の風化が激しい。しかも筆者の年齢のことも考えると“ゴールハンター万次郎の研究”をなんらかの形で早くまとめたいと思っている。

古枯の木
歴史愛好家、在米35年、著書に『ゴールドラッシュ物語』など。2008年2月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“万次郎余話”との演題で講演を行った。

続太平洋戦争と日系人の苦悩

続太平洋戦争と日系人の苦悩
古枯の木
                 

昨年9月“太平洋戦争と日系人の苦悩”というエッセイを文窓に掲載してもらったが、そのとき、まったく同じものを数人の友人、知人に流した。するとシカゴに住む友人から“日本人はルーズベルトの日系人収容について余り知らないから何らかの形でこれを日本で発表したらどうか”と言ってきた。そうだ。約1年まえ、日本のある大新聞社が何かの特集の中でルーズベルトはアメリカ全土の日系人を収容所に送ったようなことを書いていた。すぐこの新聞社にアドバイスを送ったが現在までなしのつぶてである。

日本でどのように発表するかについては、しばらく考えたあと、一橋大学の同窓会報である如水会報に投稿することに決めた。そしてこれが本年2月号の同報に掲載されたのである。題名は“アメリカの日系人”。ただ字数が1,600字に制限されていたため原文をかなり縮小せざるをえなかった。このエッセイを巡りいろいろな反響があったが、以下の二つだけを皆さんに紹介しておきたい。

1. アメリカ軍が2度までも救出に失敗したテキサス部隊の救出に日系人の442部隊が成功したというのは通説である。だがこの通説はアメリカ軍のついた真っ赤な大嘘。アメリカ軍はドイツ軍の勇敢で苛烈な反撃を恐れて救出に赴かず、最初から“ジャップ”の442部隊に丸投げした。
2. ルーズベルトは当初、戦時中のアメリカ軍捕虜と日本軍捕虜の交換を考えていたが、日本兵が簡単に捕虜にならないことを知った。そのため日系人を収容所に入れて日系人とアメリカ軍捕虜の交換を実現しようとした。これが日系人収容の真相である。

もし上述の1.が事実であるとすれば、嘘を捏造したアメリカ軍人は軍人の風上にも置けぬ卑劣な人間であったと言わざるをえない。また2.に関し、ルーズベルトの日系人収容の方針については論理一貫せぬ点が多い。当時アメリカの中西部と東部にもかなりの日系人が住んでいたが、彼らは収容の対象にはならなかった。収容の事由の一つが日系人が“敵性外国人(enemy alien)”であることにあったが、彼らに“敵性”はなかったのか。他の収容の理由が“軍事上の必要性”にあったが、ハワイに住む日系人は一人も収容されなかった。ではハワイは西海岸よりも軍事上の必要性が低かったのか?そんなことはない。ハワイにはアメリカ太平洋艦隊の基地が厳存したのだ。

これらは筆者の知らなかったことであり、驚きでもあった。このあとも貴重な新説が出てきたらお知らせしたい。

古枯の木。アメリカ在住35年、著書に“日本敗れたり”“アメリカ意外史”など。

ゴールドラッシュと万次郎

ゴールドラッシュとジョン万次郎
         古枯の木

 カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。この金塊は今でもコロマの博物館に展示されているがこれがアメリカと世界の歴史を変えたのである。金を産出した地をゴールドカントリーと呼んだが、これは南北250キロにも及ぶ。その最南端の町にはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来た。彼らの働きぶりには各民族の特性が現れていて面白い。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身やって来た。メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者だった。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持した。シナ人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していた。
 アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は1人もゴールドラッシュに来ていないと記している。日本人が来なかったのは鎖国のためだ。だが少なくとも1人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへーブンの町で教育を受け、航海術まで学んだ。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったが、1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。各種情報を精査の後、カリフォルニア行きを決心しホイットフィールドに別れを告げた。海路サンフランシスコに来て、現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働いたが、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができた。
 ゴールドカントリーは超ワイルドな男たちの世界だった。良い鉱区が分刻みで減少していたため鉱区を巡る紛争が多発し、復讐劇であるリンチ裁判が横行し、娯楽に飢えた鉱夫たちはネクタイ・パーティーと呼ばれた絞首刑を見るのを楽しみにした。人種差別が激しくシナ人やインディアンは人間の数に入らなかった。シナ人の雑役夫の日給は25セント。しかもこの地にはひどいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるスコップが1本60ドルもした。ホテルでトーストが1枚1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルといわれたほどだ。金はあるにはあったが、鉱夫たちはこのインフレと好きなギャンブルのために稼いだカネのほとんどを使い果たしてしまった。
 彼らゴールドハンターは若干の例外を除いて金持ちにはなれなかった。だが彼らは多くの人々から深く尊敬されている。それは彼らの勇気とパイオニア精神のためだ。白人の支配する世界で白人を相手に働いた万次郎であるから通常人の倍以上の用心、努力、交渉力を要求されたであろう。
 1850年万次郎はホノルルに来て、金で稼いだカネでボートを購入してアドベンチャー号と名づけ、ホノルルに置いてきた漂流仲間2人と共に沖縄に帰国した。アドベンチャー号は沖縄近海から沖縄本土への上陸目的を果たすためのものだった。
 その後、黒船来航に直面した徳川幕府に雇われ、中浜万次郎と名乗った。
 1860年咸臨丸が海を渡った時、万次郎は通訳や航海士として活躍した。一方、幕府に対しては攘夷の無謀を説き開国を薦めるなど万次郎が近代日本の黎明期に果たした功績は測りしれない。同時に万次郎がゴールドラッシュの時に示した素晴らしい才覚、未知の世界にチャレンジする冒険心、素早い決断力などは高い賞賛に値する。
2006年9月コロラド州のコロラドスプリングズでジョン万次郎大会がありこれに出席した。万次郎5代目の中浜京さんにゴールドラッシュで示した万次郎の商才について触れたところ、中浜家の一族郎党の中で彼ほど商才のある者は誰もいないでしょうと言って笑っていた。万次郎を助けた船長の5代目ボブ・ホイットフィールドは日本人の筆者がゴールドラッシュの中の万次郎を研究していることを大変喜んでくれた。
 コロラド大会の後、万次郎が育てられた東部のヘアへーブンに飛んだ。地元の歴史協会の人たちにいわゆる“万次郎トレール”を案内してもらった。この中には14歳の万次郎が小学校の1年生と一緒に勉強した学校、野球を楽しんだ隣接のグランド、彼が寄宿した船長の家、英語を個人的に教えてくれた先生の家などが含まれる。さらに町のミリセント図書館で多くの資料に目を通すことができたし、地元の人たちが開催してくれた座談会にも出席できた。
 ゴールドラッシュの万次郎については未だ不明な点が多い。彼の入った金山さえも分かっていない。当時のゴールドハンターの多くは数人が分業と協業により採金したが万次郎が誰と採金したかは判明していない。採掘した金をいかに隠すかが大きな課題だったが万次郎がどのようにこの問題に対処したかも知られていない。最近ゴールドカントリー全体の風化が激しい。しかも筆者の年齢のことも考えると“ゴールハンター万次郎の研究”をなんらかの形で早くまとめたいと思っている。

古枯の木歴史愛好家、在米35年、著書に『ゴールドラッシュ物語』など。2008年2月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“万次郎余話”との演題で講演

愛情の表現ー日米の差

愛情の表現―日米の差

                            古枯の木

 昔アメリカでマーケティングの仕事をしていたときエド・ハントというハンサムで気のいい男をナショナル・セールス・マネジャーとして使っていたことがある。アメリカ南部の貧農のせがれでタクシーやバスの運転手をしながら学校を卒業した。西部劇に出てくる正義漢の“いいやつ”がぴったりの男だった。
 このエドは太平洋戦争の勃発とともに志願して米海軍に入り諜報部に配属された。1942年秋、潜水艦とゴムボートで房総半島の一寒村に一人で上陸した。上陸する前に潜水艦の潜望鏡で走る横須賀線の電車を見せられ、この電車の一等車と二等車(現在のグリーン車)の中に米軍のために働く中国人や朝鮮人のスパイが多数乗り込んでいると教えられた。ミッドウエイ作戦の秘密はこの車両からも漏れたと聞いたらしい。房総半島上陸の目的は東京湾を出て行く日本の輸送船を潜水艦に報告することだった。このときエドは通信機器、当面の食料、双眼鏡、手旗、ナイフ、友軍機に連絡するためのミラー、魚を釣るための釣針、釣糸などを与えられた。彼の戦争体験を聞くといつも時間の経つのを忘れたものだ。
 このエドに一人息子がいた。名前はエド・ハント・ジュニアーという。大変な秀才で後に軍関係では一番難関といわれるデンバーの空軍士官学校に入学するが、エドはこの息子が10歳になるとロスから南へ車で3時間のところにあるサンディエゴの学校に突然転校させてしまった。筆者は幼い息子を不憫に思い、転校の理由を訊くと親元を早く離れて一日も早く自主独立の心を涵養させることが肝要であり、これこそが真の親の愛情だという。
 一方日本ではどうだろうか。世の親たちは一日でも長く子供を手元に置いて親に面倒をみさせるのが真の愛情だと考えていないか。これは子供に対する日米の大きな愛情表現の差異である。子供のためにはどちらの方法がベターであろうか。
 でも親が子を思う気持ちは洋の東西を問わず変わりない。エドは毎週末3時間をかけて息子に会いに行っていた。息子に会わぬとその週が暮れぬという。金曜日の夕方はいつもそわそわしていたのを今も鮮明に覚えている。ときには早退させてくれと言って筆者を困らせてこともある。週末はよく息子と遊んでいたらしい。あるとき息子と一緒に海に潜り、たこをたくさん捕ったがどのように料理すべきか教えてくれとわざわざサンディエゴから電話で訊いてきた。またあるとき湖で息子を泳がせていたら、通りがかりの人から湖には毒蛇が多いので泳いではだめだと告げられた。エドは自分の身の安全も考慮せずにズボンと靴をはいたまま湖に飛び込んだ。親が子を思う気持ちは日米間にまったく差異はない。
 房総半島での任務を終えて後任者と交代したとき、エドは浜松の沖合いで潜望鏡を通じて工場の工員たちが夕方遅くまで野球をするのを見て楽しんだ。同僚とどちらが勝つかの賭けもしたそうな。

古枯の木。歴史愛好家、特に日米関係に関心あり。在ロス。著書に『日本敗れたり』など。
 

英語のむずかしさ

英語のむずかしさ

                        古枯の木
                         
旧制中学1年生のとき敗戦となり、それまで禁止されていた英語教育が復活した。英語を勉強することは未知の世界を探検するような楽しみがあって大いに興味をもったものだ。日本語に時制は現在、過去、未来の三つしかないが、英語には六時制もあると聞いたときのnice surpriseは今も忘れることができない。しかも英語の勉強は極めて安価な未知の世界の探検だった。また英語は日本語よりもはるかに論理的であるため論理的思考の発展に寄与したかもしれない。
 
筆者のアメリカ生活はトータルで35年ぐらいになるが、英語の読み、書き、話す、そして聞くなかで一番むずかしいのは依然として聞くことである。なにしろ20歳ぐらいまで外人と話す機会がなかったため耳の訓練が大変遅れてしまった。この点、耳も熱いうちに打つ必要がある。一方一番やさしいのは書くことである。これは自分の持てる語彙と文法力によって大体好きなように書けるからである。
 
ヒアリングの能力を向上させるための良い方法はないかとあるアメリカ人に相談したところ速記を習えと教えてくれた。速記では耳に全神経が集中するからである。2年余り速記を学校で勉強したが、その効果ははっきり分からぬ。
 
わが家にはアメリカと日本で教育を受けた子供が3人いる。ほぼ完璧なbilingualである。彼らによると日本の学校で教える英語はAmerican EnglishではないしQueen’s English でもないという。完全なJapanese Englishを日本の子供は習っているそうだ。筆者の英語もJapanese Englishの域を出ぬという。
 
英語について日頃感じていることをつれづれなるままに書いてみたい。今述べた日本英語が純粋な英語の領域を常に蚕食しているように思える。例えば英語で日本語に帰化したものが随分あるが、本来の英語の発音を可能な限り残せばいいものを日本的にmodifyしている。ビジネスの正しい英語発音はビズニスだ。(このコンピューターは発音記号を表示できないので残念ながらカタカナによる)レディー(lady)は正しくはレイディー、メジャーはメイジャー、コンテナはコンテイナー、セフティーはセイフティー、ベビーはベイビー、これらは枚挙にいとまがない。
 
またアクセントの位置が変化してしまったものもある。以下アクセントは太字で表示する。アドバイスという英語はないのに放送局は平気でアドバイスと言っている。ディスプレイも同じこと。単純な日本語の発音に比較して英語の発音は複雑でむずかしい。日本人の舌が長い間に退化してしまったかもしれない。大学で講義をするとき学生に“俺はretarded tongue(退化した舌)の持ち主で俺の英語の発音はJaplish(Japanese とEnglishのmixture)だから柔軟性をもって聞いておれ”と言って笑わせたこともある。筆者の友人でアメリカに来て弁護士になった人がいる。彼も英語の発音は困難だと言う。あるとき電話で“This is an attorney.”と言ったところ相手が“Hey, Tony, how are you?”と答えたそうだ。AttorneyがTonyと間違えられたわけだ。
 
街で見る英語も随分いい加減なものが多い。例えば午前10時をA.M. 10とする。正しくは10:00 a.m.であり、日本に来る外国の旅行者はこれを見て笑い出す。日常生活でもゴルフのシングル、スキンシップ、ケースバイケース、野球のメイクドラマ、シルバーシート、オールドミス、ニクソンショックなどは英語に直訳できぬ。Grand Open, grade up もいい加減な英語の典型。
 
和製英語としての市民権を与えられていながら本来の意味とはまったく異なる意味に使われているものがある。Pay offは本来完済の意味。例えばpay off national debt。だが日本の金融界はまったく別の意味に使用した。いろいろの図書で調査をし、さらに金融に通じている学識あるアメリカ人に尋ねてみたが日本的意味はどこからも出てこなかった。Life lineも同じことで日本では生活の基盤となる電気、ガスなどの意味に使用しているようだが、これはあくまでも船から溺れている者に投げる命綱であり、また船からの転落を防ぐために船の周りに張られた綱などである.
 
一見したところ意味不明のカタカナも多い。アンケートは何語かな。英語ではopinion poll。マンツゥーマンはone on oneが正しい。one on one private lesson という広告をよく見る。フライドポテトはFrench fries、ガソリンスタンドはgas station、ベッドタウンはcommuter town、commuterは通勤列車のこと。ミスコンテストはbeauty pageant、これらは枚挙にいとまがない。
 
英語にならぬ日本語も多い。先輩、後輩は和英辞典に苦しい訳語が載っているが、英語にならない。そのようなコンセプトがアメリカ人の間にないからだ。アメリカ人には同じ学校の出身者でも縦の関係は存在しない。“俺はお前の先輩だ”などと先輩風を吹かせたら笑われてしまう。よく日本人は米を主食とするといわれるが、主食という英語はない。パンは彼らの主食ではない。昔、日本の車のディーラーの社長がアメリカに来て、リセプションのとき、“俺は義理人情によって車を販売している”という言葉を英訳しろと言われて困ったことがある。先日はありがとうございました、今後ともよろしく、ただいま、いただきます、会社員、おかげさまで、行政指導(アメリカは規制か自由の二者択一があるだけで、極めて曖昧模糊で日本的な指導なるものは存在しない)などは英語にならぬ。そんなコンセプトや事実がアメリカには存在しないからだ。
 
日本人に理解困難な英語もある。クラシック音楽はclassical musicというし古典的美人はclassical beautyになっている。一方classic movie, classic car, classic artなどの英単語もある。Classicalとclassicの違いを調査したが、まったく分からぬ。日本に対する注文はorder from Japanといい、order to Japanとはいわない。“本の13ページを開けよ”はOpen your book to page 13. であり、at page 13とはいわない。Love of natureは自然に対する愛であり、of は“対する”と解釈すべきである。Offは普通離れたことを意味するが、ときには状態を示す。He is better off now. は彼は今ベターな状態にあることを示す。You are to blame.はあなたは責めるべきではなくて、責められるべきの意味になる。Remember Pearl Harbor. To hell with the Japs. これは真珠湾攻撃のあとに有名になった言葉である。To hell with the Japs. は“日本人を地獄に落としてやれ”を表す。“地獄に落ちよ”は一般的にGet the hell out of here. と言う。
 
“お会いできることを楽しみにしています“はI am looking forward to seeing you. と言うが、to see you は誤りである。なぜかは知らぬ。同様にThis company is committed to preserving energy. と言う。I suggested him to go.は誤り。I suggested him that he should go.とせねばならぬ。Explain やdiscuss にabout は付けぬ。よく日本人はPlease explain about it. Let’s discuss about it.と言うがこれはいずれも誤り。

英語には歴史的背景を知らなくては理解が困難なものがある。Two bitsとはコインの25セントのこと。往時アメリカでは小銭の必要なとき1ドル銀貨を割って使用した。1ドル銀貨の1/8がone bitであり、two bitsは1/4。1ドルの1/4は25セントである。1ドル、2ドルのことを1 buck, 2 bucksという。これは昔、アメリカの紙幣がbuckskin(羊の皮)でできていたことの名残。ドル紙幣のことをgreenbackというがこれはかつて紙幣の裏側がグリーンであった歴史的事実による。COPは警官のことだが、これは以前警官のバッジが銅(copper)でできていたため。

I will hit the hay. は寝ることを表す。アメリカの西部開拓時代、ホテルの数は極めて僅少で、それも大きな町に限られていた。したがって、開拓者たちは、野中の百姓の一軒屋を訪ねて一晩の宿を依頼することがよくあった。だが百姓家にもベッドはたくさん無かった。応対に出たワイフが、申し訳なさそうな顔をして、“あいにくベッドの余分は無いけれど、馬小屋の枯れ草の上ではどうでしょうか”と答えることが多かった。枯れ草を打つとはそれ以来寝ることを意味するようになった。アメリカ人との夕食のあと眠くなると筆者はよくこの表現を利用した。するとアメリカ人はHave a sweet dream. と返してきた。

アメリカ人はよくPut your John Hancock.というが、これは“サインをください”を意味する。1776年7月2日に独立宣言が議会を通過し、4日にこれに署名がなされた。独立宣言を起草したのは後にアメリカ第3代の大統領になるThomas Jeffersonであっため皆彼が最初に署名するものと期待していた。ところが当日John Hancock(1737-93)が最初にサインをしてしまい、しがも大書したのだ。彼は独立宣言の起草には全然関与していなかった。でもそれ以後John Hancockは署名を意味するようになった。
 
英語に特有のしゃれた表現もある。アメリカでは昔からblueberryが目によいとされている。太平洋戦争中、戦闘機のパイロットであった息子に何度もこれを送り続けたという有名な母親の話がある。Very goodと言う代わりに最近berry, berry goodと茶化すアメリカ人が多い。筆者は昔からblueberry が好きでよく食べてきた。そのためかどうかは知らぬが74歳の今でもメガネは要らぬ。Give me the bad news. はレストランで食事を終わり請求書を請求するときによく使われる。ステーキの焼き方にはwell done, medium, medium rare, rareなどがあるがbloody and moving (血がしたたっていて動いている)はrareのことである。Just Marriedは新婚ほやほや。あるとき自動車のボディーに次のように書かれているのを発見した。She has got me today. I will get her tonight.これは簡単に理解できますね。We have come a long way, baby. は、われわれは長い時間と多くの労力を費やしてやっとここまで来たという意味である。筆者は1990年代の初め、1645年に創設された由緒ある日本企業のアメリカ法人で働いたことがある。その頃、アメリカ人の日本企業に対する関心が高く、各地の大学や協会で講義やスピーチを求められた。会社が古いことを強調するために、冒頭によくこの表現を用いた。アメリカ人はこれを喜び拍手喝采してくれた。どうもこれはアメリカ人の好きな言葉らしい。
 
簡にして要をえた表現も大切だ。Brevity is the soul of wit.とはシェイクスピアの残した有名な言葉である。筆者はアメリカで会社の経営中、いつも部下に対し、レポートは一枚でbrief and to the pointでなければならないことを強調してきた。敗戦後の日本帝国を解体したマッカーサー元帥は部下に対しレポートはいつも1ページであることを厳命し、2ページにわたるものは一切読まなかったそうである。あるアメリカの語義学者(語義学は英語でsemanticsという)はレポートに関し次のように言っている。A report is like girl’s mini skirt. It must be short enough to be interesting, but long enough to cover the subject. 無条件に賛成できますね。“会議中”という表札に日本の大商社が意味不明の長たらしい英語を書いていた。この場合アメリカでは“Meeting in Progress”という。使用中なら“IN USE”でいい。年中無休はopen seven daysまたはnever closeで分かるだろう。
 
英語を書くことは一番やさしいと冒頭に言ったが、英訳上気をつけなければならないことが多い。あるとき“彼の運動神経はすばらしい”をHe has an excellent athletic nerve.としたらアメリカ人教師から人間の体の中に運動神経という神経は存在しないぞと教えられた。確かにそのような神経は人体にはない。またタバコは身体に悪いはSmoking cigarettes is bad for health. とすべきだろう。タバコそのものが悪いのではなくて吸うことが悪いのだから。

英語の文法も時代とともに変化する。最近よく使われる言葉にhealthyがある。筆者の学生時代healthyは個人的なことには使用できぬと教えられた。従って彼女の健康状態はよいはShe is in good health. といい、She is healthy. とはいわぬと学んだ。だがこの法則は最近完全に打ち破られている。昔、アメリカの夜間大学で英語の勉強をしたとき、アメリカ人はよく“それは私だ”と言う場合It’s me. と言うが正確にはIt’s I. ではないかと教授に質問したことがある。教授は後者が文法的には正しく、It’s me.と言うほど文法はまだ軟化、俗化していないとのことだった。

本に書かれている英語でも実際には使用されぬものも多い。1967年夏、一橋大学の岩田一男教授が“英語に強くなる本”を出版され、ベストセラーになった。この中で岩田氏はトイレでノックされたとき、“I am here.”はこっけいであり、“Someone in.”と言うべきであると述べておられる。だがSomeone in.は聞いたことがない。多くのアメリカ人に訊いたがそんなことは言わぬと言う。ノックをしたとき普通は“Wait your turn.”が返ってくるが、あるとき“Can’t you smell me?”と返事したやつもいる。本に書かれた英語だからといって頭からこれを信用することは危険である。
 
アメリカに35年も住んでいながら英語は一向に上達せずその道は厳しく長い。今でも通訳を依頼されると便所に飛び込んで逃げたくなる。通訳をしていて一番困るのは話す人が日本語でなにを言わんとしているのか理解できぬときである。一方少しでも英語の素養のある人の通訳はやりやすい。中学生のときから英語は好きで勉強してきたつもりだがいつも不勉強を嘆いている。ときには英語不適格者かとも思う。いずれにせよ英語の学習は道半ばであり、年齢のことを考えると日暮れて道遠しの感さえある。だが英語の学習に王道は無く、毎日歩一歩を進めるのが凡才の最適の英語学習方法であろう。

(古枯の木 英語の勉強を趣味とする者。ロスに永住予定。著書に“楽しい英語でアメリカを学ぶ”など)

Intelligenceを欠いた帝国陸海軍

Intelligenceを欠いた帝国陸海軍

古枯の木

 われわれは国際社会に住んでいる。この社会では各国家はその国家的利益を第一に、熾烈な生存競争を展開している。治にいて乱を忘れず、安けれど危うきを忘れず、存すれど亡びるを忘れずなどは国際社会に住む者の未来永劫に忘れてはならない格言である。日本国民が真に平和を希求するならば平和のアンチテーゼである戦争の研究は不可避である。そのため筆者は会社勤めをしながら戦争のレアリティーを追求することをライフワークとした。とくに太平洋戦争の失敗の原因は糾明されねばならぬと思う。東西冷戦の終了した現在、戦争の研究などは“骨董趣味”にすぎないという人もいる。だが冷戦が解消したからといって戦争の起こらぬ理由はどこにもない。中国、北朝鮮、韓国、ロシア、イスラムのテロリストに攻め込まれる可能性があるからだ。
 筆者がはじめて訪米したのは1967年1月である。そのころ職場にも近所にも太平洋戦争に参加したアメリカ人がたくさんいた。彼らに大戦中の日本軍の戦いぶりについて意見を徴してみたところ異口同音に、日本兵は極めて勇敢であり、劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、日本軍となると戦術と戦略において悲しいほどintelligenceを欠いていたと語ってくれた。Intelligenceの本来の意味は知性のことだが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵情判断を意味する。
 アングロサクソンの諜報活動はまったくすさまじい。ここで外交史上有名な事例を1つだけ紹介したい。1807年6月25日、ナポレオンとロシアのアレキサンダー1世が、ニエメン河(当時のロシア西部国境の河)にいかだを浮かべ、テントを張ってその中で会議をした。これは外部に情報が漏れるのを防ぐためである。ところがイギリスの諜報機関はその日の夕方までに会議の内容をすべて知っていたという。まことにその諜報能力たるや恐るべしである。
 アメリカ軍は戦争中、諜報活動のための最も有効な武器を言語だと考え優秀な頭脳をこれに傾注した。この点、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで英語を敵視した日本政府とは180度も考え方が異なる。真珠湾攻撃のあとアメリカ各地に日本語の研究機関が多数創設された。そこで彼らは日本兵が“l”(エル)の発音のできぬことを発見した。アメリカ陸軍の太平洋戦線における兵士間の合言葉(watch word)は“lice”に決まった。日本兵は全員が“rice”に近い発音しかできなかった。アメリカ兵は相手がliceではなくてriceと発音したとき、直ちに銃を発射したのである。
 ハーバード大学では1919年に完成した日本の著名な言語学者、上田万年の“大日本国語辞典”を版権なしに大量の海賊版を作り、これを陸海空軍や日本語の研究機関に配布した。
 日本語研究のためアメリカは誰を利用しようとしたか。それは日系人である。1942年2月ルーズベルトが署名した行政命令により、アメリカ西海岸の日系人は強制収容所に入れられた。アメリカ軍は収容所に入れられた日系人の中から教育があり特別に優秀な者を選び出して、彼らをワシントンDCに集めアメリカ軍将校のための日本語教育を始めた。その目的は日本が降伏したとき、直ちに将校たちに日本語を使用させることにあった。
 外国語研究機関の中で最も有名なのが陸軍の軍事情報外国語学校(MISLS, Military Service Language Schoolの略)である。最初アメリカ南部のジョージア州に設立されたがそのあとミネソタ州のスネリングに移り、さらに42年5月サンフランシスコ郊外のプレシディオに移設された。ここには多くの日系人が集まった。日本語学校の初代校長はジョン・フジオ・アイソだった。アイソは戦前早稲田大学に学んだ帰米2世である。帰米2世とはアメリカに生まれ、日本で教育を受けた後、再びアメリカに帰った者をいう。アイソは日米両語に堪能で、有能な帰米2世をたくさん入校させた。入校した2世生徒はすべて軍籍を与えられ、日系人としては非常に厚遇された。食事、衣服は無償で、月給も人により異なるが大体$10ぐらい与えられた。
 校長のアイソはいつも笑顔で生徒に接し、威張ることなく、校内の評判は極めてよかった。余談ながら、アイソは戦後ロサンゼルス郡の最高裁の判事にまでなったが、ハリウッドのガソリンスタンドで自分の車に給油中、何者かによって射殺された。彼の名前を付した通りが今でもロスのダウンタウンに残っている。筆者はかつてカンプトンという町の日本語学校で2世、3世たちに日本語を教えたことがある。生徒の中にアイソの娘がいた。大変もの静かで聡明な子供だった。
 アイソの笑顔とは反対に生徒たちはこの学校でしごかれた。アメリカ西部の大学の雄であるスタンフォード大学の教育学部が開発した教育方法が採用されたため、生徒たちは当初戸惑ったらしい。授業は朝8時から夕方4時まで。消灯は午後10時だったので多くの生徒は便所の中のほの暗い明かりの下で勉強を続行した。教育期間は6カ月。教材としては日本で発行された古新聞、古雑誌、日本の小学生用の教科書、それにデンバーで発行されていた日本語のロッキー時報などである。今年9月筆者はコロラドで開催されたジョン万次郎大会に出席したがそのときロッキー時報の社主である今田英一氏に会うことができた。ロッキー時報は今でも週刊紙として発行されていると聞いた。
 日本軍ではアメリカ人は行書、草書は読めまいとたかをくくっていたが、優秀な生徒はそれらを読みこなすまでになった。ときどき“丹下左膳”や“愛染かつら”の映画を見せて日本人のメンタリティーを学ばせた。
生徒たちは週末はフリーだった。アメリカ軍が彼らをある程度信用し厚遇もしてくれたので、差別待遇の厳しいシャバとは異なって学校は快適な生活の場であったらしい。かまぼこ型の兵舎は極めて清潔で、夏でも蚊はおらず、冬は暖房が入り、当時すでに配給制になっていたパン、コーヒー、バター、ミルク、ガソリンなども自由に入手できた。アメリカでは1942年に乗用車の生産は打ち切られたが、生徒たちはかなり自由に車を使用することが認められていた。MISLS内での2世の日本語教師の最高月給が$16に対し、白人の日本語教師のそれは数百ドルだった。理由は軍の必要上の特殊技能者ということにあったらしい。なぜ2世の教師が特殊技能者ではなかったのか。
この学校を卒業した2世は6千人にも達したが、半数以上が太平洋戦線に投入された。全員が陸軍に入隊した。海軍は皮膚の色のため1人の入隊も許さなかった。でもこれは米海軍が日本語に無関心であったことの証拠ではない。それどころか大いに高かったのである。開戦当時、米海軍で日本語を解する者は12人しかいなかったという。そこで海軍もやはり強制収容所に入れられた日系人の中で日本語に堪能な者を140人もピックアップして日本語教師として採用した。だが彼らは陸軍とは異なり軍籍に入れられることはなかった。これら日本語教師に日本語を教えられた海軍将校は千人以上に達した。
実戦に参加する兵士もいたが多くは諜報の仕事に従事した。彼らは日本軍の文書の翻訳、暗号の解読のみでなく、日本軍に接近して士官が兵に下す命令の盗み聞きまでした。便所に捨てられた紙の中に多くの秘密があった。また日本語を利用して日本兵を説得し降伏させることにもある程度成功した。
降伏した日本兵の尋問も日系兵士の大きな役割だった。彼らは学校で日本兵の名前を分析することも教えられた。もし名前に“いち”の付くときは長男である。長男は日本では家督を継ぐことが義務づけられているのでなるべく早く帰国したいと願っているはずである。彼らのこの心理状態を利用しなければならぬ。次男、三男よりも長男をより丁重に扱って最大限白状させ、できる限り多くの情報を長男からとれと日系兵士たちは訓練されていた。
日本軍の暗号はいとも簡単にアメリカ軍に解読されてしまったが、アメリカ軍ではナバホ・インディアンの言葉を暗号の基礎にしたのでさすがのドイツ軍でもこれは解読できなかった。さらに米軍は太平洋戦線に450-500名のナバホ・コード・トーカー(Navajo Code Talker)を配置した。これは前線と後方に英語の堪能なナバホ・インディアンを置き、無線電話による敵情報告と指示命令をナバホ語で行い、その内容を日本軍に盗まれないようにしたものである。
アメリカの軍隊では捕虜になったときの心構えをいろいろ教えていた。国際法上、名前、軍隊名、階級と背番号さえ白状すればいいと教えた。日本軍ではそのような教育はまったく存在しなかった。したがって日本兵は捕虜になるとすべてを白状してしまった。
アメリカの日系兵士はその語学能力をもってアメリカの勝利に大きく貢献した。マッカーサー元帥の情報部長であったマッシュバー大佐は日系兵士のintelligenceが太平洋戦争の終結を2年も早めたと賞賛している。2002年11月、ロス近郊のポモナ大学で、米海軍は戦時中海軍将校に日本語を教えた日本語教師の生き残りやその遺族を米海軍の諜報活動に著しく貢献したとして表彰した。
これに対し日本ではどうであったか。さきに述べたように日本政府は英語を敵性外国語としてその使用や教育をまったく認めなかった。エンジンは“発動機”、インキは“青汁”、野球のセイフは“安全”となった。でも中学生の英語に対する関心は強かった。辞書は“ジヒクショナリ”、犬小屋は“ケンネル”、百は“ハンドル”、番号は“ナンバン”、ゆっくりは“ソロリ”、いくら(How much?)は“ハマチ”と英語で言うらしいとまことしやかに教室で囁かれていた。
2004年秋、舞鶴の旧海軍機関学校(現海上自衛隊舞鶴地方総監部)を訪問したとき、驚くべきものが展示されていた。1944年の全入学生に与えられた研究社発行の英英辞典である。しかもその説明書によれば教科書は英文のものだったとのこと。中学では英語を禁止しておきながら機関学校で英語を教えたのはいかなる理由によるのか。江田島の旧海軍兵学校(現海上自衛隊第1術科学校)では英語の話せぬ海軍士官は世界中どこにもいないとの主旨から英語を教えていた。旧海軍経理学校でも専門用語は英語であったと聞く。なんたる帝国海軍の矛盾や自家撞着か。
日本軍の中にも英語のできる2世がいた。だが日本軍は彼らをスパイとして疑い、敵信隊に配属して敵の暗号の解読に従事させる以外は重要な仕事を与えなかった。2世をアメリカ軍に対する諜報活動、原住民に対する宣撫活動に利用したならばきっと大きな成果を挙げたに違いないと思われる。日本軍は言語、諜報、宣伝、宣撫などをすべて見くびっていた。海軍は大艦巨砲がすべてを解決すると勘違いしていたのだろう。帝国海軍の並み居る提督の中で、連合艦隊司令長官であった山本五十六は大変合理的な考え方を持った人だと一般にいわれている。だが驚くべきことに、彼に仕える12名の参謀の中に情報参謀は1人もいなかった。このような情報無視は米海軍ではとても考えられぬことらしい。
軍隊が戦に破れて撤退するとき誰を最初に逃がすかを日米の旧陸軍将校に聞いたことがある。米軍ではいつもintelligence関係の兵隊を最初に撤退させるそうである。これは彼らが重要な“軍機”を握り、もし捕虜になると面倒な問題が発生するからである。ところが日本軍は“軍旗”を持つ者を最初に逃がしたそうである。“天皇から下賜された”一枚の布切れの方が情報よりも重要だったのか。同じ“グンキ”でも重要なものに対する認識の相違があり、帝国陸軍のバカサ加減もここまでくると極まれりと言うべきだろう。

2006年9月19日記す

古枯の木一橋大学大学院修了ののち日本企業のアメリカ法人に勤務。フロリダ州西フロリダ大学などの講師を経て、現在著述業。著書に“日本敗れたり”など。アメリカ永住

裁判員制度は成功するか

裁判員制度は成功するか

                       古枯の木

 昔、オレゴン州の州都セイラムで働いていたとき、同州の元検事総長であるロバート・ソーントン氏(Robert Thornton)を知るチャンスがあった。ソーントン氏は非常な知日家で日本の法律に詳しいが同時に佐渡の金山に何度も出かけ、セイラムの町で佐渡金山についての講演会を開催したことがある。筆者もカリフォルニアのゴールドラッシュと佐渡の金採掘を比較するため佐渡金山を一度訪問したことがあるがこのとき氏が与えてくれたアドバイスが大変役に立った。氏は日本の交番制度に詳しくそれに関する著書もあるとのこと。奥さんのドロシー(Dorothy)は日本の民芸品に非常な興味を持ちたびたびその展示会も開催していた。

 ソーントン氏と一度日本の裁判員制度について議論したことがある。氏によれば日本は明治の或る時期裁判員制度を導入したものの見事に失敗したという。失敗の原因を徹底的に追究したところ次の2つの結論に達した。

1. 裁判員制度の下で人は`“reasonable men”(日本では“普通の人”と訳されているが、適訳ではないと思う)でなければならないが、日本人は被告や犯人を憎む性癖が大変強く、とても普通の人にはなれない。
2. 日本人には親に対する子の道徳など相対的な道徳はあるが、欧米人の持つ人間の人間たる絶対的道徳はない。普遍的価値観や確固たる倫理観が欠如し、“個”が未だ確立していない。このような未熟な個が果たして自分の意見を持ち、その意見を裁判所で発表できるだろうか。また日本人は法の正義の実現の意欲に欠ける。

氏は日本人の性情や価値観が大きく変化しない限り、今回新しく導入される裁判員制度は上述の理由から失敗するだろうと予測していた。

裁判員制度に似たものにアメリカでは陪審員制度(Jury System)がある。西洋社会では陪審員制度は極めて古い歴史をもつ。紀元前5世紀の中ごろ、アテネ市民は立法に参与したが、さらにその力を司法の民主化にまで進めた。これが陪審制度の嚆矢である。中世のイギリスでは、国王が司法の分野にまで干渉したり、裁判官が国王の気に入る判決を出さない限り裁判官が何度も裁判のやり直しを命じられたことがある。人々は陪審制度の必要性を痛感し、司法の民主化の旗印のもと、この制度は西洋文明に定着していった。

陪審員は事実審理(finding of fact)のみを行う。例えば殺人事件のとき犯人に殺意があったかどうかの事実の認定のみを行い、法の解釈や適用の分野にまで立ち入らない。その事実認定は終局的である。Common law上のあらゆる訴訟に参加でき、訴訟金額も$20.00以上とされている。陪審員が下す評決(verdict)の前に、裁判官は陪審員にどうすべきかの説示(instruction)は行うものの原則的には何もしない。このように陪審員は裁判で極めて大きな役割を果たす。したがって陪審員はソートン氏か強調するように一時の感情に支配されず円満な常識をもつreasonable menでなければならないだろう。

歴史的背景もなく、ただ上から与えられた裁判員制度が果たして日本で育つであろうか。人間の持つ本性や道徳がそんなに簡単には変わらぬとすればソーントン氏が言ったように日本での実験は失敗に終わるかも知れない。さらに日本でも必ず裁判員忌避の問題が発生するだろう。陪審制度はアメリカでは建国以来存在するが陪審員を集めることは今も昔も容易ではない。カリフォルニアのゴールドラッシュに来た鉱夫たちが陪審員召喚を忌避するための面白い話が山とある。筆者の知人の中でも1人を除き誰もその召喚に応じていない。陪審員たちは裁判所外で友人、知人と事件について話すことを禁じられており、テレビ報道を見ないように命ぜられたり、また長期間ホテルに缶詰になることもある。

不当な陪審忌避に対しカリフォルニア州では、$1,500までの罰金が科せられる。それでも召喚に応ずる者の率はわずか5%である。日当はたったの$12.00.しかも自分の車で出頭しなければならない。応ずるのは女性と失業者が圧倒的に多い。会社に忠実な?日本のサラリーマンが果たして召喚に応ずるであろうか。

さらにアメリカでは最近陪審制度そのものに対する欠陥が指摘されるようになった。この契機になったのはO.J.シンプソン事件である。これは1994年元フットボールの有名選手であったシンプソンが前妻の二コール・ブラウンを殺害したもの。明らかに有罪であったものが何らかの圧力により無罪になってしまったのである。また陪審員が原告と被告の双方を信用できないので評決を下せぬとの苦情も多い。

日本の裁判所における判決をチェックしていると常識にひどく欠ける裁判官の存在することが分かる。このような裁判官に裁かれる日本人は禍なるかなである。このような日本の実情に鑑みて司法の民主化は絶対に必要であろう。だが裁判員制度の導入の前に、日本は欧米の陪審制度を他山の石としてもっと研究すべきではなかったかと考える。また日本では司法試験にパスし、司法修習生の研修を終えた者がほぼ生涯、弁護士、検察官、裁判官へと分かれて進む。ところがアメリカでは弁護士として実社会の経験を積んだ者が裁判官への道を進む。日本でも裁判員制度の実施の前にアメリカと同じような制度の導入を検討したらいいと思うが。

古枯の木、歴史愛好家。在米35年。著書に『アメリカ意外史』『楽しい英語でアメリカを学ぶ』など。

逆境をバネにして

逆境をバネにして

      古枯の木                           

 一九六七年一月ある会社の駐在員としてロスに赴任したとき最初の仕事は従業員の採用だった。日本を出る前、あるアメリカ通と言われる人にこの点について相談したところ、彼は宗教心の篤い人間を採用しろと言ってはくれたが、これは余り実用的ではなかった。結局、応募者をいろいろな面から短時間の内に効率的に観察するより他に手はなかった。年齢や学歴の詐称が多いと聞いてもいたのでこれには事前の調査が必要だった。実際の採用にあたり人種によっていろいろの差異があったから日系人、アングロサクソン系の白人、ユダヤ人に分けて自分が気づきまたは印象に残ったことを記してみたい。

 まず日系人の採用だ。最初にUSCを卒業した男性を採用したが年齢は筆者より十三歳も上だった。彼はいつも会社に就職できたことを深く感謝していたが彼によればごく最近まで日系人は大学を卒業しても就職口はなく卒業式は失業式を意味したとのことである。多くの者は庭師か日系人所有のレストランで働くより他に方法がなかったらしい。彼は一九四二年二月ルーズベルト大統領の署名した行政命令で強制収容所に入れられたが、志願してサンフランシスコ郊外プレシディオの軍事情報外国語学校(MISLS, Military Intelligence Service Language School)に学びほぼ完璧なバイリンガルになった。幼稚園に入るまでアメリカ人と交際する機会が無かったのでMISLSでは日本語より英語を学ぶ機会が多かったと言う。戦後、B,C級戦犯の通訳をやった。彼の日英両語がどれだけ会社の発展に役立ったかは筆舌に尽くし難い。その後も多くの日系人を採用したが彼らは異口同音に採用されたことを感謝しており、積極性と自己主張に欠ける恨みはあったものの、おしなべて誠実、勤勉で残業を厭わず夜遅くまで働いてくれた。彼らは祖父母、父母からいつも“泣くな、頑張れ、オヤコッコ(親孝行)”と教えられていたそうである。
 だがあるとき日本の本社が従業員の現地化を唱導し、幹部に白人が採用され駐在員は黒子的な存在と相成った。その結果、日系人の多くは白人の幹部により淘汰されてしまった。この現実を目の当たりにして筆者は自分の子供にたいしてはアメリカでは会社勤務などを考えず何らかのタイトルを取得して自主独立的に働ける道を考え出すよう教え続けた。

 つぎは白人の採用。あるときUCLAを卒業し企画力があり優秀そうに見えた白人男性を幹部に採用しようとしたが、最後の段階で失敗した。なぜ失敗したかの原因を突き止めたいと思いある日、夕食に招待した。聞くところによると仕事は大変challenging で待遇にも不満はなかったが最終的決断の前に大きなためらいがあったと言う。周知のようにアメリカでは会社を変わるごとに給料と地位が上がるが、これはアメリカの会社に限ってのこと、日本の会社に働くことはキャリアー上マイナスになることはあってもプラスになることは絶対にないとのことだった。つまり日本の会社で働くとその期間は人生のムダになるわけだ。これにはひどいショックを受けたが悲しいことに日本の企業はアメリカの企業と同列にはなかったのである。彼の採用に失敗した後も同じような経験を2-3度した。現在ではこの辺の事情は変わっているであろうか。それとも白人はやはりアメリカの会社で働きたいと思っているだろうか。

 最後にユダヤ人女性の採用にあたりこちらが反対にいろいろ質問を受け、最後に勇気づけられた話。インタビューのとき彼女が日本企業であるが故にアメリカでいろいろ差別待遇を受けているだろうと訊いてきた。筆者はアメリカ政府は大変フェアーだが、それ以外の場での差別のあることは否定しなかった。それにたいし彼女は人種偏見や差別が起爆剤となってアメリカ社会が発展してきた事実は見逃せないと断言し、その例証としてロスの市内にイギリス系やアメリカ系のアングロサクソンしか入会できないゴルフクラブを挙げた。ユダヤ人も日本人も一切入会は許されていない。ユダヤ人の偉大さはこの逆境をバネにアングロサクソンが羨むような数倍立派なゴルフコースを建設したことだ。差別されたときへこたれてしまうかそれともそれをバネに立ち上がるかによって結果に大きな違いが生ずると教えてくれた。そしてわが社もいろいろな逆境にめげずむしろそれをバネにして頑張れと言ったのだ。彼女は採用された。
古枯の木―アメリカ在住三十五年以上、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』など。

真珠湾の影

真珠湾の影
古枯の木
1967年1月21日午後4時ごろ家族と一緒に初めてアメリカの土を踏んだ。子供は2人、3才と1才だったがカリフォルニアの温暖な気候と豊富な栄養に支えられてちょうど1年後に第3子が誕生した。この子どもたちが小学校の高学年に進むころ明らかに真珠湾攻撃を意識するようになった。学校で先生が真珠湾攻撃の話をすると頭を上げることができないとこぼしていた。日系人の子供もすべて同じ思いをしていたそうだ。またある年の12月7日の朝、白人の男がわが家の長男に向かって“Happy Pearl Harbor Day”と言ったそうだが、そのとき長男は背筋が凍てつくような思いをしたという。真珠湾の影として子供を悩ませたのはなぜ日本が真珠湾を騙し討ち(sneak attack)し、不正な戦争を始めたかにあるようだった。これが子供の教育上逢着した最も困難な問題の一つだった。

そこで筆者からは戦争とはいつも正義と正義の衝突であり、日本だけを一方的に不正義とすることはできないこと、また奇襲であった真珠湾攻撃に国際法上の違法性の問題はなかったことなどを説明したが子供がどこまで理解できたかは知らぬ。さらに真珠湾攻撃はいまだ交渉中の相手を最後通牒も発せずに突然討つという騙し討ちになったがこれは道義的には責められるであろうと付け加えた。

真珠湾の影は日系社会にも及びそれは日系人排斥の大合唱になってしまった。日系人は法律的には敵性外国人(enemy alien)と見做され、いたるところで悪意ある扱いを受けた。ロスのダウンタウンにあるリットル東京では怒り狂った白人の若者がトラックから飛び降りてきて日系人と見れば誰何の別なく殴り倒した。コーヒーショップや床屋は堂々と“No Japs”の看板を掲げていた。サンフランシスコで発行されているPacific Citizen紙はそのころの様子を次のように伝えている。“真珠湾から旬日を出ないある日、日系人の母子が道を歩いていた。そこに白人の母子が現れ、白人の子供が石を拾い上げて日系人の子供に投げつけた。だが日系人の母親も白人の母親もそれを止めようとはしなかった”と。真珠湾の恨みと影は子供にまで染み込んでいたのである。日系人大虐殺のデマも流れた。

暗い真珠湾の影の中にただ一縷の光もあった。これはハリウッドのある小学校での出来事。真珠湾攻撃の翌日は月曜日だった。日系人の子供は皆びくびくしながら登校した。白人の番長に殴られるものと全員が覚悟をしていた。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、“日本政府は憎んで余りあるが、これら日系人の子供には罪はないから彼らに対し絶対に手出しをしてはならぬ”と宣言してくれた。たぶん番長の親が番長にそのように告げたのだろう。筆者は昔、カンプトンという町にあった日本語学校の教師をしていたことがある。この話は生徒の父兄の一人から聞いたものだ。その人はハリウッドの小学校の現場に居合わせたそうである。いずれにせよアメリカの底深い寛容な一面を見た思いがする。
自信を持つことはいいことだが、日本人はすぐに自信を過信に転化するという悪癖を持つ。真珠湾攻撃や経済大国というおごりはその一典型である。アメリカでマーケティングの仕事を始めたころ複数の日系人からアメリカの力を過小評価せぬようにと何度もアドバイスを受けた。これには今も感謝している。

筆者が渡米したころ真珠湾の影は商売の面にも及んでいた。日本製商品が売れ始めるとアメリカのメーカーは“なぜ真珠湾を攻撃した国の商品を買うのか”と叫び始めた。また“ジャップは真珠湾の反省を一切していない”“山本五十六は真珠湾で無辜の民2,400人以上を殺した”などの宣伝も見られるよになった。日本製商品を攻撃するためのcheap Japanese junksとかcut corners products (手間を省いた粗悪品)などの言葉があざ笑うかのように踊っていた。でもこれらの言葉はさすがに新聞、テレビ、雑誌など公共のメディアには登場せず、メーカーが傘下の代理店に出すニューズレターの中に特筆大書されていたのだ。自尊心を傷つけられた日本は実に悲しい国だと思った。このような時には耐えて、耐えて、隠忍自戒するより他に方法はない。が同時にこんな下らぬ宣伝を相手にしてはいけないと痛感した。詰まらぬものに大騒ぎするとかえって相手が勢いづいてくるからである。いろいろ考えた末、黙殺という有効な手段のあることを発見した。日本の政治家の中には中国や韓国から恫喝されると直ちに右往左往する者がいるが、彼らは一体黙殺という手のあることを知っているであろうか。



古枯の木―歴史愛好家、在米35年以上、最近ロスの近現代史研究会で“トルコ歴史紀行-アタチュルクを中心にして”“万次郎余話”などと題した。講演を行った

"メロンからコーンへ”新しい燃料の誕生

メロンからコーンへ”―新しい燃料の誕生
                           古枯の木

 昔、勤務していた会社のアメリカ法人の幹部夫妻を日本旅行に連れて行ったことがある。そのとき日本の本社が彼らをしゃぶしゃぶの夕食に招待した。ところが夫妻はその肉を見るなり“Oh, no.”と悲鳴をあげ、最後まで霜降りの肉には箸をつけなかった。日本では霜降りの肉が高価で人気があるのだが、アメリカ人は“霜”を食べない。食べないどころか忌み嫌う。英語でこの霜は“fat”だが、fat bookといえば分厚くても内容のない下らぬ本、fat chance はチャンスがありそうで実はチャンスのないことを意味する。大昔、アメリカ赴任直後、アメリカ人と一緒にステーキを食べたことがある。そのとき脂身は食べるなと注意された。脂身は恐ろしいストローク(英語ではbrain attackとも言う)の最大の原因であるというのがその理由だった。霜降り肉を英語でmarblingというが なぜmarblingが日本に輸出されるのか不思議に思っているアメリカ人カウボーイもいる。この霜をアメリカではすべて廃棄処分していた。大変な時間と費用を要したと思う。

 ところが数年まえから牛肉、豚肉、鶏肉の脂身から新しい燃料を作る事業がアメリカで始まった。この燃料を自動車燃料として使用した場合、従来のガソリンより40%も高品質であるらしい。ただ難点は機械設備に厖大な費用のかかること。先日Wall Street Journalにデンマークが風力を利用すること、豚の脂肪から燃料を作ること、さらに豚の脂肪を燃料に変える機械設備にたいする税制上の優遇措置で輸入原油を大幅に削減することに成功したという記事が出ていた。

 1980年代たびたびブラジルに出張したが、町にはいつもアルコールの臭気が漂っていた。これは大豆やコーンから採取したバイオエタノールをガソリンに混ぜて自動車を走らせていたためである。アメリカでもエタノール混合ガソリンの歴史は古い。昔、このエタノール混合ガソリンがときにはエンジンの腐食をもたらすといわれていたが、今ではこの問題は技術的に解決されているのだろうか。筆者はときどきこの燃料を使用してきたが、自分の車のエンジンが腐食しているという報告を受け取ったことはない。しかもアメリカではこの燃料の価格は地域によって違うが通常のガソリンに比較して最高20%は安い。

 バイオ技術の進歩により大豆、豆、コーンの用途は燃料以外にも飛躍的に増大している。これらの原料から最近では、プラスチック、ウレタン、カーペット、ろうそく、ソックス、サーフボード、機械のボディーパネルまでできるようになった。しかもこれらの原料から作ったものの多くは簡単に再生可能(renewable )だという。コーンの需要増大のためメキシコではコーンから作るトルティーヤ(これで肉や野菜のいためたものを巻いて食べる)の値段が高騰しストライキまで発生している。

 砂糖きびから自動車用燃料の生産も行われている。戦争中、日本海軍は砂糖を蒸留してハイオクのガソリンを製造するのに成功した。これは主に足の速いアメリカの戦闘機から逃れるためのもので、わが戦闘機や偵察機が追尾されたときによくこれを使用した。だがこれを使用して10分ぐらいしか飛行できず、それを超えるとエンジンが焼けてしまった。わが家のすぐ近くに戦争末期、爆撃機の彗星でこの燃料を使用して敵グラマン戦闘機の攻撃をうまく回避したという人が住んでいる。

 去年9月コロラド州南東部のRocky Fordという町の日系人農家を訪問した。コロラドでは戦前からメロンの栽培が盛んでメロン州というニックネームまでもらっている。このメロン産業を支持してきたのが日系農家であり、今では数人のメロン王と呼ばれる人もいる。筆者が訪問したのはこのメロン王の一人である。ちょうどキャンタロープメロンの収穫期で地平線のかなたまで広がる農場では数百人のメキシカンが働いていた。あらゆる面で機械化の進んだアメリカだが、メロンの取り入れは人力に頼らざるをえないようである。

 メロン産業の将来について訊いたところ、最近では移民局の監視が厳しく最早賃金の安いWet Back(メキシコからの不法移民、彼らは国境のリオグランデ河を泳いで渡るが、アメリカに到着したとき背が濡れているのでそのように呼んだ)は使用できないし、労務者がユニオン化(労働組合に入ること)されてきたので賃金が年年歳歳急上昇し余りうまみのある商売ではないとのことだった。
 
 この農家から2-3日まえ手紙がきた。メロンの栽培を止め、コーンの栽培に切り替えるという。理由はコーンの価格が異常なまでに高騰した(sky high)こと、コーンの栽培にはまったく人手を必要としないこと、さらに自動車燃料として使用されたとき、このバイオエタノールは地球にやさしい(earth friendly)燃料という時代の要請にも応ずることができるからということだった。

 好きなメロンの供給が減少して価格の上がるのは痛いが、彼女がこの新規事業に成功し中東からの石油の依存度を少しでも減らしてくれるよう祈るや切である。同時に原油の85%を中東からの輸入に依存している日本はその依存度の減少に努力しているだろうか。聞くところによると日本でのバイオ燃料の研究はやっと緒についたばかりだそうだ。この分野の先進国はブラジル、アメリカ、スペイン、スエーデン、ドイツである。なぜ経済大国日本?がこんなに重要な問題を今まで放置してきたのか。太平洋戦争の初期、日本軍部は緒戦の勝利に酔って石油は無尽蔵でしかも永久に来るものと錯覚していた。金さえあればいくらでも輸入できるという同じような錯覚を政府や国民が持っていなければいいが。

 古枯の木― 日米草の根交流会会員。在米35年以上。著書に『アメリカ意外史』など。
 
 

リンカーンとケネディの類似点

リンカーンとケネディーの類似点
              
                      古枯の木


ロス郊外のブエナパークという町にKnott’s Berry Farmという遊園地がある。もともとこの遊園地はカリフォルニアのゴールドラッシュの時に繁栄し、後にゴーストタウンと化した町にあった学校、消防署、教会、バーなどを集めて展示したものだが、それ以外にアメリカ東部のフィラデルフィアにある独立記念館のレプリカも置かれている。この館内では1776年7月4日の独立宣言を見ることができる。独立宣言を起草したのは後にアメリカ第3代大統領になるThomas Jeffersonであったため誰も彼が最初にこの宣言に署名するものと期待していた。ところが当日John Hancock(1739-93)が最初にサインしてしまい、しかも中央に大書したのだ。この大書されたサインを宣言文書の中にはっきり見ることができる。余談ながらそれ以降“Put your John Hancock.”と言うと、それは「サインをください」の意味であることはわがエッセイ『英語のむずかしさ』の中で述べた。独立宣言は7月2日に議会を通過したが、この夜の会議の模様が人形やマイクを通じて実に巧妙に再現されている。

この記念館には独立宣言以外の米国史上重要な文書や独立の時打ち鳴らされたひび割れのある自由の鐘(Liberty Bell)が展示されている。有名になった大統領の業績の説明もなされている。筆者が日本からの来訪者をたびたびこの記念館に連れて行くものだから、係りのおばさんが小生を覚えていてあるときアメリカの歴代大統領の中で誰が好きかと訊いてきた。そこですぐ「奴隷を解放したリンカーンと排日法の撤廃を含め日系人の地位の向上に尽力してくれたケネディーが好きだ」と回答したところ大きく頷きにっこりと笑った。
 
 一旦事務所に入ったが出てくると面白ものを見せてやるという。それはリンカーンとケネディーの類似点を書いた巻物だった。驚くほど類似点はたくさんあったが主なものだけを次に箇条書きしたい

1. リンカーンは1860年に、ケネディーは1960年に大統領に選ばれた。
2. 両者とも金曜日にワイフの面前で射殺された。
3. 両者とも後ろから頭を射抜かれた。
4. 両者の後継者はいずれもJohnsonで、両Johnsonとも南部選出の上院議員。
5. Andrew Johnson(リンカーンの後継者)は1808年、Lyndon Johnson(ケネディーの後継者)は1908年の生まれ。
6. リンカーンを射殺したJohn Wilkes Boothは1839年、ケネディーを射殺したLee Harvey Ozwaldは1939年の生まれ。
7. BoothもOzwaldも南部出身者。
8. リンカーンの秘書はケネディーでリンカーンにフォード劇場に行くなと忠告した。
9. ケネディーの秘書はリンカーンでケネディーにダラスに行くなと忠告した
10.Boothはリンカーンを劇場で射殺した後、倉庫に逃げ込んだ。
11.Ozwaldはケネディーを倉庫から撃ち、劇場に逃げ込んだ。
12.リンカーンとケネディーの名前は7レター(字)からなる。
13.Andrew Johnson とLyndon Johnsonの名前はそれぞれ13レターからなる。
14. John Wilkes BoothとLee Harvey Ozwaldの名前はそれぞれ15レターからなる。

以上述べたことはすべてまったくの偶然であろうが面白い。確実性を期すため家の近くにあるパーロスベルデス図書館に行き、可能な限り類似点のverificationを行った。上述のことはどうも本当のようである。

両者とも国民の基本的人権の確保や人種差別問題の撤廃に最大限の努力をした。リンカーンは奴隷解放を敢行するとともに兄弟戦争である南北戦争とその後の国家統一に努力した。ケネディーはキューバ危機に際して異常なほどの精力、能力を発揮してソ連の脅威からアメリカを救った。彼がホワイトハウスの窓際で1人聖書を開いて神に祈る写真をアメリカ人の友人から見せてもらったことがある。恐らく神の託宣(英語ではこれをmanifest destinyという)を求めていたのだろう。極めて印象深い写真だった。

アメリカの歴史学者の中にリンカーンとケネディーはアメリカの生存と価値が危殆に瀕したという決定的瞬間に決定的役割を果たした偉大な大統領であると賞賛する人がいる。同感である。だが同時に両者に共通するなにか運命的、悲劇的なものを感ぜざるをえない。

(古枯の木 歴史愛好家、在米35年以上、著書に『アメリカ意外史』など)
 

2009年1月15日木曜日

マイクホンダ議員の対日非難に思う

マイク・ホンダ議員の対日非難に思う
             古枯の木
 
 本年6月、米下院外交委員会で第2次大戦中の従軍慰安婦に関する対日謝罪要求決議案が賛成39、反対2で可決され、さらに7月末、下院本会議で採択された。これを提起したマイク・ホンダ議員は日系の3世で、本名はマイケル・マコト・ホンダ、1941年生まれ。北カリフォルニアのIT大都市サンノゼの西に位置するクペルティノ(Cupertino)選挙区選出の民主党議員で、中国人や朝鮮人の抗日団体と深い繋がりがあり、彼らから政治献金を受けている。日本企業相手に戦時中の損害賠償を提起したり、カリフォルニア州議会議員のとき30万人が虐殺されたという南京事件の提訴もしている。彼には日本非難、断罪がその政治生命になっているらしい。

 いまさらなぜアメリカの国政の場での対日バッシングか。ホンダ決議案に対し日本政府はなんら有効な反論をなさなかった。極めて重要な外交問題を黙視したかの感がある。ただ一つの救いは桜井よしこ氏ら憂国の士が6月14日付けのワシントン・ポスト紙に慰安婦に対する意見広告を出したことだ。その広告の中で桜井氏らはホンダ議員は事実を意図的に歪曲して日本に不名誉な汚辱を与えたと述べると同時に日本政府による慰安婦強制連行の事実は存在しなかったことを明言している。

 過去の歴史的事実に対し共通の認識をもつことの重要性がいつも中国、韓国から提起されている。だがそれは言うは易すいが、実現不可能の代物である。第一に歴史的事実の客観性を発見することは至難の業だし、たとえ発見できても事実の解釈がいつも価値観の異なる当事者により大きく分かれるからである。

 学問の目的はRealityの追求であり、慰安婦問題についてもRealityは追求されなければならないだろう。だがこれとは別にホンダ議員の悪意ある決議案について何をなすべきであるか。それについて思い出すのは本年1月末、オスマントルコ時代のアルメニア人の虐殺非難決議案がアメリカ議会で浮上した時のことである。アルメニアはトルコの東に位置するキリスト教国で第1次大戦後の1920年9月、セーブル条約によりトルコからの分離、独立が承認されたが実際に独立したのは1991年である。第1次大戦中、同じキリスト教国のロシアに味方し、多くの青年がロシア軍に参加しさらにトルコに対しゲリラ戦を展開した。戦時中、アルメニア人のシリア方面への強制移住により20-200万人が虐殺されたらしいが、これに対しトルコ政府は謝罪を一切拒否している。理由は戦時下の特殊事情、最前線の混乱それに移住に関し国家は一切命令を出していないということである。

 アメリカ議会のトルコ非難決議案に対し、トルコのエルドアン首相は外相で経済学博士のギュルをワシントンに派遣して強く抗議させるとともに、もし決議案が成立すればトルコ領内の米軍基地を閉鎖し、米軍機のトルコ上空の飛行を禁止すると宣言させた。いつもアメリカのいうことに唯々諾々服従し、ホンダ決議案にも反ぱくしなかった日本政府といい比較対照をなす。筆者はトルコ政府から学ぶべきものがたくさんあると確信する。

 敗戦後、日本がロシア、中国、韓国、北朝鮮からの侵略を受けずに国内の安寧、平和を維持できたのは平和憲法のためではない。アメリカ軍のプレゼンスのためだ。日本政府がアメリカに対してトルコのように強い態度に出られないのはいかなる理由によるだろうか。国の安全と平和を守ってもらっているという負い目、引け目のためか。または東洋的な遠慮、謙譲の美徳によるのか。

 だが遠慮や謙譲の美徳などは国際社会では通用しない。外交はよく酒に例えられる。中国外交は“芳醇な老酒”といわれる。これに対し日本外交は混ざり気のない純粋な“灘の生一本”だそうだ。これをよく解釈するならば正直、一本木、誠実、くそ真面目、悪く解釈すれば単純、幼稚、無邪気、拙劣ということであろう。明治の開国以来、わが外交には外交の戦略性が希薄のように思われる。また怜悧な老獪さも感じられない。慰安婦の対日非難決議案採択のため、日本はテロ特措法を延長しないと宣言してアメリカ驚かせ、ホンダ議員を窮地に陥れたらどうか。外交にはこれぐらいの駆け引きは必要だ。敗戦以来、日本はアメリカのミリタリ・コロニー(military colony)となり、政治的には対米隷属性(political dependency)から脱しきれていない。安倍首相は職を賭してもインド洋での給油を継続すると言っているがお人好しのその政治感覚を疑う。反対に不継続を声明することによって日本はアメリカの尊敬を受け、相互の理解は深まり、日本はその政治的尊厳性を回復することができるのである。

 1939年9月第2次世界大戦がヨーロッパで勃発した。これは日本にとり日中戦争から有利に足を洗うべき千載一遇のチャンスだったが、当時の無為無能の阿部信行内閣はこれを無視した。その結果太平洋戦争への突入に至るのである。筆者は阿部内閣は日本の近代史上もっとも凡庸な内閣の一つであったと思う。安倍晋三さんが第2の凡庸アベ内閣にならぬよう強く望む次第である。


(古枯の木、歴史愛好家、在米35年、著書に『アメリカ意外史』『ゴールドラッシュ物語』など)

アメリカの弁護士

アメリカの弁護士
              古枯の木

 アメリカには現在弁護士が82万人もいるとされている。350人当たり1人の割合だ。今秋、友人の娘がロス近郊の小さなLoyola Universityのロースクールを卒業するとのことでその卒業式に出席した。卒業生は270人もおり、うち9割はそのあと実施される司法試験に合格するそうである。ただでさえも弁護士の数が多いところに、毎年新たに何人の弁護士が誕生するのだろうか。一方、西欧諸国ではどうであろうか。西欧の中で最も弁護士の数の少ないのはフランスだがそれでも4万人はいる。日本はフランスよりさらに少なく1万8千人で、9千人に1人の割合だそうだ。アメリカでは弁護士の数が多すぎるために訴訟の数も自然に多くなる。そのため訴訟を制限しようとする動きがワシントンにはあるが、そのための法律を作る奴が弁護士だからなかなか旨くゆかぬ。

 アメリカで弁護士はよくambulance chaserと呼ばれる。Ambulanceは救急車、Chaserは追うものの意味である。弁護士の数が多いため、彼らが救急車の行き着く先に訴訟のネタはないものかと鵜の目鷹の目で救急車を追うからである。被害者がその場にいれば弁護士は当然に訴訟することを薦めるであろう。最近わが家に見知らぬ弁護士からよく手紙が来る。それはある大会社を相手に集団訴訟を起すからこれに参加せぬかとの誘いである。筆者の友人で訳の分からぬまま弁護士の甘言に乗せられてこのような手紙にサインし、後で当の弁護士が敗訴して多額の弁護士費用の請求を受けた人がいる。またアメリカには成功報酬の制度(contingency)があって、勝訴した場合だけ弁護士にその費用を払い敗訴した場合は支払いが不要となっている。ところが弁護士が勝ち目がないと判断すると途中で裁判を放棄してしまうため困っている人もいる。なにしろ弁護士のマスクを被って世の善男善女を食い物にする輩もいるから注意が肝要である。

 アメリカでは弁護士が生活のあらゆる分野に入り込んでいる。企業の中枢にまで弁護士がいて、彼ら無しでは会社経営も難しい。企業はあらゆる訴訟に対処できるよういつでも準備しなければならず、その弁護士費用や時間は膨大である。事態がこのまま推移すればアメリカ社会そのものが疲弊してしまう。またなんらかの理由で隣人から訴えられたら弁護士が必要である。私生活でも弁護士は欠かせない。

 欧米社会では司法制度、裁判制度を必ずしも信用していない。むしろ不信感、懐疑心が強い。そのため司法民主化の旗印の下、紀元前5世紀の中ごろから陪審員制度が発達してきた。陪審員制度は司法不信の産物である。だがこの長い歴史を有する陪審員制度に対する欠陥が近時指摘されるようになった。それは弁護士が法廷で金持ちの被告のためにその辣腕と豪腕を利用して自分に有利なように陪審員を説得してしまうからである。“裁判の沙汰もカネ次第”という訳だ。この契機の一つになったのはO.J.シンプソン事件である。これは1994年有名なフットボールの選手であったシンプソンが前妻の二コール・ブラウンを殺害したもの。また最近では有名な歌手のマイケル・ジャクソンの児童に対する性的虐待事件がある。両事件では国民全体が被告の有罪を信じて疑わなかったが、弁護士の圧力により無罪になってしまった。これら弁護士は2人の大金持ちから莫大な報酬を得たであろう。でもこれは弁護士一般に対する不信感を増幅させてしまった。

 そのような弁護士ではあるが、弁護士費用は大変高い。でも費用の故に弁護士を排除することはできぬ。そのためある人は弁護士とは必要悪(necessary evil)だと言い、他の人は頭のいい盗人だと指摘する。英語にocean lawyerという言葉がある。これは文字どうり海の弁護士でさめを意味する。同様に陸の弁護士もさめだという訳だ。この世にはさめ弁護士がたくさん遊よくしているから食いつかれないように注意する必要がある。
 
 弁護士事務所は、クライエントからの電話に対し通常6分単位で料金を請求する。これはクライエントから電話を受けた瞬間から計算を始める。日本流に時候の挨拶などしていたらダメだ。時間はすべて切り上げだから7分は12分になる。ランチをご馳走するからということで、弁護士の招待を受けたら、後でランチ代の請求書が来た。このことをある友人に話したら、彼はランチ時の時間まで請求されたという。

 弁護士、医者、公認会計士、大学教授、IT技術者はアメリカでも人も羨む良い職業であり、彼らの社会的地位は高い。だが地位の高いことと、尊敬されていることは別問題である。弁護士に寄せるアメリカ人の信頼感は決して高くはない。それが証拠に弁護士に対する辛らつな皮肉が山とある。これに関する本は無数出版されている。これをattorney jokeと呼ぶが、そのうちの人口に膾炙している数個をご紹介したい。

1. 弁護士と吸血鬼の違いは?
吸血鬼は夜間しか人間の生き血を吸わないが、弁護士は24時間吸う。
2. 本当にいい弁護士はどこにいるか?
墓の中だけ。
3. 2人の弁護士が森の中を歩いていると、熊が出てきた。1人が急いで革靴を運動靴に履きかえるのを見た他の弁護士が“ムダのことをしなさんな。熊にはとてもかなわないよ”と言った。すると相手は“とんでもない。お前を追い越すために運動靴に変えたのさ”
4. 弁護士で満杯の飛行機をハイジャックしたテロリストは何と言ったか?
もし彼らの要求が入れられなければ、10分に1人の割合で悪徳弁護士を釈放すると言って恐喝した。
5. ある男が弁護士事務所を訪問し、弁護士に向かって“質問2つまでは100ドルと聞いているが本当か“”本当だよ。それで2番目の質問は?“
6. ある金持ちが臨終の床に、公認会計士、坊主、弁護士を呼び、各々に5千ドルを渡し、死後、冥土でしばらく遊びたいので、この金を棺の中に入れてくれと依頼した。葬式後、3人は再会した。まず坊主がきまり悪そうに“棺の中には3千ドル入れたのみ。残りは教会に寄付した”と言い訳した。つぎに公認会計士が“俺も2千ドル入れたのみ。3千ドルは会計士協会に寄付した”と。最後に立った弁護士が“お前らはまったくけしからん。俺は満額入れたよ。ただし現金ではなく小切手でね”

 筆者がかつてオレゴン州のある大学のMBAで講義をしていたとき同学のロースクールの学生が一人講義に出ていた。あるとき彼は日本人経営者がアメリカの弁護士をどのように考えているかと質問してきた。そこで筆者は黒板の上に丸を描いた。この丸を指しながら“一般の人はこれを何かと訊かれたら100%が丸と答えるだろう。だがアメリカの弁護士はそれが丸だと知りながら四角だと答える。しかもそれがなぜ四角に見えるかの理屈を発見する頭のいい人である”と。

昔、法学概論の授業のとき、法とは社会的正義に仕える侍女であると説明する教授がいた。だが現代のアメリカでそのようなコンセプトは受け入れられているだろうか。法とは訴訟のための道具と考えている弁護士が多いではないか。ロースクールで学んだ者の多くが学校では常に“戦え、戦え”と言って尻を叩かれたと言っていた。法の論理が戦いの論理によって置き換えられた感すらあるようである。

 このエッセイでは弁護士に対する辛らつなジョーク、皮肉をたくさん紹介したが、信頼しうる弁護士がいない訳ではない。筆者の会社員としての生活と私的生活を通じて少なくとも3人はいた。1人は1957年一橋大学商学部卒業の後、単身船でロスに来て、苦学力行、カリフォルニア州の薬剤師と弁護士の資格を取得した人格高潔なA氏、東京都知事の石原慎太郎がかつて、“同級生の中で一番勉強したのはAだ”と言ったのを人づてに聞いたことがある。2人目はハンガリーから無一文でナチスの苛酷な圧政を逃れてやって来たK氏、独禁法の精神を金銭を度外視して教えてくれた。3人目はかつてカリフォルニア州弁護士協会の倫理部の部長を長く勤めていたアルメニア系のJ氏、彼はいつも弁護士には人間の人間たる絶対的そして普遍的価値観や確固たる倫理観が必要だと強調していた。

 日本政府は現在弁護士数の増加に努めているようである。その必要性は認める。とくにIT関係、特許関係と国際税務関係の弁護士の不足は否めない。だが余りに数が増大すると弁護士が食うための餌を求めてアメリカのように訴訟王国にならぬとも限らぬ。
 
古枯の木(一橋大学大学院修了後、アメリカで勤務。在米35年。著書に『日本敗れたり』『アメリカ意外史』『ゴールドラッシュ物語』『楽しい英語でアメリカを学ぶ』など)

                               
 
 
      

2009年1月14日水曜日

アメリカ人の浪費癖

アメリカ人の浪費癖
古枯の木

アメリカ人は今も昔も借金漬けである。デパートのキャシアーやホテルのチェックアウトで支払者が何枚ものクレディットカードを出して拒否されている光景をよく目にする。また給与の支払が一日遅れると破産してしまう個人が多い。給料日になると終業時のベルの鳴るのを待ってチェックをもらい、そのまま銀行に走る者がいる。少し金があるとレストランで豪華に食事し、ムダと思われるようなものをセッセト衝動買いしている。9月18日アメリカの中央銀行が金利の引き下げを断行したが、街の声は「これでもっとカードで買い物ができるからうれしい」ということだった。貸家を多く持つ人から聞いたが、借家人として理想的な者はアメリカ人と台湾人とのことである。彼らは外食が好きで家では余り料理をせず、従って台所を汚くしないからである。

クレディットカードにはすべて信用限度がある。これを英語で“Line of Credit“という。このLine of Credit の高いのと、カードの枚数の多いのを誇りとするアメリカ人がいる。筆者があるときこの信用限度の引き下げをクレディットカード会社に依頼したことがある。理由はカードをめぐる詐欺事件(アメリカではこれは一般的に”Identity Theft“といわれ、手口はますます巧妙になっている)に巻き込まれたとき、信用限度の低い方がより安全だと判断したからである。そのときアメリカ人の担当者は、「すべてのアメリカ人はいつも信用限度の引き上げを望むのに、なぜお前は引き下げを希望するのか」と不審に思って何度も訊いた。
 
 アメリカ人の浪費癖はものすごい。所得から税金などを差し引いた可処分所得のうち消費せずに貯蓄に回す割合は2001年以来マイナスである。最近可処分所得に対する負債の割合は1.27%といわれている。これは端的に言えば収入以上に消費していることを表す。その不足分をいかに埋めるのか。それはアメリカ人がプラスティック・マニーと呼ぶクレディットカードによってである。アメリカ人の平均負債残高は2-3年前で7,000ドルと言われていた。このまま事態が推移すると元利の返済に28年もかかるそうである。この悲痛な苦しみをアメリカ人は自嘲的に“credit card woe”と呼んでいる。

 筆者は若いときいつも父親から「現在の生活は現在の収入に依存してはならない、過去の収入に頼るべし」と教えられてきた。ところがアメリカ人は現在の生活を現在の収入ではなくて将来のしかも不確定な収入に依存している。これは大変危険なこと。会社の都合によりレイオフされたらどうするのか。彼らの金銭感覚はまるで宵越しの金は持たぬかまたは持てぬかであろう。年間200万件以上の個人破産があるとされている。

 だがクレディットカードによりアメリカ人の信用が拡大されたことがアメリカ経済の発展に大きく寄与したことも事実である。そのためアメリカはいつもクレディットカード・ネイションと呼ばれている。多くの日本人が貯めるだけ貯めて、金利生活を渇望するようになったら日本経済は衰退してしまう。余談ながら日本が発展するためには平和な国であることは絶対に必要だが同時に資源の無い日本は絶対に休息の国になってはならない。

 最近アメリカではサブプライム・ローン(低所得者に対する住宅ローン)が大きな社会問題になってきた。半年ぐらい前まで多くの金融機関が“100 Percent Financing”と宣伝していた。これは頭金がなくても家が買えるということである。そのため金も信用も担保もない者たちが将来の値上がりを夢想して先を争って家を買った。これは将来の不確定なものに期待しての一種の浪費である。

 個人だけでなく国家の浪費癖もものすごい。国際収支に関する限り、1981年にアメリカは1,400億ドルの純資産を持っていた。これは史上最高の記録である。ところが1985年、アメリカは債務国に’転落し、以後毎年赤字をたれ流しに流している。アメリカはつとに自国内での生産活動を放棄し、海外からの輸入に依存している。輸入されたもののためにドイツ、日本、最近は中国から国債と交換にドルを借りこれで輸入代金の決済をしているのが実情である。いつの時代でも戦争は大消耗を伴う。アメリカはイラク戦争ですでに3,000億ドルを費消した。中国からのドルが入らないとアメリカはイラク戦争を継続できないとさえ言われている。

 日本も偉そうなことは言えぬ。小泉純一郎が総理になるまで自民党の影武者たちは弱い総理を擁立してこれを自由に操り、票田のために金のばら撒き(この日本政治の特徴をアメリカ人は常識的に知っており、金のばら撒きを軽蔑的に“free spending”と英訳している)を無定見、無思慮にも行った。福田康夫さんが弱くて凡庸な総理でないことを衷心から希望する。今までの浪費のため国の借金は一人当たり655万円にも達してしまった。この浪費に誰が責任を負うべきか。またこの借金の返済にこれから何年かかるだろうか。

(古枯の木 ロス在住の歴史愛好家、在米歴35年、著書に『アメリカ意外史』『ゴールドラッシュ物語』など。本年5月トルコ旅行の後、6月にロスの近現代史研究会で「トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして」と題して講演を行った)

 


 
日本は経済大国か
 
                        古枯の木    
 

名前は忘れたが、旧帝国海軍の提督の中に日本海軍を無敵海軍と呼ぶことに反対する人がいた。同様に筆者は日本を経済大国と呼ぶことを好まない。果たして日本は経済大国であったろうかまたはあるだろうか。答えは極めて簡単で日本は経済大国ではなかったし、またないということだ。筆者は長年商売の第一線にいて、日本が経済大国であると思ったことなどは一度もなかった。若干の例外はもちろんあるが、日本の企業は欧米の技術を買ったり盗んだりして、彼らの商品よりも少し安くて少し良いものを世界に大量にばらまくというやり方をとってきた。それが証拠に日本製品には他国製品に比較して優る相対的優位、たとえば外国製品より速いとか、効率が良いとの利点はあるが、他国製品にはなく日本製品のみが持つ絶対的優位などまずない。世界のどこにもない商品を、独自の技術で創造的に生み出すまで経済大国というはおこがましい。

昔アメリカである日本の商品のマーケッティングをしているとき、アメリカ人から同じようなアメリカ製の商品で数年前に製造されたものを見せられて、“またコピーを作ったな”と言われたときは誠に残念ながら片言隻語の反抗もできなかった。せいぜいベターコピーと言うだけだった。

他国のものをまねるのはお互いさまかもしれない。だがそのとき外観をまねるだけでなくその背後にある哲学的なもの、原理、原則をよく研究する必要がある。郷里の町の近くに戦争中大きな軍需工場があった。1942年2月シンガポールを占領したとき、日本軍はたくさんのイギリス製自動小銃を捕獲した。これを郷里の軍需工場にもってきてその模造品を製作しようとした。ところが第1発目の弾は出るが第2発目の弾がどうしても出なかった。敗戦まで自動小銃の製造に成功しなかったが、この軍事“機密”は町の小学生でも知っていた。アメリカに来て武器に詳しいアメリカ人にそのことを話したら、自動小銃では1発目の弾丸の反動を利用して2発目の弾丸を送ると教えてくれた。日本軍は多分この原理、原則まで学ばなかったと思われる。

筆者が日本は経済大国ではないと言ったら、アメリカで登録されるパテントの80%は日本のパテントだと主張し、胸を張って反論する人が多い。確かにそれは真実である。80%は日本のものだ。だがパテントの内容が問題である。アメリカのパテント弁護士に訊いた。(アメリカでは通関とパテントの弁護士は通常の弁護士とは異なるジャンルに属する)アメリカでは普通パテントというと“新規性”“革新性”が要求される。ところが登録される日本のパテントにはこれらがほとんど見られないという。日本のパテントの特色は生産面の改良に関するものがほとんどだそうだ。生産面の改良とはたとえば工程を減少させたり、生産コストを下げることを意味する。さらに日本企業が欧米のパテントを購入することは多いが、日本のパテントが欧米の企業に買われることはまずないとのことだ。日本のパテントを購入するのはアジアの企業に限定されている。また技術貿易収支の面で日本は2002年まで万年赤字だったがアメリカはいつも厖大な黒字を計上している。これは依然として日本が外国の技術に依存していることを示す。

一国の経済上の実力を測るのにパテントの件数などは上述の理由により余り重要ではない。
パテントの件数は多くても、欧米企業が起すパテント侵害(the possible patent infringement)訴訟からいかに逃げるかに日夜苦慮している日本の企業が多い。

アメリカでもたまには日本のことをsuper economic power といって賞賛することがある。だがアメリカ人は本当に日本を経済大国だと考えているだろうか。19世紀末イギリスに有名な新聞記者のブロービッツという男がいた。彼は記者として活躍中多くのスクープをしたが最大のものはスエズ運河をめぐるものである。スエズ運河は1869年に完成したが、彼はエジプト政府の財政破綻を知るや否やこれを新聞紙上に発表せずにイギリスの国益のためにイギリス政府に直接伝えた。かくしてイギリスは1875年スエズ運河の買収に成功したのである。このブロービッツを日露戦争の直後、松方正義が訪問した。当時80才近くになっていたブロービッツは松方に対し、“ヨーロッパ中の新聞は日本がロシアに勝利したといって日本を褒めそやしている。だがそれを喜んではいけない。これはまだ日本が子供扱いにされている証拠だ。イギリス人は相手が本当に偉大だと思ったならそのような賛辞は呈しない。その証拠に誰がイギリス海軍は七つの海を制覇して偉大だといって褒めるだろうか。誰がドイツ陸軍はヨーロッパで最強の陸軍だといって賞賛するであろうか。よって児戯に等しい新聞の論評など真に受けてはならぬ”と述べて松方の注意を喚起した。それはちょうど“あなたは英語がお上手ですね”と言われる間は英語が下手な証拠であるというのに似る。本当に上手な相手に対しそのような賛辞は呈さない。後年松方はブロービッツのこの苦言が彼の旅行の最大の土産だったと述懐している。アメリカに駐在する日本人でなにかと言えばすぐ“日本は経済大国だ”と有頂天に叫ぶ者がいるが、ブロービッツの意見は傾聴に値しよう。アメリカは日本を真のsuper economic power などとは考えていない。これは単なる枕詞に過ぎぬ。

しかしながら技術は借り物でも生産面で日本は素晴らしかった。経済大国ではなかったが生産大国だった。経済大国と生産大国では意味がまったく異なる。日本人には独創性は欠如していたが、ものの生産では断じて抜きん出ていた。少し前まで自動車産業についてよく言われたことがある。アメリカは生産の悪さを技術でカバーしているが日本は技術の低さを生産でカバーしていると。日本は真実生産大国であったし今もそうである。それとともに改良でもダントツであり改良大国であった。

日本が改良大国であったことの歴史的事実を一つ紹介したい。戦前日本のある海軍士官が訪英した。イギリスの海軍士官に案内されて彼の駆逐艦を見学に行ったとき、見慣れぬものを発見した。よく聞くと高圧酸素を動力とする魚雷である。最初フランス海軍が着想したが爆発の危険性が高く放棄した。代わってイギリス海軍もその研究に携わったがやはり爆発の恐れのため放棄せざるをえなかった。わが士官はさらにいろいろ酸素魚雷について聞きただし、帰るとすぐこれを上官に報告した。非常に良いアイデアということで海軍は直ちに研究にとりかかった。苦心惨憺の末、安全な高圧酸素魚雷が発明された。これを93式酸素魚雷という。(皇紀2593年にできたため)これは50ノットの速力で2万メートル以上の射程を有する優秀な魚雷であった。さらに米英のものに比較して2倍以上の破壊力を持つものだった。しかも発射時は普通の酸素を使用するがそのあとは高圧酸素を動力としたため航跡が全然見えず、敵に発見される可能性が低かった。イギリス海軍は第2次大戦の終了まで懸命に努力したがついに酸素魚雷の製造には成功しなかった。日本人の改良能力はすばらしい。余談だが無謀極まりない太平洋戦争なんか始めずにわが民族の誇りであるこの酸素魚雷とゼロ戦(ゼロ式艦上戦闘機、太平洋戦争の初期大いに活躍した。艦上とは艦から飛び立つという意味。海軍ではこのゼロ戦を“レイ戦”と呼んだ)をアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリヤ、中国、中国共産党、ソ連に高価に売りつけていたら日本は未曾有の経済的繁栄を謳歌したものと考える。誠に惜しいことをしたものである。

あるIT関係の会社の社長が、以前アメリカからITに関しいろいろ教えてもらったが、生産方法の改善で今ではアメリカを追い越してしまった。そのためまことに申し訳ないことをしたものだといつも内心忸怩たるものがあると語っているのを聞いたことがある。同じような例が非常に多いと思う。

日本の会社は従来コストを削減し、ものを改良して品質を向上させ、規格品を大量生産することによって、世界市場に進出してきた。だがこれだけでは中国にさえ対抗できなくなるだろう。日本人独自のアイデアによる新商品の開発が目下の急務と考える。だがこれは一朝一夕には成就しない。

日本のように国土が狭小で資源の乏しい国は経済大国たるの第一要件を満たしていない。産業を近代化するための市場、原料を欠き、さらに学問、科学の遅れから技術を欧米に学ばなければならなかった。残念ながら今も欧米が先生である。このような経済的に貧弱な国が欧米の先進資本主義に対等に立ち向かおうとすれば必然的に袋たたきに会う。この点日本の経済外交には常に細心の注意が必要である。軍事大国を自認した帝国陸海軍はその幻想、過信にうつつを抜かし戦争さえも真剣に考えなかった。そもそも一国の軍隊とはその国民の生命、財産を守るために存在するのだがそのようなコンセプトがあっただろうか。1939年5月帝国陸軍はノモンハン事件でジューコフのソ連軍に大敗を喫したが、そのとき次のような俚言がひそかに流行したという。将軍勲章、将校昇進、下士官火遊び、お国のために散るはいつも兵ばかり。このような軍隊がいざ米英とのあいだに戦端を開くと、完膚なきまでに打ちのめされた。アメリカ側の表現によれば日本軍とはcruel amateurs(残忍で戦争の下手な素人集団)でしかなかったそうな。誰が日本を経済大国などと呼んだのか。無責任なマスコミであろう。国民はその煽動に踊らされている。バブルの最盛期、日本円でアメリカ全土を購入するというバカなことが真剣に論じられた。自信をもつことは必要でありよいことだ。だが日本国民はすぐに自信を過信に転化するという悪い癖をもつように思えてならない。

日本は経済大国なんかにはなれないし、ならなくてもいい。要は日本が国際社会におけるポジションをよく理解して己の分を守ればいいのだ。

古枯の木― 歴史愛好家、在米35年以上。著書に『日本敗れたり』『アメリカ意外史』など

逆境をバネにして

逆境をバネにして

      古枯の木                           

 一九六七年一月ある会社の駐在員としてロスに赴任したとき最初の仕事は従業員の採用だった。日本を出る前、あるアメリカ通と言われる人にこの点について相談したところ、彼は宗教心の篤い人間を採用しろと言ってはくれたが、これは余り実用的ではなかった。結局、応募者をいろいろな面から短時間の内に効率的に観察するより他に手はなかった。年齢や学歴の詐称が多いと聞いてもいたのでこれには事前の調査が必要だった。実際の採用にあたり人種によっていろいろの差異があったから日系人、アングロサクソン系の白人、ユダヤ人に分けて自分が気づきまたは印象に残ったことを記してみたい。
まず日系人の採用だ。最初にUSCを卒業した男性を採用したが年齢は筆者より十三歳も上だった。彼はいつも会社に就職できたことを深く感謝していたが彼によればごく最近まで日系人は大学を卒業しても就職口はなく卒業式は失業式を意味したとのことである。多くの者は庭師か日系人所有のレストランで働くより他に方法がなかったらしい。彼は一九四二年二月ルーズベルト大統領の署名した行政命令で強制収容所に入れられたが、志願してサンフランシスコ郊外プレシディオの軍事情報外国語学校(MISLS, Military Intelligence Service Language School)に学びほぼ完璧なバイリンガルになった。幼稚園に入るまでアメリカ人と交際する機会が無かったのでMISLSでは日本語より英語を学ぶ機会が多かったと言う。戦後、B,C級戦犯の通訳をやった。彼の日英両語がどれだけ会社の発展に役立ったかは筆舌に尽くし難い。その後も多くの日系人を採用したが彼らは異口同音に採用されたことを感謝しており、積極性と自己主張に欠ける恨みはあったものの、おしなべて誠実、勤勉で残業を厭わず夜遅くまで働いてくれた。彼らは祖父母、父母からいつも“泣くな、頑張れ、オヤコッコ(親孝行)”と教えられていたそうである。
 だがあるとき日本の本社が従業員の現地化を唱導し、幹部に白人が採用され駐在員は黒子的な存在と相成った。その結果、日系人の多くは白人の幹部により淘汰されてしまった。この現実を目の当たりにして筆者は自分の子供にたいしてはアメリカでは会社勤務などを考えず何らかのタイトルを取得して自主独立的に働ける道を考え出すよう教え続けた。

 つぎは白人の採用。あるときUCLAを卒業し企画力があり優秀そうに見えた白人男性を幹部に採用しようとしたが、最後の段階で失敗した。なぜ失敗したかの原因を突き止めたいと思いある日、夕食に招待した。聞くところによると仕事は大変challenging で待遇にも不満はなかったが最終的決断の前に大きなためらいがあったと言う。周知のようにアメリカでは会社を変わるごとに給料と地位が上がるが、これはアメリカの会社に限ってのこと、日本の会社に働くことはキャリアー上マイナスになることはあってもプラスになることは絶対にないとのことだった。つまり日本の会社で働くとその期間は人生のムダになるわけだ。これにはひどいショックを受けたが悲しいことに日本の企業はアメリカの企業と同列にはなかったのである。彼の採用に失敗した後も同じような経験を2-3度した。現在ではこの辺の事情は変わっているであろうか。それとも白人はやはりアメリカの会社で働きたいと思っているだろうか。

 最後にユダヤ人女性の採用にあたりこちらが反対にいろいろ質問を受け、最後に勇気づけられた話。インタビューのとき彼女が日本企業であるが故にアメリカでいろいろ差別待遇を受けているだろうと訊いてきた。筆者はアメリカ政府は大変フェアーだが、それ以外の場での差別のあることは否定しなかった。それにたいし彼女は人種偏見や差別が起爆剤となってアメリカ社会が発展してきた事実は見逃せないと断言し、その例証としてロスの市内にイギリス系やアメリカ系のアングロサクソンしか入会できないゴルフクラブを挙げた。ユダヤ人も日本人も一切入会は許されていない。ユダヤ人の偉大さはこの逆境をバネにアングロサクソンが羨むような数倍立派なゴルフコースを建設したことだ。差別されたときへこたれてしまうかそれともそれをバネに立ち上がるかによって結果に大きな違いが生ずると教えてくれた。そしてわが社もいろいろな逆境にめげずむしろそれをバネにして頑張れと言ったのだ。彼女は採用された。

2009年1月13日火曜日

真珠湾の影

真珠湾の影
1967年1月21日午後4時ごろ家族と一緒に初めてアメリカの土を踏んだ。子供は2人、3才と1才だったがカリフォルニアの温暖な気候と豊富な栄養に支えられてちょうど1年後に第3子が誕生した。この子どもたちが小学校の高学年に進むころ明らかに真珠湾攻撃を意識するようになった。学校で先生が真珠湾攻撃の話をすると頭を上げることができないとこぼしていた。日系人の子供もすべて同じ思いをしていたそうだ。またある年の12月7日の朝、白人の男がわが家の長男に向かって“Happy Pearl Harbor Day”と言ったそうだが、そのとき長男は背筋が凍てつくような思いをしたという。真珠湾の影として子供を悩ませたのはなぜ日本が真珠湾を騙し討ち(sneak attack)し、不正な戦争を始めたかにあるようだった。これが子供の教育上逢着した最も困難な問題の一つだった。

そこで筆者からは戦争とはいつも正義と正義の衝突であり、日本だけを一方的に不正義とすることはできないこと、また奇襲であった真珠湾攻撃に国際法上の違法性の問題はなかったことなどを説明したが子供がどこまで理解できたかは知らぬ。さらに真珠湾攻撃はいまだ交渉中の相手を最後通牒も発せずに突然討つという騙し討ちになったがこれは道義的には責められるであろうと付け加えた。

真珠湾の影は日系社会にも及びそれは日系人排斥の大合唱になってしまった。日系人は法律的には敵性外国人(enemy alien)と見做され、いたるところで悪意ある扱いを受けた。ロスのダウンタウンにあるリットル東京では怒り狂った白人の若者がトラックから飛び降りてきて日系人と見れば誰何の別なく殴り倒した。コーヒーショップや床屋は堂々と“No Japs”の看板を掲げていた。サンフランシスコで発行されているPacific Citizen紙はそのころの様子を次のように伝えている。“真珠湾から旬日を出ないある日、日系人の母子が道を歩いていた。そこに白人の母子が現れ、白人の子供が石を拾い上げて日系人の子供に投げつけた。だが日系人の母親も白人の母親もそれを止めようとはしなかった”と。真珠湾の恨みと影は子供にまで染み込んでいたのである。日系人大虐殺のデマも流れた。

暗い真珠湾の影の中にただ一縷の光もあった。これはハリウッドのある小学校での出来事。真珠湾攻撃の翌日は月曜日だった。日系人の子供は皆びくびくしながら登校した。白人の番長に殴られるものと全員が覚悟をしていた。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、“日本政府は憎んで余りあるが、これら日系人の子供には罪はないから彼らに対し絶対に手出しをしてはならぬ”と宣言してくれた。たぶん番長の親が番長にそのように告げたのだろう。筆者は昔、カンプトンという町にあった日本語学校の教師をしていたことがある。この話は生徒の父兄の一人から聞いたものだ。その人はハリウッドの小学校の現場に居合わせたそうである。いずれにせよアメリカの底深い寛容な一面を見た思いがする。
自信を持つことはいいことだが、日本人はすぐに自信を過信に転化するという悪癖を持つ。真珠湾攻撃や経済大国というおごりはその一典型である。アメリカでマーケティングの仕事を始めたころ複数の日系人からアメリカの力を過小評価せぬようにと何度もアドバイスを受けた。これには今も感謝している。

筆者が渡米したころ真珠湾の影は商売の面にも及んでいた。日本製商品が売れ始めるとアメリカのメーカーは“なぜ真珠湾を攻撃した国の商品を買うのか”と叫び始めた。また“ジャップは真珠湾の反省を一切していない”“山本五十六は真珠湾で無辜の民2,400人以上を殺した”などの宣伝も見られるよになった。日本製商品を攻撃するためのcheap Japanese junksとかcut corners products (手間を省いた粗悪品)などの言葉があざ笑うかのように踊っていた。でもこれらの言葉はさすがに新聞、テレビ、雑誌など公共のメディアには登場せず、メーカーが傘下の代理店に出すニューズレターの中に特筆大書されていたのだ。自尊心を傷つけられた日本は実に悲しい国だと思った。このような時には耐えて、耐えて、隠忍自戒するより他に方法はない。が同時にこんな下らぬ宣伝を相手にしてはいけないと痛感した。詰まらぬものに大騒ぎするとかえって相手が勢いづいてくるからである。いろいろ考えた末、黙殺という有効な手段のあることを発見した。日本の政治家の中には中国や韓国から恫喝されると直ちに右往左往する者がいるが、彼らは一体黙殺という手のあることを知っているであろうか。



岡本孝司―歴史愛好家、在米35年以上、最近ロスの近現代史研究会で“トルコ歴史紀行-アタチュルクを中心にして”“万次郎余話”などと題した講演を行った。