2010年2月17日水曜日

山本五十六とロサンゼルス

 現在、日本とロスに間を行き来しているが、最近、ロスの近現代史研究会で”山本五十六の実像に迫る”と題して講演を行った。五十六の人気は今でも高く、定員50名対して100人以上の参加申し込みがあった。席は無くても構わぬといって通路であくらをかく人も数人いたし、如水会のメンバーも一名参加してくれた。
 五十六が現れる前の帝国海軍の対米戦略思想は日本近海に待ち伏せして迎え撃つという守勢的、消極的な邀撃漸減(ようげきぜんげん)作戦と遠距離先制攻撃である大鑑巨砲主義であった。それに対して五十六は空母を中心とする航空主兵主義を採用し、短期、積極作戦を導入した。軍人でありながら高度な政治判断を要求される軍政家としての五十六の真髄がここにあり、彼には大局を見るの明があった。ただ現場で作戦の指揮をとる用兵家としてはソロモン諸島の消耗戦を繰り返すなど少し凡庸ではなかったかというのが筆者の講演の概要であった。
 この講演会に先立ち、地元の新聞や雑誌が会の予告記事を出してくれた。これを見て100歳の猪瀬よしこさんが羅府新報という地元紙に手紙を寄せた。この新聞社は彼女の父親が1903年に創設したもので、今でも週に4回新聞が発行れている。彼女の父親は長岡市の出身で、彼女の伯母さんと五十六は長岡の表町小学校で同級生だった。五十六は非常に聡明でいつもクラスで一番、伯母さんは二番だった。伯母さんは長岡の師範学校を卒業した後、結婚、渡米し1920年ごろからロスダウンタウンのボイルハイツ地区のシカゴ通りに住み洋裁を教えていた。よしこさんはこの伯母を頼って1926年渡米、伯母の家に寄宿しながらルーズベルト高校に通っていた。
 五十六はワシントン駐在の終了した1928年ロスに立ち寄った。目的は二つ、一つは小学校の同級生でロス郊外で百姓をしていた新保徳太郎を激励するため、もう一つはよしこさんの伯母に会うためだった。これが五十六とロスのただ一つの接点である。
伯母の家には新保徳太郎が車で連れて来た。よしこさんは今でも五十六に会ったときの情景を鮮明に覚えているそうだ。五十六は精神的に大変若々しく、物事を的確に洞察するような澄んだ眼を持っていた。よしこさんは五十六の中に偉大なリーダーシップを感じたが、この人なら日本を守り、無謀極まりない対米戦争を避けてくれるだろうと確信したという。現実を直視し、付和雷同せず、自主的判断を下す五十六の態度に深い感銘を覚えたらしい。五十六はこの後、サンフランシスコ経由、帰国した。
 筆者の講演が終了したとき、羅府新報の女性記者がよしこさんの手紙を朗読したが、これが出席者全員に大きな感銘を与え、中には後で筆者にこの手紙について電話してくる人やイーメイルを打ってくる人もいた。
 よしこさんは現在101歳、筆者の家から車で5分ぐらいのところに住み、五十六に関するいろいろ貴重な情報を提供してくれる。五十六に会ったことに大きな誇りを感じている。彼女の頭脳は極めて明晰で、40数人の孫とひ孫に囲まれて幸福な日々を送っている。五十六に対する敬愛の念は極めて強く、こちらが五十六、五十六と呼んでいるのに、彼女はいつも襟を正して、”元帥””元帥”と呼ぶ。よしこさんの実家の墓が長岡市の長興寺にあり隣が五十六の墓だそうだ。よしこさんは年のため訪日はかなわぬので、今度筆者が日本へ行くときはぜひ両方の墓に参って欲しいといっている。今年春には長岡を再再度訪問の予定で両者の墓に詣でるつもりでいる。

古枯の木

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