講演会を終えて
古枯の木は2009年7月2日、トーレンス市の倫理研究所で“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。定員50名のところに55名が出席してくれた。主宰者の話ではさらに10数名の応募者があったが、椅子の数不足のため残念ながら断ったとのこと。2時間以上も運転して来てくれた知人やタクシーで駆けつけてくれた女性もいた。まことに感謝すべきことである。
五十六の評価では軍政家(軍人でありながら高度な政治的判断を求められる人)としての五十六と用兵家(戦争の現場で作戦指揮をとる人)としての五十六に分けて行った。軍政家としての五十六は1936年から1940年までの3年7か月にわたり日独伊3国同盟に反対し、海軍内の下克上を封鎖してくれた。この点、彼にいくら感謝しても感謝しきれぬ。だが五十六の用兵家としての資質には若干疑問点がある。
五十六は日本の国力の限界を知り、アメリカに勝てるとは思わなかった。だが政府、マスコミ、国民は無敵艦隊、天下無敵を呼号し、アメリカ弱しとの過信を捨て切れなかった。日本国民はムードに弱く、現実を直視しない、集団催眠や自己陶酔にかかったように雪崩を打って戦争賛美の方向に傾斜して行った。これは五十六が最も恐れた日本国民の欠点であり、古枯の木には今でも日本国民がその欠点を引きずっているように思える。
ロスの新聞社が講演会予告の記事を発表したときトーレンス在住の100歳の女性から手紙を受け取った。この女性の母親が五十六の小学校のときの同級生で、クラスではいつも五十六が一番、彼女の母親が二番だったそうな。五十六は長岡の町ではつとに神童の誉れが高かったとも書かれている。主宰者はこの女性を講演会に招待したいと申し入れたが、年齢を理由に断られたとのこと。この女性からの手紙は新聞社の人により全員の前で朗読された。
またある女性は五十六の多磨霊園内の墓の写真をくれた。東郷元帥の墓の横にあるのが印象的だ。1943年6月5日、五十六の国葬が日比谷公園で営まれたが、級長としてこの国葬に参加した女性もいた。UCLAで歴史を学ぶうら若き女性も参加者の一人だった。専攻は第2次大戦原因論。教授は空軍の見地から研究をするよう勧めるが、小生の話を聞いてからは海軍の見地からも研究をしたいという。ありがたい言葉である。
特攻隊の生き残りという人が海軍の戦闘帽をかぶって来ていた。五十六を今でも高く尊崇しているとのこと。また元海軍経理学校に在学した老弁護士もいた。五十六は帝国海軍の英雄であり、永遠に記憶さるべき人だと強調していた。彼は五十六の書いた書を所有している。
講演会の翌日、知人の一人から講演の劈頭15分も時間を空費したのは残念だ、Q &Aの時間がなかったのでもう一度講演してくれとの電話もあった。
古枯の木―――2009年7月6日記す。
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