2009年8月15日土曜日

敗戦の日に思う

敗戦の日に思う

 今年もまた敗戦の日が迫ってきた。この日、古枯の木は中学1年生、学徒動員で戦闘機の部品工場で働いていた。この日朝、工場に着くと正午に玉音放送があるので全員事務所前の広場に集まれと命令された。放送は雑音が多くよく聞き取れなかったが、終わると工場長がポツダム宣言を受諾して日本は戦争に負けたと教えてくれた。同じ工場に働きにきていた女学生の一人が壇上に上がり、“今日から徹夜で働くので戦争を続けてください”と叫んでぶっ倒れてしまった。この放送を聞くまで日本が戦争に負けると思った日本人は極めて少なかったと思う。
 だが古枯の木は日本が敗戦に至ることを知っていた数少ない日本人の一人である。1943年8月大学卒業と同時に陸軍に応召した叔父の一人が傷病兵として南洋のラバウルから帰って来た。その頃、国民はまだミッドウエイの敗戦を知らず、いつか日本は勝利するものと確信していた。国内に戦争の緊迫感は全然なかったのである。この叔父が父に向かって“この戦争に必ず日本は負ける。今から敗戦後の準備をしておけ”と言った。
 ショックを受けた父が敗戦の理由を質問すると、“アメリカ軍と日本軍では武器の質と量が全く違う。日露戦争に使用された大砲がラバウルまで行っている。こちらが煙幕を張ると相手は弾幕を張る”と回答した。父がさらに“でも日本人には大和魂があるぞ”と反論したところ、叔父は次のように答えた。“あるとき高射砲で敵の戦闘機を撃墜した。パイロットが落下傘で降りてきたのでこれを捕らえて敵情について白状させようとした。ところがこのパイロットは国際法を盾に一切白状しなかった。最後は殴り殺してしまったが、それでも白状しなかった。日本人に大和魂があるかもしれないが、ヤンキーにはヤンキー魂がありこれは見上げたもものだ”説明した。
 その頃日本では大学を出た人間の数は極めて限られていた。田舎のまちではとくにその傾向が強かった。小学校しか出ていない筆者の父は大学出を非常に尊敬し、大學出の言うことはいつも正しいと確信していた。いつも大学出についてそのように教えられていた古枯の木は叔父の言うことは正しいものと信じて疑わなかった。叔父の言葉により負けることは充分理解していた。でもいつ負けるかは分からなかったが、それがついに8月15日にきたわけだ。
 それにしても余りにも無謀な戦争を引き起こし、国民を悲劇のどん底に陥れ、塗炭の苦しみを与えながら東条英機、松岡洋介、近衛文麿らはまだ一度も国民に謝罪していない。彼らほど無責任、無定見、不条理の輩はない。いつも8月15日がくると思いを馳せるのはこのことである。

古枯の木――2009年8月14日記す。

0 件のコメント:

コメントを投稿