2010年8月30日月曜日

仮想敵国

仮想敵国

 仮想敵国とは現在は交戦状態にないが将来矛(ほこ)を交えるかも知れない国を意味する。だがそれを決めるための基準はない。古枯の木の小学校3年のとき太平洋戦争が始まったが、幼稚園のころから日本の仮想敵国はアメリカだと教えられてきた。ところがアメリカに来て、ある書籍の中で第二次大戦前のアメリカの仮想敵国は日本ではなくてドイツであることを知った。これにはショックを受けた。事実、第二次大戦中アメリカは90%の軍事力をヨーロッパに向けたのに対し日本向けはわずか10%であった。昭和の軍閥は日本が軍事大国だと盲信、過信していたが、アメリカは日本など歯牙にもかけなかったわけだ。
 では現在の日本に仮想敵国はあるだろうか。日本の周りには軍事的に強大なロシア、中国、北朝鮮、韓国などが存在するが日本の軍事力は余りにも脆弱であり、国際社会における発言力は極めて低い。よって日本にとり仮想敵国と呼べるものはないであろう。日本は仮想敵国を作るほど精神的にもタフでない。東洋におけるアメリカの仮想敵国はロシア、中国、北朝鮮といって間違いないと思う。

古枯の木ー2010年8月29日記す。

職業に貴賎あり

職業に貴賎あり

 2010年8月21日芸能関係の暴露記事を書き続けていた梨元勝が死んだ。職業に貴賎なしと一般にいわれるが本当だろうか。古枯の木は暴露記者も暴露記事も好きではない。だれにでもある秘め事を暴くことにどれほどの価値があるだろうか。書く奴も書く奴だがそれを喜んで掲載するマスコミの好奇心や下劣さにも腹がたつ。さらにそれを期待している読者も読者だ。
 暴露記事により当の本人だけでなく、多くの関係者が多かれ少なかれ被害を蒙ることになるであろう。中には命を絶った人や転居を余儀なくされた人もいるだろう。
 古枯の木が生涯で一番赫怒したのは山本五十六のプライバシーが暴露されたときだ。1979年4月18日芸者梅竜こと河合千代子が五十六との恋愛を週間朝日を通じて暴露したのだ。しかも千代子は五十六からの手紙を得意になって朝日に見せた。朗読してもみせた。一枚のラブレターが数十万円で売られたとのうわさもある。千代子は品性下劣で低俗趣味の女だったようだ。しかも恋愛ごっこが好きだったそうだ。それにしてもよく分からぬのはなぜ五十六がのように眼光紙背に徹し見識のある男がかかる下らぬ女に惚れたかということだ。
 東洋の哲学に死者にむち打たずということがある。死んだ梨元にいまさらむちを打つ気は毛頭ないが、一般論として暴露記事を書くことは卑賤な職業だと確信する。

古枯の木―2010年8月29日記す。
 

2010年8月26日木曜日

歴史家と作家の歴史感の違いII

歴史家と作家の歴史観の違いII

 古枯の木はさきに”歴史家と作家の歴史感の違い”なるエッセイをこのブログで発表したが、ある読者から次のようなコメントが寄せられた。それによると歴史家はカメラマン、作家は画家または芸術家だという。
 カメラマンは被写体をそのまま写真に撮る。少しの私意も容れない。ただ撮るときの角度、時刻または撮る巧拙により結果は大きく異なる。たとえ客観的に歴史をみる人でも見方によって歴史が別物に見えるのはこのためである。一方、画家、芸術家は描く人物、事件などのデータは最大限収集するが最後は自分の好むままに脚色してしまう。脚色の仕方いかんによってはよい人物または悪い人物ができあがる。また事件についても同じような結果がでる。
 読者のコメントを要約すると上述のようになると思う。いずれにせよ卓見であり、いままでもやもやして解明できなかったな難問のひとつが解けたような気分になった。

古枯の木-2010年8月25日記す。

2010年8月25日水曜日

総員玉砕せよ

総員玉砕せよ

 NHKテレビのゲゲゲ女房を楽しく見ている。心温まるよいドラマだ。古枯の木は水木しげる記念館のある境港市を訪問したし、安来の足立美術館では素晴らしい陶磁器を見せてもらった。このテレビドラマの中で“総員玉砕せよ”という一つのシーンがあったが、これはエンジョイするには余りにも深刻な場面であった。長男の嫁(32歳)が玉砕とは何かという質問を提起してきた。
 戦時中、古枯の木は小学生だったが、クラスの全員が玉砕の意味を知っていた。この点時代の推移を感じる。先生は時期がきたら天皇陛下のために死ね、死にさえすれば人から褒められる、死ぬときはぶざまな死に方をするなと何度も繰り返していた。玉砕は全員が死ぬことで生存者はいないことを意味する。生きていることは許されないのだ。
 この玉砕は帝国陸軍の専売特許のように思われているがあながちそうでもない。トルコ建国の父アタチュルク(1881-1938)は非常に有能な軍人であり政治家でもあった。軍人として彼は生涯戦争に負けたことはなかった。英仏を敵に回して乾坤一擲の大勝負であったダーダネルス海峡とガリポリ半島の戦闘(1915年2月-12月)では全兵士に対し“余は君たちに戦えとは命令せぬ。死ねと命ずる”と告げた。だがアタチュルクの命令には帝国陸軍の玉砕命令の中にある陰湿さ、凄惨さ、あほらしさ、形式主義は感じられない。これはなぜであろうか。

古枯の木-2010年8月24日記す。

2010年8月24日火曜日

人生の幕引き

人生の幕引き

 東京の大崎に住む大学の先輩から86歳となり、人生の幕引きが近づいたので身辺の整理を始めた。難問は書籍である。ダンボールいっぱいの本を船便で送るから受け取ってくれとのハガキが一カ月ほど前についた。そして今日その本が届いた。
 大変貴重な本もある。有名な母校の教授の社会政策に関する論文集がある。また古枯の木の好みを知ってか戦争関係の本も多い。古枯の木は現在日本再生の会という団体に属しており、10月例会の研究テーマは山本五十六だ。いただいた本の中に井上成美に関するものもあり、これは10月の発表会に大変役に立ちそうである。
 古枯の木には書籍もたくさんあり、いずれこれらの整理が問題となる。さらに頭の痛いのはいままで撮った写真だ。子供たちにこれを引き渡したとき、一番処分に困るそうだ。そろそろ写真の処分も考えねばならない。

古枯の木―2010年8月23日記す。

フランス語かスペイン語か

フランス語かスペイン語か

 カリフォルニアのマンハッタンという町に住む孫の一人から今年秋から外国語の勉強が始まるがフランス語をとるべきかそれともスペイン語をとるべきかとの相談を受けた。カリフォルニアではメキシコ系の住民が多く、生徒の80%はスペイン語を履修するという。また選択肢はこの二つの外国語だけとのこと。
 古枯の木は躊躇なくフランス語と答えた。理由は二つ。一つはスペイン語圏はフランス語圏に比べて民度が高くないこと。欧米に比較して学問、科学技術のレベルの低い日本は依然として欧米からこれらを学ばなければならない。フランスは先生である。二つ目はフランス語の持つ美しい発音だ。2,009年秋、東京のルーマニア大使館を訪問し、広報担当の女性外交官に会ったときルーマニアではソ連の圧政下にあったときでも一番ポピュラーな外国語はフランス語であったと聞いた。古枯の木からではフランス語はルーマニア人にとり何てあったかと尋ねたとき“そは麗しき天使の言葉である”との回答が返ってきた。
 孫ははたしてどちらを選ぶだろうか。古枯の木はこれを機会にフランス語の復習をしたいと思っている。

古枯の木―2010年8月23日記す。

2010年8月23日月曜日

外交の基本姿勢

外交の基本姿勢

 外交の基礎概念はパワーと国益である。ではその基本的態度や姿勢はいかにあるべきか。19世紀初頭の外交家パーマストン(Palmerstone)は“イギリスにとり永久の友はなし、永久の敵もなし、ただあるは永久の利益のみ”(England has no eternal friendships, no enmities, but eternal interest.)と道破した。イギリスはヨーロッパ大陸でいつも最強となる国と対峙してうまく大陸の勢力均衡を維持してその光輝ある孤立を保持してきた。かつてはスペイン、オランダ、フランスそして2度までドイツと矛を交えた。ここにイギリスの持つ狡猾な怜悧さをみることができる。
 アメリカの元国務長官でハーバード大学の教授であったキッシンジャーはその著“Diplomacy”の冒頭で外交とは冷徹なパワーの計算にもとずいて国益を追求することであると述べている。
 パーマーストンの外交の基本姿勢はイギリスのみでなくあらゆる国の外交に適用される大原則であらねばならぬ。味方はいつまでも味方であるわけがないし、反対に敵がいつまでも敵であるわけがない。日本外交には主体性が欠け、淡白でしたたかさも無い。謹厳実直、律儀、友愛力のみでは外交は行えない。早く対米追従外交と対中土下座外交は改めるべきだ。アメリカが日本にとり永久の友であるという保障はどこにもないことを銘記すべきである。

古枯の木-2010年8月23日記す。

2010年8月22日日曜日

半年や一年は暴れてみせる

半年や一年は暴れてみせる

 2010年5月一橋大学の同窓会会報である如水会報に“山本五十六とロサンゼルス”なるエッセイを寄稿したが、これに対しいろいろな反響があった。山本五十六を研究する者として見逃すことのできぬ投書があった。1941年9月12日、五十六は荻窪の近衛文麿の別荘、荻外荘(てきがいそう)で近衛に会い、“やれと言われれば半年、一年は暴れてみせる。だが2年、3年では自信がない”と語ったとされている。
 1936年五十六が海軍次官に就任し、海軍大臣―米内光政、軍務局長―井上成美(しげみ)のいわゆる海軍トリオが誕生し、彼らは共同して三国同盟に強く反対した。作家の阿川弘之はこの時代が帝国海軍の最も輝ける時であったと書いている。その井上成美が五十六のこの言葉を取り上げて五十六の最大汚点の一つであるといっている。2007年に“山本五十六”を発刊した作家の半藤一利も同じような立場だ。
 投書主は古枯の木に対し、五十六の言葉は連合艦隊司令長官としてまことに無責任なものだと書いてきた。だが古枯の木は長い間、   本当に五十六がかかる言辞を呈したかどうか疑問に感じていた。眼光紙背に徹し、将来に対し深い洞察力をもった五十六のことだ。彼は日米の経済力と軍事力の差を知悉していた。さらに日本の科学、技術力の水準の低さも認識していた五十六がかかる言葉を発したかどうか。
 作家の工藤美代子が2004年6月”海燃ゆ“という五十六の伝記を発刊した。工藤はその中でこの言辞は近衛の自演自作だと喝破している。近衛の持っていた小さな手帳以外にこの言辞の情報源はないという。近衛は東条、松岡とともに日本を太平洋戦争に巻き込んだ3大凶悪犯の一人である。無責任、無自覚でその対中国政策はいつも優柔不断だった。趣味といえば旅館や料亭の女中仲居を押入れの中で凌辱することだった。しかもそれを吹聴して廻った。こんな品性下劣の男なら勝手に五十六の言葉を捏造した可能性も充分ありうる。
 工藤の本を読んで古枯の木は溜飲の下がる思いがした。

古枯の木-2010年8月21日記す。

五十六の教えを株に生かす

五十六の教えを株に生かす

 山本五十六は勝負に対して特別のカンを持っていたようである。生涯を通じてギャンブルで負けることはほとんど無かったといわれている。“バクチをしないような男はろくなものではない”と言ったとも伝えられている。古枯の木は以前よくラスベガスにでかけたが、ただ一度のbeginners’ luckを除きいつもloserだった。
 では五十六の勝負に対するルールあったのか。またあったとすれば何であったか。あった。それは20%ルールといい、20%稼いだら止めることだ。五十六はいつも冷静に判断して20%も稼ぐと止めたと伝えられている。
 余談だがこの20%ルールが太平洋戦線の会戦の場に応用されせっかく大勝利を得るチャンスがあったにもかかわらず小成に甘んじてしまったということはなかっただろうか。
 古枯の木は五十六のこの理論を株の売買に応用した。その結果、20%ルールの適用以後は一度も株で損をだしたことはない。もちろん株の売買には他の商売同様、売る、買う、休むのタイミングが重要である。さらにEPS, PERというコンセプトも忘れてはならない。いまのような不確実、激動の時代には20%ルールは大変貴重な教えであると思う。

古枯の木_2010年8月21日記す。

2010年8月20日金曜日

歴史の教訓を無視する者は歴史によって罰せられる

歴史の教訓を無視する者は歴史によって罰せられる

 よく歴史は繰り返すといわれる。英語でも同じ表現がありこれをHistory repeats itself.という。これは人間の性情が古今東西を通じて変わらないものとすれば、同じような原因から同じような結果が生ずるということだろう。
 ここで外交史上有名な二つの事件を紹介したい。1812年6月23日、ナポレオンがロシア遠征を始めた。目的はロシアの征服である。その129年後、こんどはヒットラーがソ連遠征を始めた。1941年6月22日、午前3時15分。ナポレオンより一日早かった。この作戦はバルバロッサ作戦を呼ばれ、動員兵士400万人、タンク3,300台、大砲7千門、飛行機2千機という空前絶後の大規模なものだった。ヒットラーもソ連の制服を目的とした。ソ連を征服し、対英交渉で有利な立場を得ようとしたと一般には信じられている。だがその年の晩秋、レーニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の郊外に到着したドイツへいは皆、夏服を着ていた。両者はともに完膚なきまでに冬将軍に敗れたわけである。この点から歴史は繰り返すと言い得よう。
 ヒットラーは歴史の教訓を無視して対ソ作戦を始めた。この戦争がヒットラーにとり命とりとなり第3帝国建設の夢は雲散霧消した。まさに歴史の教訓を無視したヒットラーは歴史によって罰せられたわけである。

古枯の木―2010年8月19日記す。

2010年8月19日木曜日

太平洋戦争の敗因

太平洋戦争の敗因

 太平洋戦争の敗因については古来いろいろな説がある。ドイツ海軍の副提督で戦前(1933-37)と戦中(1940-45)に東京に駐在したポール・べネカーがいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦の過程を第三者的に冷静に観察していたが、その敗戦の理由を次の3つに分析している。
1. 自信過剰
2. 敵の力の過小評価
3. 余りに長く延びきった補給線
 アメリカ人でも日本敗戦の最大事由を日本人の自信過剰とする人が多い。戦前、戦中の帝国陸海軍には不可思議な自信、過信、うぬぼれ、驕慢、思い上がり、跳ね上がりと膨張主義が充満していた。自信を持つのはいいことであり必要なことでもあるのだがどうも日本民族はすぐに自信を過信に転化してしまう悪い癖を有する。
 古枯の木は1967年1月仕事のため渡米した。その頃、社の内外に太平洋戦争に従軍したアメリカ人が沢山おり、大戦中の日本軍の戦いぶりについて彼らの意見を徴してみた。彼らは異口同音に、日本兵は個人としては極めて勇敢であり劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、戦術と戦略において日本軍には悲しいほどインテリジェンスが欠如していたと語ってくれた。インテリジェンスは元来知性の意味だが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵情判断を意味する。インテリジェンスの欠如が敗戦の理由だったかもしれない。
 山本五十六は大変合理的な頭脳の持ち主であったといわれているが、彼の下にいた12名の参謀な中に暗号や通信の参謀はいても情報の参謀はいなかった。恐らく情報なんかくそ食らえという考えがあったかも知れない。
 ここで古枯の木の考えを開陳したい。第一に日本には戦争の正面が多すぎたことである。古来2正面作戦を避けるべきことは軍事学の鉄則である。にもかかわらず、日本は2正面作戦どころかその力を過信して4正面作戦をとった。それは対アメリカ、対ソ連、対中国そして対南方である。これでは勝てる訳がない。本来、国力はその全力を1点に集中すべきである。いかなる個人でも国家でも4点に全力を集中することはできぬ。第一大戦の前、ドイツのシュリーフェン参謀総長は仏露を相手の2正面作戦計画を練り、10年間もその訓練を重ねてきたが大戦では成功しなかった。日本は4正面作戦のためその敗北の速度を4倍も早めたといいうる。
 第二に日本軍は己の力を過信して攻勢終末点を超えて戦線を拡大したことに敗北の大きな原因がある。攻勢終末点とは、経済力、軍事力またはロジスッティク(兵站補給)の面から考慮してこの点を超えて戦線を拡大してはならないという点を意味する。攻勢の限界である。これも軍事学の鉄則である。日本は緒戦の植民地軍に対する勝利に酔い、戦えば英米に勝つものとなめてかかり、攻勢終末点を越えて進撃したためその敗北を早めた。
 第三に戦争には必ず作戦間隔というものがある。一つの作戦と次の作戦の間に間隔を保つことである。これも軍事学の鉄則であるが、日本軍は己を過信して大変せっかちな作戦を展開した。ミッドウエイで戦死した山口多門少将は作戦の延期を何度も依頼したが、山本五十六はこれを許さなかった。
 戦争の敗因は客観的にしかも冷静に分析されねばならない。この結果はわれわれのあるゆる社会生活の面にも応用できるのではないか。

古枯の木―2010年8月15日記す。

2010年8月14日土曜日

敗戦の日に思う

敗戦の日に思う

 今年も8月15日が近づいてきた。1945年の敗戦の日に古枯の木は旧制中学の一年生として工場で飛行機の部品を作っていた。昼前、先生が天皇陛下の重大放送があるので正午に事務所前の広場に集まるよう指示した。熱い夏の日だった。天皇の放送は雑音のためほとんど聞き取れなかったが、放送直後、工場長が日本はポツダム宣言を受諾し、戦争に負けたと解説してくれた。だれも無表情で声をださなかった。
 8月15日が近づくと各所で戦争の惨害を訴える催しが行われる。だが肝心なことは戦争の惨害を知る理性の力のみでは決して世界の平和は得られないということである。

古枯の木-2010年8月14日記す。

映画442を見て

映画442を見て

 2010年7月31日ロス近郊のサンペドロで上映された映画442を見た。これは第二次大戦中、アメリカで編成された日系兵士の欧州戦線での活躍を描いたものである。この映画とは別に当時の日系人の社会的地位について述べたい。日系人は戦前、戦中、アメリカ社会で厳しい差別待遇を受けていた。たとえば、あるとき白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントを持って出かけたところ、その母親からプレゼントを持ってすぐ帰れと追い返された。母親は“ここはお前ら汚らしいオリエンタルの来るところではない。今後とも絶対に来るな”と付け加えたそうである。プールに行くと水が黄色になるからといって断られた。ダンスホールには入場できなかったし、映画館やボーリング場では日系人の座れる場所には“Japs and dogs only”の張り紙が出されていた。戦争終結直後、シカゴに住んでいた日系人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアップのためカリフォルニアのロングビーチまで車ででかけたが途中彼にベッドを提供するモテルは皆無だった。
 アメリカ人は日系人に対し過酷であったがアメリカ人の寛容さを示す話が無きにしもあらずである。1941年12月7日の真珠湾攻撃の翌日、日系人の子供たちは皆びくびくしながら登校した。いつも日系人をいじめる白人の番長に殴られるものと全員が覚悟した。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、日本政府は憎んで余りあるがこれら日系人の子供に罪はないから彼らに対して絶対に手出しをしてはならないと宣言してくれた。多分番長の親が番長にそのように告げたのだろう。
 442部隊は1943年に編成され、5,000人以上がこれに入隊し、イタリヤとフランスでドイツ軍と戦い大きな功績をあげた。ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍の死傷率は平均5.8%だったが、日系兵士のそれは28.5%にも達した。700人が戦死した。日系兵士のモットーは“Go for broke"(当たって砕けろ)だったが、彼らはアメリカ市民として米国への忠誠心を示すためには身を挺して戦う他なかったと思われる。”当たって砕けろ“は実に彼らのやるえない気持ちを表していたものと思われる。
 フランス戦線ではアメリカ軍が2度まで救出に失敗したテキサスの141部隊を442部隊が救出に成功した。救出された141部隊は全部で211名だったが、442部隊の死傷者は800名にも達した。戦後テキサス人はこれを感謝して442部隊の全員に名誉テキサス市民の称号を贈った。だがすべてに移ろぎ易いのは人の心である。テキサスに“Jap Lane“とか”Jap Road“と呼ばれる道路が建設された。これに対し、最近日系社会がら猛烈な講義が寄せられたが、テキサス人はこれを黙殺し改めようとしない。
 映画442は日系人の置かれた差別的地位をインタビューを交えながら克明に描いている。口の重い元日系兵士に語らせるのは非常に骨の折れる仕事であったと思う。ローマ開放のときその尖兵を努めた442部隊にはローマ入城が許されず迂回して他の戦線に向かわされたことなど知らなかった事実も多い。だが対独戦争とは何であったか、なぜ日系人はこの戦争に参加したのか、また彼らがいかに戦ったについてもう少し理論的。系統的な説明があればなおよかったと思う。
 この映画の監督であった鈴木氏が映画の開演前に、壇上で挨拶し、最後に”Please enjoy the movie.“と言った。この映画を見たある白人の男性が古枯の木に最近手紙を寄せた。これによればこれは記念すべき(memorable)映画ではあるが、あまりにも深刻で楽しむことなどとてもできぬと言ってきた。これは鈴木氏と共通の知人を通じて鈴木氏に伝えられた。
 日系人に対する差別や442部隊の活躍についての詳細は拙著“日本敗れたり”(オーク出版サービス 2003年)の第8章 “日系人の苦悩”を参照されたい。

古枯の木-2010年8月13日記す。