契約と条約
一国内の契約についてはおそらくすべての人々はこれを遵守すべきと考えているだろう。では国際間の条約についてはどうか。日本人は条約と契約を同一の次元で捉えて条約は契約と同じく律儀に守るべきものと考えている。では欧米人はどうか。彼らは条約をどのように考えているのだろうか。契約と条約は別物であるとみなしていないだろうか。
欧米諸国は自分に都合のよいときは条約を守る。ところが一旦都合が悪くなると弊履のごとく履き捨てる。これは外交史上実証できる。そのためある人は条約当事者は所詮同床異夢であると喝破した。では条約に対して何が優先するのか。思うにそれは国益(national interest)である。
条約に対処する方法につき欧米諸国の間でも違いが生ずる。アングロサクソンは偽善的紳士であるため条約の廃棄にはある種の限度がある。一方ロシアは野武士的、労働者的であるためなんでもできる。ロシア史は実に破約の歴史である。
1945年8月7日ソ連が1946年4月13日まで有効期間のある日ソ中立条約を破って旧満州に侵入した。でも欧米の学者はこれを大きな問題として取り上げない。“ソ連は日本に対して復讐した”と簡単に片付けている書物が多い。ソ連侵略のとき、ソ連とソ連の友好を信用しなかったモスクワ駐在の佐藤尚武大使は直ちにソ連の参戦に抗議したが、ソ連は中立条約の侵犯については触れず“汝をを救わんがために、汝を殺す”という冷酷無比のロジックで回答してきた。
国際社会と国内社会の基本的相違は何であろうか。思うにそれは誰が万能であるかの相違であろう、国内社会ではそれを構成する各メンバーは無力であり、国家が万能である。一方国際社会ではそのメンバーである各国家が万能であり、国際社会そのものは極めて無力である。それが証拠に、かつてドイツは全世界を敵に回して2度まで戦いを挑んだ。1991年フセインのイラクは全欧米を相手に一人で戦った。そのため国際社会は国内社会に比較して発展の度合いが低く、自然状態に近く、法治社会以前の後進未開の状態にあると言い得る。条約とはそのような社会の法的産物である。
日米間には安保条約があり、日本人は一旦ことあるときはアメリカが日本を守ってくれると信じているがアメリカか日本を守る保障はどこにもない。具体的にもし北朝鮮がわが国を攻撃してきたとき、アメリカは日本を守るだろうか。それはアメリカがリスクと国益を比較し、利益あると判断したときのみ日本を助ける。日本を助けるに当たって一番大きな課題は中朝間の同盟条約であり、アメリカは中国との戦争を覚悟してまで日本に肩入れはせぬだろう。
古枯の木――2009年9月9日記す。
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