2009年7月31日金曜日

広島、長崎の日に思う

広島、長崎の日に思う

 今年も広島と長崎に原爆が投下された日が近づく。毎年ながら戦争の惨害と平和に対するマスコミの無責任な宣伝攻勢は激しい。新聞はカミの増加を、テレビは視聴率の上昇を図っているとしか思われない。マスコミの攻勢にもかかわらず最も重要なことは戦争の惨害を知る理性の力のみによっては世界の平和は決して得られないことを知ることである。
 また日本の進歩的学者の中には日本は核廃絶運動や軍備縮小運動で主導的役割を果たすべきだと主張する者がいる。だがこれはまったくナンセンスな議論であり、ドンキホーテ的主張である。軍備弱小の国がいまだかつて軍縮において主導権をとったことは歴史上一度もない。かかる主張は貧乏人が金持ちに向かって、ただいたずらに金をすてよ、金を捨てよと叫ぶのに等しい。
 日本の平和を維持するためには強力な軍備が必要だ。だがある日本の文化人は日本が軍備を増強すれば、それだけ攻撃を受けやすくなると主張する。では訊きたい。交番を設置したら犯罪は増えるかと。古枯の木はトーレンスという町に住んでいる。この町のあるアメリカ人の古老に聞いた。トーレンスで新しい消防署を設置したらその翌日この消防署が火災で焼失したと。日本の文化人の言うことは正しいかも知れない。
古枯の木――2009年7月30日記す。

2009年7月26日日曜日

みかん箱二つ

みかん箱二つ

 古枯の木の知り合いのおばあさんで最近92歳で亡くなられた方がある。この方のご主人は大阪大学医学部の教授を長年勤められ、退官後は医院を開業されていたのでかなりの財産があったものと思われる。85歳を過ぎたころみかん箱二つを見せられ、彼女の持ち物全部と全財産がこの中に入っていると告げられた。もっとも印象に残った彼女の言葉は“死人は生きている人間になるべく迷惑をかけるべきではない”であった。
 古枯の木は家の中にジャンクの余りにも多いことに気がつき数年前からその整理に追われてきた。おばあさんの生活態度や助言に刺激されたことはいうまでもない。棚や引き出しを空にする運動であり、これを自らカラカラ運動と名づけてきたが、みかん箱二つに収めるのには前途遼遠である。死の直前にはみか箱2個は無理にしてもせめて8個ぐらいには収めたいと考えている。

 古枯の木――2009年7月25日記す。

2009年7月25日土曜日

ドイツ人と日本人の戦争観

ドイツ人と日本人の戦争観

 よく日本人とドイツ人との類似点が指摘される。一般的には両者は勤勉で、几帳面であり、がまん強く、個人の利益よりも団体の利益を重んじ、団体内の調和を心がけるなどといわれている。だが両者の戦争観には月とスッポンほどの違いがある。
 学生時代、学習院大学の教授で今の天皇の皇太子時代に彼の家庭教師をしていたイギリス人ブライス博士の話を聞いたことがある。博士は第二次大戦中の日独人の戦争観の相違につき概要次のように説明した。
1. 日本人はムードに弱く“戦争に勝った、勝つぞ”といって自己陶酔に陥り、集団催眠にかかったように浮かれていたが、ドイツ人は戦争(war)ではなく特定の戦闘(battle)に勝てるかどうかを冷静にしかも第三者的に観察をしていた。その点で日本人に比しドイツ人はさめた目を持っていたといえる。
2. 日本では戦時中“贅沢は敵だ”とのモットーによりパーマネントや華美な服装は禁止され質素な生活が強制された。パーマネントをした都会の女性を見ると“ツバメの巣の髪型”とののしって石を投げる不逞の輩もいた。だがドイツの若者は“青春は短い。戦争によりこれはもっと短くなるかもしれない。命あるる内に青春を大いに楽しもう”といって仕事が終わると毎晩着飾ってダンスに出かけた。
3. 狭い潜水艦に勤務する者の苦労は大変なものである。勤務が一度終了すると日本では乗組員を熱海の料亭に集め、一晩食えや飲めやの大宴会を催した。ところがドイツの潜水艦がはるばるドイツからシンガポールや呉に到着すると乗組員たちは到着の翌朝から将来のさらなる困難に耐え体力作りのためにテニスに精を出した。
4. 日本人は召集令状が来ると自分は戦争に行きたくないが、反抗もできないのでしぶしぶ応召した。他人が徴兵されるのには大賛成だが、自分や身内の者が戦地へ行くのを嫌悪した。だがドイツ人は招集礼状にたいし、自分も第三帝国の建設に参加できることを大きな誇りとして応召した。親もまた喜んで息子を送り出した。これは日独人の間の越ゆべからざる政治哲学の相違だ。
 日本人とドイツじんでは宗教、文化、言語、歴史、体格、皮膚の色などで共通点は皆無だ。中でももっとも大きな相違点は上述アイテム4の政治哲学ではないだろうか。

   古枯の木――2009年7月23日記す。

2009年7月7日火曜日

怒ると叱る

 日本語は難しい。7月2日の講演会の後、”読む”と”ヨミ”の違いについて意見を寄せてくださった人がいた。また講演で使用した”兵站補給”は何と読み、どんな意味があるのかと訊いてくるインテリーの女性もいた。

 日本人はよく”怒る”と”叱る”を混同して使用しているように見受けられる。怒るは単に感情的に怒りを発するのみであるが、叱るは相手のためを思って矯正、諭すことである。教育上の見地からは叱るほうが怒るよりも数倍いい。

 古枯の木ーーー2009年7月7日(七夕の日)記す。

講演会を終えて

講演会を終えて

 古枯の木は2009年7月2日、トーレンス市の倫理研究所で“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。定員50名のところに55名が出席してくれた。主宰者の話ではさらに10数名の応募者があったが、椅子の数不足のため残念ながら断ったとのこと。2時間以上も運転して来てくれた知人やタクシーで駆けつけてくれた女性もいた。まことに感謝すべきことである。
 五十六の評価では軍政家(軍人でありながら高度な政治的判断を求められる人)としての五十六と用兵家(戦争の現場で作戦指揮をとる人)としての五十六に分けて行った。軍政家としての五十六は1936年から1940年までの3年7か月にわたり日独伊3国同盟に反対し、海軍内の下克上を封鎖してくれた。この点、彼にいくら感謝しても感謝しきれぬ。だが五十六の用兵家としての資質には若干疑問点がある。
 五十六は日本の国力の限界を知り、アメリカに勝てるとは思わなかった。だが政府、マスコミ、国民は無敵艦隊、天下無敵を呼号し、アメリカ弱しとの過信を捨て切れなかった。日本国民はムードに弱く、現実を直視しない、集団催眠や自己陶酔にかかったように雪崩を打って戦争賛美の方向に傾斜して行った。これは五十六が最も恐れた日本国民の欠点であり、古枯の木には今でも日本国民がその欠点を引きずっているように思える。
 ロスの新聞社が講演会予告の記事を発表したときトーレンス在住の100歳の女性から手紙を受け取った。この女性の母親が五十六の小学校のときの同級生で、クラスではいつも五十六が一番、彼女の母親が二番だったそうな。五十六は長岡の町ではつとに神童の誉れが高かったとも書かれている。主宰者はこの女性を講演会に招待したいと申し入れたが、年齢を理由に断られたとのこと。この女性からの手紙は新聞社の人により全員の前で朗読された。
 またある女性は五十六の多磨霊園内の墓の写真をくれた。東郷元帥の墓の横にあるのが印象的だ。1943年6月5日、五十六の国葬が日比谷公園で営まれたが、級長としてこの国葬に参加した女性もいた。UCLAで歴史を学ぶうら若き女性も参加者の一人だった。専攻は第2次大戦原因論。教授は空軍の見地から研究をするよう勧めるが、小生の話を聞いてからは海軍の見地からも研究をしたいという。ありがたい言葉である。
 特攻隊の生き残りという人が海軍の戦闘帽をかぶって来ていた。五十六を今でも高く尊崇しているとのこと。また元海軍経理学校に在学した老弁護士もいた。五十六は帝国海軍の英雄であり、永遠に記憶さるべき人だと強調していた。彼は五十六の書いた書を所有している。
 講演会の翌日、知人の一人から講演の劈頭15分も時間を空費したのは残念だ、Q &Aの時間がなかったのでもう一度講演してくれとの電話もあった。
 古枯の木―――2009年7月6日記す。
 

ほどよい貧乏

 古枯の木の父親はいつも今年の生活はその前の年の収入によって営めと言っていた。一般のアメリカ人は今の生活を未来の収入に頼っている。これではダメなわけだ。一方、父親は一年分の生活費以上の蓄財は必要ないともアドバイスしていた。



 古枯の木は富の蓄積を否定はせぬ。ただほどよい貧乏の域を脱した蓄積は必要ないと提言するのだ。金は死蔵してはいけない。死ぬときは三途の河を渡る船の船頭に渡すチップを残しておけばよい。金は休眠、死蔵させず、よい目的に費消されるときに最も光彩を放つ。子孫に美田を残すとそれが彼らをスポイルしてしまうだろう。



 腐っても鯛というが腐った鯛よりも生きのいい鰯のほうがよっぽどいい。数年前、千葉県の銚子へ行き、鰯のつみれ汁を食った。こんなにうまいものがこの世に存在するのかとの感慨を持った。



 古枯の木ーーー2009年7月6日記す。

2009年7月6日月曜日

トルコはどこへ行く

トルコはどこへゆく

 2009年6月22日、当地パーロスベルデスに住むアメリカ人のグループからトルコの現況についての説明を求められた。古枯の木の説明は、トルコのケマルパシャ(1881-1938、別名アタチュルク)が成し遂げた宗教、教育、社会、ファッションの諸革命が音をたてて崩壊していること、アタチュルクを”イスラム文明の裏切り者”として非難し、マホメットが”余の後に予言者は現れず、新しい信仰は生まれない”と説いた632年の後進未開の状態に回帰したいと願っていること、過去7年間でイスラム原理主義者が倍増したこと、EUの加盟はもはや絶望的とみなしてアラブ世界に向かう傾向の強いことなどを焦点とした。
 出席者からはイスラム教は”コーランか剣か”のプリンシプルで全世界を切り従えたこと、彼らがその原則を放棄したと聞いたことは一切なく、依然好戦的であること、アタチュルクの目指した近代化、西欧化に対する逆襲の始まっていること、宗教を個人の倫理から国教に再変更する運動のあること、一部のアメリカの学者はイスラム教は平和な宗教であると主張するがこれは真っ赤なウソであること、西欧とイスラムの融和は不可能であるなどが陳述された。
 古枯の木が”Turkey is the catalyst for Arabic Changes。”と述べたとこら全員がこれに賛成し、早急にトルコをEUに加盟させるべきだとの結論に達した。1999年にトルコは正式加盟交渉の候補国になり、2004年には交渉開始が決定され、2005年から交渉開始となった。正式加盟には、35もの交渉項目があり、一つの問題が解決されるとさらに新たな問題が提起されるため、トルコ人は皮肉を込めてこれをホームワークと呼びうんざりしている。さらに2006年12月以来、交渉項目のうち8項目が棚上げされたことにより加盟交渉のスピードは大幅にダウンしてしまったことなどを説明した。いずれにせよトルコのEU加盟は容易なことではない。
 古枯の木ーーー2009年7月5日記す。
 

Good Job!

Good Job!

 最近孫二人が日本からロスに移住し、近くのプリスクールに通園している。最初に覚える英語は何であろうかと興味をもって注意していたが、それは“Good Job!”だった。これにはそれなりの理由がある。
 アメリカ人はたいしたことでもないのによくお互いに褒め合う。悪く言うより褒めた方がいいに決まっている。今から40年もまえアメリカで仕事を始めころ、よくアメリカ人が小生に向かって、“You are good speaker of English.”と言って褒めてくれた。本当に英語がうまいと思ったらわざわざそんなことを言う必要はなかっただろうに。
 日本人は外国人から褒められると本当に褒められたとすぐ喜んでしまう。でも彼らの外交辞令と真の感情とは別物であることを銘記すべきである。孫二人が覚えた最初の英語が“Good Job!”であったのは、多分プリスクールで下手ではあっても先生から何度もそのように褒められた結果だろう。いずれにせよ褒め合うことはアメリカ人の第二の天性であり、古枯の木はアメリカ社会をMutual Society of Admirationと呼んでいる。ご賛同いただけますか?

 古枯の木―――2009年7月5日記す。