2010年9月23日木曜日

暗く陰湿な部屋

暗く陰湿な部屋

 小学校のとき先生に連れられて市役所の見学に行った。すべての部課の部屋は開放的でガラスの窓越しに職員たちがきびきびと働いている様子がよく理解できた。でが一つだけ部屋のカーテンは下ろされ、見るからに陰湿でじめじめしている部屋があり、そこには“兵事課”の看板が掛っていた。先生は兵事課とは日本兵となる人を徴集するための仕事をしている課であると教えてくれた。
 そのころ日本兵は神兵または皇軍の兵士(天皇の兵隊の意味)と呼ばれ、表面的には尊敬されていた。非常に重要な仕事をする課であり、さらにいろいろな機密事項もあるからカーテンが降ろされ、暗くなっているだろうと想像した。さらに神兵を徴募するところだから一種神聖な場所であるとも思った。
 ところがこの見学から帰って新事実を発見するのに時間はかからなかった。兵事課をめぐる大人たちの会話は次のようなものだった。自分の息子を兵役の義務から免除してもらため、いつも兵事課には現ナマが乱舞している、息子を兵器産業における重要なエンジニアーであるとの虚偽の申告書を兵事課で書いてもらえば兵役は免除されなどである。
 二宮金次郎の末裔に二宮尊堂という人がいた。この人は有名人の末裔であるとして兵役を免除されたと直接本人から聞いたことがある。
 徴兵制が復活し、兵事課が再生し、自分の息子が徴兵の適齢期になったとき、一体古枯の木はどんな態度をとるであろうか。

古枯の木―2010年9月22日

陸自の増員に反対

陸自の増員に反対

  防衛省が陸上自衛隊員の定数を15万5千人から16万8千人に引き上げると発表した。なぜいまさら陸自の定員をそんなに引き上げるのか。日本は四面環海の国である。海空軍の増強なら賛成であるが、陸軍を増強するなど時代錯誤も甚だしい。日本が制空権、制海権を失っときもうこの小さな島国を防衛することなどほとんど不可能である。なぜなら日本はあるゆる方向から簡単にアクセスできるからだ。この点から古枯の木は陸軍無用論者である。警察程度の陸軍があればそれで充分である。
 2004年末、政府は陸上自衛隊員を5千人削減すると発表した。これは喜ぶべきことだが、この発表と今回の発表は著しく矛盾撞着する。アメリカは国益の観点から日本本土の防衛は日本に任せたいと考えているのであるいはアメリカから陸軍強化の要求があったかもしれない。
 海軍は空軍の援助なしでは存在しえない。海軍はシーレインの保全も重要な役割であるが、そのためには空軍の援護が必要である。陸軍の近代兵器である戦車はもはや空軍の援護ななしでは活躍しえない。陸軍を増強するような金があるなら、その金で海空軍を増強し、核武装の実現を真剣に検討すべきと思う。

古枯の木―2010年9月21日

2010年9月22日水曜日

沖縄の領有権

沖縄の領有権

 中国のある研究者が日本は沖縄を不法に占拠していると発表した。それによれば沖縄は19世紀末、明治政府が不法に奪い取ったものであるそうだ。尖閣諸島も中国領であり、これについて話し合うなど論外であるとも言っている。いよいよ中国が沖縄に対する領土的野心を露わにしてきたといいうる。また彼は1972年の沖縄返還後、沖縄の独立運動が熾烈となり、今では島民の75%が日本からの独立を望んでいるとまで極論している。
 2010年7月27日のエッセイ“沖縄の帰属問題”で古枯の木はこの点の警鐘を乱打した。中国が日本政府に虐げられた沖縄島民を解放するという名目で沖縄に侵攻してくることもありうる。沖縄島民の中には戦争中の日本陸軍の残虐行為に対する反発がものすごい。日本陸軍は沖縄島民の生命を守るどころか、陸軍の盾にしようとした。いまでも日本を恨む島民の数も多いとのことだ。彼らが一時の感情から中国軍を迎え入れるような行動にでるかもしれない。

古枯の木―2010年9月21日

2010年9月20日月曜日

円高に断固対処せよ

円高に断固対処せよ

  このところ円高傾向ははなはだしく一時82円台まで達した。政府、日銀は最近やっと重い腰をあげ介入に踏みきった。これに対しアメリカ政府筋から介入に対する批判が出た。それについて政府、日銀は周章狼狽を繰り返しているようである。日本では自民党の古賀誠や官僚たちが日本の財政をむちゃくちゃにした。国には膨大な借金があり、国債依存率は世界最高だ。まさに国は危機的財政状況にある。
 こんな国の通貨“円”のバリュウー(価値)が“上がる(円高)”訳がない。これはユダヤ人や中国人の貪欲な投機筋の策謀によるものだ。彼らは日本経済の実態を無視して円高と円安を繰り返し、これによって巨万の富を得ようとしている。このまま放置すれば円高により日本経済は崩壊しかねない。
 日本だけの単独介入ではなくて国際協調的な介入が必要との議論がある。でもこれはドダイ無理な注文だ。各国は輸出増大の観点から自国通貨の円に対するの通貨価値の下落を願っているからだ
 ブームの円高は他のブームと同様いつまでも続かない。一時的なものだ。しかしながら為替の介入に対して外国から抗議を受けたときなぜ“日本は国益の命ずるところによって断固対処する”と伝えないのか。日本政府や日銀の態度には面映いものがある。

古枯の木―2010年9月19日

校長の訓話

校長の訓話

 9月になるとアメリカの学校の新学年が始まる。それにつけても想い出されるのは我が家の子供3人を9月に始めて日本の学校に送ったときのことだ。古枯の木は約10年間アメリカで勤務した後、1976年の夏に帰国した。そして9月には子供たちは日本の学校に入った。彼らは最初の日から授業が始まるものと考えていたが授業はなく始業式があったそうだ。校長が訓話、訓示をたれたが、全く意味不明でありそこにいた子供たちは誰も聞いていなかったという。その夜、食事のときから辛辣な子供たちの日本の教育批判が始まった。式のため一日損したとか、何のために式などをやるのかなどだった。アメリカでは絶対に考えられぬことだとも。さらに子供の頭の中に校長の言ったことの内容は何も残っていないという。
 日本人は学校に限らず式が大好きだ。アメリカでデーラー会議を主催すると出席者の間からいろいろ建設的な意見が出て教えられることが多かった。ところが日本のデーラー会議は優秀デーラーや優秀セールスマンの表彰式が主で、討論のとき出席者は沈黙を守り発言はほとんどなかった。あとは偉い会社幹部の意味のない精神訓話だった。日本社会の後進性、形式主義が教育界はもちろん実業界にまで残っているような気がする。

古枯の木-2010年9月17日

2010年9月15日水曜日

民主党議員と事大主義

民主党議員と事大主義

 10月14日の民主党代表選で菅が721対491ポイントの大差で小沢に勝った。これは当然のことと思う。党員やサポータは押しなべて反小沢だった。ただ民主党議員だけは412対400で僅差だった。ある人はこれを指して、永田町と国民の政治感覚の差であるといっていた。
 よく日本人や他の東洋民族の欠点は事大主義だといわれる。事大主義とは“大に事(つか)えること”を意味する。つまり確固たる信念を持たず、いつも勢力の強大なものに従って自分を守り、なびくことをいう。民主党の国会議員の身近にはいつも小沢がいる。彼らは小沢のご機嫌をとり、もみて、愛想笑い、へつらいで小沢から離れまいとする。この原則が代表選の吟の議員の数字に表れたわけだ。
 今後菅がどれだけ長く首相の地位を保てるかはどこまで脱小沢を貫けるかにある。脱小沢を止めたらたちまち国民の支持を失う。挙党一致などと言っておらずに、アメリカの新政権のように負けた側をすべて政権の座から淘汰するぐらいの決意でやって欲しい。

古枯の木―2010年9月14日

2010年9月12日日曜日

現代の辻政信II

現代の辻政信II

辻政信は太平洋戦争中、大本営の参謀本部にあって幾多の作戦に失敗し、有為の青年を多数殺してきた男だ。失敗するごとにその責任を現地の司令官に押し付けてきた卑劣な男でもある。ときには自殺を強要するためピストルまで贈った。名誉欲と功名心にとりつかれた妖怪人間であったのだ。敗戦後しばらく僧侶に身をやつして東南アジアを廻っていたが、1948年の戦犯解除に伴い日本に帰り、その後2度まで国会議員の選出されたのである。
 なぜ日本国民は彼のような妖怪を選挙で選んだのか。日本人の無責任体質のためか、それとも忘れやすい体質のためか。または辻の宣伝に乗せられたのか。それは分からぬ。でもそのとき古枯の木は日本人の低劣な精神構造、歴史認識の甘さ、それに良識の欠如に大きなショックを受けた。
 2010年9月14日、民主党の代表選が行われる。小沢と菅の一騎打ちだ。小沢は拝金主義の塊であり、国民を欺き続けてきた妖怪人間である。すべての悪を秘書のせいにし私利私欲に埋没し、金権腐敗の政治を行ってきた男だ。辻政信との共通点が非常に多い。小沢を現代の辻政信と呼んで筆者は憚らない。
 もし小沢が代表選で民主党の代表に選ばれたら、日本人の精神構造は辻を選んだ頃にくらべて余り進歩していなと結論付けるであろう。

古枯の木-2010年9月11日

Have A Safe Trip!

Have A Safe Trip!

  東京に住む三男夫妻が仙台に一人住まい祖母を今週末訪ねるとイーメイルで知らせてきた。祖母は少しまえ大きな手術を受け、目的は祖母の見舞いと元気付けである。英語でいってきたのでその返答で最後に多くのアメリカ人が言うように“Have a nice and safe trip!”と結んだ。
 そこで考えた。見舞いに行く旅が楽しいわけがない。よって“nice”という表現は適当でないことを発見した。古枯の木は自分のエッセイ“映画442を見て”の中で映画監督の鈴木氏が映画の開演前に、壇上で挨拶し、最後に”Please enjoy the movie.“と言ったが、この表現が適当でないことが
このを見たアメリカ人から指摘されたことを述べた。これは楽しむには余りに深刻が映画であるからだ。
 古枯の木は最後の言葉を訂正し、Have a safe trip for consolation and encouragement for grand mother!とした。これでよかっただろうか。何かよいサジェスチョンがあったら教えていただきたい。

古枯の木―2010年9月10日

2010年9月10日金曜日

無色透明な日本経済

無色透明な日本経済

 古枯の木は長年国際貿易の第一線にあったが日本経済は無色透明な経済であると思う。無色透明とは特色がないということである。アメリカ経済なら航空機、自動車、IT産業、エンタテインメント産業に特色がある。イギリスの得意分野は自動車、電子機器、航空機、石油であろう。ドイツは自動車、ワイン、フランスは電気機器に料理、ワイン、ファッション。イタリヤはデザイン、スイスは時計。各国みな強い分野を持っている。
 ところが日本にはそのようなものがない。日本は世界中どこにでもあるような商品を改良し、大量生産して単価を引き下げることには優れている。それゆえに古枯の木は日本を生産大国と呼ぶ。だが日本にしかないような商品は皆無であろう。よって経済大国ではない。
 日本商品には他国の商品に比較して早い、小さい、軽いなどの相対的なセールスポイントはある。だが日本商品にしか存在しない絶対的なセールスポイントなどまずない。古枯の木が商売の現場で味わった苦悩は実にこれである。
 願わくば日本人が独創力を磨き、欧米商品の模倣ではなくて真に日本独自の特色ある商品の開発をしてくれるよう祈るや切である。

古枯の木-2010年9月9日

現代社会の特徴ー権力に失望

現代社会の特徴―権力に失望

 無政府主義者でもない限り権力の存在理由は認めるであろう。権力の不存在はこの世に無政府状態をもたらし社会が大混乱に陥るからだ。政治哲学書には次のような言葉がよく出てくる。“いかなる悪政も無政府には勝る”。
 日本国民は自民党のアメリカ追従外交、金権体質、ヤミ献金、医療費抑制、道路族の暗躍やマンネリズムには愛想をつかした。現在最も不人気な職業は政治家であるそうだ。
 では民主党はどうか、鳩山の迷走、小沢の金権腐敗の政治に加え民主党に騙されたという感情が国民の間に強い。無党派層の増大は両政党に失望した者たちに原因がある。国民が権力に失望したというのが現代社会の特徴であると思う。

古枯の木―2010年9月9日

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秀才の落とし穴

秀才の落とし穴

 旧日本帝国の陸海軍は天下の秀才を集めた。陸軍士官学校、海軍兵学校の入学は至難中の至難といわれた。ところが秀才中の秀才である彼らに大きな落とし穴のあることがしばしば発見される。これは彼らの教育が軍事学に限定されたためかまたは彼らが他の学問、科学や円満な常識を拒否したたためかどうかは知らぬ。でも彼らは大ポカをやり、己の力の限界を認識せず無謀極まりない太平洋戦争に突入したのだ。
 海軍は当為大鑑巨砲主義に熱中した。戦艦大和の主砲は口径46センチ、タマは43キロ先まで飛んだといわれる。だが42キロ飛んだとしてどうやって照準するのか。レーダーもない当時としてはそれは不可能だった。だのに飛距離のみを追ったのだ。まことにバカげた話である。
 一方陸軍はどうか。近代戦は武器の質と量によって決せられる。ところが彼らはこの事実を認識せず、高価な武器よりも安い人間に頼った。兵員量のみがキーポイントとしてその数を追い求めた。司馬遼太郎は戦時中、戦車小隊長だったが、大本営参謀の辻政信には戦車の知識はゼロだったという。さらに辻は軍事そのものが分かっていなかったと主張する。いったい辻たちは士官学校で何を学んだのか。
 秀才としてもてはやされた人間も勉強しなければただの人間になる。さらに悪いのは秀才の看板を背負って国を方針を誤らせることだ。

古枯の木-2010年い

2010年9月8日水曜日

汪兆銘と勝沼博士

汪兆銘と勝沼博士

  日中戦争が泥沼化した1940年、中国の国民党内で蒋介石と勢力争いをしていた汪兆銘が重慶を脱出して南京に新政権を樹立し、汪が主席となった。彼のスローガンは親日、反共、和平救国であったため日本政府はこれに接近し国家承認を行った。世界の国の中ではわずかドイツとイタリヤのみが日本に従った。この政権は日本の敗戦まで続くことになる。
 この汪の政権は日本の傀儡政権であったと一般的にはいわれている。だが汪は国益を主張し、日本の軍閥政府をして租界を返還させたり、治外法権を撤廃させたりしている。
 1944年汪は病気のため来日し、名古屋帝国大学の医学部病院で神経外科の斉藤真教授と内科の勝沼精蔵教授の治療を受けることとなった。病気の理由は1935年11月1日、ある大会でカメラマンに扮した男に狙撃され銃弾が3発体内に入り2発は摘出されたが、後の1発が体内に残りこれが骨髄腫を引き起こしたとされている。なおこの狙撃事件は当時国民党内で勢力争いをしていた蒋介石の差し金であったという人もいる。
 古枯の木の父親は長らく腎臓を病み、勝沼博士の治療を受けていた。博士は月に一度名古屋郊外の西尾という町に出張診療に来ており、父は診療の度ごとにその町に出かけていた。あるとき診療後、博士がつぶやくように父に語った。“汪は日本陸軍の要求をさっぱり受け入れぬ。そのため陸軍は汪が死んでもいいと考えている。でも死んだら後継者がいないから問題だ”と。
 汪は1944年11月10日名古屋で客死した。現在、中国本土では彼は売国奴として扱われているそうだ。だが台湾では汪のシンパがずいぶんいると聞く。いずれ汪のことを調査してみたい。

古枯の木―2010年9月8日

汪兆銘と勝沼hかせ

2010年9月7日火曜日

第一次、第二次南京事件

第一次、第二次南京事件

 2010年9月5日ロスのダウンタウンである歴史研究会の会合があり、これに招待された。そこでは南京虐殺事件が討議されていた。この南京事件は第二次南京事件と呼ばれるもので1937年12月13日、日本軍が南京を占領した後、数週間の間にシナ人の捕虜、便衣兵、一般市民を大量虐殺したとされる事件である。中国側の発表では20万、30万人が虐殺されたとされ、中国による日本バッシングの好材料になっている。南京大虐殺記念館も建設され、これ宣伝に努めている。
 これに対し日本国内には反論もあるが、日本政府は日中友好の観点からかあえて反論せず、土下座外交を繰り返し、中国に殴られるままに任せている。
 世間には余り知られていないが、この事件の起こった10年前の1927年3月24日に第一次南京事件が発生している。当時蒋介石の北伐軍と山東省の地方軍閥が南京で矛を交え始めていた。そこで南京の日本領事は居留民全員を領事館に収容した。ところが当日朝7時半に蒋介石の暴兵、シナの暴民が多数領事館に乱入し、正午までの間に略奪と凌辱の限りを尽くした。
 蒋介石は日本領事の抗議に対し陳謝した。現在の日本政府はいつも中国政府に対し南京問題には平身低頭だが、たまにはこの第一次南京事件を例に出して中国政府を殴り返したらどうか。それぐらい見識と勇気のある総理大臣の出現を望みたい。
 第一次南京事件のとき日本領事館には荒木亀男大尉と10名の兵隊が機関銃と小銃で警備についていたが、彼らは愚かにも軍中央の命令を墨守してシナ人に対し一発のタマも発しなかった。荒木は事件後、一人の上官からよく辛抱したと褒められたが、他の上官からは自殺を強要するためのピストルを贈られた。日本軍の上層部のあたまの程度はそれぐらいのものであったわけだ。

古枯の木-2010年9月6日

2010年9月4日土曜日

ノモンハン戦争

ノモンハン戦争

 今日は名著を紹介したい。ノモンハン戦争は1939年5月11日早朝、外蒙古の騎兵隊が越境攻撃し、満軍を駆逐して内部にまで手を伸ばしたことから始まった。外蒙古の後ろにはソ連がおり、日本陸軍は彼らの戦車と重砲により完敗させられた。ソ連はソ満国境を確定し、内蒙古、外蒙古の民族主義運動にとどめを刺し、日本の対ソ侵略の意図を事前に粉砕した。これがノモンハン戦争(またはノモンハン事件とも呼ばれる)の真相である。2,009年岩波書店から刊行された田中克彦著“ノモンハン戦争”はこの戦争を軍事、政治、経済、地理、文化、宗教の多面から客観的にアプローチしている名著である。ただ戦争に関する記述の少ないのが少し残念ではある。田中は一橋大学の名誉教授でロシア語、中国語、蒙古語、ドイツ語に堪能のようである。
 ノモンハン戦争でソ連は政治目的のほとんどすべてを達成し、ソ連の一方的勝利に終わったが、日本にとってそれは何であったか。それは将軍たちにとり火遊びであった。同感である。当時流行した言葉にこんなものがある。”将軍勲章、将校商売、下士官道楽でお国のためは兵ばかりなり“。そうだ。将軍たちにとり目的は国家や国民を守ることではなくて、勲章と出世だけだったのだ。しかも作戦主任の服部卓四郎、作戦参謀の辻政信、大本営の瀬島竜三など責任ある立場にあった人間がもっとも無責任だった。多くの日本兵を殺しながら彼らがノモンハン戦争の失敗を詫びたことなど一度もない。
 田中は日本人の精神構造はノモンハン事件のころから余り進歩していないと心配する。政、財、官の癒着もその一つだ。古賀誠らの自民党議員や官僚が土建業者と結託して無駄な公共工事を多数起こして日本の財政をメチャクチャにしてしまった。日本は現在、世界最高の国債依存率を持ち、危機的な財政状況にある。ギリシャ、イタリヤ、アイルランドなどより遥かに悪い。国民にこれを詫びた政治家、官僚など一人もいない。小沢一郎に代表される民主党の金権腐敗の政治屋たちがばらまき政策によって自民党の徹を踏もうとしている。やはり日本人は未だにノモンハンの時代に生きているのか。同感である。

古枯の木―2010年9月4日

2010年9月3日金曜日

T教授からの手紙

T教授からの手紙

  一橋大学で27年間教鞭をとっていたT教授から定年退職したとの手紙をもらった。国立大学の定年は62歳だから多分彼も62歳だろう。彼は招聘されて一橋に来るまえにハーバード・ビジネス。スクールで教えていた。そのころ一駒の講義を行うのに約10時間の準備をしたそうだ。ときにはストレスのため下痢をしたり激しい胃痛をおこすこともあったらしい。講義で世界の俊秀である生徒に負けることは絶対に許されないためだ。
 その彼が再びハーバードで教壇に立つという。しかもこれから8-10年は勤務を続けるそうだ。すごい馬力に深い敬意を表する。今度はハーバードで“競争力”とか“知識ベースの戦略”について教えるという。ハーバードには有名なマイケル・ポーター教授がおり、彼と共同の研究もあるらしい。
 古枯の木は馬齢を重ねすでに77歳。そろそろ人生の幕引きをやろうかと考えていたがT氏の手紙を見てもう少し頑張らねばならぬとの激励と勇気を与えられた。同時にT氏のハーバードでのご健闘を祈る。

古枯の木―2010年9月2日

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朝日新聞の反米主義

朝日新聞の反米主義

 朝日新聞は戦前、戦中、戦後を通じて反米主義で凝り固まっているといわれる。古枯の木が大学生のころは朝日の全盛期で、多くの学生は朝日に毒されて明日にでも共産革命が日本にも起こると信じていた。朝日はソ連、中国のことならなんでも主体性無く、無条件に礼拝し、対ソ中追従を繰り返していた。朝日はソ連、中国の真実の姿を伝えず、その幼児性と未熟性にはいつも辟易としていた。
 戦争中は聖戦という美名の下に戦争を賛美して世の善男善女を騙し続けた。陸軍や海軍の野望の下に大東亜共栄圏の建設に助力した。朝日もまた他の日本のマスコミ同様アメリカ、イギリスを鬼畜米英と呼んではばからなかった。
 ここで一つ戦前の朝日の反米主義を紹介したい。日本の軍閥政府はドイツと結んでアメリカを牽制しようとした。ドイツの特使スターマーの口車に乗せられた結果、松岡洋介外相が中心となって1940年9月27日午後1時15分ベルリンで日独伊三国同盟を締結してしまった。この三国同盟が日本を英米に反対する陣営に投げ込み、やがて太平洋戦争へと発展していくのである。だがこの同盟が締結されたときの朝日の東京における狂喜ぶりはすさまじい。同じ日、朝日は“いまぞ成れり歴史の誓い”という見出しで“決意を眉中に浮かべて、幾度かバンザイを唱えて誓いの盃をあげる日独伊三国の世界史を創る人々”として満面に喜びをたたえる松岡洋介、オットードイツ大使、インデリルイタリア大使らを紹介している。
 松岡洋介は太平洋戦争を引き起こした者として東条英機や近衛文麿とともに万死に値する。同じ理由で朝日も万死に値すると確信する。

古枯の木―2010年9月2日記す。

2010年9月2日木曜日

無敵艦隊

無敵艦隊

 旧日本海軍の提督で海軍屈指の良識派であった堀悌吉は部下の将兵が無敵艦隊という言葉を使用するのを深くたしなめた。無敵艦隊とは向かうところ敵なしの強力な艦隊である。戦時中の小学校で毎日聞いた言葉である。堀はこの言葉は慢心の表れであるとした。
 やはり海軍の良識派の一人で大局をみるの明があった山本五十六とともに掘は第一次大戦後の日本を次のように定義した。“日本人の意識改革は欧米のそれに比較して100は年遅れている。学問、科学技術の水準は30年も遅れている。そしてわが海軍は10年遅れている”と。
 戦時中、不沈戦艦なる言葉も流行した。日本の戦艦は絶対に撃沈されることはないことを強調したものであろう。五十六は“不沈戦艦などありえない”としてこれを一笑に付した。
 ごく最近まで日本人は日本のことを経済大国と呼んでいた。古枯の木は30年以上も経済、貿易の第一線で働いてきたが日本が経済大国だと思ったことは一度もなかったし今もない。いつもこの言葉には大きな嫌悪を感じてきた。経済大国なる言葉もやはり慢心の表れであろう。

古枯の木-2010年9月2日記す。

日米親善 永遠なれ

日米親善 永遠なれ

  1860年咸臨丸が勝海舟やジョン万次郎などを乗せて太平洋を渡ったが、目的地のサンフランシスコで乗組員3人が病死した。2010年8月29日、乗組員の子孫ら約30人が出席して、日米の平和と親善を願う記念碑の除幕式が行われたそうである。その記念碑は”日米親善 永遠なれ“と刻まれ、揮毫したのは徳川将軍18代目の徳川恒孝とのこと。
 問題は“永遠なれ”の言葉である。いったいこの世の中に永遠なるものがあるだろうか。すべてはテンポラリーではないか。日本人は好んで“久遠の友情”とか“永遠の真理”などという言葉を使用するがそんなものがこの世の中に存在するだろうか。哲学者のベイコンは永遠とは悪なるものなりとまで言っている。従って古枯の木は永遠という言葉の使用にはいつも極めて慎重である。

古枯の木―2010年9月1日記す。