2009年3月24日火曜日

ロスの恥部

ロスの恥部
   古枯の木
どんな国家、都市、個人にも外部には知られたくないネガティブな恥部というものがある。あるアメリカの学者はアメリカ最大の恥部は奴隷の酷使、インディアンの虐殺そして第二次大戦中の日系人の強制収容だという。では筆者の住むロスの恥部とは何だろうか。各地の商工会議所やVisitor Centerの発行するパンフレットの中にその町の恥部など一切記されていない。ロスも例外ではない。

長い間考えた末、ロス最大の恥部はアメリカの恥部同様にインディアンの虐殺であるとの結論に達した。スペイン人の坊主セラとポルトラ将軍が南カリフォルニアのサンディエゴにミッション(教会)を開いたのは1760年7月1日だった。そのころ南カリフォルニアには約13万人のインディアンが住んでいたと言われる。“約”と言ったのは当時インディアンは人間の数に入らなかったためである。このインディアンの数が1910年には1,250人にまで減少してしまった。メンドシーノという町には1850年、ほぼ6千人のインディアンが住んでいたが、1864年にはわずか300人にまで減少してしまった。アメリカの新聞はこれを“サクセス”と記した。

1846年6月14日アメリカ人の一団がカリフォルニア州ソノマという町のメキシコの兵舎を襲いCalifornia Republic (カリフォルニア共和国)の建設を宣言したころからインディアンの虐殺が始まった。1848年、アメリカがメキシコ戦争に勝利すると虐殺はますます激しくなった。1848年1月24日に始まったゴールドラッシュには多くのアメリカ人が参加したが、夢破れてロスに来る者もいた。彼らはロスで腹いせに狼藉の限りを尽くし、ロスは地球上で最も危険な町と言われた。1854年、年俸1万ドルという当時としては破格の高給でロス警察署長の募集があったが、応募する者はいなかった。 ニガー小道(Nigger Alley)にはインディアンのスラムができ、そこで彼らは悲惨な生活を送るのを余儀なくされた。この小道は世界中で一番不潔な通りとされた。アメリカ人はインディアンを邪魔者扱いし、敵視して殺しまくった。

驚くことに当時のカリフォルニアには合法的にインディアンを殺しうるという法律があったし、知事のバーネットは1851年、議会に対し、“インディアン殲滅作戦は、インディアンが完全にこの世から姿を消すまで続けなければならない”と宣言した。インディアンは当時レッドスキーンと呼ばれたが、レッドスキーンを一瞬のうちに何人殺せるかがアメリカ人の自慢の種となった。インディアンはハンティングの対象だったのだ。インディアン・ファイターのキッド・カースンが英雄になったのもこのころである。インディアンの子供が“アメリカはもともと俺たちの土地だ”と言って少しの盗みを働いたとき、見せしめのためにアメリカ人はこの子供を絞首刑に処した。そのとき、多くの見物人が集まり屋台まで現れた。子供の絞首刑は彼らにとりリクリエーションだったのだ。

官憲による虐待、虐殺もひどかった。ある官憲はアル中のインディアンをランチェーロー(ranchero)と呼ばれた大地主に売りつけた。また他の官憲はインディアンの子供盗み、これらに等級をつけてランチェーローに売却した。このような現象をアメリカの学者は後日、社会的殺人(social homicide)と呼んだ。哀れにもインディアンは悪徳官憲の私欲の犠牲になったのだ。またインディアンは1872年まで法廷で証言することを許されなかった。

 紺碧の空、目の醒めるような美しい海岸線、どこまで続く砂漠、高く聳える山々、地下資源の豊富な大地、肥沃な谷間―カリフォルニアはまさにこの世のパラダイスである。国家はいつの時代でも博愛主義を標榜している。でもその裏には意外にも悲しいインディアン虐殺の歴史のあることを片時も忘れてはならない。

古枯の木―ロス在住、著書に“アメリカ意外史”など。

1 件のコメント:

  1. カリフォルニアの明暗、興味深く読みました。歴史はいろいろな事を教えてくれますね。きれいな心で生きて行きたいと願っていますが、先祖を辿ればたくさんの修羅場をくぐりぬけて今私がいると考えてしまいます。子孫に恥ずかしくない生き方をしていくために広く知識を得て真実から目をそむけずにいこうと思いました。

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