共同声明の意味について
最近オバマ大統領が就任後初めてロシアを訪れ、メドベージェフ大統領と会談を行った。彼らの主たる目的は今年12月に失効する第1次戦略兵器削減条約(START 1)に代わる新核軍縮条約について話し合うことで、その結果共同声明が発表された。
日本人はこの共同声明に狂喜した。核軍縮がこれにより急速に進むかのようなイリュージョンを持った。ナイーブな日本の学者の中には世界唯一の被爆国として核軍縮や非核化に日本は主導的役割を果たすべきなどと言い出した。これはドンキホーテ式の空論である。なぜなら軍備弱小な国が世界軍縮史上主導的役割を果たしたことなどは一度もないからだ。
大体共同コミュニケなどというものは余り意味がなく、しかも無害のものが多い。さらにそれにはイデオロギーが含まれている。ベーコンはかつてイデオロギーを欺瞞の意味に用いた。すぐにでも実現するかのように見せかけて世の善男善女を騙すのがイデオロギーであり、宗教の念仏と同じである。そもそもすべての宗教は欺瞞であり、ありもしないことを堂々とあるかのように述べる。でも反対に欺瞞は人間の安心立命のためには必要であるかもしれぬ。
共同コミュニケは当事者の政治的利益を擁護するための思想的武器に過ぎぬ。こんなものに長時間をかけ、余り真剣に議論するのは時間とエネルギーの浪費である。国際政治学の基礎概念はやはりPowerとNational Interest であることを片時も忘れてはならない。
古枯の木――2009年8月19日記す。
2009年8月20日木曜日
2009年8月16日日曜日
2009年8月15日土曜日
敗戦の日に思う
敗戦の日に思う
今年もまた敗戦の日が迫ってきた。この日、古枯の木は中学1年生、学徒動員で戦闘機の部品工場で働いていた。この日朝、工場に着くと正午に玉音放送があるので全員事務所前の広場に集まれと命令された。放送は雑音が多くよく聞き取れなかったが、終わると工場長がポツダム宣言を受諾して日本は戦争に負けたと教えてくれた。同じ工場に働きにきていた女学生の一人が壇上に上がり、“今日から徹夜で働くので戦争を続けてください”と叫んでぶっ倒れてしまった。この放送を聞くまで日本が戦争に負けると思った日本人は極めて少なかったと思う。
だが古枯の木は日本が敗戦に至ることを知っていた数少ない日本人の一人である。1943年8月大学卒業と同時に陸軍に応召した叔父の一人が傷病兵として南洋のラバウルから帰って来た。その頃、国民はまだミッドウエイの敗戦を知らず、いつか日本は勝利するものと確信していた。国内に戦争の緊迫感は全然なかったのである。この叔父が父に向かって“この戦争に必ず日本は負ける。今から敗戦後の準備をしておけ”と言った。
ショックを受けた父が敗戦の理由を質問すると、“アメリカ軍と日本軍では武器の質と量が全く違う。日露戦争に使用された大砲がラバウルまで行っている。こちらが煙幕を張ると相手は弾幕を張る”と回答した。父がさらに“でも日本人には大和魂があるぞ”と反論したところ、叔父は次のように答えた。“あるとき高射砲で敵の戦闘機を撃墜した。パイロットが落下傘で降りてきたのでこれを捕らえて敵情について白状させようとした。ところがこのパイロットは国際法を盾に一切白状しなかった。最後は殴り殺してしまったが、それでも白状しなかった。日本人に大和魂があるかもしれないが、ヤンキーにはヤンキー魂がありこれは見上げたもものだ”説明した。
その頃日本では大学を出た人間の数は極めて限られていた。田舎のまちではとくにその傾向が強かった。小学校しか出ていない筆者の父は大学出を非常に尊敬し、大學出の言うことはいつも正しいと確信していた。いつも大学出についてそのように教えられていた古枯の木は叔父の言うことは正しいものと信じて疑わなかった。叔父の言葉により負けることは充分理解していた。でもいつ負けるかは分からなかったが、それがついに8月15日にきたわけだ。
それにしても余りにも無謀な戦争を引き起こし、国民を悲劇のどん底に陥れ、塗炭の苦しみを与えながら東条英機、松岡洋介、近衛文麿らはまだ一度も国民に謝罪していない。彼らほど無責任、無定見、不条理の輩はない。いつも8月15日がくると思いを馳せるのはこのことである。
古枯の木――2009年8月14日記す。
今年もまた敗戦の日が迫ってきた。この日、古枯の木は中学1年生、学徒動員で戦闘機の部品工場で働いていた。この日朝、工場に着くと正午に玉音放送があるので全員事務所前の広場に集まれと命令された。放送は雑音が多くよく聞き取れなかったが、終わると工場長がポツダム宣言を受諾して日本は戦争に負けたと教えてくれた。同じ工場に働きにきていた女学生の一人が壇上に上がり、“今日から徹夜で働くので戦争を続けてください”と叫んでぶっ倒れてしまった。この放送を聞くまで日本が戦争に負けると思った日本人は極めて少なかったと思う。
だが古枯の木は日本が敗戦に至ることを知っていた数少ない日本人の一人である。1943年8月大学卒業と同時に陸軍に応召した叔父の一人が傷病兵として南洋のラバウルから帰って来た。その頃、国民はまだミッドウエイの敗戦を知らず、いつか日本は勝利するものと確信していた。国内に戦争の緊迫感は全然なかったのである。この叔父が父に向かって“この戦争に必ず日本は負ける。今から敗戦後の準備をしておけ”と言った。
ショックを受けた父が敗戦の理由を質問すると、“アメリカ軍と日本軍では武器の質と量が全く違う。日露戦争に使用された大砲がラバウルまで行っている。こちらが煙幕を張ると相手は弾幕を張る”と回答した。父がさらに“でも日本人には大和魂があるぞ”と反論したところ、叔父は次のように答えた。“あるとき高射砲で敵の戦闘機を撃墜した。パイロットが落下傘で降りてきたのでこれを捕らえて敵情について白状させようとした。ところがこのパイロットは国際法を盾に一切白状しなかった。最後は殴り殺してしまったが、それでも白状しなかった。日本人に大和魂があるかもしれないが、ヤンキーにはヤンキー魂がありこれは見上げたもものだ”説明した。
その頃日本では大学を出た人間の数は極めて限られていた。田舎のまちではとくにその傾向が強かった。小学校しか出ていない筆者の父は大学出を非常に尊敬し、大學出の言うことはいつも正しいと確信していた。いつも大学出についてそのように教えられていた古枯の木は叔父の言うことは正しいものと信じて疑わなかった。叔父の言葉により負けることは充分理解していた。でもいつ負けるかは分からなかったが、それがついに8月15日にきたわけだ。
それにしても余りにも無謀な戦争を引き起こし、国民を悲劇のどん底に陥れ、塗炭の苦しみを与えながら東条英機、松岡洋介、近衛文麿らはまだ一度も国民に謝罪していない。彼らほど無責任、無定見、不条理の輩はない。いつも8月15日がくると思いを馳せるのはこのことである。
古枯の木――2009年8月14日記す。
2009年8月7日金曜日
3番目の原爆
3番目の原爆
アメリカは第3番目の原爆を新潟に落とす予定であったと一般に広く信じられている。古枯の木は新潟県の新潟市ではなくて山本五十六の生誕地である新潟県の長岡市が標的ではなかったかと長年考えていた。
2009年7月2日ロスで“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。そのとき新聞で発表された講演会の予告記事や講演会当日出席者に渡したハンドアウトそれに長岡出身で100歳の猪瀬夫人のエピソードなどを交えた手紙を長岡市の山本五十六記念館に送った。古枯の木はいままでこの記念館を2度訪問している。
ごく最近長岡市の商工会議所内にある山本元帥景仰会からこの手紙に対する礼状が届いた。同時に本年7月17日に発刊された“山本五十六の覚悟”なる書籍が親切にも同封されていた。直ちに通読したがこれは五十六研究上きわめて有益な書籍である。その中に注目すべき一文がある。
長岡市は敗戦直前の8月1日空襲を受け、市の80%が壊滅し、死者630人を出した。これは長岡市の第1回目の空襲であったと考えていた。ところが上述の本ではこれは第2回目の空襲であったそうな。第1回目は7月20日午前8時過ぎで模擬原爆が長岡市の郊外に投下され、4人が即死、5人が負傷、集落の家屋全部が爆風による被害を受けたとある。これは原爆投下の訓練の一環であったことが最近判明したそうである。
太平洋戦争の開戦時、日本は38隻の潜水艦を保有していた。そのうち35隻が艦隊決戦用で残りの3隻のみが通商破壊用だった。この用法の誤りに気がついたのは敗戦間近のことだった。これにより通商破壊用に向けられたわが潜水艦が幸運にも単独で航行する巡洋艦インディアナポリスを発見し、これを撃沈したのである。この巡洋艦には新潟に落下予定の第3番目の原爆が搭載されていたということは一般によく知られている。
“Admiral of The Pacific”の著者であるJohn D. Potter は真珠湾攻撃の直後、五十六は突如全アメリカ人のpersonal foe となり、アメリカ人は五十六をembodiment of evil enemy, the stab-in-the –back aggressor であるとして非難したと述べている。それほどまでにアメリカ人は五十六を憎んでいたのだ。アメリカ軍は五十六の生誕地が長岡であることを知っており、おそらく“五十六みておれ”の復讐心で原爆の長岡投下を計画していたのではないかと古枯の木は考える。名著“山本五十六の覚悟”はこの点少し実証的に語っているように思えてならない。
古枯の木――2009年8月6日記す。
アメリカは第3番目の原爆を新潟に落とす予定であったと一般に広く信じられている。古枯の木は新潟県の新潟市ではなくて山本五十六の生誕地である新潟県の長岡市が標的ではなかったかと長年考えていた。
2009年7月2日ロスで“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。そのとき新聞で発表された講演会の予告記事や講演会当日出席者に渡したハンドアウトそれに長岡出身で100歳の猪瀬夫人のエピソードなどを交えた手紙を長岡市の山本五十六記念館に送った。古枯の木はいままでこの記念館を2度訪問している。
ごく最近長岡市の商工会議所内にある山本元帥景仰会からこの手紙に対する礼状が届いた。同時に本年7月17日に発刊された“山本五十六の覚悟”なる書籍が親切にも同封されていた。直ちに通読したがこれは五十六研究上きわめて有益な書籍である。その中に注目すべき一文がある。
長岡市は敗戦直前の8月1日空襲を受け、市の80%が壊滅し、死者630人を出した。これは長岡市の第1回目の空襲であったと考えていた。ところが上述の本ではこれは第2回目の空襲であったそうな。第1回目は7月20日午前8時過ぎで模擬原爆が長岡市の郊外に投下され、4人が即死、5人が負傷、集落の家屋全部が爆風による被害を受けたとある。これは原爆投下の訓練の一環であったことが最近判明したそうである。
太平洋戦争の開戦時、日本は38隻の潜水艦を保有していた。そのうち35隻が艦隊決戦用で残りの3隻のみが通商破壊用だった。この用法の誤りに気がついたのは敗戦間近のことだった。これにより通商破壊用に向けられたわが潜水艦が幸運にも単独で航行する巡洋艦インディアナポリスを発見し、これを撃沈したのである。この巡洋艦には新潟に落下予定の第3番目の原爆が搭載されていたということは一般によく知られている。
“Admiral of The Pacific”の著者であるJohn D. Potter は真珠湾攻撃の直後、五十六は突如全アメリカ人のpersonal foe となり、アメリカ人は五十六をembodiment of evil enemy, the stab-in-the –back aggressor であるとして非難したと述べている。それほどまでにアメリカ人は五十六を憎んでいたのだ。アメリカ軍は五十六の生誕地が長岡であることを知っており、おそらく“五十六みておれ”の復讐心で原爆の長岡投下を計画していたのではないかと古枯の木は考える。名著“山本五十六の覚悟”はこの点少し実証的に語っているように思えてならない。
古枯の木――2009年8月6日記す。
2009年8月6日木曜日
シベリア出兵の教訓
シベリア出兵の教訓
日本は1918年8月から22年10月までシベリアに出兵し、駐留したが、戦費9億円、5千人余りの死傷者を出し、最後は一物も得ずして撤兵するという悲しむべき暗黒の1ページでを持つ。チェック兵の救済という所期の目的を達成すると1920年8月までに米、仏、伊、支、ポーランド、セルビア、ルーマニアの諸国はいずれも撤兵を完了したが、ひとり日本のみ駐留を続け、そのため住民には反日感情が芽生え、列強からは日本の領土的野心を疑われたのである。1945年8月ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵入したが、多くの外国の歴史書はこれを“ソ連は復讐を果たした”と簡単に片付けている。多分復讐の中には日露戦争、シベリア出兵とそれにノモンハン事件に対するものが含まれているのだろう。
さてチェック軍とは何であったか説明しておきたい。チェック軍とはオーストリア軍の中にあって第一次大戦が始まるや否やロシア軍に降伏し、反対に独墺軍と戦った数万の民族的兵士のことである。ところが1918年ドイツとロシアの間にブレストリトウスク条約が締結されると彼らは行き場を失った。ロシアの離脱により東部戦線から開放された独墺軍100万が西部戦線に向かいつつあった。このため連合軍にはウラル地方に一つの戦線を構築して独墺軍を背後から脅かそうとする計画が持ち上がった。その方策としてチェック軍を救済し、東行させ、その後船舶で輸送してウラル戦線に投入することになった。だが、レーニンの共産主義政府はドイツの支配下にあり、各地でチェック軍が共産軍に攻撃されるという事態が発生した。
チェック軍の救済という観点からシベリア出兵は充分に理由のあることである。後世の学者の中にこれを無名の師と呼んで非難する者がいるが、彼らの非難に正当性はない。だが日本はチェック軍の救済以外にレーニンの共産軍の東漸に対し、これと戦うべきがどうかで躊躇浸潤した。内政不干渉の傍観主義を取るかと思えば、両軍が各々数千人の規模で激闘を演ずるというようなこともあった。つまり共産軍と戦うべきかどうかで断を欠き、戦うようで戦わず、戦わないようで戦ったところに悲劇の根本があった。さらに共産軍以外に労働者、農民のゲリラの問題もあった。
アメリカの強い要請により日本は1918年8月出兵を始め、わずか一カ月で沿海州を占領し、その後も順調に戦線を西に向け拡大し、チェック軍との連絡に成功した。問題はその後である。具体的政治目標、戦略、戦争目的、外交、信念が不確定で、一貫せず、共産軍の東漸に対処するとか、朝鮮との国境を保全するとか、居留民を保護するとんかのスローガンを掲げたもののいつも中間に彷徨し、シベリアの荒野に無為無策の駐兵を続けた。
この間に軍司令官の交代が3回、師団の動員数数コ師、しかも増派と撤退を繰り返すという体たらくだった。田中大隊、西川大隊は全滅し、兵隊の2割が凍傷に罹った。ウラジオストックやニコライエフスクの惨劇があった。とくに後者では日本軍守備隊と居留民全員が虐殺された。そのとき摩訶不思議なことが起こった。世界でもっとも信用でぬ共産軍を信用して自軍の通信不能のとき彼らに電信の送受信を委託してしまったのだ。たちまち共産軍の謀略と奸計に陥ってしまった。
1919年ベルサイユ条約が締結されると英仏伊は戦意を喪失し、共産軍は逆襲に転じ、反ソビエト政権は凋落し、住民は変心して民族主義的観点から共産政権に同情を示し、反日に転化した。日本政府はソビエト政権を崩壊させた後撤兵すべきと考えてようだが、それに対しても断固たる措置がとれなかった。
シベリア出兵には多くの教訓が厳存する。国連の最大の任務は国際平和と安全の維持であり、国連それ自体が一つの大きな集団安全保障機構である。イラク戦争のとき日本はイラクに出兵した。それは平和維持活動への参加と呼ばれたが、事実は戦争への参加である。今後ますますそのような出兵の機会が増えると思われる。そのとき注意すべきことがある。それは確固たる政治目的である。戦争論の著者のクラウエウイッツは“戦争とは他の手段による政治の延長である”と道破した。戦争とは政治目的という女王に仕える侍女のようなものであり、あくまで中心は政治だ。
ここで歴史上有名なノモンハン事件に触れたい。ノモンハンとは旧満州国と旧外蒙古の間を流れるハルハ河沿いの一寒村である。この河を1939年5月12日700人の外蒙古騎兵隊が渡って満州に侵入してきた。外蒙古の後ろにはソ連軍がおり、ソ連軍と日本軍の間で戦争が始まった。この戦争で日本軍は装備と火力の点で格段にソ連軍に劣り大敗を喫した。新しい国境はハルハ河より遥か東に決められた。後にソ連の国防相になるジューコフ司令官は国境画定という政治目的を達成するや否やトーチカ2-3個を残してサッと引き揚げた。見事な撤収ぶりである。無責任な帝国陸軍の辻政信参謀はノモンハンでは勝ったと言い張るがこれは彼特有の詭弁である。
すでに述べたようにシベリア出兵はきわめて多くの教訓をわれわれに提供する。一番重要なことは確固たる政治目標、戦略目標そして作戦思想である。しかも政治目標は大きなものではなくてなるべく限定的なものがよい。目標を達成したら機を逸せず撤収することだ。ひとり居残るなどは愚の骨頂であり、被占領地の国民を敵にするなどは論外である。
古枯の木――2009年8月6日記す。
日本は1918年8月から22年10月までシベリアに出兵し、駐留したが、戦費9億円、5千人余りの死傷者を出し、最後は一物も得ずして撤兵するという悲しむべき暗黒の1ページでを持つ。チェック兵の救済という所期の目的を達成すると1920年8月までに米、仏、伊、支、ポーランド、セルビア、ルーマニアの諸国はいずれも撤兵を完了したが、ひとり日本のみ駐留を続け、そのため住民には反日感情が芽生え、列強からは日本の領土的野心を疑われたのである。1945年8月ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵入したが、多くの外国の歴史書はこれを“ソ連は復讐を果たした”と簡単に片付けている。多分復讐の中には日露戦争、シベリア出兵とそれにノモンハン事件に対するものが含まれているのだろう。
さてチェック軍とは何であったか説明しておきたい。チェック軍とはオーストリア軍の中にあって第一次大戦が始まるや否やロシア軍に降伏し、反対に独墺軍と戦った数万の民族的兵士のことである。ところが1918年ドイツとロシアの間にブレストリトウスク条約が締結されると彼らは行き場を失った。ロシアの離脱により東部戦線から開放された独墺軍100万が西部戦線に向かいつつあった。このため連合軍にはウラル地方に一つの戦線を構築して独墺軍を背後から脅かそうとする計画が持ち上がった。その方策としてチェック軍を救済し、東行させ、その後船舶で輸送してウラル戦線に投入することになった。だが、レーニンの共産主義政府はドイツの支配下にあり、各地でチェック軍が共産軍に攻撃されるという事態が発生した。
チェック軍の救済という観点からシベリア出兵は充分に理由のあることである。後世の学者の中にこれを無名の師と呼んで非難する者がいるが、彼らの非難に正当性はない。だが日本はチェック軍の救済以外にレーニンの共産軍の東漸に対し、これと戦うべきがどうかで躊躇浸潤した。内政不干渉の傍観主義を取るかと思えば、両軍が各々数千人の規模で激闘を演ずるというようなこともあった。つまり共産軍と戦うべきかどうかで断を欠き、戦うようで戦わず、戦わないようで戦ったところに悲劇の根本があった。さらに共産軍以外に労働者、農民のゲリラの問題もあった。
アメリカの強い要請により日本は1918年8月出兵を始め、わずか一カ月で沿海州を占領し、その後も順調に戦線を西に向け拡大し、チェック軍との連絡に成功した。問題はその後である。具体的政治目標、戦略、戦争目的、外交、信念が不確定で、一貫せず、共産軍の東漸に対処するとか、朝鮮との国境を保全するとか、居留民を保護するとんかのスローガンを掲げたもののいつも中間に彷徨し、シベリアの荒野に無為無策の駐兵を続けた。
この間に軍司令官の交代が3回、師団の動員数数コ師、しかも増派と撤退を繰り返すという体たらくだった。田中大隊、西川大隊は全滅し、兵隊の2割が凍傷に罹った。ウラジオストックやニコライエフスクの惨劇があった。とくに後者では日本軍守備隊と居留民全員が虐殺された。そのとき摩訶不思議なことが起こった。世界でもっとも信用でぬ共産軍を信用して自軍の通信不能のとき彼らに電信の送受信を委託してしまったのだ。たちまち共産軍の謀略と奸計に陥ってしまった。
1919年ベルサイユ条約が締結されると英仏伊は戦意を喪失し、共産軍は逆襲に転じ、反ソビエト政権は凋落し、住民は変心して民族主義的観点から共産政権に同情を示し、反日に転化した。日本政府はソビエト政権を崩壊させた後撤兵すべきと考えてようだが、それに対しても断固たる措置がとれなかった。
シベリア出兵には多くの教訓が厳存する。国連の最大の任務は国際平和と安全の維持であり、国連それ自体が一つの大きな集団安全保障機構である。イラク戦争のとき日本はイラクに出兵した。それは平和維持活動への参加と呼ばれたが、事実は戦争への参加である。今後ますますそのような出兵の機会が増えると思われる。そのとき注意すべきことがある。それは確固たる政治目的である。戦争論の著者のクラウエウイッツは“戦争とは他の手段による政治の延長である”と道破した。戦争とは政治目的という女王に仕える侍女のようなものであり、あくまで中心は政治だ。
ここで歴史上有名なノモンハン事件に触れたい。ノモンハンとは旧満州国と旧外蒙古の間を流れるハルハ河沿いの一寒村である。この河を1939年5月12日700人の外蒙古騎兵隊が渡って満州に侵入してきた。外蒙古の後ろにはソ連軍がおり、ソ連軍と日本軍の間で戦争が始まった。この戦争で日本軍は装備と火力の点で格段にソ連軍に劣り大敗を喫した。新しい国境はハルハ河より遥か東に決められた。後にソ連の国防相になるジューコフ司令官は国境画定という政治目的を達成するや否やトーチカ2-3個を残してサッと引き揚げた。見事な撤収ぶりである。無責任な帝国陸軍の辻政信参謀はノモンハンでは勝ったと言い張るがこれは彼特有の詭弁である。
すでに述べたようにシベリア出兵はきわめて多くの教訓をわれわれに提供する。一番重要なことは確固たる政治目標、戦略目標そして作戦思想である。しかも政治目標は大きなものではなくてなるべく限定的なものがよい。目標を達成したら機を逸せず撤収することだ。ひとり居残るなどは愚の骨頂であり、被占領地の国民を敵にするなどは論外である。
古枯の木――2009年8月6日記す。
2009年8月2日日曜日
弱さ故の脅威
弱さ故の脅威
最近、桜井よしこが“桜井よしこの憂国”という書籍を出版したそうである。古枯の木はまだそれを読んでいないが、その中で桜井は“弱い味方は強い敵よりも恐ろしい”と言って日本のことを揶揄しているらしい。これは敗戦後、自国を守るための意思を放棄し、他国に自国の安全を委ねた日本のことだ。
この点に関し有名な事例が外交史上存在する。オスマントルコは1299年に建設され、無慈悲、無情の征服戦争(ジハード)により14世紀には版図を著しく拡大した。エジプト、スーダン、モロッコ、メソポタミア、シリア、ウイーン、中央アジアなどはすべてトルコに属した。ところが19世紀に入りセルビア、ギリシャが独立してから急激に勢力が衰え始め、20世紀に入るとトルコは“弱さ故の脅威”と呼ばれるようになった。それはトルコ領を狙うロシアに対し、西欧列強がトルコが軍事的に弱いためにロシアにより侵食され、仮想敵国のロシアよりもトルコに対し大きな脅威を感じはじめたからだ。
敗戦後、日本は軍事的に極東の一寸法師になり、平和憲法を呪詛していれば日本の平和と安全は確保されるとかん違いし始めた。だが日本の平和と安全が確保されたのはアメリカにおんぶしてきたからである。中国、韓国、北朝鮮は虎視眈々日本を狙っている。いつまでたっても自衛能力を向上させず、集団的自衛権のつまらぬ法解釈にうつつを抜かす日本をアメリカが“弱さ故の脅威”と感じ、日本が第2のオスマントルコになるかもしれぬという疑念を持つかもしれない。
古枯の木――2009年8月1日記す。
最近、桜井よしこが“桜井よしこの憂国”という書籍を出版したそうである。古枯の木はまだそれを読んでいないが、その中で桜井は“弱い味方は強い敵よりも恐ろしい”と言って日本のことを揶揄しているらしい。これは敗戦後、自国を守るための意思を放棄し、他国に自国の安全を委ねた日本のことだ。
この点に関し有名な事例が外交史上存在する。オスマントルコは1299年に建設され、無慈悲、無情の征服戦争(ジハード)により14世紀には版図を著しく拡大した。エジプト、スーダン、モロッコ、メソポタミア、シリア、ウイーン、中央アジアなどはすべてトルコに属した。ところが19世紀に入りセルビア、ギリシャが独立してから急激に勢力が衰え始め、20世紀に入るとトルコは“弱さ故の脅威”と呼ばれるようになった。それはトルコ領を狙うロシアに対し、西欧列強がトルコが軍事的に弱いためにロシアにより侵食され、仮想敵国のロシアよりもトルコに対し大きな脅威を感じはじめたからだ。
敗戦後、日本は軍事的に極東の一寸法師になり、平和憲法を呪詛していれば日本の平和と安全は確保されるとかん違いし始めた。だが日本の平和と安全が確保されたのはアメリカにおんぶしてきたからである。中国、韓国、北朝鮮は虎視眈々日本を狙っている。いつまでたっても自衛能力を向上させず、集団的自衛権のつまらぬ法解釈にうつつを抜かす日本をアメリカが“弱さ故の脅威”と感じ、日本が第2のオスマントルコになるかもしれぬという疑念を持つかもしれない。
古枯の木――2009年8月1日記す。
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