2009年8月7日金曜日

3番目の原爆

3番目の原爆
 
 アメリカは第3番目の原爆を新潟に落とす予定であったと一般に広く信じられている。古枯の木は新潟県の新潟市ではなくて山本五十六の生誕地である新潟県の長岡市が標的ではなかったかと長年考えていた。
 2009年7月2日ロスで“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。そのとき新聞で発表された講演会の予告記事や講演会当日出席者に渡したハンドアウトそれに長岡出身で100歳の猪瀬夫人のエピソードなどを交えた手紙を長岡市の山本五十六記念館に送った。古枯の木はいままでこの記念館を2度訪問している。
 ごく最近長岡市の商工会議所内にある山本元帥景仰会からこの手紙に対する礼状が届いた。同時に本年7月17日に発刊された“山本五十六の覚悟”なる書籍が親切にも同封されていた。直ちに通読したがこれは五十六研究上きわめて有益な書籍である。その中に注目すべき一文がある。
 長岡市は敗戦直前の8月1日空襲を受け、市の80%が壊滅し、死者630人を出した。これは長岡市の第1回目の空襲であったと考えていた。ところが上述の本ではこれは第2回目の空襲であったそうな。第1回目は7月20日午前8時過ぎで模擬原爆が長岡市の郊外に投下され、4人が即死、5人が負傷、集落の家屋全部が爆風による被害を受けたとある。これは原爆投下の訓練の一環であったことが最近判明したそうである。
 太平洋戦争の開戦時、日本は38隻の潜水艦を保有していた。そのうち35隻が艦隊決戦用で残りの3隻のみが通商破壊用だった。この用法の誤りに気がついたのは敗戦間近のことだった。これにより通商破壊用に向けられたわが潜水艦が幸運にも単独で航行する巡洋艦インディアナポリスを発見し、これを撃沈したのである。この巡洋艦には新潟に落下予定の第3番目の原爆が搭載されていたということは一般によく知られている。
 “Admiral of The Pacific”の著者であるJohn D. Potter は真珠湾攻撃の直後、五十六は突如全アメリカ人のpersonal foe となり、アメリカ人は五十六をembodiment of evil enemy, the stab-in-the –back aggressor であるとして非難したと述べている。それほどまでにアメリカ人は五十六を憎んでいたのだ。アメリカ軍は五十六の生誕地が長岡であることを知っており、おそらく“五十六みておれ”の復讐心で原爆の長岡投下を計画していたのではないかと古枯の木は考える。名著“山本五十六の覚悟”はこの点少し実証的に語っているように思えてならない。

 古枯の木――2009年8月6日記す。

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