2010年10月9日土曜日

ブログの終息宣言

ブログの終息宣言

読者諸賢
 古枯の木は近く転居します。これを機にコンピュータの使用を止めようと思います。コンピュータの使用を止めたらもうブログも送れないわけです。コンピューターを止める理由は、最近目が悪くなり、その使用が困難になってきたこと、まだ読み残している万巻の書物をゆっくり読みたいこと、趣味である語学の勉強を押し進めたいなどです。
 長い間のご愛読大変ありがとうございました。ではさようなら。

古枯の木―2010年10月9日

2010年10月7日木曜日

鳩山由紀夫を断罪する

鳩山由紀夫を断罪する

 鳩山由紀夫が2009年9月16日総理大臣に就任したとき国民は例によってムダな空騒ぎをした。だが庶民の苦労を知らぬこのバカお殿様は翌年6月8日には政権を投げ出していた。古枯の木は現代社会の特色は国民が権力に対して失望、絶望していることだとあるエッセイに書いたが、鳩山はまさに絶望の象徴だった。
 鳩山は就任早々、政治とカネの問題を追及され窮地に追い込まれた。普天間基地に対する日米合意の見直しでは言う事が二転三転し、その迷走振りはひどいものだった。日米の同盟関係はぎくしゃくし、アメリカは日本に対する不信感を強固なものとした。鳩山はいつも基地問題については腹案があると公言していたが実は何もなかった。無策だった。こんな無責任な言動を弄した総理が今までの日本政治史上いただろうか。
 鳩山の外交理念である友愛外交は諸国民の嘲笑を買った。和を尊ぶことはいいことかも知れぬが、これを国際関係に適用した総理や大統領がかつてこの地球上に存在したであろうか。各国はパワーの冷徹な計算のうえ、必死になって日夜国益を追求している。鳩山は個人的な希求を外交政策に転換しようとした稀代のバカものである。
 二度とこのような人間は総理になってもらいたくない。ただ鳩山は一度だけいいことをした。それは“一度総理をし者は政界に影響力を残すべきではない”と言ったことだ。だがこれもウソか。鳩山はいつまでたっても議員を辞めようとしない。

2009年10月6

日本語と日本食

日本語と日本食

  古枯の木の知り合いでハワイ生まれの日系二世がいる。英語が大変流暢で日本語は全然話さなかったのでてっきり日本語ができないと思っていた。ところが年老いて少々ぼけてきたとき、彼は突然日本語を話し始め、英語はほとんど出なくなった。ある人によると人間は老境に入ると最初に覚えた言葉に戻るという。この日系二世は子供の頃、人種差別のため白人の子供と遊ぶことができす、もっぱら日系人の子供と遊び、最初の言葉として日本語を覚えたそうだ。その日本語に彼は帰ったわけだ。
 古枯の木は外国語とくに英語が若い頃大好きだった。日本語を忘れるぐらい英語の勉強をしようと考えたこともある。最近では英語のテレビを見るのが億劫になり、日本語のテレビを多く見るようになった。やはり最初に覚えた言葉に帰ってきたのか。
 またよく人間は年老いると最初に食べたものに戻るという。古枯の木は若い頃アメリカ食が大好物だった。だた最近はこれを回避するようになり日本食に回帰してきた。友人の一人がアメリカの病院に入院した。食事に出てきたものは大きなハンバーガーだったという。かれはハンバーガーよりもおかゆと梅干を渇望した。最近古枯の木はそばとうるめいわしの丸干しを好んで食べている。
 人間は年老いると故郷に帰りたがるそうだ。古枯の木は日本語と日本食に帰ってしたが同時に日本の故郷を偲ぶ心も強くなってきた。

2010年10月6日。

2010年10月3日日曜日

K博士からの手紙

K博士からの手紙

 古枯の木が最も敬愛する人の一人にK博士がいる。食物のうまみの成分であるイノシン酸を発見した理学博士で現在83歳、千葉県のある大学の教授をしておられる。近年、古枯の木は一橋大学の同素会会報である如水会報にエッセイを寄稿してきたが、そのうちの3篇を博士に送った。すると博士からすぐに次のような返事が帰ってきた。
 第一のエッセイである“アメリカの日系人”について博士は1865年に始まったアメリカ移民に対するアメリカ人の人種差別と寛容の心の錯綜、特に真珠湾攻撃以後の複雑な庶民のエピソード、そしてコロラド州カー知事、ケネディー大統領、カリフォルニア州ディル議員の多分宗教に裏打ちされた毅然たる態度に深い感銘を受けたと。
 第二のエッセイは“ゴールドラッシュとジョン万次郎”。ゴールドフィーバーに浮かれて集まって来たいろいろの民族の人達の働きぶりに各民族の特性がかくも鮮やかに現れていたとは驚愕した。それにしてもロシア人はゼロ、日本人は万次郎ただ一人というのは面白い、万次郎が只者でないことに改めて感服した。
 最後のエッセイは“山本五十六とロサンゼルス”。古枯の木が元帥の作戦に関し“ソロモン群島での消耗戦の繰り返しは余りにも凡庸”と述べるのは余りにも手厳しい。でも考えてみるとあの消耗戦が敗戦の端緒になったのは誰しも認めざるをえないので、元帥は作戦についてはある程度凡庸であったかもしれない。
 この講演会をきっかけに猪瀬よし子と巡り会えたのは素晴らしい奇遇である。よし子さんの伯母さんも、そして山本元帥も、天国でさぞ喜んでおられることだろう。時と処を超えた人と人のつながりの不思議さ、尊さに深く感動した。
 以上が小生のエッセイに寄せられた博士のコメントである。博士はさらに続けて語る。時代が移っても、アラブとイスラエルの争い、さらに最近では日本と中国のギクシャクした関係などに心を痛めている。すべての人々が、いま、ここに共に生きる喜びを称え合う真に平和な世界をしかと見届けてから旅立ちたいと思っているが、間に合わないだろうか。
 博士は大学教授の傍ら自宅に私塾を持っておられる。これは小6から高3までの子供たちに数学の楽しみを教えるためのものだ。大学教授を退官してもこの私塾は続けるという。また78歳の奥さんは英語塾を持っており、奥さんもしばらくこの塾を続けられるそうだ。
 博士は健康で長生きするために自身で五箇条のご誓文を作られた。それは次の通りである。
1. よく食べる
2. よく眠る
3. 排泄に異常なきよう気をつける
4. 全身どこにも疼痛なきよう心がける
5. 日々適量の酒に生きる喜びを味わう
 
 この五箇条のご誓文が維持されるならば年齢なみに健康だと満足することにしているそうだ。なお博士の好奇心はいまも旺盛で昨年はスペインとポルトガルに旅行された。今後とも博士が奥さんと共にますますお元気に、価値ある日々をお送りなさるよう心から祈っている。

古枯の木―2010年10月2日
                                                            
 

2010年9月23日木曜日

暗く陰湿な部屋

暗く陰湿な部屋

 小学校のとき先生に連れられて市役所の見学に行った。すべての部課の部屋は開放的でガラスの窓越しに職員たちがきびきびと働いている様子がよく理解できた。でが一つだけ部屋のカーテンは下ろされ、見るからに陰湿でじめじめしている部屋があり、そこには“兵事課”の看板が掛っていた。先生は兵事課とは日本兵となる人を徴集するための仕事をしている課であると教えてくれた。
 そのころ日本兵は神兵または皇軍の兵士(天皇の兵隊の意味)と呼ばれ、表面的には尊敬されていた。非常に重要な仕事をする課であり、さらにいろいろな機密事項もあるからカーテンが降ろされ、暗くなっているだろうと想像した。さらに神兵を徴募するところだから一種神聖な場所であるとも思った。
 ところがこの見学から帰って新事実を発見するのに時間はかからなかった。兵事課をめぐる大人たちの会話は次のようなものだった。自分の息子を兵役の義務から免除してもらため、いつも兵事課には現ナマが乱舞している、息子を兵器産業における重要なエンジニアーであるとの虚偽の申告書を兵事課で書いてもらえば兵役は免除されなどである。
 二宮金次郎の末裔に二宮尊堂という人がいた。この人は有名人の末裔であるとして兵役を免除されたと直接本人から聞いたことがある。
 徴兵制が復活し、兵事課が再生し、自分の息子が徴兵の適齢期になったとき、一体古枯の木はどんな態度をとるであろうか。

古枯の木―2010年9月22日

陸自の増員に反対

陸自の増員に反対

  防衛省が陸上自衛隊員の定数を15万5千人から16万8千人に引き上げると発表した。なぜいまさら陸自の定員をそんなに引き上げるのか。日本は四面環海の国である。海空軍の増強なら賛成であるが、陸軍を増強するなど時代錯誤も甚だしい。日本が制空権、制海権を失っときもうこの小さな島国を防衛することなどほとんど不可能である。なぜなら日本はあるゆる方向から簡単にアクセスできるからだ。この点から古枯の木は陸軍無用論者である。警察程度の陸軍があればそれで充分である。
 2004年末、政府は陸上自衛隊員を5千人削減すると発表した。これは喜ぶべきことだが、この発表と今回の発表は著しく矛盾撞着する。アメリカは国益の観点から日本本土の防衛は日本に任せたいと考えているのであるいはアメリカから陸軍強化の要求があったかもしれない。
 海軍は空軍の援助なしでは存在しえない。海軍はシーレインの保全も重要な役割であるが、そのためには空軍の援護が必要である。陸軍の近代兵器である戦車はもはや空軍の援護ななしでは活躍しえない。陸軍を増強するような金があるなら、その金で海空軍を増強し、核武装の実現を真剣に検討すべきと思う。

古枯の木―2010年9月21日

2010年9月22日水曜日

沖縄の領有権

沖縄の領有権

 中国のある研究者が日本は沖縄を不法に占拠していると発表した。それによれば沖縄は19世紀末、明治政府が不法に奪い取ったものであるそうだ。尖閣諸島も中国領であり、これについて話し合うなど論外であるとも言っている。いよいよ中国が沖縄に対する領土的野心を露わにしてきたといいうる。また彼は1972年の沖縄返還後、沖縄の独立運動が熾烈となり、今では島民の75%が日本からの独立を望んでいるとまで極論している。
 2010年7月27日のエッセイ“沖縄の帰属問題”で古枯の木はこの点の警鐘を乱打した。中国が日本政府に虐げられた沖縄島民を解放するという名目で沖縄に侵攻してくることもありうる。沖縄島民の中には戦争中の日本陸軍の残虐行為に対する反発がものすごい。日本陸軍は沖縄島民の生命を守るどころか、陸軍の盾にしようとした。いまでも日本を恨む島民の数も多いとのことだ。彼らが一時の感情から中国軍を迎え入れるような行動にでるかもしれない。

古枯の木―2010年9月21日

2010年9月20日月曜日

円高に断固対処せよ

円高に断固対処せよ

  このところ円高傾向ははなはだしく一時82円台まで達した。政府、日銀は最近やっと重い腰をあげ介入に踏みきった。これに対しアメリカ政府筋から介入に対する批判が出た。それについて政府、日銀は周章狼狽を繰り返しているようである。日本では自民党の古賀誠や官僚たちが日本の財政をむちゃくちゃにした。国には膨大な借金があり、国債依存率は世界最高だ。まさに国は危機的財政状況にある。
 こんな国の通貨“円”のバリュウー(価値)が“上がる(円高)”訳がない。これはユダヤ人や中国人の貪欲な投機筋の策謀によるものだ。彼らは日本経済の実態を無視して円高と円安を繰り返し、これによって巨万の富を得ようとしている。このまま放置すれば円高により日本経済は崩壊しかねない。
 日本だけの単独介入ではなくて国際協調的な介入が必要との議論がある。でもこれはドダイ無理な注文だ。各国は輸出増大の観点から自国通貨の円に対するの通貨価値の下落を願っているからだ
 ブームの円高は他のブームと同様いつまでも続かない。一時的なものだ。しかしながら為替の介入に対して外国から抗議を受けたときなぜ“日本は国益の命ずるところによって断固対処する”と伝えないのか。日本政府や日銀の態度には面映いものがある。

古枯の木―2010年9月19日

校長の訓話

校長の訓話

 9月になるとアメリカの学校の新学年が始まる。それにつけても想い出されるのは我が家の子供3人を9月に始めて日本の学校に送ったときのことだ。古枯の木は約10年間アメリカで勤務した後、1976年の夏に帰国した。そして9月には子供たちは日本の学校に入った。彼らは最初の日から授業が始まるものと考えていたが授業はなく始業式があったそうだ。校長が訓話、訓示をたれたが、全く意味不明でありそこにいた子供たちは誰も聞いていなかったという。その夜、食事のときから辛辣な子供たちの日本の教育批判が始まった。式のため一日損したとか、何のために式などをやるのかなどだった。アメリカでは絶対に考えられぬことだとも。さらに子供の頭の中に校長の言ったことの内容は何も残っていないという。
 日本人は学校に限らず式が大好きだ。アメリカでデーラー会議を主催すると出席者の間からいろいろ建設的な意見が出て教えられることが多かった。ところが日本のデーラー会議は優秀デーラーや優秀セールスマンの表彰式が主で、討論のとき出席者は沈黙を守り発言はほとんどなかった。あとは偉い会社幹部の意味のない精神訓話だった。日本社会の後進性、形式主義が教育界はもちろん実業界にまで残っているような気がする。

古枯の木-2010年9月17日

2010年9月15日水曜日

民主党議員と事大主義

民主党議員と事大主義

 10月14日の民主党代表選で菅が721対491ポイントの大差で小沢に勝った。これは当然のことと思う。党員やサポータは押しなべて反小沢だった。ただ民主党議員だけは412対400で僅差だった。ある人はこれを指して、永田町と国民の政治感覚の差であるといっていた。
 よく日本人や他の東洋民族の欠点は事大主義だといわれる。事大主義とは“大に事(つか)えること”を意味する。つまり確固たる信念を持たず、いつも勢力の強大なものに従って自分を守り、なびくことをいう。民主党の国会議員の身近にはいつも小沢がいる。彼らは小沢のご機嫌をとり、もみて、愛想笑い、へつらいで小沢から離れまいとする。この原則が代表選の吟の議員の数字に表れたわけだ。
 今後菅がどれだけ長く首相の地位を保てるかはどこまで脱小沢を貫けるかにある。脱小沢を止めたらたちまち国民の支持を失う。挙党一致などと言っておらずに、アメリカの新政権のように負けた側をすべて政権の座から淘汰するぐらいの決意でやって欲しい。

古枯の木―2010年9月14日

2010年9月12日日曜日

現代の辻政信II

現代の辻政信II

辻政信は太平洋戦争中、大本営の参謀本部にあって幾多の作戦に失敗し、有為の青年を多数殺してきた男だ。失敗するごとにその責任を現地の司令官に押し付けてきた卑劣な男でもある。ときには自殺を強要するためピストルまで贈った。名誉欲と功名心にとりつかれた妖怪人間であったのだ。敗戦後しばらく僧侶に身をやつして東南アジアを廻っていたが、1948年の戦犯解除に伴い日本に帰り、その後2度まで国会議員の選出されたのである。
 なぜ日本国民は彼のような妖怪を選挙で選んだのか。日本人の無責任体質のためか、それとも忘れやすい体質のためか。または辻の宣伝に乗せられたのか。それは分からぬ。でもそのとき古枯の木は日本人の低劣な精神構造、歴史認識の甘さ、それに良識の欠如に大きなショックを受けた。
 2010年9月14日、民主党の代表選が行われる。小沢と菅の一騎打ちだ。小沢は拝金主義の塊であり、国民を欺き続けてきた妖怪人間である。すべての悪を秘書のせいにし私利私欲に埋没し、金権腐敗の政治を行ってきた男だ。辻政信との共通点が非常に多い。小沢を現代の辻政信と呼んで筆者は憚らない。
 もし小沢が代表選で民主党の代表に選ばれたら、日本人の精神構造は辻を選んだ頃にくらべて余り進歩していなと結論付けるであろう。

古枯の木-2010年9月11日

Have A Safe Trip!

Have A Safe Trip!

  東京に住む三男夫妻が仙台に一人住まい祖母を今週末訪ねるとイーメイルで知らせてきた。祖母は少しまえ大きな手術を受け、目的は祖母の見舞いと元気付けである。英語でいってきたのでその返答で最後に多くのアメリカ人が言うように“Have a nice and safe trip!”と結んだ。
 そこで考えた。見舞いに行く旅が楽しいわけがない。よって“nice”という表現は適当でないことを発見した。古枯の木は自分のエッセイ“映画442を見て”の中で映画監督の鈴木氏が映画の開演前に、壇上で挨拶し、最後に”Please enjoy the movie.“と言ったが、この表現が適当でないことが
このを見たアメリカ人から指摘されたことを述べた。これは楽しむには余りに深刻が映画であるからだ。
 古枯の木は最後の言葉を訂正し、Have a safe trip for consolation and encouragement for grand mother!とした。これでよかっただろうか。何かよいサジェスチョンがあったら教えていただきたい。

古枯の木―2010年9月10日

2010年9月10日金曜日

無色透明な日本経済

無色透明な日本経済

 古枯の木は長年国際貿易の第一線にあったが日本経済は無色透明な経済であると思う。無色透明とは特色がないということである。アメリカ経済なら航空機、自動車、IT産業、エンタテインメント産業に特色がある。イギリスの得意分野は自動車、電子機器、航空機、石油であろう。ドイツは自動車、ワイン、フランスは電気機器に料理、ワイン、ファッション。イタリヤはデザイン、スイスは時計。各国みな強い分野を持っている。
 ところが日本にはそのようなものがない。日本は世界中どこにでもあるような商品を改良し、大量生産して単価を引き下げることには優れている。それゆえに古枯の木は日本を生産大国と呼ぶ。だが日本にしかないような商品は皆無であろう。よって経済大国ではない。
 日本商品には他国の商品に比較して早い、小さい、軽いなどの相対的なセールスポイントはある。だが日本商品にしか存在しない絶対的なセールスポイントなどまずない。古枯の木が商売の現場で味わった苦悩は実にこれである。
 願わくば日本人が独創力を磨き、欧米商品の模倣ではなくて真に日本独自の特色ある商品の開発をしてくれるよう祈るや切である。

古枯の木-2010年9月9日

現代社会の特徴ー権力に失望

現代社会の特徴―権力に失望

 無政府主義者でもない限り権力の存在理由は認めるであろう。権力の不存在はこの世に無政府状態をもたらし社会が大混乱に陥るからだ。政治哲学書には次のような言葉がよく出てくる。“いかなる悪政も無政府には勝る”。
 日本国民は自民党のアメリカ追従外交、金権体質、ヤミ献金、医療費抑制、道路族の暗躍やマンネリズムには愛想をつかした。現在最も不人気な職業は政治家であるそうだ。
 では民主党はどうか、鳩山の迷走、小沢の金権腐敗の政治に加え民主党に騙されたという感情が国民の間に強い。無党派層の増大は両政党に失望した者たちに原因がある。国民が権力に失望したというのが現代社会の特徴であると思う。

古枯の木―2010年9月9日

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秀才の落とし穴

秀才の落とし穴

 旧日本帝国の陸海軍は天下の秀才を集めた。陸軍士官学校、海軍兵学校の入学は至難中の至難といわれた。ところが秀才中の秀才である彼らに大きな落とし穴のあることがしばしば発見される。これは彼らの教育が軍事学に限定されたためかまたは彼らが他の学問、科学や円満な常識を拒否したたためかどうかは知らぬ。でも彼らは大ポカをやり、己の力の限界を認識せず無謀極まりない太平洋戦争に突入したのだ。
 海軍は当為大鑑巨砲主義に熱中した。戦艦大和の主砲は口径46センチ、タマは43キロ先まで飛んだといわれる。だが42キロ飛んだとしてどうやって照準するのか。レーダーもない当時としてはそれは不可能だった。だのに飛距離のみを追ったのだ。まことにバカげた話である。
 一方陸軍はどうか。近代戦は武器の質と量によって決せられる。ところが彼らはこの事実を認識せず、高価な武器よりも安い人間に頼った。兵員量のみがキーポイントとしてその数を追い求めた。司馬遼太郎は戦時中、戦車小隊長だったが、大本営参謀の辻政信には戦車の知識はゼロだったという。さらに辻は軍事そのものが分かっていなかったと主張する。いったい辻たちは士官学校で何を学んだのか。
 秀才としてもてはやされた人間も勉強しなければただの人間になる。さらに悪いのは秀才の看板を背負って国を方針を誤らせることだ。

古枯の木-2010年い

2010年9月8日水曜日

汪兆銘と勝沼博士

汪兆銘と勝沼博士

  日中戦争が泥沼化した1940年、中国の国民党内で蒋介石と勢力争いをしていた汪兆銘が重慶を脱出して南京に新政権を樹立し、汪が主席となった。彼のスローガンは親日、反共、和平救国であったため日本政府はこれに接近し国家承認を行った。世界の国の中ではわずかドイツとイタリヤのみが日本に従った。この政権は日本の敗戦まで続くことになる。
 この汪の政権は日本の傀儡政権であったと一般的にはいわれている。だが汪は国益を主張し、日本の軍閥政府をして租界を返還させたり、治外法権を撤廃させたりしている。
 1944年汪は病気のため来日し、名古屋帝国大学の医学部病院で神経外科の斉藤真教授と内科の勝沼精蔵教授の治療を受けることとなった。病気の理由は1935年11月1日、ある大会でカメラマンに扮した男に狙撃され銃弾が3発体内に入り2発は摘出されたが、後の1発が体内に残りこれが骨髄腫を引き起こしたとされている。なおこの狙撃事件は当時国民党内で勢力争いをしていた蒋介石の差し金であったという人もいる。
 古枯の木の父親は長らく腎臓を病み、勝沼博士の治療を受けていた。博士は月に一度名古屋郊外の西尾という町に出張診療に来ており、父は診療の度ごとにその町に出かけていた。あるとき診療後、博士がつぶやくように父に語った。“汪は日本陸軍の要求をさっぱり受け入れぬ。そのため陸軍は汪が死んでもいいと考えている。でも死んだら後継者がいないから問題だ”と。
 汪は1944年11月10日名古屋で客死した。現在、中国本土では彼は売国奴として扱われているそうだ。だが台湾では汪のシンパがずいぶんいると聞く。いずれ汪のことを調査してみたい。

古枯の木―2010年9月8日

汪兆銘と勝沼hかせ

2010年9月7日火曜日

第一次、第二次南京事件

第一次、第二次南京事件

 2010年9月5日ロスのダウンタウンである歴史研究会の会合があり、これに招待された。そこでは南京虐殺事件が討議されていた。この南京事件は第二次南京事件と呼ばれるもので1937年12月13日、日本軍が南京を占領した後、数週間の間にシナ人の捕虜、便衣兵、一般市民を大量虐殺したとされる事件である。中国側の発表では20万、30万人が虐殺されたとされ、中国による日本バッシングの好材料になっている。南京大虐殺記念館も建設され、これ宣伝に努めている。
 これに対し日本国内には反論もあるが、日本政府は日中友好の観点からかあえて反論せず、土下座外交を繰り返し、中国に殴られるままに任せている。
 世間には余り知られていないが、この事件の起こった10年前の1927年3月24日に第一次南京事件が発生している。当時蒋介石の北伐軍と山東省の地方軍閥が南京で矛を交え始めていた。そこで南京の日本領事は居留民全員を領事館に収容した。ところが当日朝7時半に蒋介石の暴兵、シナの暴民が多数領事館に乱入し、正午までの間に略奪と凌辱の限りを尽くした。
 蒋介石は日本領事の抗議に対し陳謝した。現在の日本政府はいつも中国政府に対し南京問題には平身低頭だが、たまにはこの第一次南京事件を例に出して中国政府を殴り返したらどうか。それぐらい見識と勇気のある総理大臣の出現を望みたい。
 第一次南京事件のとき日本領事館には荒木亀男大尉と10名の兵隊が機関銃と小銃で警備についていたが、彼らは愚かにも軍中央の命令を墨守してシナ人に対し一発のタマも発しなかった。荒木は事件後、一人の上官からよく辛抱したと褒められたが、他の上官からは自殺を強要するためのピストルを贈られた。日本軍の上層部のあたまの程度はそれぐらいのものであったわけだ。

古枯の木-2010年9月6日

2010年9月4日土曜日

ノモンハン戦争

ノモンハン戦争

 今日は名著を紹介したい。ノモンハン戦争は1939年5月11日早朝、外蒙古の騎兵隊が越境攻撃し、満軍を駆逐して内部にまで手を伸ばしたことから始まった。外蒙古の後ろにはソ連がおり、日本陸軍は彼らの戦車と重砲により完敗させられた。ソ連はソ満国境を確定し、内蒙古、外蒙古の民族主義運動にとどめを刺し、日本の対ソ侵略の意図を事前に粉砕した。これがノモンハン戦争(またはノモンハン事件とも呼ばれる)の真相である。2,009年岩波書店から刊行された田中克彦著“ノモンハン戦争”はこの戦争を軍事、政治、経済、地理、文化、宗教の多面から客観的にアプローチしている名著である。ただ戦争に関する記述の少ないのが少し残念ではある。田中は一橋大学の名誉教授でロシア語、中国語、蒙古語、ドイツ語に堪能のようである。
 ノモンハン戦争でソ連は政治目的のほとんどすべてを達成し、ソ連の一方的勝利に終わったが、日本にとってそれは何であったか。それは将軍たちにとり火遊びであった。同感である。当時流行した言葉にこんなものがある。”将軍勲章、将校商売、下士官道楽でお国のためは兵ばかりなり“。そうだ。将軍たちにとり目的は国家や国民を守ることではなくて、勲章と出世だけだったのだ。しかも作戦主任の服部卓四郎、作戦参謀の辻政信、大本営の瀬島竜三など責任ある立場にあった人間がもっとも無責任だった。多くの日本兵を殺しながら彼らがノモンハン戦争の失敗を詫びたことなど一度もない。
 田中は日本人の精神構造はノモンハン事件のころから余り進歩していないと心配する。政、財、官の癒着もその一つだ。古賀誠らの自民党議員や官僚が土建業者と結託して無駄な公共工事を多数起こして日本の財政をメチャクチャにしてしまった。日本は現在、世界最高の国債依存率を持ち、危機的な財政状況にある。ギリシャ、イタリヤ、アイルランドなどより遥かに悪い。国民にこれを詫びた政治家、官僚など一人もいない。小沢一郎に代表される民主党の金権腐敗の政治屋たちがばらまき政策によって自民党の徹を踏もうとしている。やはり日本人は未だにノモンハンの時代に生きているのか。同感である。

古枯の木―2010年9月4日

2010年9月3日金曜日

T教授からの手紙

T教授からの手紙

  一橋大学で27年間教鞭をとっていたT教授から定年退職したとの手紙をもらった。国立大学の定年は62歳だから多分彼も62歳だろう。彼は招聘されて一橋に来るまえにハーバード・ビジネス。スクールで教えていた。そのころ一駒の講義を行うのに約10時間の準備をしたそうだ。ときにはストレスのため下痢をしたり激しい胃痛をおこすこともあったらしい。講義で世界の俊秀である生徒に負けることは絶対に許されないためだ。
 その彼が再びハーバードで教壇に立つという。しかもこれから8-10年は勤務を続けるそうだ。すごい馬力に深い敬意を表する。今度はハーバードで“競争力”とか“知識ベースの戦略”について教えるという。ハーバードには有名なマイケル・ポーター教授がおり、彼と共同の研究もあるらしい。
 古枯の木は馬齢を重ねすでに77歳。そろそろ人生の幕引きをやろうかと考えていたがT氏の手紙を見てもう少し頑張らねばならぬとの激励と勇気を与えられた。同時にT氏のハーバードでのご健闘を祈る。

古枯の木―2010年9月2日

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朝日新聞の反米主義

朝日新聞の反米主義

 朝日新聞は戦前、戦中、戦後を通じて反米主義で凝り固まっているといわれる。古枯の木が大学生のころは朝日の全盛期で、多くの学生は朝日に毒されて明日にでも共産革命が日本にも起こると信じていた。朝日はソ連、中国のことならなんでも主体性無く、無条件に礼拝し、対ソ中追従を繰り返していた。朝日はソ連、中国の真実の姿を伝えず、その幼児性と未熟性にはいつも辟易としていた。
 戦争中は聖戦という美名の下に戦争を賛美して世の善男善女を騙し続けた。陸軍や海軍の野望の下に大東亜共栄圏の建設に助力した。朝日もまた他の日本のマスコミ同様アメリカ、イギリスを鬼畜米英と呼んではばからなかった。
 ここで一つ戦前の朝日の反米主義を紹介したい。日本の軍閥政府はドイツと結んでアメリカを牽制しようとした。ドイツの特使スターマーの口車に乗せられた結果、松岡洋介外相が中心となって1940年9月27日午後1時15分ベルリンで日独伊三国同盟を締結してしまった。この三国同盟が日本を英米に反対する陣営に投げ込み、やがて太平洋戦争へと発展していくのである。だがこの同盟が締結されたときの朝日の東京における狂喜ぶりはすさまじい。同じ日、朝日は“いまぞ成れり歴史の誓い”という見出しで“決意を眉中に浮かべて、幾度かバンザイを唱えて誓いの盃をあげる日独伊三国の世界史を創る人々”として満面に喜びをたたえる松岡洋介、オットードイツ大使、インデリルイタリア大使らを紹介している。
 松岡洋介は太平洋戦争を引き起こした者として東条英機や近衛文麿とともに万死に値する。同じ理由で朝日も万死に値すると確信する。

古枯の木―2010年9月2日記す。

2010年9月2日木曜日

無敵艦隊

無敵艦隊

 旧日本海軍の提督で海軍屈指の良識派であった堀悌吉は部下の将兵が無敵艦隊という言葉を使用するのを深くたしなめた。無敵艦隊とは向かうところ敵なしの強力な艦隊である。戦時中の小学校で毎日聞いた言葉である。堀はこの言葉は慢心の表れであるとした。
 やはり海軍の良識派の一人で大局をみるの明があった山本五十六とともに掘は第一次大戦後の日本を次のように定義した。“日本人の意識改革は欧米のそれに比較して100は年遅れている。学問、科学技術の水準は30年も遅れている。そしてわが海軍は10年遅れている”と。
 戦時中、不沈戦艦なる言葉も流行した。日本の戦艦は絶対に撃沈されることはないことを強調したものであろう。五十六は“不沈戦艦などありえない”としてこれを一笑に付した。
 ごく最近まで日本人は日本のことを経済大国と呼んでいた。古枯の木は30年以上も経済、貿易の第一線で働いてきたが日本が経済大国だと思ったことは一度もなかったし今もない。いつもこの言葉には大きな嫌悪を感じてきた。経済大国なる言葉もやはり慢心の表れであろう。

古枯の木-2010年9月2日記す。

日米親善 永遠なれ

日米親善 永遠なれ

  1860年咸臨丸が勝海舟やジョン万次郎などを乗せて太平洋を渡ったが、目的地のサンフランシスコで乗組員3人が病死した。2010年8月29日、乗組員の子孫ら約30人が出席して、日米の平和と親善を願う記念碑の除幕式が行われたそうである。その記念碑は”日米親善 永遠なれ“と刻まれ、揮毫したのは徳川将軍18代目の徳川恒孝とのこと。
 問題は“永遠なれ”の言葉である。いったいこの世の中に永遠なるものがあるだろうか。すべてはテンポラリーではないか。日本人は好んで“久遠の友情”とか“永遠の真理”などという言葉を使用するがそんなものがこの世の中に存在するだろうか。哲学者のベイコンは永遠とは悪なるものなりとまで言っている。従って古枯の木は永遠という言葉の使用にはいつも極めて慎重である。

古枯の木―2010年9月1日記す。

2010年8月30日月曜日

仮想敵国

仮想敵国

 仮想敵国とは現在は交戦状態にないが将来矛(ほこ)を交えるかも知れない国を意味する。だがそれを決めるための基準はない。古枯の木の小学校3年のとき太平洋戦争が始まったが、幼稚園のころから日本の仮想敵国はアメリカだと教えられてきた。ところがアメリカに来て、ある書籍の中で第二次大戦前のアメリカの仮想敵国は日本ではなくてドイツであることを知った。これにはショックを受けた。事実、第二次大戦中アメリカは90%の軍事力をヨーロッパに向けたのに対し日本向けはわずか10%であった。昭和の軍閥は日本が軍事大国だと盲信、過信していたが、アメリカは日本など歯牙にもかけなかったわけだ。
 では現在の日本に仮想敵国はあるだろうか。日本の周りには軍事的に強大なロシア、中国、北朝鮮、韓国などが存在するが日本の軍事力は余りにも脆弱であり、国際社会における発言力は極めて低い。よって日本にとり仮想敵国と呼べるものはないであろう。日本は仮想敵国を作るほど精神的にもタフでない。東洋におけるアメリカの仮想敵国はロシア、中国、北朝鮮といって間違いないと思う。

古枯の木ー2010年8月29日記す。

職業に貴賎あり

職業に貴賎あり

 2010年8月21日芸能関係の暴露記事を書き続けていた梨元勝が死んだ。職業に貴賎なしと一般にいわれるが本当だろうか。古枯の木は暴露記者も暴露記事も好きではない。だれにでもある秘め事を暴くことにどれほどの価値があるだろうか。書く奴も書く奴だがそれを喜んで掲載するマスコミの好奇心や下劣さにも腹がたつ。さらにそれを期待している読者も読者だ。
 暴露記事により当の本人だけでなく、多くの関係者が多かれ少なかれ被害を蒙ることになるであろう。中には命を絶った人や転居を余儀なくされた人もいるだろう。
 古枯の木が生涯で一番赫怒したのは山本五十六のプライバシーが暴露されたときだ。1979年4月18日芸者梅竜こと河合千代子が五十六との恋愛を週間朝日を通じて暴露したのだ。しかも千代子は五十六からの手紙を得意になって朝日に見せた。朗読してもみせた。一枚のラブレターが数十万円で売られたとのうわさもある。千代子は品性下劣で低俗趣味の女だったようだ。しかも恋愛ごっこが好きだったそうだ。それにしてもよく分からぬのはなぜ五十六がのように眼光紙背に徹し見識のある男がかかる下らぬ女に惚れたかということだ。
 東洋の哲学に死者にむち打たずということがある。死んだ梨元にいまさらむちを打つ気は毛頭ないが、一般論として暴露記事を書くことは卑賤な職業だと確信する。

古枯の木―2010年8月29日記す。
 

2010年8月26日木曜日

歴史家と作家の歴史感の違いII

歴史家と作家の歴史観の違いII

 古枯の木はさきに”歴史家と作家の歴史感の違い”なるエッセイをこのブログで発表したが、ある読者から次のようなコメントが寄せられた。それによると歴史家はカメラマン、作家は画家または芸術家だという。
 カメラマンは被写体をそのまま写真に撮る。少しの私意も容れない。ただ撮るときの角度、時刻または撮る巧拙により結果は大きく異なる。たとえ客観的に歴史をみる人でも見方によって歴史が別物に見えるのはこのためである。一方、画家、芸術家は描く人物、事件などのデータは最大限収集するが最後は自分の好むままに脚色してしまう。脚色の仕方いかんによってはよい人物または悪い人物ができあがる。また事件についても同じような結果がでる。
 読者のコメントを要約すると上述のようになると思う。いずれにせよ卓見であり、いままでもやもやして解明できなかったな難問のひとつが解けたような気分になった。

古枯の木-2010年8月25日記す。

2010年8月25日水曜日

総員玉砕せよ

総員玉砕せよ

 NHKテレビのゲゲゲ女房を楽しく見ている。心温まるよいドラマだ。古枯の木は水木しげる記念館のある境港市を訪問したし、安来の足立美術館では素晴らしい陶磁器を見せてもらった。このテレビドラマの中で“総員玉砕せよ”という一つのシーンがあったが、これはエンジョイするには余りにも深刻な場面であった。長男の嫁(32歳)が玉砕とは何かという質問を提起してきた。
 戦時中、古枯の木は小学生だったが、クラスの全員が玉砕の意味を知っていた。この点時代の推移を感じる。先生は時期がきたら天皇陛下のために死ね、死にさえすれば人から褒められる、死ぬときはぶざまな死に方をするなと何度も繰り返していた。玉砕は全員が死ぬことで生存者はいないことを意味する。生きていることは許されないのだ。
 この玉砕は帝国陸軍の専売特許のように思われているがあながちそうでもない。トルコ建国の父アタチュルク(1881-1938)は非常に有能な軍人であり政治家でもあった。軍人として彼は生涯戦争に負けたことはなかった。英仏を敵に回して乾坤一擲の大勝負であったダーダネルス海峡とガリポリ半島の戦闘(1915年2月-12月)では全兵士に対し“余は君たちに戦えとは命令せぬ。死ねと命ずる”と告げた。だがアタチュルクの命令には帝国陸軍の玉砕命令の中にある陰湿さ、凄惨さ、あほらしさ、形式主義は感じられない。これはなぜであろうか。

古枯の木-2010年8月24日記す。

2010年8月24日火曜日

人生の幕引き

人生の幕引き

 東京の大崎に住む大学の先輩から86歳となり、人生の幕引きが近づいたので身辺の整理を始めた。難問は書籍である。ダンボールいっぱいの本を船便で送るから受け取ってくれとのハガキが一カ月ほど前についた。そして今日その本が届いた。
 大変貴重な本もある。有名な母校の教授の社会政策に関する論文集がある。また古枯の木の好みを知ってか戦争関係の本も多い。古枯の木は現在日本再生の会という団体に属しており、10月例会の研究テーマは山本五十六だ。いただいた本の中に井上成美に関するものもあり、これは10月の発表会に大変役に立ちそうである。
 古枯の木には書籍もたくさんあり、いずれこれらの整理が問題となる。さらに頭の痛いのはいままで撮った写真だ。子供たちにこれを引き渡したとき、一番処分に困るそうだ。そろそろ写真の処分も考えねばならない。

古枯の木―2010年8月23日記す。

フランス語かスペイン語か

フランス語かスペイン語か

 カリフォルニアのマンハッタンという町に住む孫の一人から今年秋から外国語の勉強が始まるがフランス語をとるべきかそれともスペイン語をとるべきかとの相談を受けた。カリフォルニアではメキシコ系の住民が多く、生徒の80%はスペイン語を履修するという。また選択肢はこの二つの外国語だけとのこと。
 古枯の木は躊躇なくフランス語と答えた。理由は二つ。一つはスペイン語圏はフランス語圏に比べて民度が高くないこと。欧米に比較して学問、科学技術のレベルの低い日本は依然として欧米からこれらを学ばなければならない。フランスは先生である。二つ目はフランス語の持つ美しい発音だ。2,009年秋、東京のルーマニア大使館を訪問し、広報担当の女性外交官に会ったときルーマニアではソ連の圧政下にあったときでも一番ポピュラーな外国語はフランス語であったと聞いた。古枯の木からではフランス語はルーマニア人にとり何てあったかと尋ねたとき“そは麗しき天使の言葉である”との回答が返ってきた。
 孫ははたしてどちらを選ぶだろうか。古枯の木はこれを機会にフランス語の復習をしたいと思っている。

古枯の木―2010年8月23日記す。

2010年8月23日月曜日

外交の基本姿勢

外交の基本姿勢

 外交の基礎概念はパワーと国益である。ではその基本的態度や姿勢はいかにあるべきか。19世紀初頭の外交家パーマストン(Palmerstone)は“イギリスにとり永久の友はなし、永久の敵もなし、ただあるは永久の利益のみ”(England has no eternal friendships, no enmities, but eternal interest.)と道破した。イギリスはヨーロッパ大陸でいつも最強となる国と対峙してうまく大陸の勢力均衡を維持してその光輝ある孤立を保持してきた。かつてはスペイン、オランダ、フランスそして2度までドイツと矛を交えた。ここにイギリスの持つ狡猾な怜悧さをみることができる。
 アメリカの元国務長官でハーバード大学の教授であったキッシンジャーはその著“Diplomacy”の冒頭で外交とは冷徹なパワーの計算にもとずいて国益を追求することであると述べている。
 パーマーストンの外交の基本姿勢はイギリスのみでなくあらゆる国の外交に適用される大原則であらねばならぬ。味方はいつまでも味方であるわけがないし、反対に敵がいつまでも敵であるわけがない。日本外交には主体性が欠け、淡白でしたたかさも無い。謹厳実直、律儀、友愛力のみでは外交は行えない。早く対米追従外交と対中土下座外交は改めるべきだ。アメリカが日本にとり永久の友であるという保障はどこにもないことを銘記すべきである。

古枯の木-2010年8月23日記す。

2010年8月22日日曜日

半年や一年は暴れてみせる

半年や一年は暴れてみせる

 2010年5月一橋大学の同窓会会報である如水会報に“山本五十六とロサンゼルス”なるエッセイを寄稿したが、これに対しいろいろな反響があった。山本五十六を研究する者として見逃すことのできぬ投書があった。1941年9月12日、五十六は荻窪の近衛文麿の別荘、荻外荘(てきがいそう)で近衛に会い、“やれと言われれば半年、一年は暴れてみせる。だが2年、3年では自信がない”と語ったとされている。
 1936年五十六が海軍次官に就任し、海軍大臣―米内光政、軍務局長―井上成美(しげみ)のいわゆる海軍トリオが誕生し、彼らは共同して三国同盟に強く反対した。作家の阿川弘之はこの時代が帝国海軍の最も輝ける時であったと書いている。その井上成美が五十六のこの言葉を取り上げて五十六の最大汚点の一つであるといっている。2007年に“山本五十六”を発刊した作家の半藤一利も同じような立場だ。
 投書主は古枯の木に対し、五十六の言葉は連合艦隊司令長官としてまことに無責任なものだと書いてきた。だが古枯の木は長い間、   本当に五十六がかかる言辞を呈したかどうか疑問に感じていた。眼光紙背に徹し、将来に対し深い洞察力をもった五十六のことだ。彼は日米の経済力と軍事力の差を知悉していた。さらに日本の科学、技術力の水準の低さも認識していた五十六がかかる言葉を発したかどうか。
 作家の工藤美代子が2004年6月”海燃ゆ“という五十六の伝記を発刊した。工藤はその中でこの言辞は近衛の自演自作だと喝破している。近衛の持っていた小さな手帳以外にこの言辞の情報源はないという。近衛は東条、松岡とともに日本を太平洋戦争に巻き込んだ3大凶悪犯の一人である。無責任、無自覚でその対中国政策はいつも優柔不断だった。趣味といえば旅館や料亭の女中仲居を押入れの中で凌辱することだった。しかもそれを吹聴して廻った。こんな品性下劣の男なら勝手に五十六の言葉を捏造した可能性も充分ありうる。
 工藤の本を読んで古枯の木は溜飲の下がる思いがした。

古枯の木-2010年8月21日記す。

五十六の教えを株に生かす

五十六の教えを株に生かす

 山本五十六は勝負に対して特別のカンを持っていたようである。生涯を通じてギャンブルで負けることはほとんど無かったといわれている。“バクチをしないような男はろくなものではない”と言ったとも伝えられている。古枯の木は以前よくラスベガスにでかけたが、ただ一度のbeginners’ luckを除きいつもloserだった。
 では五十六の勝負に対するルールあったのか。またあったとすれば何であったか。あった。それは20%ルールといい、20%稼いだら止めることだ。五十六はいつも冷静に判断して20%も稼ぐと止めたと伝えられている。
 余談だがこの20%ルールが太平洋戦線の会戦の場に応用されせっかく大勝利を得るチャンスがあったにもかかわらず小成に甘んじてしまったということはなかっただろうか。
 古枯の木は五十六のこの理論を株の売買に応用した。その結果、20%ルールの適用以後は一度も株で損をだしたことはない。もちろん株の売買には他の商売同様、売る、買う、休むのタイミングが重要である。さらにEPS, PERというコンセプトも忘れてはならない。いまのような不確実、激動の時代には20%ルールは大変貴重な教えであると思う。

古枯の木_2010年8月21日記す。

2010年8月20日金曜日

歴史の教訓を無視する者は歴史によって罰せられる

歴史の教訓を無視する者は歴史によって罰せられる

 よく歴史は繰り返すといわれる。英語でも同じ表現がありこれをHistory repeats itself.という。これは人間の性情が古今東西を通じて変わらないものとすれば、同じような原因から同じような結果が生ずるということだろう。
 ここで外交史上有名な二つの事件を紹介したい。1812年6月23日、ナポレオンがロシア遠征を始めた。目的はロシアの征服である。その129年後、こんどはヒットラーがソ連遠征を始めた。1941年6月22日、午前3時15分。ナポレオンより一日早かった。この作戦はバルバロッサ作戦を呼ばれ、動員兵士400万人、タンク3,300台、大砲7千門、飛行機2千機という空前絶後の大規模なものだった。ヒットラーもソ連の制服を目的とした。ソ連を征服し、対英交渉で有利な立場を得ようとしたと一般には信じられている。だがその年の晩秋、レーニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の郊外に到着したドイツへいは皆、夏服を着ていた。両者はともに完膚なきまでに冬将軍に敗れたわけである。この点から歴史は繰り返すと言い得よう。
 ヒットラーは歴史の教訓を無視して対ソ作戦を始めた。この戦争がヒットラーにとり命とりとなり第3帝国建設の夢は雲散霧消した。まさに歴史の教訓を無視したヒットラーは歴史によって罰せられたわけである。

古枯の木―2010年8月19日記す。

2010年8月19日木曜日

太平洋戦争の敗因

太平洋戦争の敗因

 太平洋戦争の敗因については古来いろいろな説がある。ドイツ海軍の副提督で戦前(1933-37)と戦中(1940-45)に東京に駐在したポール・べネカーがいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦の過程を第三者的に冷静に観察していたが、その敗戦の理由を次の3つに分析している。
1. 自信過剰
2. 敵の力の過小評価
3. 余りに長く延びきった補給線
 アメリカ人でも日本敗戦の最大事由を日本人の自信過剰とする人が多い。戦前、戦中の帝国陸海軍には不可思議な自信、過信、うぬぼれ、驕慢、思い上がり、跳ね上がりと膨張主義が充満していた。自信を持つのはいいことであり必要なことでもあるのだがどうも日本民族はすぐに自信を過信に転化してしまう悪い癖を有する。
 古枯の木は1967年1月仕事のため渡米した。その頃、社の内外に太平洋戦争に従軍したアメリカ人が沢山おり、大戦中の日本軍の戦いぶりについて彼らの意見を徴してみた。彼らは異口同音に、日本兵は個人としては極めて勇敢であり劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、戦術と戦略において日本軍には悲しいほどインテリジェンスが欠如していたと語ってくれた。インテリジェンスは元来知性の意味だが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵情判断を意味する。インテリジェンスの欠如が敗戦の理由だったかもしれない。
 山本五十六は大変合理的な頭脳の持ち主であったといわれているが、彼の下にいた12名の参謀な中に暗号や通信の参謀はいても情報の参謀はいなかった。恐らく情報なんかくそ食らえという考えがあったかも知れない。
 ここで古枯の木の考えを開陳したい。第一に日本には戦争の正面が多すぎたことである。古来2正面作戦を避けるべきことは軍事学の鉄則である。にもかかわらず、日本は2正面作戦どころかその力を過信して4正面作戦をとった。それは対アメリカ、対ソ連、対中国そして対南方である。これでは勝てる訳がない。本来、国力はその全力を1点に集中すべきである。いかなる個人でも国家でも4点に全力を集中することはできぬ。第一大戦の前、ドイツのシュリーフェン参謀総長は仏露を相手の2正面作戦計画を練り、10年間もその訓練を重ねてきたが大戦では成功しなかった。日本は4正面作戦のためその敗北の速度を4倍も早めたといいうる。
 第二に日本軍は己の力を過信して攻勢終末点を超えて戦線を拡大したことに敗北の大きな原因がある。攻勢終末点とは、経済力、軍事力またはロジスッティク(兵站補給)の面から考慮してこの点を超えて戦線を拡大してはならないという点を意味する。攻勢の限界である。これも軍事学の鉄則である。日本は緒戦の植民地軍に対する勝利に酔い、戦えば英米に勝つものとなめてかかり、攻勢終末点を越えて進撃したためその敗北を早めた。
 第三に戦争には必ず作戦間隔というものがある。一つの作戦と次の作戦の間に間隔を保つことである。これも軍事学の鉄則であるが、日本軍は己を過信して大変せっかちな作戦を展開した。ミッドウエイで戦死した山口多門少将は作戦の延期を何度も依頼したが、山本五十六はこれを許さなかった。
 戦争の敗因は客観的にしかも冷静に分析されねばならない。この結果はわれわれのあるゆる社会生活の面にも応用できるのではないか。

古枯の木―2010年8月15日記す。

2010年8月14日土曜日

敗戦の日に思う

敗戦の日に思う

 今年も8月15日が近づいてきた。1945年の敗戦の日に古枯の木は旧制中学の一年生として工場で飛行機の部品を作っていた。昼前、先生が天皇陛下の重大放送があるので正午に事務所前の広場に集まるよう指示した。熱い夏の日だった。天皇の放送は雑音のためほとんど聞き取れなかったが、放送直後、工場長が日本はポツダム宣言を受諾し、戦争に負けたと解説してくれた。だれも無表情で声をださなかった。
 8月15日が近づくと各所で戦争の惨害を訴える催しが行われる。だが肝心なことは戦争の惨害を知る理性の力のみでは決して世界の平和は得られないということである。

古枯の木-2010年8月14日記す。

映画442を見て

映画442を見て

 2010年7月31日ロス近郊のサンペドロで上映された映画442を見た。これは第二次大戦中、アメリカで編成された日系兵士の欧州戦線での活躍を描いたものである。この映画とは別に当時の日系人の社会的地位について述べたい。日系人は戦前、戦中、アメリカ社会で厳しい差別待遇を受けていた。たとえば、あるとき白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントを持って出かけたところ、その母親からプレゼントを持ってすぐ帰れと追い返された。母親は“ここはお前ら汚らしいオリエンタルの来るところではない。今後とも絶対に来るな”と付け加えたそうである。プールに行くと水が黄色になるからといって断られた。ダンスホールには入場できなかったし、映画館やボーリング場では日系人の座れる場所には“Japs and dogs only”の張り紙が出されていた。戦争終結直後、シカゴに住んでいた日系人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアップのためカリフォルニアのロングビーチまで車ででかけたが途中彼にベッドを提供するモテルは皆無だった。
 アメリカ人は日系人に対し過酷であったがアメリカ人の寛容さを示す話が無きにしもあらずである。1941年12月7日の真珠湾攻撃の翌日、日系人の子供たちは皆びくびくしながら登校した。いつも日系人をいじめる白人の番長に殴られるものと全員が覚悟した。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、日本政府は憎んで余りあるがこれら日系人の子供に罪はないから彼らに対して絶対に手出しをしてはならないと宣言してくれた。多分番長の親が番長にそのように告げたのだろう。
 442部隊は1943年に編成され、5,000人以上がこれに入隊し、イタリヤとフランスでドイツ軍と戦い大きな功績をあげた。ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍の死傷率は平均5.8%だったが、日系兵士のそれは28.5%にも達した。700人が戦死した。日系兵士のモットーは“Go for broke"(当たって砕けろ)だったが、彼らはアメリカ市民として米国への忠誠心を示すためには身を挺して戦う他なかったと思われる。”当たって砕けろ“は実に彼らのやるえない気持ちを表していたものと思われる。
 フランス戦線ではアメリカ軍が2度まで救出に失敗したテキサスの141部隊を442部隊が救出に成功した。救出された141部隊は全部で211名だったが、442部隊の死傷者は800名にも達した。戦後テキサス人はこれを感謝して442部隊の全員に名誉テキサス市民の称号を贈った。だがすべてに移ろぎ易いのは人の心である。テキサスに“Jap Lane“とか”Jap Road“と呼ばれる道路が建設された。これに対し、最近日系社会がら猛烈な講義が寄せられたが、テキサス人はこれを黙殺し改めようとしない。
 映画442は日系人の置かれた差別的地位をインタビューを交えながら克明に描いている。口の重い元日系兵士に語らせるのは非常に骨の折れる仕事であったと思う。ローマ開放のときその尖兵を努めた442部隊にはローマ入城が許されず迂回して他の戦線に向かわされたことなど知らなかった事実も多い。だが対独戦争とは何であったか、なぜ日系人はこの戦争に参加したのか、また彼らがいかに戦ったについてもう少し理論的。系統的な説明があればなおよかったと思う。
 この映画の監督であった鈴木氏が映画の開演前に、壇上で挨拶し、最後に”Please enjoy the movie.“と言った。この映画を見たある白人の男性が古枯の木に最近手紙を寄せた。これによればこれは記念すべき(memorable)映画ではあるが、あまりにも深刻で楽しむことなどとてもできぬと言ってきた。これは鈴木氏と共通の知人を通じて鈴木氏に伝えられた。
 日系人に対する差別や442部隊の活躍についての詳細は拙著“日本敗れたり”(オーク出版サービス 2003年)の第8章 “日系人の苦悩”を参照されたい。

古枯の木-2010年8月13日記す。

2010年7月31日土曜日

沖縄の帰属問題

沖縄の帰属問題

 古枯の木の学生時代、沖縄から留学生として来ていたK氏がいた。大変頭のいい人で刑事訴訟法を勉強して後にO大学の教授になった。当時の沖縄はアメリカ軍の占領下にあったが、あるとき彼が驚くべきことを告白した。沖縄人の多くは沖縄が中国に帰属しようが日本に帰属しようがどちらでも構わないということだった。これは晴天の霹靂でありまったくたまげた。
 日本人のほぼ全員は沖縄は当然日本の領土の一部と考えているようだが、沖縄人の間では反日感情は当時けっこう強かったというのだ。沖縄は薩摩藩に租税を収めていたが、同時に中国には朝貢して中国を宗主国と看做す人が多かった。明治政府の沖縄蔑視の態度、太平洋戦争末期の沖縄戦のときの日本陸軍の卑劣な行動(沖縄島民を日本兵防護のための盾とした)からして日本によからぬ感情が強かったという。とくにこの悪感情は敗戦の日が近づくと強くなったと聞いた・
 現在の沖縄島民の対日感情は知らぬ。だがここで注意しなければならないことがある。戦争の口実はいつの時代でも戦争を行わんとする国に都合のよいように作られてきた。ある日、中国が沖縄島民の解放のためと称して沖縄に侵略を始めるかもしれない。すると沖縄島民の一部の者たちが中国軍を解放軍として迎え入れる可能性なきにしもあらずである。

古枯の木―2010年7月28日記す。

2010年7月27日火曜日

無用の長物

無用の長物

 戦時中密かに世界の三大無用の長物は、エジプトのピラミッド、中国の万里の長城、それに日本海軍の戦艦大和であるといわれた。さいきんテレビなどで”おもてなし”の文化などが騒がれている。だが日本的なおもてなしなど必要だろうか。古枯の木はこれは無用の長物だと考えている。
 アメリカでは他社を訪問したとき秘書は必ず客に対してさきにコーヒーをだしてくれる。レストランに入ればウエイトレスは必ず女性の方から注文をとる。子供を同伴すれば必ずハイチェアーが必要かと訊いてくれる。これくらいのことは教育をうけずとも全員が当然自然に行うわけだ。アメリカにも社員教育はあるが、こんな社員教育はしたことはないしされたこともない。
 ところが日本ではどうか。障子一本を開け閉めすのに跪いて行わねばならぬ。お茶一杯出すのにもいろいろ面倒な所作が必要だ。日本のこのような行儀作法は古枯の木には無用の長物である。ときには慇懃無礼に思われるし、余りにも非生産的である。日本の一流会社の幹部の中には行儀作法こそが社員教育の一番重要な部分であると考えている時代遅れの輩が多数いる。おもてなしの文化は絶対に西欧世界で根ずくことはない。
古枯の木-2010年7月26日記す。

2010年7月24日土曜日

一枚舌から四枚舌へ

一枚舌から四枚舌へ

  伊藤忠元会長の丹羽宇一郎が新中国大使に任命された。彼は商社人であり、外交の知識が無いため、外務省の親中派公使3人が彼に従って中国に赴任するそうである。“親中派”に問題がある。このことを台湾出身の陳さんに話したとき、陳さんは“親中派は極めて危険である。せめて知中派の公使を派遣すべきだ“と教えてくれた。
 陳さんによれば日本人は正直、実直、律儀で、相手を簡単に信用しやすく一枚舌の持ち主だそうだ。欧米人は2枚舌をもっている。自分にとって不利だと判断するとすぐに手のひらを返す。これは歴史が実証している。アラブ人は三枚舌の持ち主で、うそをついてでも、他人を陥れても自分に有利なようにことを運ぼうとする。このアラブ人よりもっとたちの悪いのが陳さんによれば4枚舌の中国人である。
 陳さんは丹羽宇一郎が中国政府によって丸め込まれてしまうことを憂慮している。がそれよりも前に親中派の日本公使によって丹羽が完全にコントロールされてしまうことを最も心配している。この心配が杞憂に終わるよう祈っている。

古枯の木―2010年7月23日記す。

野球に思う

野球に思う

 最近10年ぶりにアナハイムのエンゼルス球場を訪問した。1967年1月に渡米してから最初の数年間はよくボールゲーム(アメリカでは野球の試合をボールゲームと呼ぶ)を見にドジャーズ球場に行った。その頃日本人選手が大リーグでプレイするなどは夢のまた夢だったが今日では多くの日本人選手がアメリカで活躍している。これを日本人として大変誇りに感じる。見に行った試合はエンゼルス対マリナーズの試合でエンゼルスには松井秀樹が、マリナーズにはイチローが所属していることは周知の通りである。では松井やイチローたちはいったい日米の野球の差をどのように考えているだろうか。
 アメリカ人と日本人の間には野球に対して大きな考え方の違いがある。アメリカ人は野球はスポーツの一種であり、他のスポーツ例えばフットボール、テニス、バスケットボールなどと同等の位置に置く。ところが日本人はスポーツの中で野球が万能、すべてであると考えている。野球にあらずんばスポーツにあらずという風土さえある。高校時代、野球部員には特別の配慮が学校当局からなされた。また甲子園の高校野球のラジオ放送ではアナウンサーは野球選手を神仏のごとく扱いあらん限りの美辞麗句を彼らに奉呈した。これに対する反感からか古枯の木は日本の野球特に高校野球は大嫌いだった。
 だがアメリカに来てアメリカの野球が大好きになった。日本の球場とは比較にならぬぐらいの清潔な球場、広告無しの外野のフェンス、金網のフェンス無しでまじかに見られる選手、職業意識に徹した選手の態度、それに無邪気に観戦する観衆の喜び。
 アメリカ人はよくアメリカで一番人気のあるスポーツはアメリカン・フットボールと野球だという。そうだろう。古枯の木からではアメリカ人はこれら二つのスポーツに特権的な地位を与えているかと訊くといつも答えは“ノー”だった。スポーツはすべて平等に扱われているという。
 日本でま最近サッカーが人気のあるスポーツになり、ある面では野球の地位を脅かしていると聞く。これは非常に喜ばしいことであり、野球の牙城を脅かすかもしれない。日本では野球以外にもっといろいろなスポーツが行われることを願っている。

古枯の木―2010年7月16日記す。

2010年7月14日水曜日

民主党の大敗に思う

民主党の大敗に思う

 2010年7月11日の参院選で民主党が改選議席を44に減らす大敗を喫した。マスコミはこぞって菅首相が掲げた消費税率の引き上げがその敗因だったと騒いでいる。だがそうだろうか。日本の財政は公共事業を無計画に推進した古賀誠を初めとする自民党議員と役人によりめちゃくちゃにされてしまった。彼らは公共事業を票田のために利用したのだ。日本は現在、世界最高の国債依存率であり、財政は危機的状況にあり、破綻したギリシャの状態よりもひどいとされている。このような状況下、菅首相が言ったことは当然のことであり、その必要性は自民党、民主党、マスコミ、国民も皆知ってたはずである。むかし、“金持ちは米を食え、貧乏人は麦を食え”と言ってマスコミの一斉攻撃を受けた総理がいたが、彼も当然のことを言ったにすぎぬ。
 では民主党の敗因はなんであったか。民主党はその政権公約の中で、できもせぬことを明日にでも実現できるかのごとく説いて世の善男漸女を欺いてきたのだ。ここに至って彼らは騙されたことを知覚し、昨年9月の衆院選で300席も与えたのは大きな誤りであることを発見した。民主党政権成立後10カ月めである。今回の民主党の敗北は彼らのリベンジとも言いうる。鳩山元首相の極めて幼稚な発言、普天間基地をめぐる彼の迷走、暴走、逆走、政治主導を叫びながらその完全な腰砕け。小沢は国民新党の亀井に押されての天下り人事を容認し郵政改革法案の提出をした。小沢、鳩山による政治資金の不明朗さなどが国民を民主党から乖離させたのだ。
 小沢は今回の選挙は菅の消費税で敗れたとして菅の責任を追求し、引きおろしを画策している。枝野幹事長にも責任論が及んでいる。だが本当に悪いのは鳩山、小沢と彼らを取り巻く小沢イノセント・チルドレン(無能な子供たち)である。

古枯の木―2010年7月13日記

2010年7月10日土曜日

豊富の哲学

豊富の哲学

 戦後、左翼の学者が“貧困の哲学”なる言葉を流行させた。これはなぜわれわれがいつまでも貧しいかという対資本主義の戦術理論であり、彼らはその立論の根拠を私有財産制と労働搾取に置いた。
 古枯の木は貧困の哲学なる言葉があるなら“豊富の哲学”なる言葉が存在しても当然ではないかと考えていた。これは豊かさゆえに惨害や悲劇を蒙ることであり、歴史上幾多の例があると思われる。
 その一例がルーマニアのトランシルベニアであろう。去年の春訪問したトランシルベニアはトランシルベニア・アルプスとカラペチアン山脈に囲まれた大きな高原地帯である。美しい大自然があり、中世の自治都市の面影が残り、要塞化された教会は異民族の侵攻の激しさを伝えている。果てしなく続く黒い森があり、今にもドラキュラが出てきそうな気味悪ささえもある。この地域をルマニア人はルーマニア民族の揺籃の地(the cradle of the Romanian people)といっている。
 トランシルベニアは7世紀からロシアが南下政策の通過地点として虎視眈々狙っていた。11世紀ハンガリー王国の一部となったが、1528年オスマントルコに征服され以後400年間トルコの支配下にあった。トルコは伝統的にこの地をトルコの領土の一部と考えるようになった。18世紀にその領主はハプスブルグ家のオーストリーに変わり、その支配は第一次大戦の終了する1918年まで続いた。オーストリーはドナウ河を自国の生命線ととして重視していた。第二次大戦後はソ連の圧政に長らくしんぎんすることを余儀なくされた。
 トランシルベニアはヨーロッパ最大の天然資源の宝庫といわれ、ヨーロッパ列強の垂涎の的だった。紀元前にこの地でゴールドラッシュが起こり、ヨーロッパ最大の金鉱脈が今でもそこに眠っているとされている。1941年6月22日ヒットラーがバルバロッサ作戦を発動してソ連を攻撃したが、この攻撃の直接の目的はルーマニアのプロイエスティ(Ploiesti)の油田を確保することにあった。この油田は第二次大戦中、しばしば連合軍の爆撃を受け、1944年8月には独ソ間の熾烈な戦場となり、最後はドイツ軍が一木一草も残らぬぐらい徹底的に破壊して敗走した。
 トランシルベニアはまた肥沃な大地に恵まれている。最近、中国がここで農地を買い漁っていると聞いた。ルーマニア人は中国の土地買収をある程度やもう得ないとしながらも、アフリカで中国が示したようにただ農民から収奪するだけで農民になんらの恩恵を与えない中国の土地買収を極度に恐れているそうである。果たしてトランシルベニアの新領主は中国であろうか。また豊富の哲学の哲理は今も生き続けているだろうか。

古枯の木――2010年7月8日記す

2010年7月7日水曜日

歴史家と作家の歴史観の違い

歴史家と作家の歴史観の違い

 歴史家と作家または文士と呼ばれる者の歴史観は異なるように思われる。学問とはそもそもrealityの追求であり、学問としての歴史は歴史的事実の調査、追及である。ところが作家はある人物または事件を抽象化し、美化し、不都合な部分を故意に削除してしまう。ときには意図的に事実を歪曲し、脚色を施す。これにたいし歴史家はつねに冷静にしかも公平、公正に対処しようとする。
 一例を挙げよう。最近、工藤美代子の“われ巣鴨に出頭せず”という近衛文麿の伝記を読んだ。工藤はその中で近衛を“悲劇の宰相”とか“高貴な血の流れ”とか述べて誉めそやしている。ところが歴史家によれば(もちろん左翼の歴史家は除くが)近衛は東条、松岡とともに日本を無謀な戦争に駆り立てた3悪人の一人である。近衛は生涯3度の大きな政治的ミステイクを犯した。
最初は第一次近衛内閣の1938年1月に発した“爾後蒋介石政権を相手にせず”の声明である。一旦国家承認をした相手を一方的に取り消すのは大きな国際法違反であり、さらにこれは蒋介石政権との外交交渉の窓口を自ら閉ざしてしまうものだった。近衛には定見なく、余りにも軽率な行為だった。第二回目は第二次近衛内閣のときの1940年9月27日ドイツのスターマー特使の口車に乗せられて三国同盟に署名したことである。この同盟が英米を敵に回し、大破局導く端緒となったのは明々白々である。
  三回目は第三次近衛内閣のときに提唱した太平洋会議の失敗である。1941年8月、近衛はルーズベルトにたいし太平洋のどこかで会議を開きたいと申し入れたがにべも無く拒否された。その理由は二つある。一つはル大統領が近衛の人物に信を置かなかったことだ。近衛には悪い性癖があり、しばしば旅館や料亭の女中や仲居を無理やり押入れに連れ込んで乱暴する癖があった。しかもバカな彼は事後にそれを友人、知人に吹聴して廻ったのである。ル大統領は品性下劣な近衛の行動を全部知っていたのでその人間性を信用しなかった。次の拒否の理由はル大統領は日華事変処理のときの近衛の優柔不断さからして近衛の政治手腕に一切信を置かなかったことである。
 他の例を挙げよう。山本五十六についての伝記は数多く出版されている。そのほとんどが五十六を賞賛し、美化したものだ。作家はこれにより出版部数を増やし、収入につなげようとしているかもしれない。一方、五十六を徹底的にけなしている本もある。太陽が西に沈むのも五十六が悪いからだとの理論である。彼らは五十六をけなすことによって本の部数を増やす魂胆があるかもしれない。作家の歴史観を100%そのまま受け入れることは主体性なく極めて危険だといわざるをえない。

古枯の木―2010年7月6日記す。
 

2010年7月5日月曜日

淡白な日本外交

淡白な日本外交

 日本外交の一特色は粘りが無く淡白で駆け引きに劣ることである。それは謹厳実直で律儀な職人国家の外交といえるかもしれない。幼稚さも目立つ。特に戦後は対アメリカ屈従外交で全く自立性と主体性に欠ける。
 一例を挙げよう。日米地位協定は非常に不平等な条約である。基地の管理、利用は一方的にアメリカ軍に任せられている。NATOの下の英仏の基地は米軍との共同管理、共同利用である。少なくとも日本はNATO並みのレベルにまで引き揚げるよう米側に働きかけるべきであった。
 ところが1978年当時の防衛庁長官であった金丸信は“思いやり予算”と称して米軍基地で働く日本人の労務費、光熱費、福利費など62億円を一方的に日本側の負担としてしまった。この負担は義務でもなんでもなかった。それがいまでは2,200億円にまで膨張している。将来これが膨大な金額になるおそれもある。
 金丸は少なくとも思いやり予算を見せびらせながら日米地位協定の改定に努力すべきであった。要求されていなくても譲歩するーこれはアングロサクソンの外交では考えられぬことだ。それとも思いやり予算で恩を売っておけば他日別のことで米軍が譲歩するとでも考えたのか。だがアメリカ人には報恩の思想なんて全くない。これはこれ、あれはあれなんだ。思いやり予算はアメリカ人の気質、性情を全く知らぬ者のばかげた一人相撲であったといわざるをえない。また日本の政治屋の知的レベルはこんなものか。

古枯の木―2010年7月5日記す。

2010年7月4日日曜日

小子化対策に反対する

少子化対策に反対する

 このところ自民党も民主党も小子化を食い止めようと必死である。なぜそんなことをするのか。戦時中、日本政府は愚かにも生めよ増やせよの国策を採った。“結婚はお国のため”などというスローガンもあった。1939年5月に発生したノモンハン事件ではソ連の戦車、重砲に敗退しながらこれにたいする反省は皆無だった。軍事力の強化を高価な武器よりも安い人間に頼った。しかもその数のみを追い求めた。
 20世紀後半、ルーマニアにチャウシェスクという大統領(1965-89)がいた。彼は1971年6月、中国と北朝鮮を訪問し、大群衆の大歓迎を受けた。彼はそのとき愚かにも“国民の数が国力の源泉なり”との誤信を抱いてしまった。帰国すると妊娠中絶を非合法化し、コンドームの販売を禁止した。夫婦は子供3人以上を生むことを法律で強制し、5人生めば各種のベネフィットが与えられ、10人生めばヒーローであらゆる公営の交通機関が無料になった。その結果、ルーマニアはいまでも莫大な数の孤児の問題に悩まされている。
 日本では自民党と官僚たちが日本の財政をむちゃくちゃにした。民主党がばらまき政策でその軌跡を追っている。現在の日本は世界最高の国債依存率であり、日本はまさに危機的財政状況にある。政府は人口増加策によりこれから生まれてくる子供たちにそのつけを回そうとしている。これは余りにも時間がかかりすぎ、また余りにも姑息な手段といわざるをえない。
 日本と大体国土面積が同じのノルエーの人口が470万。これにたいし日本の人口は1億2千万。なぜ人口をこのうえ増加させなければならないのか。日本の人口は6千万でも充分ではないだろうか。

古枯の木―2010年7月2日

2010年7月3日土曜日

外交とは

外交とは

 元国務長官のHenry A. Kissinger はその著“Diplomacy”の冒頭で外交の定義をしている。それによれば外交とは“冷徹なパワーの計算に基づいて国益を追求すること”となっている。古枯の木はその著“アメリカ意外史”の中でアメリカ外交の特色を次のように書いている。
1. ときに外交の天才性を発揮する。
2. 類まれな膨張主義者である。
3. 国益のためには何でもする国である。
 一方19世紀初頭のイギリスの外交家Palmerstonはイギリス外交の原則を"イギリスにとって永久の敵はなし、永久の友もなし、あるは永久の利益のみ“と述べている。これはイギリスのみならずあらゆる国の外交に適用される大原則である。
 外交の基礎概念はやはりパワーと国益であろう。だが現実に日本外交はしたたかさに欠け、いつも淡白で、狡猾な怜悧さなど微塵も感じられないように思える。謹厳時直な職人気質の国の外交が日本外交ではないか。さらに敗戦後は米国屈従の態度から自主性を痛く欠くようになった。
 だが一番ひどいのは鳩山元総理の“友愛外交”だ。こんな幼稚なことを言った外交家や政治家は古今洋の東西と問わず一人もいない。鳩山は日本外交に“幼稚”という刻印を押してしまった。

古枯の木―2010年7月1日記す。

2010年6月30日水曜日

三つの墓参

三つの墓参

 2010年4月15日から5月13日まで訪日したが、この間に三つの墓に詣でた。第一回目は4月24日の午後、新潟県長岡市の禅寺の長興寺にある山本五十六の墓。4月18日が彼の命日であるためか墓にはフレッシュな花がそえられていた。古枯の木は霊感が強い方ではないが、このときは対米戦争に反対しながら、その戦争に巻き込まれていった彼の無念さがひしひしと感じられた。
 第二回目は愛知県新城市長篠にある長篠古戦場。JR飯田線の三河東郷駅から歩いて北に20分ぐらいのところにある。訪問日は4月28日夕方。ここは1576年6月29日、武田勝頼の騎馬軍団が織田・徳川連合軍の鉄砲隊に完膚なきまでに打ちのめされたところである。近くを流れる連吾川に沿って作られた馬防柵は大変印象的だった。多分武田軍のものと思われる無名戦士の小さな石造の墓が暗い森の中に無数にあった。そのうちの数個の墓に詣でたが、無能な総大将にたいする彼らの恨みが強く伝わってきた。
 第三回目は5月1日午後2時ごろ。94歳で亡くなった義母の納骨の日。快晴。天寿を全うしたわけだから、坊主を含めて全員が陽気だった。いろいろなジョークも飛び出た。去年5月に訪問したルーマニアには“陽気な墓地”というものがあり、墓碑銘にはずいぶん楽しいことが書かれていると聞いた。ルーマニア人は葬式が遊びのきっかけになると信じているとも伝えられた。

古枯の木―2010年6月29日記す

講演会を終えて

講演会を終えて
ルーマニア外交の一考察

 2010年6月24日午後7時から9時半まで当地のTorrance Plaza Hotel で“ルーマニアーその悲劇の歴史と現在および将来の展望”と題した講演を行った。今回はルーマニアの歴史的背景を古枯の木が、現在の問題点と将来の展望を中井美鈴さんが担当した。中井さんは敬虔なクリスチャンであるとともに古枯の木のキリスト教の先生でもある。
歴史上、ベルギーは“ヨーロッパの闘鶏場(Cockpit)”といわれる。これは英、独、仏の3強国がいつも虎視眈々ベルギーを狙っていたからである。これにたいしルーマニアは“ドナウ河口のベルギー”と呼ばれている。因みにルーマニアは古来、ローマ、ポーランド、蒙古、オスマントルコ、ハンガリー、ロシアなどと支配者が次々に変わった。近代では露、墺、土の3大民族の争奪の場であった。現代ではソ連、ドイツの相克の場となった。
 次々に異民族の支配を受け、さらに内部紛争、軋轢のため、民族国家の形成に時間がかかり過ぎ、オスマントルコから独立したのはやっと1878年のベルリン会議のときだった。一旦国家が形成されると他国の干渉が強かったため、かえって民族的感情は大変強固なものとなった。1967年モントリオール・オリンピックの金メダリストであるNadia Comaneciは、“私はスポーツが大好きだ。でもスポーツよりもっと好きなものがある。それはルーマニアだ”といっている。
 ルーマニア人のフランスにたいする思いは大変深い。首都のブカレストは“バルカンの小パリー”と呼ばれている。ナポレオンはルーマニアの独立に理解を示したし、フランス語はいまでも最も人気のある外国語で“麗しき天使の言葉”といわれている。“祖国への愛とフランスへの情”こそがルーマニア人の民族感情であろう。
 第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて、ルーマニアは常に親西欧の自主外交を展開した。第一次大戦ではオーストリー・ハンガリー帝国(1916年8月27日)と独墺帝国(1918年11月18日)に宣戦布告をしたが、英仏にたいしては中立を守った。戦後のベルサイユ会議では領土を2倍に膨張させることができた。
 第二次大戦では日独伊3国同盟の準メンバーでありながら対独協調には大きなリミットを設定した。勇敢な軍政家であり有能な首相であったIon Antonescu(Ion  はロシア語のイワン、英語のジョーン)はユダヤ人のポーランド送りを敢然と拒否し、ドイツ軍の命令の多くを部下に伝えなかった。英独戦に参加せず、対ソ限定作戦をヒットラーに要求し,た。ルーマニア固有の領土であったべサラビアを回復するとそれ以上には対ソ戦を拡大したくなかったが、ヒットラーの恐喝によりオデサやスターリングラードへの進軍を余儀なくされた。1943年の夏から極秘に対英講和条約を模索し始めている。
 1944年8月赤軍が迫ると反枢軸クーデターを起こし、24日対独宣戦布告を発した。予断ながら31日赤軍がブカレストを占領したが、ルーマニア人が酒に酔ったソ連兵から最初に聞いたロシア語は“ダバイ”だった。これは英語の“Give me”で、かれらはダバイ、ダバイと叫びながら酒、食料、女、腕時計、貴金属のすべてを略奪していった。ついでながら日本軍が1941年12月8日真珠湾を攻撃したとき、ルーマニアはアメリカにたいして同情を示したが、日本には大いなる不快感を表した。
 日本外交は敗戦後一貫して親米外交である。これは一面結構なことである。だが親米一辺倒の淡白な外交ではなくルーマニアのように少しは狡猾な怜悧さをもった“親米の自主外交”に転換せぬかと祈るや切である。

古枯の木―2010年6月28日記す。

講演会を終えて

2010年6月20日日曜日

よしこさんのその後

よしこさんのその後

 “山本五十六とロサンゼルス”の中で紹介した猪瀬よしこさんは今も健在。今秋102歳になられるが、自宅に茶室を持ち、着物を着て茶道を教えておられる。長寿を秘訣を尋ねたところ、いつも何かに熱中することだと言っておられた。
 如水会報の5月号に掲載された古枯の木のエッセイのコピーを差し上げたところ大変感激され、一家の宝物にしたいと言われた。よしこさんが五十六に会ったのは1928年だがそのことに触れたとき、“まさか15年後に元帥が南冥の果てに散華されるとは夢想だにしなかった”と言っておいおい泣いておられた。
 2010年4月24日、古枯の木は長岡市の長興寺にある五十六の墓に詣でた。4月18日が五十六の命日であるためか新しい花が供えられていた。五十六の隣の墓がよしこさんの実家の渋谷家のものである。このほうににも敬意を表した。

 古枯の木

よしこさんのそのごご

如水会報への寄稿について

皆さん

 古枯の木は母校の同窓会会報である如水会報の2010年5月号に”山本五十六とロサンゼルス”なるエッセイを寄稿しました。多くの読者からコメントをいただきましたが、そのうちの一部を次に紹介します。

1.五十六を軍政家と用兵家に分けて分析したのは面白い。
2.五十六を連合艦隊司令長官ではなくて海軍大臣か海軍次官にしておけば日米戦争は避けられたかもしれない。
3.帝国陸海軍はまったくぐーたらだったが、五十六だけは違ったという観念を強くした。
4.五十六が航空主兵主義を採用した経緯を知りたい。
5.ソロモン諸島の消耗戦はアメリカにとっても消耗戦であったか。(そうです。アメリカはこの戦いをattrition without intermissionと呼んでいました)
6.五十六の生地の長岡は空襲を受けたか。(はい、1945年8月1日、B29 126機による空襲を受け、町の80%が灰燼に帰しました。でも駅前にあった連合軍の捕虜収容場は無傷。さらに同年7月には長岡市の郊外に模擬原爆が投下され多くの村人が即死しました)

 古枯の木

講演会のご案内

講演会のお知らせ

 コンピュータの不調のため、長らくブログを休みました。やっと修復されたので、これから沢山ブログを送りたいと思います。
 さて先にお知らせしたように、6月24日午後7時から9時までTorrance Plaza Hotel で“ルーマニアーその悲劇の歴史と現在、将来の展望”と題した講演を行います。今回は中井美鈴さんと二人でやりますが、古枯の木が主にルーマニアの歴史的背景を、中井さんが現在および将来の問題点について説明します。古枯の木は昨春初めてルーマニアを訪問しましたが、中井さんはいままでに数回かの地を訪問しています。彼女は大変敬虔ななクリスチャンです。
 古枯の木はこの講演の中で、外交とは何か、歴史家と作家の歴史観の違い、歴史は本当に繰り返すかなどについても自説を展開します。
 どうか興味と時間のある方は是非おいでください。ただし参加費として$9.00が必要です。

古枯の木

2010年3月21日日曜日

ルーマニアー悲劇の歴史と将来の展望

ルーマニアー悲劇の歴史と将来の展望

 みなさん、古枯の木は2010年6月24日、Torrance Plaza Hotelで標記演題の講演と行うことになりました。時間は午後7時から9時までです。今回は、ルーマニアの社会問題に詳しく、今までにルーマニアを数回訪問したことのある中井美鈴さんと共同で行います。中井さんは共産主義時代にルーマニアで虐待された多くの人々を救い、時々ルーマニアの識者を招聘してロスで講演会も開催しています。
 時間と興味のある方は是非ご出席ください。
古枯の木

2010年2月21日日曜日

見つからなければ罪ではない

見つからなければ罪ではない

 資金管理団体の土地購入を廻る政治資金規正法違反に関連して不起訴となった小沢一郎が“検察の捜査に勝るものはない”といって不起訴が身の潔白を証明するものであるかのように語っている。これは見つからなければ罪ではないというのと同じである。このような狡猾で自らを律する自律心のなさがやがて卑劣で汚辱にまみれた拝金主義、物質主義に導くのである。すべての悪を秘書のせいにして私利私欲のため金権腐敗の不正行為を平然と行う小沢一郎の態度は許し難い。
古枯の木

2010年2月17日水曜日

山本五十六とロサンゼルス

 現在、日本とロスに間を行き来しているが、最近、ロスの近現代史研究会で”山本五十六の実像に迫る”と題して講演を行った。五十六の人気は今でも高く、定員50名対して100人以上の参加申し込みがあった。席は無くても構わぬといって通路であくらをかく人も数人いたし、如水会のメンバーも一名参加してくれた。
 五十六が現れる前の帝国海軍の対米戦略思想は日本近海に待ち伏せして迎え撃つという守勢的、消極的な邀撃漸減(ようげきぜんげん)作戦と遠距離先制攻撃である大鑑巨砲主義であった。それに対して五十六は空母を中心とする航空主兵主義を採用し、短期、積極作戦を導入した。軍人でありながら高度な政治判断を要求される軍政家としての五十六の真髄がここにあり、彼には大局を見るの明があった。ただ現場で作戦の指揮をとる用兵家としてはソロモン諸島の消耗戦を繰り返すなど少し凡庸ではなかったかというのが筆者の講演の概要であった。
 この講演会に先立ち、地元の新聞や雑誌が会の予告記事を出してくれた。これを見て100歳の猪瀬よしこさんが羅府新報という地元紙に手紙を寄せた。この新聞社は彼女の父親が1903年に創設したもので、今でも週に4回新聞が発行れている。彼女の父親は長岡市の出身で、彼女の伯母さんと五十六は長岡の表町小学校で同級生だった。五十六は非常に聡明でいつもクラスで一番、伯母さんは二番だった。伯母さんは長岡の師範学校を卒業した後、結婚、渡米し1920年ごろからロスダウンタウンのボイルハイツ地区のシカゴ通りに住み洋裁を教えていた。よしこさんはこの伯母を頼って1926年渡米、伯母の家に寄宿しながらルーズベルト高校に通っていた。
 五十六はワシントン駐在の終了した1928年ロスに立ち寄った。目的は二つ、一つは小学校の同級生でロス郊外で百姓をしていた新保徳太郎を激励するため、もう一つはよしこさんの伯母に会うためだった。これが五十六とロスのただ一つの接点である。
伯母の家には新保徳太郎が車で連れて来た。よしこさんは今でも五十六に会ったときの情景を鮮明に覚えているそうだ。五十六は精神的に大変若々しく、物事を的確に洞察するような澄んだ眼を持っていた。よしこさんは五十六の中に偉大なリーダーシップを感じたが、この人なら日本を守り、無謀極まりない対米戦争を避けてくれるだろうと確信したという。現実を直視し、付和雷同せず、自主的判断を下す五十六の態度に深い感銘を覚えたらしい。五十六はこの後、サンフランシスコ経由、帰国した。
 筆者の講演が終了したとき、羅府新報の女性記者がよしこさんの手紙を朗読したが、これが出席者全員に大きな感銘を与え、中には後で筆者にこの手紙について電話してくる人やイーメイルを打ってくる人もいた。
 よしこさんは現在101歳、筆者の家から車で5分ぐらいのところに住み、五十六に関するいろいろ貴重な情報を提供してくれる。五十六に会ったことに大きな誇りを感じている。彼女の頭脳は極めて明晰で、40数人の孫とひ孫に囲まれて幸福な日々を送っている。五十六に対する敬愛の念は極めて強く、こちらが五十六、五十六と呼んでいるのに、彼女はいつも襟を正して、”元帥””元帥”と呼ぶ。よしこさんの実家の墓が長岡市の長興寺にあり隣が五十六の墓だそうだ。よしこさんは年のため訪日はかなわぬので、今度筆者が日本へ行くときはぜひ両方の墓に参って欲しいといっている。今年春には長岡を再再度訪問の予定で両者の墓に詣でるつもりでいる。

古枯の木

富が国を滅ぼす

富が国を滅ぼす

 新渡戸稲造(1862-1933)はその著“武士道”でローマ帝国衰亡の原因が富にあったと教えている。帝国の初期の段階では富と権力は完全に分離されていたが、やがて貴族が商業に従事することが許され、その結果、富と権力が一部の貴族に独占されされるに至った。これが帝国崩壊の大きな原因の一つである。
 わが国では封建主義の時代、武士は一貫して金銭は卑賤なものとしてこれを遠ざけてきた。明治維新の初期のころ、役人たちが金銭による悪徳から開放されていたのはかかる武士道哲学による。ところが現代ではどうか。小沢一郎などの守銭奴が権力を壟断し、金権腐敗の政治がはびこっている。このような状態では、日本は中国、北朝鮮、韓国などによって攻撃されるまえに衰亡、自滅してしまうかもしれない。
古枯の木

2010年2月9日火曜日

金権腐敗の政治よサラバ

金権腐敗の政治よサラバ

 石川知浩よ、君はついに起訴された。裁判では小沢の悪行をすべて暴露し、小沢の金権腐敗に政治にさよならをせよ。さもなくば君は小沢によって刺客を送られるか毒を盛られるぞ。小沢は君の口を封じたいからだ。
 小沢と運命共同体などというつまらぬ考えを捨てよ。いずれ小沢は失脚する。そのとき君までその失脚の波に巻き込まれるだろう。これにより君の政治生命は消えうせる恐れがある。有能で律儀な君のために惜しむ。早く闇将軍の束縛、桎梏から逃れよ。
古枯の木

2010年2月7日日曜日

”ゴールドラッシュ物語”について

“ゴールドラッシュ物語”について

 古枯の木は2000年“ゴールドラッシュ物語”なる小著を刊行しました。いろいろな反応が読者諸氏から寄せられましたので、以下にその一部を簡潔にご報告したいと思います。
1. ゴールドラッシュの“ラッシュ”が20数年で終わったのは驚きである。
2. 鉱夫の多くは金持ちになれなかったが、その理由がよく理解できた。
3. 日本では10年ぐらい前、ベンチャーキャピタルといって騒いでいたがゴールドラッシュのときにこれがすでに存在したとは大きな驚きである。
4. 佐渡の金山とカリフォルニアゴールドラッシュの違いがよく分かった。
5. 貪欲なロシア人がなぜゴールドラッシュに参加しなかったのか。
6. 採鉱には各民族の特性が現れていて面白い。たとえばメキシコ人は季節労働者。
7. 以前ロスに住んでいたがゴールドラッシュのことは全然知らなかった。古枯の木の本をもってハイウエイ49号線沿いののゴーストタウンをいつか廻りたい。
8. ジョン万次郎のゴールドラッシュへの参加を本の中に追加すべきである。
9. 鉱夫たちはどんな種類のギャンブルを好んだのか。
 昨年11月17日付けでGoogle Japanにgrimpo さんという人が小著は“いつまでたっても古本で見つからない一冊だ”と苦情を述べています。同じような苦情をたくさん聞いています。また,だいぶ以前にamazonでこの本が“コレクター商品”となり、価格が1300円から3960円にまで高騰したというニュースも見ました。
 原著はすでに絶版になっています。現在改訂版を書いています。これには万次郎を入れ、さらに2-3の面白い話を追加します。どうか乞ご期待。
古枯の木

アメリカ人の適応性

アメリカ人の適応性

 かねてからアメリカ人には非常に早い適応性のあることを知っていた。たとえばわが家の近くにあるパーロスベルデス地区の小学校では4年生のときからコンピューターを教える。一方、日本では小学生にコンピューターなど一切教えず、せいぜい趣味として町のコンピュータークラスに通う程度らしい。
 孫の一人が同じ地区の幼稚園に今年9月から入ることになっている。先週、親たちを集めての説明会があり、そこで驚きべきことが発表された。幼稚園では9月からスペイン語または中国語の科目が課せられるという。スペイン語は距離的にメキシコが近いことから分かるが、なぜ中国語が選ばれたのだろうか。中国がアメリカにとり大きな貿易相手であるためか. そうとすればその適応性の異常の早さには驚く。
 一般的にアメリカ人は外国語に対する関心が低いと考えていたがこれは改める必要があるだろうか。
古枯の木

2010年2月6日土曜日

”日本敗れたり”にたいする講評

“日本敗れたり”にたいする講評

 古枯の木は2003年に“日本敗れたり”という小著を刊行しましたが、さいきんそれにたいする講評を東京のある出版社からもらいましたので批評も加えそのままお知らせします。
 “日本敗れたり”は著者自身の取材を含めた太平洋戦争の検証と、そこから展開される日本人論である。開戦までの経緯は謎に包まれた部分も多いが、本作品では、一部でいわれていた米大統領とごく少数の側近の策略によるという説が、説得力ある考察により組み立てられている。日本側にあっては、太平洋戦争の開始にあたって、海軍は陸軍に比べて理性的だったということを、多くの日本人がそのまま信じている。その中で、本書が海軍の体質、戦争にたいする責任を強調している点は重要だろう。であれば、軍全体が自信過剰であって戦略に欠けていたとはいえ、ひいては日本の国民全体が根拠のない自身過剰に陥っていたといえる。それは戦後の日本、現在の日本をみても、同じことがいえるのではないだろうか。このことを示唆している点に本書の大きな意義がある。
 同盟関係にあったドイツの現実など、国と国との関係はむずかしい。だから情報戦が繰り広げられるのだろうが、この点でも今の日本はアメリカ頼りである。一方でアメリカも、まだ戦争を利用した国家の経済運営を続けている。戦争や対外交渉などにおいて戦略がいかに重要かを再認識させられる。企業活動にこれらを応用することが流行したが、肝心の国家レベルでは今の日本ははたしてどうなのか。本作品は太平洋戦争を中心に述べられているが、後半では、そこから展開した日本人論となっており、それぞれ具体的でなるほどと思わせるとともに、日本人として“危機”を感じる。米国滞在中に、多くの人に意見や体験を聞き、対日感情についても直接その肌で感じ、その真偽を直接会って確かめるなど、著者の意欲はすばらしい。日本人は本作品を読み、さらに明治維新から第二次世界大戦まで、そして戦後史を振り返ってみるべきだろう。
 戦争のことに限らず、“日本人" について考えさせられる意義ある作品である。
批判―独伊との同盟関係、大陸経営について、近衛、松岡、東条その他の政治家を批判するとところ(14ページ、33ページ)は、文体が過激に過ぎると思われる。戦後政策との関連から天皇制について触れられているが、日本人にとってデリケートな問題である。文章表現には充分留意せられたい。
古枯の木

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2010年2月2日火曜日

竹やりでは戦争に勝てぬ

竹やりでは戦争に勝てぬ

 2010年1月31日Cable TV Japanで“竜馬伝 第5回”を見た。1853年ペリーが浦賀にやって来たとき、250年の太平の夢から醒めた武士たちがペリーの軍隊に対抗する目的で急いでやりや刀を購入するシーンがあった。これを見たとき、太平洋戦争末期の一こまが古枯の木の脳裏を鮮明によぎった。
 1944年秋、日本の軍閥政府はアメリカ軍には竹やりでも対抗できるとして各家庭に竹やり作りを勧めた。小生の母は隣の寺に行き、家族9人分の竹をもらってきた。竹やりを作る母の姿をみて、父が“飛行機が中心の現代戦で竹やりでは戦争に勝てぬと新聞に書いてあったから竹やり作りを止めてはどうか”と半ば自暴自棄に母に言っているのを聞いたことがある。
 新聞とは名古屋で発行されていた中部日本新聞、現在の中日珍聞であり、この記事を書いたのは“帝国海軍の最後”などの名著を世に出した軍事評論家の伊藤正徳である。この記事により伊藤は勇敢にも軍閥政府の愚行に警鐘を鳴らしたものだ。それにしてもペリー来航時の日本人の精神構造とやく90年後のそれとは余り進歩していないように思われる。では現在の政官業癒着の無責任体質の精神構造はペリー来航時の精神構造に比較して進歩しているであろうか。
古枯の木

2010年2月1日月曜日

空手の審判のむずかしさ

空手の審判のむずかしさ

 相撲では体が地上に落ちたり、足がたわらを割るのが同時であっても“同体”という判定を行司が下すことは許されていない。行司はどちらかに軍配を上げなければならない。空手の審判にはいろいろ困難な点が多いが、そのうちの一つがやはり“同時”が許されぬことである。審判はいつも戦う両者の有効な突きや蹴りに注意しなければならないが、もし突きや蹴りがまったく同時であっても両者の姿勢、態度、闘争心、気合などを斟酌して勝敗を瞬時に決める必要がある。
 もう一つの困難は両者がもつれたときいつ“止め”の号令をかけるかである。この号令の発信を誤ると一方に思わぬ不利を与えかねないからだ。必要ならそのとき簡にして要を得た注意を与える必要がある。アラブ系の人間とユダヤ系の人間が争うとき彼らはとくに闘争心を鮮烈にするので注意していなければならない。
古枯の木

2010年1月31日日曜日

同盟は運命共同体ではない

同盟は運命共同体ではない

 2010年1月29日の日経新聞に元駐米大使、加藤良三の書いた“米国観にゆがみはないか”との論文が掲載されている。いろいろ示唆に富んだものだが、とくに標記の言葉に古枯の木は深い感銘を受けた。
 1951年9月に締結された最初の安保条約にはアメリカが日本を防衛するための義務は規定されていなかった。当時の日本は同盟無能力者であり、アメリカがその防衛を担保することを忌避したからである。50年前の改定安保でやっと日本防衛の義務が文書化されたが、文書化されてはいても必ずアメリカが日本を防衛するという保障はどこにもない。世界の国はアメリカを含めて国益を最優先に考えるからだ。友愛なる空疎な言葉に重きを置くのは日本だけであろう。もし日本が北朝鮮の攻撃を受けたとき、アメリカが日本を助けることに利益を見出せば防衛するが、国益なしと判断したときはソッポを向くは理の当然である。多くの日本人は同盟関係にある国とは運命共同体にあると考えがちだがこれは大きな間違いだ。
 加藤はさらに続けて語る。同盟の相手国が誰であるかの選択権は日本にあると。フリーハンドは日本にあるのだ。だが次のことを忘れてはならない。日本の防衛費はアメリカと同盟することにより大変安価にすんでいる。たとえば対GNP比で日本の防衛費はわずか0.96%に過ぎない。それに対しアメリカは3.99%、中国はやく4%である。もし鳩山、小沢が同盟国をアメリカから中国に転換すれば中国は日本にたいして防衛費を4%またはそれ以上に引き上げよ、大砲をすべて東に向き変えよと要求してくるであろう。
古枯の木

2010年1月28日木曜日

声なき声に耳を傾けよ

声なき声に耳を傾けよ

 これは50年前の安保改定騒動のとき、当時の総理大臣、岸信介の発した言葉である。その頃、日本中が安保反対の波に覆われていた。岸の孫の安倍晋三(後に総理大臣)はまだ5歳だったが部屋の中を“アンポハンタイ”と叫びながら走り廻っていたという。全学連の学生たちが国会前で警官隊と衝突し、東大生の樺美智子が圧死したが、マスコミは彼女を日本のジャンヌダルクだとして賛美し美化して英雄扱いにした。
 マスコミは安保改定反対を叫び、日本中が反対の波に呑まれでいた。日本人はムードに弱く、全国民が自己陶酔と催眠術に陥り、雪崩を打って訳もわからず付和雷同して安保反対を叫んでいた。でも改定に賛成する学者たちもたくさんいた。彼らは現実を直視し、自主的に安保賛成を唱えていたのである。賛成派の代表は京大の猪木正道であり、早大、明大、大東文化大、国学院大にも賛成の学者はいた。だが問題は彼らにはマスコミからなかなか発言の機会が与えられなかったことである。岸の“声なき声に耳を傾けよ”の言葉はかかる事情のもと発せられたのであろう。
 それにしても安保改定の衝に当った岸と一部の自民党議員の態度は立派だった。彼らは自己の主張を堂々と述べ変節することはなかった。岸は1960年3月19日、ワシントンでアイゼンハワー大統領と一緒に新安保条約に調印し、国会の批准も強気の姿勢で押し通した。
 岸が60年11月20日に退陣する頃から安保反対の波は潮が引くように消えていった。あれほど騒いだ安保反対とは何だったのか。マスコミは安保反対を他人事として省みなかった。古枯の木は日本人の持つ軽薄さ、付和雷同性、移り気な乙女気質に日本人の最大の欠点の一つを見出すのである。
古枯の木

2010年1月26日火曜日

三つ子の魂

三つ子の魂

 よく世間では三つ子の魂百までという。これは持って生まれた性質が年をとっても変わらないことを意味するであろう。性質ではないが年をとっても変わらない慣行が古枯の木には沢山あると思う。今日はそのうちの二つについて説明したい。
 古枯の木の母のいとこで旧陸軍で大変出世した人がいた。家が貧しく小学校を卒業すると名古屋の呉服屋に小僧にだされるところだった。ところが彼の才能を惜しんだ小学校の先生が父親に金のかからぬ幼年学校に進学させるよう勧めた。彼は幼年学校、陸軍士官学区、陸軍大学と順調に進学し、日中戦争、太平洋戦争に従軍し、最後は名古屋師団の師団長を勤めた。このおじさんが少年の頃、父親に小銭がたまると年に2-3回、魚のあらを買いに走ったそうだ。そのあらのうまかったことを生涯忘れることができなかったとよく古枯の木に語ってくれた。わが家では平均して月1回あらを買って食べることにしている。でもなぜあらを買うかの説明は子供たちにはしていないと思う。
 子供の頃の食料事情は戦争のため非常に惨めだった。中学1年生のとき勤労動員で工場で働いていた。工員や兵隊たちの残飯をあさるのでわれわれは残飯学生と呼ばれていた。先生は残飯をあさるなと言ったが聞く者は一人もいなかった。残飯学生はどこにうまいものがあるかをよく知っていた。それは将校食堂の横の残飯の捨て場だった。一般の工員、兵士たちはろくなものを食べていなかったが、将校たちはてんぷら、カツどん、焼き魚、うどんなどを食べていた。それは食堂から発する匂いで分かった。このときあさって食べたえびの尻尾のうまかったことをいまでも覚えている。こんなにうまいものがこの世の中にあるかと思ったぐらいだ。そのためいまでもてんぷらまたはフライにしたえびの尻尾は残さず食べることにしている。孫をレストランに連れて行き、古枯の木がえびの尻尾を食べるとき彼らは不思議そうな眼でみている。孫にその理由を説明することは多分ないだろう。
古枯の木

みつごの 

石川知祐、小沢の刺客に注意しろ!

石川知祐よ、小沢の刺客に注意しろ!

 日本のある新聞は君が証拠隠滅のため自殺する恐れがあると報じている。古枯の木は小沢が君の元へ刺客を送ったり、毒を贈るのではないかと恐れている。注意してくれ。でも絶対それに屈してはならぬ。2006年の国際草の根交流会主催の大会に一緒に出席したね。そのコロラドスプリングズで毎晩のように君は北海道の農民をユダヤ人の毒牙から守らねばならぬと熱く語ってくれた。
 君には遠大な理想がある。早く下らぬ小沢のスキャンダルから足を洗い、君本来の政治活動に邁進してくれたまえ。
古枯の木

2010年1月24日日曜日

現代の辻政信

現代の辻政信

 1月23日午後、東京地検が小沢一郎の任意聴取を行った。予想どうり小沢は裏献金を否定し、政治資金収支報告書の虚偽記載については関与しておらず、秘書が行ったものとして責任逃れをしている。
 妖怪人間の辻政信はノモンハンやガダルカナル島の敗戦の責任を現地司令官に押し付け、ピストルを贈って自殺を強要した。自分は全然責任を感じていない。小沢の精神構造は辻の精神構造と余り変わりないだろう。国民を欺き続けている妖怪人間の小沢を政界から永久追放しようではないか。
 石川知祐よ、古枯の木は君が悪いことのできる人間ではないことをよく知っている。すべてを早く白状してこの問題から手を洗え。さもなくば君の政治生命は妖怪により永久に絶たれることになるぞ。
古枯の木

初段と一段

初段と一段

 古枯の木は42歳から空手を始め、いまでも毎週土曜日午後7時から9時ごろまでトーレンス市の道場で練習をしている。“イチ、二、サン”から始まる号令、型の名前、基本動作の名称などはすべて日本語である。アメリカ人も多く参加しており、よく質問を受けることの一つが初段と一段の違いである。
 彼らの質問はなぜ一段と言わずに初段というのかである。これに対し古枯の木は日本には“初心忘るべからず”という格言があり、初段の“初”はこれからきていると教えている。つまり初段を取得したからといって、怠けることなく精進を続けよという先人の見識から出たものであるというわけだ。間違っているだろうか?
古枯の木

2010年1月22日金曜日

秘密の趣味

秘密の趣味

 古枯の木にはあまり人に知られたくない趣味がある。皆さんもそんなものをお持ちですか。きょうはそれを白状しよう。小生の隠れた趣味は戦前および戦中の軍歌を聞くことである。とくに好きな歌は“麦と兵隊”“加藤隼戦闘隊”“暁に祈る”“予科練の歌”など。家族の者たちのいないときにコンピューターでこれらの歌をこっそり聴き、心で泣いている。古枯の木には戦争を謳歌するような気持ちはまったくない。ただ愚劣極まりない戦争に駆り出された兵士たちの苦労を思ってのことである。
 城山三郎は古枯の木のもっとも好きな作家の一人である。この城山が死の直前,息子の部屋にやって来て軍歌のCDを借りた。何をするのかと注意していたら、城山は自分の部屋に立てこもって大声で泣きながら軍歌を歌っていたと彼の息子が語っている。城山には苦しい一兵卒の時代があった。
古枯の木

さめと砂糖水

さめと砂糖水

 以前このブログで“アメリカの弁護士”と題するエッセイの中で古枯の木はアメリカの弁護士をさめに比較した。さめは極めて貪欲でどんな魚でも食い散らし、その青白い腹部は人間の憎悪と恐怖をかきたてる。アメリカでは悪徳弁護士が多く、さめはよく“海の弁護士”といわれる。地上にはさめ弁護士がたくさん遊弋しているのでいつも注意が必要だと古枯の木は述べた.
 最近、このエッセイを読んだ友人から電話があり、悪徳弁護士のために数千ドルを失ったという。彼は日本のある漁村の出身でそこではさめは海のギャングまたは海の狼といって恐れられているが、さめを簡単に殺す方法があるとのこと。それはさめに砂糖水を飲ませることらしい。砂糖水ぐらいで地上のさめを殺すことはできないかとの話に発展した。
• 古枯の木

2010年1月21日木曜日

陸軍の3人のA級戦犯

陸軍の3人のA級戦犯

 日本の旧陸軍には戦犯と呼ぶべき軍人が多いが、もし極悪の3人を挙げよと言われたら古枯の木は躊躇なく辻政信、服部卓四郎、瀬島竜三を挙げる。これら3人は最も責任ある立場にありながら最も無責任で、戦争責任のかけらもなく、自制力なく、無能であった。軍事よりも政治を好み、戦後国民に詫びたことなど一度もなかった。
 服部と辻は1939年5月11日に勃発したノモンハン事件のときの関東軍の作戦主任と作戦参謀、彼らの目当ては勲章と出世のみ、ソ連の武器の質と量で大敗北を喫したがその反省は全くなく、新知識を否定し、高価な武器よりも38式歩兵銃しか持たぬ安い人間に頼り、しかも数のみを追った。敗戦の責任を前線の指揮官に押し付けピストルを贈って自殺を強要した。
 2人はノモンハンの敗戦後、しばらく閑職にいたが1941年3月末までに無謀、乱暴、横暴とあだ名された東京の陸軍参謀本部に戻っていた。太平洋戦争開戦時、服部は作戦課長、敗戦時は部長、辻は開戦時、参謀本部作戦班長だった。服部は1944年華北から華南に至る無意味な大陸打通作戦を実施して大失敗を犯した。戦後、偽名を使用して復員省に職を得、GHQのウイロビーに取り入って懺悔の記録である“大東亜戦争全史”を書き、GFQから金をもらった。朝鮮戦争のとき警察予備隊が創設され、彼は参謀総長の職を狙っていたが、当時の総理、吉田茂の“バカやロー”の一喝でそれは実現しなかった。それにしても服部のとりうることのうまさと変わり身の早さには驚く。
 辻もいろいろの下手な作戦指導をしたが、最悪のものはガダルカナル作戦である。これは42年8月に始まり、43年2月に終わったが、この戦争で14,550人が戦死し、6,650人が栄養不良で戦病死した。敗戦時、辻はバンコックにいたが僧侶に身をやつして各地を逃げ回った。48年戦犯が解除されるや日本に帰り、衆参議員に当選した。61年出国したがラオスで虎に食われたとのうわさがある。
 瀬島は開戦時、参謀本部参謀、そのあと関東軍参謀などを歴任した。インパール作戦はかれの犯した最大の犯罪である。この作戦は43年3月から始まり6万人の将兵が犬死した。参謀本部のある参謀が瀬島にこの作戦の無謀を説き止めるよう勧めたが、瀬島は“お前に何が分かるか”と言ってはねつけた。フィリッピンではレイテ作戦を強行して大失敗をした。作家の山崎豊子はその著“不毛地帯”で瀬島を極端に美化している。作家はそれでもいいだろうが、歴史家はそうはゆかぬ。ソ連に12年間抑留された後、商社の伊藤忠に入社したが、これは伊藤忠のために戦後賠償の利権を漁るためだった。
 服部、辻、瀬島の3人は参謀本部の中で机を並べていた。功名心、名誉欲の旺盛なことで彼らは共通していた。いつも強行論を述べ、大言壮語し、派手な行動が目立った。ある元軍人はこれら3人は畳の上で死んではいけない人間だとも述べている。このような無責任、無能の参謀たちにコントロールされていた日本陸軍は本当に不運であったとしか言いようがない。

古枯の木

陸軍の3人のA急

陸軍の3人のA級戦犯\\\

2010年1月20日水曜日

安保条約改定50周年

安保条約改定50周年

 今年は安保条約改定50周年だが古枯の木はその頃のことを未だ鮮明に覚えていら。安保改定反対の空気が全日本を覆っていた。政治家、学者、言論人はすべて時流に追随し、一人として毅然と賛成を唱える者はいなかった。東大の学長が同級生である当時の総理岸伸介に“安保のことなんか忘れて、一緒に釣りにでも行こう”と呼びかけたときは全日本の喝采を浴びた。これに反し古枯の木の先生は国際法、国際政治学の泰斗であったがマスコミが持論を発表する機会を与えてくれないとボヤイていた。安保知らずの安保嫌いが街じゅうを堂々と闊歩していたのである。
 最近の鳩山総理や小沢幹事長の言動をみているとどうも外交の基軸を対アメリカから対中国に移しているように思えてならない。国際政治では条約の死文化を意図的に行うことがある。鳩山、小沢は安保条約を死文化して日本の自由と中立を回復し、しかる後に中国に接近するように思えるが、みなさんはどのように考えられますか。
古枯の木

2人の弁護士の死

2人の弁護士の死

 最近、2人の友人弁護士が相次いで鬼籍に入った。一人をA氏、他の一人をB氏としよう。A氏は戦時中、日本の海軍経理学校に学んだ秀才。渡米後Union Bankで働きながら弁護士の資格を取得した。日米の戦史に詳しくいろいろと教えてもらった。山本五十六元帥を大変尊敬し、一度新潟県の長岡にある山本五十六記念館を訪問したいといっていたが、この夢はついに実現しなかった。
 A氏は生前、彼の死んだときには坊主、葬式、戒名、墓、新聞広告などは一切不要と言っていた。死後すべてが彼の要望どうりに進んだ。享年80.最近、日本では葬式を排するこの方式を直葬といい、一つの新しい時代の傾向になっているとのこと。ついでながら普通の葬式には費用が500-600万円もかかるそうだが、直葬なら9.7万円ですむとのこと。古枯の木は直葬を選びたい。
 B氏は日本の学校卒業後、船でロスにやって来た。生まれはもともとハワイ。薬剤師の資格を取得したが薬剤師は医師の指示で薬を調合するだけでなんら自主性がないといってそのあと弁護士を目指して猛勉強。苦節16年後、59歳でやっと弁護士資格を取得した。現在、東京都の知事をしている石原慎太郎とB氏は同級生で、B氏の弁護士試験パスのニュースを聞いたとき、慎太郎が“同級生の中で一番勉強したのはBだ。彼には脱帽する”と言ったそうだ。あの誇り高き慎太郎がB氏に敬意を払ったのだ。
 B氏の葬式はガーデナの仏教会でしめやかに行われた。享年77.彼はいつも人生とはチャレンジと努力だといっていたが、いったい彼はあの世で何にチャレンジしているだろうか。
古枯の木

2010年1月19日火曜日

古枯の木の考える3人のA級戦犯

古枯の木の考える3人のA級戦犯

 日本を戦争の奈落に陥れた3人の男を指名せよといわれたら古枯の木は躊躇なく東条英機、松岡洋介それに近衛文麿を挙げる。東条や松岡にはなんら確固たる政治的見識はなく、政治家に必要な狡猾な怜悧さなどまったく欠如していた。両者に共通にあるものは近視眼的なものの見方と虚栄心、権力欲であった。松岡は自分が世界の大政治家と錯覚したが、所詮一代の煽動政治屋に過ぎなかった。時勢に便乗して世界を驚かせようとしただけだ。東条に至っては知性を欠き剣をぶら下げた一介の武弁でしかなかった。東条の性格を研究し、夫人の勝子さんに何度もインタビューしたあるアメリカの学者は彼を評して“単純で知性が乏しく権力に憧れる男だが日本の政治屋のように悪いことはしなかったであろう”と結んでいる。愚直で中級官吏程度の頭脳の持ち主であったろう。
 近衛については日本人の間に大きな誤解がある。最近、工藤美代子が“われ巣鴨に出頭せず”という題名の小説を出版してから、近衛が平和主義者、対米協調主義者などであるという誤った考えが蔓延しているようだ。この本は近衛の一生を描いた伝記小説であるが近衛を必要以上に美化している。歴史家はあくまで真実を追及しなければならないが、少説家は販売部数を増やすためにあること無いことを面白おかしく書く。阿川弘之の“山本五十六”、広田弘毅を描いた城山三郎の“落日燃ゆ”などは主人公の一面のみを強調し、マイナスの部分の説明を省略している。
 さて近衛の罪状について触れよう。近衛は第一次近衛内閣から第三次近衛内閣まで3度も総理大臣を経験している。第一次近衛内閣は1937年7月7日北京郊外・盧溝橋で軍事衝突が発生して一カ月後に成立したが、近衛は優柔不断で変節甚だしく、その中国政策は二転三転した。38年1月軽率にも“爾後国民政府を相手にせず”との声明を内外に発するという大失態を演じてしまったのだ。そもそもいったん国家承認を与えたものを一方的に撤回するのは重大な国際法違反である。いずれにせよ支那事変を外交的に解決するための道は閉ざされてしまったのである。近衛はさらに38年11月、12月にいわゆる“近衛3原則”発したが日本軍の駐屯を要求するものであったため支那政府の受諾するものとはならなかった。かくしてますます支那事変に深入りして進退両難に陥ってしまった。
40年7月22日第2次近衛内閣が成立し、東条が陸相に、松岡が外相に迎えられた。これら新人の無謀な冒険により、わが国は救うべからざる大破局、深淵に突き落とされていった。当時、日本は米英支ソ連の包囲網の中にあり、ドイツと結んでアメリカを牽制すべしとの意見が陸軍から出てきた。その結果、定見なき近衛と松岡はドイツのスターマー特使の口車に乗せられて、ついに9月27日運命的な3国同盟に調印してしまった。近衛の最大の罪はここにある。
 独伊は確かにヨーロッパの強国であるが、極東では無力の存在であり、彼らと同盟してもなんら実質的援助は期待できなかったのだ。さらに重大なことに3国同盟は日本を米英に反対する枢軸陣営に投げ込んでしまったのである。一朝にしてわが国は米英の敵国になったのである。国が右するか左するかの重大な時期に近衛や松岡ごときが局にあったことはわが国にこの上なき不運であった。日本にはビスマルクのような達見達識の士は一人もいなかったのである。
 近衛は3国同盟は対米英戦のためではなく、反対に米国の参戦を阻止することが目的であったとしてつまらぬ自己弁護をしている。だがすでにそのときアメリカは連合軍側の最高指導者であり、ドイツ打倒を決めていた。このとき3国同盟ぐらいでアメリカを牽制できるわけがない。3国同盟は結局近衛の大きな誤算であった。
 41年7月近衛は南進の歩武を進め南部仏印に進駐した。これに対し米英蘭の諸国は全面的経済断交を通告した。日米交渉中、米の試案に譲歩しようとする近衛とこれを排撃しようとする松岡との間に意見の衝突があり、松岡の退陣を強要するため7月16日近衛内閣は総辞職した。7月18日第3次近衛内閣が成立した。近衛は8月28日ルーズベルトに“太平洋会談”を申し入れたがアメリカ側は近衛の人物と手腕に信頼をおかず、結局これは実現しなかった。
 支那大陸からの撤兵を要求するアメリカに対し近衛は妥協できず、10月16日退陣し、18日いよいよ東条内閣が登場するのである。
 近衛、東条、松岡のような無知無能、無定見、無謀、不条理、傲岸不遜の人間にわが国の運命がもてあそばれた。遠大な政治的見識や政策を持たないこれら佞姦(ねいかん)がわが国の進路を誤ったのだ。わが国を真に悲劇のどん底に陥れ、国民に塗炭の苦しみを与えたこれら3人こそがA級戦犯であり、彼らは万死に値すると古枯の木は考える。
古枯の木

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2010年1月18日月曜日

石川知裕よ、小沢一郎のために新ではならぬ

石川知裕よ、小沢一郎のために死んではならぬ

 日本の新聞は君が自殺するかもっしれないと報じている。もし君が自殺したら口封じができたと言って一番喜ぶのは闇将軍の小沢一郎だ。決して早まってはならぬ。
 早く検察にすべてを白状したまえ。そしてこのようなくだらぬ問題から足を洗ってくれ。君に初めて会ったとき君は北海道と日本の農家のために働く政治家になりたいと言っていた。君は次のことを教えてくれた。頭のよいユダヤ人がたくみに遺伝子を組み替えて非常に優秀な種苗を作ることに成功した。だがこの種苗は一年限りのもので二年めは育たぬように計画的に作られている。そのため農家は毎年高い金を払ってユダヤ人からこの種苗を買わねばならぬ羽目に陥った。金に目のくらんだユダヤ人はこの種苗を一粒いくら、一本いくらと高価で販売している。
 早く小沢一郎の下らぬ問題から開放されて日本の農家を救済するという政治家の仕事を始めてほしい。小沢は君が口を割ると烈火のごとく怒るであろうが、国民はみな君の側についている。
古枯の木

石川

基地はどこへ行く

基地はどこえ行く

 鳩山首相はいつも日米同盟こそが日本外交の基軸だと言っているが、本当にそのように考えているかは疑わしい。揺れる基地問題をみていると彼は外交の中心を中国に向けているように思えてならない。中国経済のめまぐるしい発展によりアジアの星座も勢力関係も大変動を受けている。このような中でわが国はできうる限り中正不偏の立場を維持しなければならないが、同時に一旦ことあるとき終局的勝利をうる公算ある側と親善関係を維持しなければならない。これはビスマルク以来の鉄則である。彼が真に識見達識の士であるならば日米関係を軽視することはないだろう。
 彼はまた常時駐留無き安保を提唱しているがそんなことが現実に可能であろうか。それはちょうど保険料を払わずになにかことが発生したときに保険金を要求するのに等しくドダイ無理である。でもこれこそは中国が日米関係に対して持っている長年の夢である。中国は日米関係に亀裂を生じさせることができればアジアの大国として自由に振舞うことができるからだ。

古枯の木

裏から見たノモンハン事件

裏から見たノモンハン事件

 昨年12月17日トーレンス市でノモンハン事件についての講演を行った。出席者の一人であった宮森某さんからさらに詳しい話を聞きたいとの要請があったので、1月13日ランチを取りながら会談に及んだ。
 うれしいことに宮森さんから“ジューコフ元帥回想録(著者ゲ・カ・ジューコフ、訳者清川勇吉、相場正三久、大沢正、1970年、朝日新聞社発行)”のノモンハン戦争の部分(第7章)をいただいたことだ。ソ連のものはいつの時代でも宣伝臭が強くて直ちに信用することはできないが、ものごとは可能な限り表と裏から見ることが肝要であろう。学問とはreality(真実)の追求だ。左翼学者はドグマに基づき議論するので彼らの主張はいつも非科学的だ。でもヒョットすると彼らの主張の中にも真理があるかもしれない。いただいたこの資料の中で面白かった部分を以下に箇条書きする。
1. ジューコフは1939年5月11日早朝、攻撃を仕掛けてきたのは日本軍であると主張する。日本の左翼学者は大体この説を支持する。さらに彼は日本はソ連と外蒙古に対する侵略の目的を放棄していなかったと説く。
日本では外蒙古の軽騎兵隊がハルハ河を越えて最初に越境攻撃してきたというのが定説になっている。ハイラルに駐屯していた小松原道太郎の23師団は確かに一旦ことあるときソ連のバイカル湖まで進軍することになっていたが、これはあくまでアイデアの段階であり、進軍の具体的目標があったわけではない。
2. 勝利を信じきっていた日本陸軍はイタリヤやドイツの新聞記者や駐在武官を多数招待していた。これは知らなかった。彼らの驕慢ぶりをみよ。
3. 日本軍はソ連軍と異なり戦車師団や自動機械化部隊を持たなかった。その通りである。
4. 夜間の移動には飛行機の爆音、大砲、機関銃の発射音などの偽音を多く利用した。また虚偽情報をたくさん流した。さらに総攻撃の日は日本軍の将校たちがハイラルに帰って休暇を楽しんでいる日曜日の朝とした。ジューコフは頭がいい。
5. 日本軍兵士はバンザイを叫びながら死ぬように運命付けられていた。そうだ。生きて虜囚の辱めを受けずなどとバカなことを教えられていた。
ノモンハンの後、ジューコフはモスクワに帰りスターリンと会見した。スターリンに日本軍の戦いぶりを聞かれたとき、ジューコフは“日本軍兵士の間では規律がよく保たれ、兵士は真剣で頑強だった。彼らに降伏という言葉はなく、最後の一兵までよく戦った、特に接近戦術と防御戦争に強かった。若い指揮官たちはよく訓練され、狂信的な頑張りをみせた。だが古参の下士官、年老いた高級将校は訓練不足で積極性が乏しく、紋切り型の行動しかできなかった。
その通りであろう。彼らの目当ては勲章と出世だけだった。“将軍勲章、将校商売、下士官火遊びでお国のためは兵ばかりなり”という俗謡がこの辺の事情をもっとも端的に表現している。

古枯の木―2010年1月17日記す

2010年1月17日日曜日

石川知裕よ、真実を語れ!

石川知裕よ、真実を語れ!

 このところ連日テレビや新聞を賑わしているのが元小沢一郎秘書の石川知裕である。2006年秋、コロラド州のコロラドスプリングズで国際草の根交流会の大会があり、初めてここで彼に会った。コロラド農業の研究という同じグループに属したため約一週間にわたり彼と親しくする機会を得た。彼は早稲田大学、商学部に学び、しばらく小沢の秘書をした後、衆議院選挙に立候補したが落選したためそのときは浪人中だった。パーティや観光への参加、博物館、農場や種苗工場の訪問などで親しく会話を重ねることができた。ホームステイしたアメリカ人の家がお互いに近くだったし、小生の愚著の一冊を献上する機会もあった。
 彼は日本の政治的将来をいろいろな面から考える憂国の士だった。日本の政治屋特有の傲慢さ、驕慢さなどは微塵もなくド真面目で真摯な好青年だった。ただ政治家に要求される怜悧な利己性やかけひきの能力があったかどうかは知らぬ。彼によれば安全保障と農業とイノベイションこそが国家繁栄の基礎であり、これらを欠く国はいずれ滅びると断言していた。日本の農業は世界に卓越する種苗産業を有するユダヤ人に支配されるおそれがあるとしてその対策を真剣に考えていた。
 石川知裕よ、君は現在逮捕中たが検察の取調べに対して知っていることをすべて正直に話せ。小沢一郎から緘口令がしかれ、いろいろのプレッシャーがかかっていると思うがいずれ悪の権化の小沢も逮捕されるだろう。小沢は多分君に対し“一生面倒をみるから小沢の利益に反するような発現をしてはならぬ”と言っているだろうが、こんな空手形を信じてはならぬ。蛮勇をもって国のため真実を語るよう決断してほしい。

古枯の木―2010年12月15日記す。