ホーへーのたわごと
古枯の木
むかしわがホームタウンに“ホーへー”というあだ名のついた男がいた。本職は提灯屋だが“張ってならないのはオヤジの頭、張らなきゃ食えないのは提灯屋”とつぶやきながら提灯を張っていた。ホーへーというのは彼が日露戦争(1904-05)のとき砲兵として従軍したからで、いつもこの事実を自慢の種にしていたためそのようなあだ名がついたわけだ。
筆者は子供のころ近所の子供を誘ってよくこのホーへーのところへ日露戦争の話を聞きに行った。ホーへーの話には勇敢無比な日本兵の話しなどはほとんどなく、いつもちょっぴり物悲しい話ばかりだった。聞いた話はいまでもたくさん記憶しているが、ここではその内の二つだけを紹介したい。
日露戦争のとき旅順攻略を担当したのは第3軍の乃木希典(のぎまれすけ)司令官。だがホーへーによれば乃木ほど戦争の下手な将軍は日本の戦史上存在しなかったそうである。乃木は近代科学戦を知らず、肉弾攻撃一本槍の超乱暴な非合理戦闘が多かったそうである。その乃木を日露戦後に、乃木神社まで建設して彼を神として崇拝するのはいかなる理由によるのかというのがホーへーの主張であった。
戦史によれば乃木は1904年7月31日から翌年1月1日までの155日間の戦闘で5万9千人を死傷させた。これを見兼ねた満州軍総参謀長児玉源太郎が現地に来て砲兵の布陣を変更して前進させ、日本内地から持って来た28センチ榴弾砲18門でいとも簡単にロシア軍の203高地の砲台を陥落させ、引き続いて旅順も征服した。
世間一般に正しいと信じられていることに批判の目を向けること、また教科書や新聞、雑誌を無条件に信用しないという筆者の性癖はホーへーのたわごとによって培われた可能性が大きい。
第2番目の話。日露戦争中、日本陸軍は満州の馬賊、匪賊の協力を得るために彼らに対し多くの約束手形を発行した。事実彼らは偵察行動の点で日本陸軍に大いに協力した。ところが戦争が終わると陸軍はそれら約束手形をすべて反故にした。これに怒ったある馬賊の頭領が“人を裏切るこんな国は50年とはもつまい”と言ったそうである。
馬賊の頭領が言った通りこの国は50年を経ずして壊滅した。筆者の好きな作家の一人である司馬遼太郎は昭和の軍隊に比較して明治の軍隊は正直であり律儀であったと機会あるごとに書いている。だが果たして明治の軍隊にそのような素質があったかどうか疑問に感じている。
古枯の木―アメリカ在住35年以上、歴史愛好家、最近は山本五十六の研究に精を出している。
筆者の「教科書や新聞、雑誌を無条件に信用しないという」という考えは私も賛成します。片より勝ちな日本の新聞など特にそう思います。では、我々は何によって情報を得たらよいのかということになります。その点、どのようにお考えでしょうか。
返信削除梅の木
1950年生まれの私は戦争を全く知らずに育ちましたが古枯の木さんのブログは大変興味深いです。お体を大切にしてください。ブログ楽しみに読んでいます。
返信削除乃木坂駅前の乃木邸は何度か訪れたことがありますが、よく知らなかった私は「なにかすばらしいことをした偉人の邸宅なのかな」と思っていました。kokonokiさんは本当に知識がお深いですが、本以外にもこういう形で情報収集されてたんですね。
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