2010年1月31日日曜日

同盟は運命共同体ではない

同盟は運命共同体ではない

 2010年1月29日の日経新聞に元駐米大使、加藤良三の書いた“米国観にゆがみはないか”との論文が掲載されている。いろいろ示唆に富んだものだが、とくに標記の言葉に古枯の木は深い感銘を受けた。
 1951年9月に締結された最初の安保条約にはアメリカが日本を防衛するための義務は規定されていなかった。当時の日本は同盟無能力者であり、アメリカがその防衛を担保することを忌避したからである。50年前の改定安保でやっと日本防衛の義務が文書化されたが、文書化されてはいても必ずアメリカが日本を防衛するという保障はどこにもない。世界の国はアメリカを含めて国益を最優先に考えるからだ。友愛なる空疎な言葉に重きを置くのは日本だけであろう。もし日本が北朝鮮の攻撃を受けたとき、アメリカが日本を助けることに利益を見出せば防衛するが、国益なしと判断したときはソッポを向くは理の当然である。多くの日本人は同盟関係にある国とは運命共同体にあると考えがちだがこれは大きな間違いだ。
 加藤はさらに続けて語る。同盟の相手国が誰であるかの選択権は日本にあると。フリーハンドは日本にあるのだ。だが次のことを忘れてはならない。日本の防衛費はアメリカと同盟することにより大変安価にすんでいる。たとえば対GNP比で日本の防衛費はわずか0.96%に過ぎない。それに対しアメリカは3.99%、中国はやく4%である。もし鳩山、小沢が同盟国をアメリカから中国に転換すれば中国は日本にたいして防衛費を4%またはそれ以上に引き上げよ、大砲をすべて東に向き変えよと要求してくるであろう。
古枯の木

2010年1月28日木曜日

声なき声に耳を傾けよ

声なき声に耳を傾けよ

 これは50年前の安保改定騒動のとき、当時の総理大臣、岸信介の発した言葉である。その頃、日本中が安保反対の波に覆われていた。岸の孫の安倍晋三(後に総理大臣)はまだ5歳だったが部屋の中を“アンポハンタイ”と叫びながら走り廻っていたという。全学連の学生たちが国会前で警官隊と衝突し、東大生の樺美智子が圧死したが、マスコミは彼女を日本のジャンヌダルクだとして賛美し美化して英雄扱いにした。
 マスコミは安保改定反対を叫び、日本中が反対の波に呑まれでいた。日本人はムードに弱く、全国民が自己陶酔と催眠術に陥り、雪崩を打って訳もわからず付和雷同して安保反対を叫んでいた。でも改定に賛成する学者たちもたくさんいた。彼らは現実を直視し、自主的に安保賛成を唱えていたのである。賛成派の代表は京大の猪木正道であり、早大、明大、大東文化大、国学院大にも賛成の学者はいた。だが問題は彼らにはマスコミからなかなか発言の機会が与えられなかったことである。岸の“声なき声に耳を傾けよ”の言葉はかかる事情のもと発せられたのであろう。
 それにしても安保改定の衝に当った岸と一部の自民党議員の態度は立派だった。彼らは自己の主張を堂々と述べ変節することはなかった。岸は1960年3月19日、ワシントンでアイゼンハワー大統領と一緒に新安保条約に調印し、国会の批准も強気の姿勢で押し通した。
 岸が60年11月20日に退陣する頃から安保反対の波は潮が引くように消えていった。あれほど騒いだ安保反対とは何だったのか。マスコミは安保反対を他人事として省みなかった。古枯の木は日本人の持つ軽薄さ、付和雷同性、移り気な乙女気質に日本人の最大の欠点の一つを見出すのである。
古枯の木

2010年1月26日火曜日

三つ子の魂

三つ子の魂

 よく世間では三つ子の魂百までという。これは持って生まれた性質が年をとっても変わらないことを意味するであろう。性質ではないが年をとっても変わらない慣行が古枯の木には沢山あると思う。今日はそのうちの二つについて説明したい。
 古枯の木の母のいとこで旧陸軍で大変出世した人がいた。家が貧しく小学校を卒業すると名古屋の呉服屋に小僧にだされるところだった。ところが彼の才能を惜しんだ小学校の先生が父親に金のかからぬ幼年学校に進学させるよう勧めた。彼は幼年学校、陸軍士官学区、陸軍大学と順調に進学し、日中戦争、太平洋戦争に従軍し、最後は名古屋師団の師団長を勤めた。このおじさんが少年の頃、父親に小銭がたまると年に2-3回、魚のあらを買いに走ったそうだ。そのあらのうまかったことを生涯忘れることができなかったとよく古枯の木に語ってくれた。わが家では平均して月1回あらを買って食べることにしている。でもなぜあらを買うかの説明は子供たちにはしていないと思う。
 子供の頃の食料事情は戦争のため非常に惨めだった。中学1年生のとき勤労動員で工場で働いていた。工員や兵隊たちの残飯をあさるのでわれわれは残飯学生と呼ばれていた。先生は残飯をあさるなと言ったが聞く者は一人もいなかった。残飯学生はどこにうまいものがあるかをよく知っていた。それは将校食堂の横の残飯の捨て場だった。一般の工員、兵士たちはろくなものを食べていなかったが、将校たちはてんぷら、カツどん、焼き魚、うどんなどを食べていた。それは食堂から発する匂いで分かった。このときあさって食べたえびの尻尾のうまかったことをいまでも覚えている。こんなにうまいものがこの世の中にあるかと思ったぐらいだ。そのためいまでもてんぷらまたはフライにしたえびの尻尾は残さず食べることにしている。孫をレストランに連れて行き、古枯の木がえびの尻尾を食べるとき彼らは不思議そうな眼でみている。孫にその理由を説明することは多分ないだろう。
古枯の木

みつごの 

石川知祐、小沢の刺客に注意しろ!

石川知祐よ、小沢の刺客に注意しろ!

 日本のある新聞は君が証拠隠滅のため自殺する恐れがあると報じている。古枯の木は小沢が君の元へ刺客を送ったり、毒を贈るのではないかと恐れている。注意してくれ。でも絶対それに屈してはならぬ。2006年の国際草の根交流会主催の大会に一緒に出席したね。そのコロラドスプリングズで毎晩のように君は北海道の農民をユダヤ人の毒牙から守らねばならぬと熱く語ってくれた。
 君には遠大な理想がある。早く下らぬ小沢のスキャンダルから足を洗い、君本来の政治活動に邁進してくれたまえ。
古枯の木

2010年1月24日日曜日

現代の辻政信

現代の辻政信

 1月23日午後、東京地検が小沢一郎の任意聴取を行った。予想どうり小沢は裏献金を否定し、政治資金収支報告書の虚偽記載については関与しておらず、秘書が行ったものとして責任逃れをしている。
 妖怪人間の辻政信はノモンハンやガダルカナル島の敗戦の責任を現地司令官に押し付け、ピストルを贈って自殺を強要した。自分は全然責任を感じていない。小沢の精神構造は辻の精神構造と余り変わりないだろう。国民を欺き続けている妖怪人間の小沢を政界から永久追放しようではないか。
 石川知祐よ、古枯の木は君が悪いことのできる人間ではないことをよく知っている。すべてを早く白状してこの問題から手を洗え。さもなくば君の政治生命は妖怪により永久に絶たれることになるぞ。
古枯の木

初段と一段

初段と一段

 古枯の木は42歳から空手を始め、いまでも毎週土曜日午後7時から9時ごろまでトーレンス市の道場で練習をしている。“イチ、二、サン”から始まる号令、型の名前、基本動作の名称などはすべて日本語である。アメリカ人も多く参加しており、よく質問を受けることの一つが初段と一段の違いである。
 彼らの質問はなぜ一段と言わずに初段というのかである。これに対し古枯の木は日本には“初心忘るべからず”という格言があり、初段の“初”はこれからきていると教えている。つまり初段を取得したからといって、怠けることなく精進を続けよという先人の見識から出たものであるというわけだ。間違っているだろうか?
古枯の木

2010年1月22日金曜日

秘密の趣味

秘密の趣味

 古枯の木にはあまり人に知られたくない趣味がある。皆さんもそんなものをお持ちですか。きょうはそれを白状しよう。小生の隠れた趣味は戦前および戦中の軍歌を聞くことである。とくに好きな歌は“麦と兵隊”“加藤隼戦闘隊”“暁に祈る”“予科練の歌”など。家族の者たちのいないときにコンピューターでこれらの歌をこっそり聴き、心で泣いている。古枯の木には戦争を謳歌するような気持ちはまったくない。ただ愚劣極まりない戦争に駆り出された兵士たちの苦労を思ってのことである。
 城山三郎は古枯の木のもっとも好きな作家の一人である。この城山が死の直前,息子の部屋にやって来て軍歌のCDを借りた。何をするのかと注意していたら、城山は自分の部屋に立てこもって大声で泣きながら軍歌を歌っていたと彼の息子が語っている。城山には苦しい一兵卒の時代があった。
古枯の木

さめと砂糖水

さめと砂糖水

 以前このブログで“アメリカの弁護士”と題するエッセイの中で古枯の木はアメリカの弁護士をさめに比較した。さめは極めて貪欲でどんな魚でも食い散らし、その青白い腹部は人間の憎悪と恐怖をかきたてる。アメリカでは悪徳弁護士が多く、さめはよく“海の弁護士”といわれる。地上にはさめ弁護士がたくさん遊弋しているのでいつも注意が必要だと古枯の木は述べた.
 最近、このエッセイを読んだ友人から電話があり、悪徳弁護士のために数千ドルを失ったという。彼は日本のある漁村の出身でそこではさめは海のギャングまたは海の狼といって恐れられているが、さめを簡単に殺す方法があるとのこと。それはさめに砂糖水を飲ませることらしい。砂糖水ぐらいで地上のさめを殺すことはできないかとの話に発展した。
• 古枯の木

2010年1月21日木曜日

陸軍の3人のA級戦犯

陸軍の3人のA級戦犯

 日本の旧陸軍には戦犯と呼ぶべき軍人が多いが、もし極悪の3人を挙げよと言われたら古枯の木は躊躇なく辻政信、服部卓四郎、瀬島竜三を挙げる。これら3人は最も責任ある立場にありながら最も無責任で、戦争責任のかけらもなく、自制力なく、無能であった。軍事よりも政治を好み、戦後国民に詫びたことなど一度もなかった。
 服部と辻は1939年5月11日に勃発したノモンハン事件のときの関東軍の作戦主任と作戦参謀、彼らの目当ては勲章と出世のみ、ソ連の武器の質と量で大敗北を喫したがその反省は全くなく、新知識を否定し、高価な武器よりも38式歩兵銃しか持たぬ安い人間に頼り、しかも数のみを追った。敗戦の責任を前線の指揮官に押し付けピストルを贈って自殺を強要した。
 2人はノモンハンの敗戦後、しばらく閑職にいたが1941年3月末までに無謀、乱暴、横暴とあだ名された東京の陸軍参謀本部に戻っていた。太平洋戦争開戦時、服部は作戦課長、敗戦時は部長、辻は開戦時、参謀本部作戦班長だった。服部は1944年華北から華南に至る無意味な大陸打通作戦を実施して大失敗を犯した。戦後、偽名を使用して復員省に職を得、GHQのウイロビーに取り入って懺悔の記録である“大東亜戦争全史”を書き、GFQから金をもらった。朝鮮戦争のとき警察予備隊が創設され、彼は参謀総長の職を狙っていたが、当時の総理、吉田茂の“バカやロー”の一喝でそれは実現しなかった。それにしても服部のとりうることのうまさと変わり身の早さには驚く。
 辻もいろいろの下手な作戦指導をしたが、最悪のものはガダルカナル作戦である。これは42年8月に始まり、43年2月に終わったが、この戦争で14,550人が戦死し、6,650人が栄養不良で戦病死した。敗戦時、辻はバンコックにいたが僧侶に身をやつして各地を逃げ回った。48年戦犯が解除されるや日本に帰り、衆参議員に当選した。61年出国したがラオスで虎に食われたとのうわさがある。
 瀬島は開戦時、参謀本部参謀、そのあと関東軍参謀などを歴任した。インパール作戦はかれの犯した最大の犯罪である。この作戦は43年3月から始まり6万人の将兵が犬死した。参謀本部のある参謀が瀬島にこの作戦の無謀を説き止めるよう勧めたが、瀬島は“お前に何が分かるか”と言ってはねつけた。フィリッピンではレイテ作戦を強行して大失敗をした。作家の山崎豊子はその著“不毛地帯”で瀬島を極端に美化している。作家はそれでもいいだろうが、歴史家はそうはゆかぬ。ソ連に12年間抑留された後、商社の伊藤忠に入社したが、これは伊藤忠のために戦後賠償の利権を漁るためだった。
 服部、辻、瀬島の3人は参謀本部の中で机を並べていた。功名心、名誉欲の旺盛なことで彼らは共通していた。いつも強行論を述べ、大言壮語し、派手な行動が目立った。ある元軍人はこれら3人は畳の上で死んではいけない人間だとも述べている。このような無責任、無能の参謀たちにコントロールされていた日本陸軍は本当に不運であったとしか言いようがない。

古枯の木

陸軍の3人のA急

陸軍の3人のA級戦犯\\\

2010年1月20日水曜日

安保条約改定50周年

安保条約改定50周年

 今年は安保条約改定50周年だが古枯の木はその頃のことを未だ鮮明に覚えていら。安保改定反対の空気が全日本を覆っていた。政治家、学者、言論人はすべて時流に追随し、一人として毅然と賛成を唱える者はいなかった。東大の学長が同級生である当時の総理岸伸介に“安保のことなんか忘れて、一緒に釣りにでも行こう”と呼びかけたときは全日本の喝采を浴びた。これに反し古枯の木の先生は国際法、国際政治学の泰斗であったがマスコミが持論を発表する機会を与えてくれないとボヤイていた。安保知らずの安保嫌いが街じゅうを堂々と闊歩していたのである。
 最近の鳩山総理や小沢幹事長の言動をみているとどうも外交の基軸を対アメリカから対中国に移しているように思えてならない。国際政治では条約の死文化を意図的に行うことがある。鳩山、小沢は安保条約を死文化して日本の自由と中立を回復し、しかる後に中国に接近するように思えるが、みなさんはどのように考えられますか。
古枯の木

2人の弁護士の死

2人の弁護士の死

 最近、2人の友人弁護士が相次いで鬼籍に入った。一人をA氏、他の一人をB氏としよう。A氏は戦時中、日本の海軍経理学校に学んだ秀才。渡米後Union Bankで働きながら弁護士の資格を取得した。日米の戦史に詳しくいろいろと教えてもらった。山本五十六元帥を大変尊敬し、一度新潟県の長岡にある山本五十六記念館を訪問したいといっていたが、この夢はついに実現しなかった。
 A氏は生前、彼の死んだときには坊主、葬式、戒名、墓、新聞広告などは一切不要と言っていた。死後すべてが彼の要望どうりに進んだ。享年80.最近、日本では葬式を排するこの方式を直葬といい、一つの新しい時代の傾向になっているとのこと。ついでながら普通の葬式には費用が500-600万円もかかるそうだが、直葬なら9.7万円ですむとのこと。古枯の木は直葬を選びたい。
 B氏は日本の学校卒業後、船でロスにやって来た。生まれはもともとハワイ。薬剤師の資格を取得したが薬剤師は医師の指示で薬を調合するだけでなんら自主性がないといってそのあと弁護士を目指して猛勉強。苦節16年後、59歳でやっと弁護士資格を取得した。現在、東京都の知事をしている石原慎太郎とB氏は同級生で、B氏の弁護士試験パスのニュースを聞いたとき、慎太郎が“同級生の中で一番勉強したのはBだ。彼には脱帽する”と言ったそうだ。あの誇り高き慎太郎がB氏に敬意を払ったのだ。
 B氏の葬式はガーデナの仏教会でしめやかに行われた。享年77.彼はいつも人生とはチャレンジと努力だといっていたが、いったい彼はあの世で何にチャレンジしているだろうか。
古枯の木

2010年1月19日火曜日

古枯の木の考える3人のA級戦犯

古枯の木の考える3人のA級戦犯

 日本を戦争の奈落に陥れた3人の男を指名せよといわれたら古枯の木は躊躇なく東条英機、松岡洋介それに近衛文麿を挙げる。東条や松岡にはなんら確固たる政治的見識はなく、政治家に必要な狡猾な怜悧さなどまったく欠如していた。両者に共通にあるものは近視眼的なものの見方と虚栄心、権力欲であった。松岡は自分が世界の大政治家と錯覚したが、所詮一代の煽動政治屋に過ぎなかった。時勢に便乗して世界を驚かせようとしただけだ。東条に至っては知性を欠き剣をぶら下げた一介の武弁でしかなかった。東条の性格を研究し、夫人の勝子さんに何度もインタビューしたあるアメリカの学者は彼を評して“単純で知性が乏しく権力に憧れる男だが日本の政治屋のように悪いことはしなかったであろう”と結んでいる。愚直で中級官吏程度の頭脳の持ち主であったろう。
 近衛については日本人の間に大きな誤解がある。最近、工藤美代子が“われ巣鴨に出頭せず”という題名の小説を出版してから、近衛が平和主義者、対米協調主義者などであるという誤った考えが蔓延しているようだ。この本は近衛の一生を描いた伝記小説であるが近衛を必要以上に美化している。歴史家はあくまで真実を追及しなければならないが、少説家は販売部数を増やすためにあること無いことを面白おかしく書く。阿川弘之の“山本五十六”、広田弘毅を描いた城山三郎の“落日燃ゆ”などは主人公の一面のみを強調し、マイナスの部分の説明を省略している。
 さて近衛の罪状について触れよう。近衛は第一次近衛内閣から第三次近衛内閣まで3度も総理大臣を経験している。第一次近衛内閣は1937年7月7日北京郊外・盧溝橋で軍事衝突が発生して一カ月後に成立したが、近衛は優柔不断で変節甚だしく、その中国政策は二転三転した。38年1月軽率にも“爾後国民政府を相手にせず”との声明を内外に発するという大失態を演じてしまったのだ。そもそもいったん国家承認を与えたものを一方的に撤回するのは重大な国際法違反である。いずれにせよ支那事変を外交的に解決するための道は閉ざされてしまったのである。近衛はさらに38年11月、12月にいわゆる“近衛3原則”発したが日本軍の駐屯を要求するものであったため支那政府の受諾するものとはならなかった。かくしてますます支那事変に深入りして進退両難に陥ってしまった。
40年7月22日第2次近衛内閣が成立し、東条が陸相に、松岡が外相に迎えられた。これら新人の無謀な冒険により、わが国は救うべからざる大破局、深淵に突き落とされていった。当時、日本は米英支ソ連の包囲網の中にあり、ドイツと結んでアメリカを牽制すべしとの意見が陸軍から出てきた。その結果、定見なき近衛と松岡はドイツのスターマー特使の口車に乗せられて、ついに9月27日運命的な3国同盟に調印してしまった。近衛の最大の罪はここにある。
 独伊は確かにヨーロッパの強国であるが、極東では無力の存在であり、彼らと同盟してもなんら実質的援助は期待できなかったのだ。さらに重大なことに3国同盟は日本を米英に反対する枢軸陣営に投げ込んでしまったのである。一朝にしてわが国は米英の敵国になったのである。国が右するか左するかの重大な時期に近衛や松岡ごときが局にあったことはわが国にこの上なき不運であった。日本にはビスマルクのような達見達識の士は一人もいなかったのである。
 近衛は3国同盟は対米英戦のためではなく、反対に米国の参戦を阻止することが目的であったとしてつまらぬ自己弁護をしている。だがすでにそのときアメリカは連合軍側の最高指導者であり、ドイツ打倒を決めていた。このとき3国同盟ぐらいでアメリカを牽制できるわけがない。3国同盟は結局近衛の大きな誤算であった。
 41年7月近衛は南進の歩武を進め南部仏印に進駐した。これに対し米英蘭の諸国は全面的経済断交を通告した。日米交渉中、米の試案に譲歩しようとする近衛とこれを排撃しようとする松岡との間に意見の衝突があり、松岡の退陣を強要するため7月16日近衛内閣は総辞職した。7月18日第3次近衛内閣が成立した。近衛は8月28日ルーズベルトに“太平洋会談”を申し入れたがアメリカ側は近衛の人物と手腕に信頼をおかず、結局これは実現しなかった。
 支那大陸からの撤兵を要求するアメリカに対し近衛は妥協できず、10月16日退陣し、18日いよいよ東条内閣が登場するのである。
 近衛、東条、松岡のような無知無能、無定見、無謀、不条理、傲岸不遜の人間にわが国の運命がもてあそばれた。遠大な政治的見識や政策を持たないこれら佞姦(ねいかん)がわが国の進路を誤ったのだ。わが国を真に悲劇のどん底に陥れ、国民に塗炭の苦しみを与えたこれら3人こそがA級戦犯であり、彼らは万死に値すると古枯の木は考える。
古枯の木

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2010年1月18日月曜日

石川知裕よ、小沢一郎のために新ではならぬ

石川知裕よ、小沢一郎のために死んではならぬ

 日本の新聞は君が自殺するかもっしれないと報じている。もし君が自殺したら口封じができたと言って一番喜ぶのは闇将軍の小沢一郎だ。決して早まってはならぬ。
 早く検察にすべてを白状したまえ。そしてこのようなくだらぬ問題から足を洗ってくれ。君に初めて会ったとき君は北海道と日本の農家のために働く政治家になりたいと言っていた。君は次のことを教えてくれた。頭のよいユダヤ人がたくみに遺伝子を組み替えて非常に優秀な種苗を作ることに成功した。だがこの種苗は一年限りのもので二年めは育たぬように計画的に作られている。そのため農家は毎年高い金を払ってユダヤ人からこの種苗を買わねばならぬ羽目に陥った。金に目のくらんだユダヤ人はこの種苗を一粒いくら、一本いくらと高価で販売している。
 早く小沢一郎の下らぬ問題から開放されて日本の農家を救済するという政治家の仕事を始めてほしい。小沢は君が口を割ると烈火のごとく怒るであろうが、国民はみな君の側についている。
古枯の木

石川

基地はどこへ行く

基地はどこえ行く

 鳩山首相はいつも日米同盟こそが日本外交の基軸だと言っているが、本当にそのように考えているかは疑わしい。揺れる基地問題をみていると彼は外交の中心を中国に向けているように思えてならない。中国経済のめまぐるしい発展によりアジアの星座も勢力関係も大変動を受けている。このような中でわが国はできうる限り中正不偏の立場を維持しなければならないが、同時に一旦ことあるとき終局的勝利をうる公算ある側と親善関係を維持しなければならない。これはビスマルク以来の鉄則である。彼が真に識見達識の士であるならば日米関係を軽視することはないだろう。
 彼はまた常時駐留無き安保を提唱しているがそんなことが現実に可能であろうか。それはちょうど保険料を払わずになにかことが発生したときに保険金を要求するのに等しくドダイ無理である。でもこれこそは中国が日米関係に対して持っている長年の夢である。中国は日米関係に亀裂を生じさせることができればアジアの大国として自由に振舞うことができるからだ。

古枯の木

裏から見たノモンハン事件

裏から見たノモンハン事件

 昨年12月17日トーレンス市でノモンハン事件についての講演を行った。出席者の一人であった宮森某さんからさらに詳しい話を聞きたいとの要請があったので、1月13日ランチを取りながら会談に及んだ。
 うれしいことに宮森さんから“ジューコフ元帥回想録(著者ゲ・カ・ジューコフ、訳者清川勇吉、相場正三久、大沢正、1970年、朝日新聞社発行)”のノモンハン戦争の部分(第7章)をいただいたことだ。ソ連のものはいつの時代でも宣伝臭が強くて直ちに信用することはできないが、ものごとは可能な限り表と裏から見ることが肝要であろう。学問とはreality(真実)の追求だ。左翼学者はドグマに基づき議論するので彼らの主張はいつも非科学的だ。でもヒョットすると彼らの主張の中にも真理があるかもしれない。いただいたこの資料の中で面白かった部分を以下に箇条書きする。
1. ジューコフは1939年5月11日早朝、攻撃を仕掛けてきたのは日本軍であると主張する。日本の左翼学者は大体この説を支持する。さらに彼は日本はソ連と外蒙古に対する侵略の目的を放棄していなかったと説く。
日本では外蒙古の軽騎兵隊がハルハ河を越えて最初に越境攻撃してきたというのが定説になっている。ハイラルに駐屯していた小松原道太郎の23師団は確かに一旦ことあるときソ連のバイカル湖まで進軍することになっていたが、これはあくまでアイデアの段階であり、進軍の具体的目標があったわけではない。
2. 勝利を信じきっていた日本陸軍はイタリヤやドイツの新聞記者や駐在武官を多数招待していた。これは知らなかった。彼らの驕慢ぶりをみよ。
3. 日本軍はソ連軍と異なり戦車師団や自動機械化部隊を持たなかった。その通りである。
4. 夜間の移動には飛行機の爆音、大砲、機関銃の発射音などの偽音を多く利用した。また虚偽情報をたくさん流した。さらに総攻撃の日は日本軍の将校たちがハイラルに帰って休暇を楽しんでいる日曜日の朝とした。ジューコフは頭がいい。
5. 日本軍兵士はバンザイを叫びながら死ぬように運命付けられていた。そうだ。生きて虜囚の辱めを受けずなどとバカなことを教えられていた。
ノモンハンの後、ジューコフはモスクワに帰りスターリンと会見した。スターリンに日本軍の戦いぶりを聞かれたとき、ジューコフは“日本軍兵士の間では規律がよく保たれ、兵士は真剣で頑強だった。彼らに降伏という言葉はなく、最後の一兵までよく戦った、特に接近戦術と防御戦争に強かった。若い指揮官たちはよく訓練され、狂信的な頑張りをみせた。だが古参の下士官、年老いた高級将校は訓練不足で積極性が乏しく、紋切り型の行動しかできなかった。
その通りであろう。彼らの目当ては勲章と出世だけだった。“将軍勲章、将校商売、下士官火遊びでお国のためは兵ばかりなり”という俗謡がこの辺の事情をもっとも端的に表現している。

古枯の木―2010年1月17日記す

2010年1月17日日曜日

石川知裕よ、真実を語れ!

石川知裕よ、真実を語れ!

 このところ連日テレビや新聞を賑わしているのが元小沢一郎秘書の石川知裕である。2006年秋、コロラド州のコロラドスプリングズで国際草の根交流会の大会があり、初めてここで彼に会った。コロラド農業の研究という同じグループに属したため約一週間にわたり彼と親しくする機会を得た。彼は早稲田大学、商学部に学び、しばらく小沢の秘書をした後、衆議院選挙に立候補したが落選したためそのときは浪人中だった。パーティや観光への参加、博物館、農場や種苗工場の訪問などで親しく会話を重ねることができた。ホームステイしたアメリカ人の家がお互いに近くだったし、小生の愚著の一冊を献上する機会もあった。
 彼は日本の政治的将来をいろいろな面から考える憂国の士だった。日本の政治屋特有の傲慢さ、驕慢さなどは微塵もなくド真面目で真摯な好青年だった。ただ政治家に要求される怜悧な利己性やかけひきの能力があったかどうかは知らぬ。彼によれば安全保障と農業とイノベイションこそが国家繁栄の基礎であり、これらを欠く国はいずれ滅びると断言していた。日本の農業は世界に卓越する種苗産業を有するユダヤ人に支配されるおそれがあるとしてその対策を真剣に考えていた。
 石川知裕よ、君は現在逮捕中たが検察の取調べに対して知っていることをすべて正直に話せ。小沢一郎から緘口令がしかれ、いろいろのプレッシャーがかかっていると思うがいずれ悪の権化の小沢も逮捕されるだろう。小沢は多分君に対し“一生面倒をみるから小沢の利益に反するような発現をしてはならぬ”と言っているだろうが、こんな空手形を信じてはならぬ。蛮勇をもって国のため真実を語るよう決断してほしい。

古枯の木―2010年12月15日記す。