講演会を終えて
ルーマニア外交の一考察
2010年6月24日午後7時から9時半まで当地のTorrance Plaza Hotel で“ルーマニアーその悲劇の歴史と現在および将来の展望”と題した講演を行った。今回はルーマニアの歴史的背景を古枯の木が、現在の問題点と将来の展望を中井美鈴さんが担当した。中井さんは敬虔なクリスチャンであるとともに古枯の木のキリスト教の先生でもある。
歴史上、ベルギーは“ヨーロッパの闘鶏場(Cockpit)”といわれる。これは英、独、仏の3強国がいつも虎視眈々ベルギーを狙っていたからである。これにたいしルーマニアは“ドナウ河口のベルギー”と呼ばれている。因みにルーマニアは古来、ローマ、ポーランド、蒙古、オスマントルコ、ハンガリー、ロシアなどと支配者が次々に変わった。近代では露、墺、土の3大民族の争奪の場であった。現代ではソ連、ドイツの相克の場となった。
次々に異民族の支配を受け、さらに内部紛争、軋轢のため、民族国家の形成に時間がかかり過ぎ、オスマントルコから独立したのはやっと1878年のベルリン会議のときだった。一旦国家が形成されると他国の干渉が強かったため、かえって民族的感情は大変強固なものとなった。1967年モントリオール・オリンピックの金メダリストであるNadia Comaneciは、“私はスポーツが大好きだ。でもスポーツよりもっと好きなものがある。それはルーマニアだ”といっている。
ルーマニア人のフランスにたいする思いは大変深い。首都のブカレストは“バルカンの小パリー”と呼ばれている。ナポレオンはルーマニアの独立に理解を示したし、フランス語はいまでも最も人気のある外国語で“麗しき天使の言葉”といわれている。“祖国への愛とフランスへの情”こそがルーマニア人の民族感情であろう。
第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて、ルーマニアは常に親西欧の自主外交を展開した。第一次大戦ではオーストリー・ハンガリー帝国(1916年8月27日)と独墺帝国(1918年11月18日)に宣戦布告をしたが、英仏にたいしては中立を守った。戦後のベルサイユ会議では領土を2倍に膨張させることができた。
第二次大戦では日独伊3国同盟の準メンバーでありながら対独協調には大きなリミットを設定した。勇敢な軍政家であり有能な首相であったIon Antonescu(Ion はロシア語のイワン、英語のジョーン)はユダヤ人のポーランド送りを敢然と拒否し、ドイツ軍の命令の多くを部下に伝えなかった。英独戦に参加せず、対ソ限定作戦をヒットラーに要求し,た。ルーマニア固有の領土であったべサラビアを回復するとそれ以上には対ソ戦を拡大したくなかったが、ヒットラーの恐喝によりオデサやスターリングラードへの進軍を余儀なくされた。1943年の夏から極秘に対英講和条約を模索し始めている。
1944年8月赤軍が迫ると反枢軸クーデターを起こし、24日対独宣戦布告を発した。予断ながら31日赤軍がブカレストを占領したが、ルーマニア人が酒に酔ったソ連兵から最初に聞いたロシア語は“ダバイ”だった。これは英語の“Give me”で、かれらはダバイ、ダバイと叫びながら酒、食料、女、腕時計、貴金属のすべてを略奪していった。ついでながら日本軍が1941年12月8日真珠湾を攻撃したとき、ルーマニアはアメリカにたいして同情を示したが、日本には大いなる不快感を表した。
日本外交は敗戦後一貫して親米外交である。これは一面結構なことである。だが親米一辺倒の淡白な外交ではなくルーマニアのように少しは狡猾な怜悧さをもった“親米の自主外交”に転換せぬかと祈るや切である。
古枯の木―2010年6月28日記す。
0 件のコメント:
コメントを投稿