2009年5月17日日曜日

チャウシェスクの罪と罰

チャウシェスクの罪と罰
 多くの方はルーマニアにチャウシェスク(Nicolae Ceausescu 1965 -1989)という大統領がいたことを記憶されているだろう。彼は酒好きな大工のせがれに生まれたが、1965年共産党のリーダーとして大統領に就任するや否や国を私物化し、暴虐の限りを尽くした。厳しい思想の統制を行い、信教の自由を認めず、坊主を虐待して共産主義によるユートピア思想を強制した。教育は厳格を極め、女性のファッションは一切認めなかった。娯楽を禁止し、医学生をレーバーキャンプに送ってペットボトルの洗浄をさせた。ルーマニア人は外国人との会話を禁止され、全国民の3割が秘密警察とその関係機関に属するとされた。
 1984年、西欧諸国からの借金を全額一挙に返済したため国はたちまち食糧難に陥り、マーケットの棚は空っぽとなった。月間10個の卵しか買えず、ミルクを買うために国民は朝5時に起きることを余儀なくされた。クッキングオイルの入手が特に難しくなった。チョコレート、クッキー、チューインガムの生産は禁止され、一日に2時間の停電が当たり前となった。そのため5万人が餓死したと伝えられている。
 チャウシェスク最大の罪は1966年人工流産(堕胎、英語ではabortionという)を禁じたことだ。彼は同年、中国と北朝鮮を訪問し多大の人民の大歓迎を受けた。そこで愚かにも大人口が国力の源泉なりと錯覚したのだ。これは戦時中、日本の軍閥政府が同じ思想の下、“生めよ増やせよ”の政策を取ったのに似ている。だが人口は戦力であるとともに非戦力でもある。チャウシェスクはコンドームの販売を一切禁止し、一人でも多くの子供を生ませようとした。子供を5人生めば多くのベネフィットが得られたし、10人生めば英雄としてもてはやされ、あらゆる交通機関が無料となった。
 だがこの政策は婦人たちに大きな衝撃と難題を与え、流産できぬため死亡したり、重病人となるケースも多発した。100万人以上の婦人が健康を害し、そのうち半数が死んだとされている。
 さらにチャウシェスクは1984年、首都ブカレストの中央に巨大な宮殿(Palace of Parliament)の建設を始めた。これは面積ではアメリカのペンタゴンに次ぐもので、大理石を基調にして1,000室以上を有し、2万人の労働者と7千人の建築技術者が動員された。
 1989年ベルリンの壁が崩壊して自由主義と民主主義の嵐が吹き荒れると、チャウシェスクは服従しなかった国防長官を殺し、手兵を使って自由主義者の虐殺を始めた。ところがその年12月、ある青年たちの“チャウシェスクを倒せ”の一言で逃亡中のチャウシェスクとその夫人は即刻死刑に処せられた。その直後、ルーマニア人の提出した要求は、没収された元の土地を返せということと人工流産を法的に認めよということであった。
古枯の木   2009年5月16日記す。

正教とキリスト教

正教とキリスト教

 皆さんの中にはギリシャ正教とかロシア正教とかについて聞かれた方が多いと思う。今回の旅行の目的の一つは正教について知ることだった。英語で正教はOrthodox という。ブルガリアとルーマニアでは正教会を訪問し、正教徒がイースターのお祈りをするのを見た。正教ではイースターはキリスト教よりも一週間遅い。正教徒のイースターの祈りは厳粛ながらもキリスト復活の喜びに溢れており見飽きることはなかった。
 正教とキリスト教の違いは大きい。キリスト教では信者はキリスト像か聖母マリアさんを通じて祈るが、正教ではイコンを通じて祈る。祈るときキリスト教では男女は同じ部屋でするが、正教では男女別々の部屋でする。十字で横を切るときキリスト教徒は左から右に切るが、正教徒は右から左に切る。カトリックには法王が存在するが、正教に法王はいない。カトリックは坊主の結婚を許可しないが、正教では許される。
 古枯の木の最大の関心事はイコンだった。キリスト教には存在しないイコンがなぜ正教にはあるのか。ガイドや同じ旅行に参加した正教徒の説明では、イコンは東方の野蛮な民族にキリスト教を教えるための手段であったとのこと。多分、キリスト教について未知の者に説明するときイコンの方が便利だとと考えたのだろう。キリスト教では坊主は説教をするが、正教では説教をせず、その代わり坊主と教徒が一緒に歌を歌って説教の代わりとする。歌の方が説教よりも野蛮人には分かりやすいと判断されたためだろう。
 正教国でイコンは厳しく法律で規制されている。新しいイコンを製作することは厳禁されており、現存のものからコピーを作るだけである。
 古枯の木       2009年5月16日記す

ジプシーの存在

ジプシーの存在

 バルカン諸国とルーマニア(ルーマニアはドナウ河の北にあるため正確にはバルカン半島の国ではない。ヨーロッパの国である)を廻ったとき、彼らに共通の社会問題がジプシーの存在であることを教えられた。ジプシーは北インドに起源をもち、エジプトに移住した後、バルカン諸国とルーマニアに定住した。ジプシーの中には医者、弁護士、公認会計士、音楽家など社会の重鎮として活躍している人もいるが、ほとんどがスリを生業としているそうだ。
 男の子供に対し親はスリになれと教え、スリの養成学校に入学させる。数年前、あるイタリヤの女性記者が子供スリ団の行うスリを見て、その巧妙さに舌を巻いたという。彼らは自転車に乗り、広場を徘徊していることが多い。カメラと財布をスラれた人がわが旅行団の中にもいた。
 娘が12-14歳に達すると親はきらびやかなドレスを着せて彼女らを公衆の場に送り出す。これは彼女らを富豪に嫁入りさせるためだ。でもこれは他の人々の大きな顰蹙を買っている。
 ジプシーが社会に同化しないとことがこれら諸国の頭痛の種らしい。次に機会があったらぜひジプシー村を訪問し、彼らの実情を見たり彼らの考え方を聞きたいと思っている。
 古枯の木     2009年5月16日記す

2009年5月15日金曜日

ルーマニア陸軍に幸いあれ!

ルーマニア陸軍に幸いあれ!

 東欧7カ国を旅行中、我々を見守るルーマニア人の医師がいた。この医師と仲良くなったので、ある日、ルーマニア陸軍は本当に弱かったねと切り出した。事実ブルガリア、イタリアの陸軍と同様ルーマニア陸軍は大変弱かった。戦史上有名な事実がある。1940年夏、ドイツがスターリングラード(現ボルゴグラード)を攻撃したときルーマニア陸軍もドイツ側に参戦した。ところがルーマニア陸軍はソ連兵を見るや否や直ちに敗走した。それだけではなくドイツから供給された近代兵器をすべてソ連側に引渡し、ドイツ軍はこれにより思わぬ苦戦を強いられた。
 このことをルーマニア人医師に話したとき、医師はルーマニア陸軍が初年兵に最初に施す訓練は両腕を肩より上に挙げること(降伏すること)だと言った。さらに彼はルーマニアのタンクには前進のギアが一つ、後進のギアーが4つ装備されていると説明した。後進のギアーは敵前逃亡のためだが、一つの前進ギアは何のためかと訊いたら、敵が後ろから来たときに前に逃げるためのギアだと言って大笑いした。もちろんこれは医師のジョークである。
 ああ、弱いルーマニア陸軍に幸いあれ!

古枯の木        2009年5月14日記す

共産主義の遺産

共産主義の遺産

 2009年4月4日から19日までの東欧旅行はオーストリアを除いてすべて旧共産国への旅行であった。これらの国々で共産主義の遺産とも言うべきものをたくさん見た。廃墟と化した工場が多い。ガイドの説明では共産党の時代に不要のものを生産していたが、自由化された今ではその工場の買い手がなく放置されているとのこと。また共産主義時代使用されていた機械が旧式であるとか、工場の生産効率が極めて低いなどのため荒れるがままに任されているものもある。このような工場はブルガリアとセルビアに特に多かった。
 一方、ブルガリアでは放置されている農場をたくさん見た。畑に生えているのが“wheatか”と訊いたら“weedだ”との回答があった。共産主義時代、生産性などを一切考慮せずに行われていた集団農場制が崩壊したのだ。農薬が買えぬためまたは機械が買えぬため放置されている農場もある。また農民がドイツやスペインに出稼ぎに行ってしまったため百姓のできないところもある。このような農場の買占めが最近始まった。買い手は中国である。
 今まで述べたものはすべて共産主義時代の負の遺産である。ブルガリアのある古城で一人の男が溝を掘っていた。彼の周りに男が4人もいて一人の労働者のすることをぼんやり見ているのだ。4人の男は一体何者かとガイドに訊いたら4人は一人の男の監督官だとの返事が返ってきた。ガイドはさらに“これが共産主義の効率性だ”と言ってにやりと笑った。

古枯の木      2009年5月14日記す

楽しい河船旅行

楽しい河船旅行
16日間ドナウ河の船旅を楽しんできた。河は狭いところで幅800メートルぐらいだったが、黒海に近ずくと対岸が見えるほど広くなる。雪解け水を集めて流れは思ったより急だった。船は動くホテルである。そのため毎日、荷物をパックしたりアンパックしたりする苦労から完全に開放された。河船は飛行機と異なり大体ダウンタウンのど真ん中に船着場を持つ。そのため船を離れて簡単にダウンタウンの散歩、買い物が楽しめる。
 ブダペストでは船窓の左側に宮殿を、右側に国会議事堂を眺めることができた。街行く人の顔もはっきり観察することができた。船内ではいつも食事が用意されている。ダウンタウンに出たときはその地方のレストランで食事をすればよいのだが、ついしまりや根性が出て、船に帰って食事をすることが多かった。クロアチアでは一般の民家でランチのご馳走になったが、そのスープとパスタは最高だった。セルビアやスロバキアではトルココーヒーに似たコーヒーを堪能した。ブルガリヤでは黒海を眺めながらシーフードではなくチキン照り焼きを食べた。黒海は塩分が多くて魚類が住めないそうである。
 船の客にはリタイヤーした人が多い。彼らは押しなべて早起きである。そのため朝6時に焼きたてのクロワッサンとフレシュなコーヒーが用意されている。このクロワッサンのおいしかったこと今でも忘れることができない。朝食と昼食はバッフェスタイル。おいしいものがいっぱい並んでいるが、注文をすれば何でも作ってくれら。朝食にはよく特注でベジタブル・オムレツを食べたし、ランチにはハンバーガーも注文した。夜はメニューがくる。各地の特産物を食べさせることが多かったが、依頼すればアメリカ風のビーフステーキも食べられる。ウエイターやウエイトレスがいつも微笑みを忘れぬのが大変気持ちよい。あるウエイトレスは小生の好きなコーヒーの味を知っていて、いつも同じコーヒーを頼みもしないのにサーブしてくれた。古枯の木は酒は飲まぬが、各地のワインは大人気だったようだ。
 船には必ず医者が乗っている。我々の医者はルーマニア人だった。大変なインテリーでルーマニアについていろいろ教えてもらった。医者はいつも船の客全員の観察をしているそうである。健康に問題があると大体この観察があたるらしい。外から帰ると船室に入る前に必ず船員が客の手に消毒液のスプレイをしていた。
 朝の太陽が川面に映るのを眺めながら朝食を取ったり、また大きく真っ赤な太陽が沈むのを楽しみながら夕食を食べていると日本の大会社の社長かアラブの王様になったような気分である。夕方には必ずティーとおいしいクッキーがでる。夕食後はピアノの生演奏を聞きながら食後酒を楽しめる。各グループに分かれて時にはクイズがある。我々はオーストラリア人とアイルランド人とグループを結成し、グループ名をマルタイ(multi-culture)として大いに健闘した。また各地の民族衣装を着た男女によるダンスや歌もたびたび楽しんだ。
 チャンスがあれば今度は北欧を船で廻りたいと思っている。 古枯の木

2009年5月13日水曜日

ルーマニアの油田

ルーマニアの油田

 古枯の木は2009年4月4日から19日までドナウ河の河下りを楽しみながら東欧7カ国を駆け足で廻って来た。この旅の最大の関心事の一つがルーマニアの油田だった。なぜならこの油田が独ソ戦の引き金になり、ヒットラーとドイツの運命に大きな影響を与えたからである。ヒットラーは1933年政権を獲得したが、すべての人に職業を、またすべての家庭にパンとスープを与えると公約して勢力を拡大していった。36年から38年の間にラインランド、オーストリア、ズデーテン、ボヘミア、モラビアを回復した。39年9月1日、ポーランドのダンッチヒと15マイルに渉るポーランド回廊を要求してポーランドに宣戦布告した。
 さらに41年6月22日午前3時15分突如ソ連に対して宣戦布告をした。(ナポレオンがロシア遠征を開始したのは1812年6月23日でヒットラーより一日遅い)その理由については種々の説があるが近年ではヒットラーが真に欲したのはルーマニアの油田であったと言われている。当時ブルガリアが油田から50マイルの地点まで兵を進めたし、ソ連もルーマニアとの境界線となっている河から100マイル以内に迫っていた。ドイツの作戦はバルバロッサ作戦と呼ばれ、動員兵力400万、タンク3,300台、大砲7千門、航空機2千機、想像を絶する大規模の動員だった。
 ルーマニア油田の奪取についてはドイツ軍部内に異論があった。ドイツが40年5月、ベルギーとオランダを占領したとき、これら2国から大量の石油が入手できた。さらにライプチッヒ近くの精油所で石炭から液体の航空燃料を抽出することに成功していたので空軍のボスであるヘルマン・ゲーリングは2年分の石油の備蓄はあるとして危険な対ソ戦に強く反対した。だがドイツ陸軍は自身の石油資源を保有すべきであるとしてソ連戦を強力に推進した。
 開戦してみるとドイツ軍はその年の秋の長雨と予想より早い冬の到来で苦戦を強いられた。さらにドイツ軍には電撃作戦のスピードがあったが、ソ連にはそのスピードに耐えうる広漠さがあった。この作戦は結局失敗に帰し、ヒットラーのThird Reich建設の夢は消え失せ、ルーマニア油田の奪取の野望が結局彼にとり命取りとなったのだ。
ルーマニアはドナウ河の北に位置し、鉄鉱石、石炭、石油を含む天然資源の豊富なトランシルベニア地方を含む。 トランシルベニアはトランシルベニア・アルプスとカラペチアン山脈に囲まれたルーマニア東南部地域で世界史にたびたび登場する。この地域では農産物も小麦をはじめとして各種のものが大量に生産されており、近代に入って西欧, 東欧各国の垂涎の的であった。支配者はローマ、ポーランド、オスマントルコ、ハンガリー、ドイツ、ソ連と変遷した。
 古代ローマ人はドナウ河の南は文明地域だが、北側は非文明地域であり野蛮人が住むところとして渡河して北側に入ろうとはしなかった。ところがトランシルベニアに金が発見されたとの情報が伝わると大挙この地に侵入した。ゴールドラッシュはカリフォルニアのものが有名だが、ルーマニア人は最初のゴールドラッシュはトランシルベニアで始まったと言う。
 ルーマニア油田はこのトランシルベニアのど真ん中に位置する。プロイエシティ(Ploiesti)という人口20万人の町の西部に展開する。首都のブカレストから北に60キロのところにある。カリフォルニアでよく見かける原油をくみ上げるポンプが多数存在し、石油のパイプが縦横に走り、精油所は煙を上げている。花に囲まれたこの町は石油の匂いと花の香りがミックスしている。
 第二次大戦初期、ナチスドイツが油田を占領した後、英米連合軍の飛行機がたびたびこの油田を爆撃した。やがてソ連軍が近づくと連日ドイツ軍とソ連軍の間で激戦が展開され、最後はドイツ軍が一木一草も残らぬほで破壊尽くして遁走した。
 プロイエシティの石油の生産量は決して多くなく、ルーマニア全需要の半分にも満たないそうで、ルーマニアはロシアから毎年大量の石油を輸入している。こののどかなプロイエシティの街を散歩したとき豊かさゆえに蒙ったルーマニアの悲劇、惨劇に思いをいたした。世に“貧困の哲学”なる言葉はあるが、果たして“豊富の哲学”なる言葉はあるだろうか。

古枯の木                 2009年5月11日記す

2009年5月4日月曜日