2010年6月30日水曜日

三つの墓参

三つの墓参

 2010年4月15日から5月13日まで訪日したが、この間に三つの墓に詣でた。第一回目は4月24日の午後、新潟県長岡市の禅寺の長興寺にある山本五十六の墓。4月18日が彼の命日であるためか墓にはフレッシュな花がそえられていた。古枯の木は霊感が強い方ではないが、このときは対米戦争に反対しながら、その戦争に巻き込まれていった彼の無念さがひしひしと感じられた。
 第二回目は愛知県新城市長篠にある長篠古戦場。JR飯田線の三河東郷駅から歩いて北に20分ぐらいのところにある。訪問日は4月28日夕方。ここは1576年6月29日、武田勝頼の騎馬軍団が織田・徳川連合軍の鉄砲隊に完膚なきまでに打ちのめされたところである。近くを流れる連吾川に沿って作られた馬防柵は大変印象的だった。多分武田軍のものと思われる無名戦士の小さな石造の墓が暗い森の中に無数にあった。そのうちの数個の墓に詣でたが、無能な総大将にたいする彼らの恨みが強く伝わってきた。
 第三回目は5月1日午後2時ごろ。94歳で亡くなった義母の納骨の日。快晴。天寿を全うしたわけだから、坊主を含めて全員が陽気だった。いろいろなジョークも飛び出た。去年5月に訪問したルーマニアには“陽気な墓地”というものがあり、墓碑銘にはずいぶん楽しいことが書かれていると聞いた。ルーマニア人は葬式が遊びのきっかけになると信じているとも伝えられた。

古枯の木―2010年6月29日記す

講演会を終えて

講演会を終えて
ルーマニア外交の一考察

 2010年6月24日午後7時から9時半まで当地のTorrance Plaza Hotel で“ルーマニアーその悲劇の歴史と現在および将来の展望”と題した講演を行った。今回はルーマニアの歴史的背景を古枯の木が、現在の問題点と将来の展望を中井美鈴さんが担当した。中井さんは敬虔なクリスチャンであるとともに古枯の木のキリスト教の先生でもある。
歴史上、ベルギーは“ヨーロッパの闘鶏場(Cockpit)”といわれる。これは英、独、仏の3強国がいつも虎視眈々ベルギーを狙っていたからである。これにたいしルーマニアは“ドナウ河口のベルギー”と呼ばれている。因みにルーマニアは古来、ローマ、ポーランド、蒙古、オスマントルコ、ハンガリー、ロシアなどと支配者が次々に変わった。近代では露、墺、土の3大民族の争奪の場であった。現代ではソ連、ドイツの相克の場となった。
 次々に異民族の支配を受け、さらに内部紛争、軋轢のため、民族国家の形成に時間がかかり過ぎ、オスマントルコから独立したのはやっと1878年のベルリン会議のときだった。一旦国家が形成されると他国の干渉が強かったため、かえって民族的感情は大変強固なものとなった。1967年モントリオール・オリンピックの金メダリストであるNadia Comaneciは、“私はスポーツが大好きだ。でもスポーツよりもっと好きなものがある。それはルーマニアだ”といっている。
 ルーマニア人のフランスにたいする思いは大変深い。首都のブカレストは“バルカンの小パリー”と呼ばれている。ナポレオンはルーマニアの独立に理解を示したし、フランス語はいまでも最も人気のある外国語で“麗しき天使の言葉”といわれている。“祖国への愛とフランスへの情”こそがルーマニア人の民族感情であろう。
 第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて、ルーマニアは常に親西欧の自主外交を展開した。第一次大戦ではオーストリー・ハンガリー帝国(1916年8月27日)と独墺帝国(1918年11月18日)に宣戦布告をしたが、英仏にたいしては中立を守った。戦後のベルサイユ会議では領土を2倍に膨張させることができた。
 第二次大戦では日独伊3国同盟の準メンバーでありながら対独協調には大きなリミットを設定した。勇敢な軍政家であり有能な首相であったIon Antonescu(Ion  はロシア語のイワン、英語のジョーン)はユダヤ人のポーランド送りを敢然と拒否し、ドイツ軍の命令の多くを部下に伝えなかった。英独戦に参加せず、対ソ限定作戦をヒットラーに要求し,た。ルーマニア固有の領土であったべサラビアを回復するとそれ以上には対ソ戦を拡大したくなかったが、ヒットラーの恐喝によりオデサやスターリングラードへの進軍を余儀なくされた。1943年の夏から極秘に対英講和条約を模索し始めている。
 1944年8月赤軍が迫ると反枢軸クーデターを起こし、24日対独宣戦布告を発した。予断ながら31日赤軍がブカレストを占領したが、ルーマニア人が酒に酔ったソ連兵から最初に聞いたロシア語は“ダバイ”だった。これは英語の“Give me”で、かれらはダバイ、ダバイと叫びながら酒、食料、女、腕時計、貴金属のすべてを略奪していった。ついでながら日本軍が1941年12月8日真珠湾を攻撃したとき、ルーマニアはアメリカにたいして同情を示したが、日本には大いなる不快感を表した。
 日本外交は敗戦後一貫して親米外交である。これは一面結構なことである。だが親米一辺倒の淡白な外交ではなくルーマニアのように少しは狡猾な怜悧さをもった“親米の自主外交”に転換せぬかと祈るや切である。

古枯の木―2010年6月28日記す。

講演会を終えて

2010年6月20日日曜日

よしこさんのその後

よしこさんのその後

 “山本五十六とロサンゼルス”の中で紹介した猪瀬よしこさんは今も健在。今秋102歳になられるが、自宅に茶室を持ち、着物を着て茶道を教えておられる。長寿を秘訣を尋ねたところ、いつも何かに熱中することだと言っておられた。
 如水会報の5月号に掲載された古枯の木のエッセイのコピーを差し上げたところ大変感激され、一家の宝物にしたいと言われた。よしこさんが五十六に会ったのは1928年だがそのことに触れたとき、“まさか15年後に元帥が南冥の果てに散華されるとは夢想だにしなかった”と言っておいおい泣いておられた。
 2010年4月24日、古枯の木は長岡市の長興寺にある五十六の墓に詣でた。4月18日が五十六の命日であるためか新しい花が供えられていた。五十六の隣の墓がよしこさんの実家の渋谷家のものである。このほうににも敬意を表した。

 古枯の木

よしこさんのそのごご

如水会報への寄稿について

皆さん

 古枯の木は母校の同窓会会報である如水会報の2010年5月号に”山本五十六とロサンゼルス”なるエッセイを寄稿しました。多くの読者からコメントをいただきましたが、そのうちの一部を次に紹介します。

1.五十六を軍政家と用兵家に分けて分析したのは面白い。
2.五十六を連合艦隊司令長官ではなくて海軍大臣か海軍次官にしておけば日米戦争は避けられたかもしれない。
3.帝国陸海軍はまったくぐーたらだったが、五十六だけは違ったという観念を強くした。
4.五十六が航空主兵主義を採用した経緯を知りたい。
5.ソロモン諸島の消耗戦はアメリカにとっても消耗戦であったか。(そうです。アメリカはこの戦いをattrition without intermissionと呼んでいました)
6.五十六の生地の長岡は空襲を受けたか。(はい、1945年8月1日、B29 126機による空襲を受け、町の80%が灰燼に帰しました。でも駅前にあった連合軍の捕虜収容場は無傷。さらに同年7月には長岡市の郊外に模擬原爆が投下され多くの村人が即死しました)

 古枯の木

講演会のご案内

講演会のお知らせ

 コンピュータの不調のため、長らくブログを休みました。やっと修復されたので、これから沢山ブログを送りたいと思います。
 さて先にお知らせしたように、6月24日午後7時から9時までTorrance Plaza Hotel で“ルーマニアーその悲劇の歴史と現在、将来の展望”と題した講演を行います。今回は中井美鈴さんと二人でやりますが、古枯の木が主にルーマニアの歴史的背景を、中井さんが現在および将来の問題点について説明します。古枯の木は昨春初めてルーマニアを訪問しましたが、中井さんはいままでに数回かの地を訪問しています。彼女は大変敬虔ななクリスチャンです。
 古枯の木はこの講演の中で、外交とは何か、歴史家と作家の歴史観の違い、歴史は本当に繰り返すかなどについても自説を展開します。
 どうか興味と時間のある方は是非おいでください。ただし参加費として$9.00が必要です。

古枯の木