チャウシェスクの罪と罰
多くの方はルーマニアにチャウシェスク(Nicolae Ceausescu 1965 -1989)という大統領がいたことを記憶されているだろう。彼は酒好きな大工のせがれに生まれたが、1965年共産党のリーダーとして大統領に就任するや否や国を私物化し、暴虐の限りを尽くした。厳しい思想の統制を行い、信教の自由を認めず、坊主を虐待して共産主義によるユートピア思想を強制した。教育は厳格を極め、女性のファッションは一切認めなかった。娯楽を禁止し、医学生をレーバーキャンプに送ってペットボトルの洗浄をさせた。ルーマニア人は外国人との会話を禁止され、全国民の3割が秘密警察とその関係機関に属するとされた。
1984年、西欧諸国からの借金を全額一挙に返済したため国はたちまち食糧難に陥り、マーケットの棚は空っぽとなった。月間10個の卵しか買えず、ミルクを買うために国民は朝5時に起きることを余儀なくされた。クッキングオイルの入手が特に難しくなった。チョコレート、クッキー、チューインガムの生産は禁止され、一日に2時間の停電が当たり前となった。そのため5万人が餓死したと伝えられている。
チャウシェスク最大の罪は1966年人工流産(堕胎、英語ではabortionという)を禁じたことだ。彼は同年、中国と北朝鮮を訪問し多大の人民の大歓迎を受けた。そこで愚かにも大人口が国力の源泉なりと錯覚したのだ。これは戦時中、日本の軍閥政府が同じ思想の下、“生めよ増やせよ”の政策を取ったのに似ている。だが人口は戦力であるとともに非戦力でもある。チャウシェスクはコンドームの販売を一切禁止し、一人でも多くの子供を生ませようとした。子供を5人生めば多くのベネフィットが得られたし、10人生めば英雄としてもてはやされ、あらゆる交通機関が無料となった。
だがこの政策は婦人たちに大きな衝撃と難題を与え、流産できぬため死亡したり、重病人となるケースも多発した。100万人以上の婦人が健康を害し、そのうち半数が死んだとされている。
さらにチャウシェスクは1984年、首都ブカレストの中央に巨大な宮殿(Palace of Parliament)の建設を始めた。これは面積ではアメリカのペンタゴンに次ぐもので、大理石を基調にして1,000室以上を有し、2万人の労働者と7千人の建築技術者が動員された。
1989年ベルリンの壁が崩壊して自由主義と民主主義の嵐が吹き荒れると、チャウシェスクは服従しなかった国防長官を殺し、手兵を使って自由主義者の虐殺を始めた。ところがその年12月、ある青年たちの“チャウシェスクを倒せ”の一言で逃亡中のチャウシェスクとその夫人は即刻死刑に処せられた。その直後、ルーマニア人の提出した要求は、没収された元の土地を返せということと人工流産を法的に認めよということであった。
古枯の木 2009年5月16日記す。
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