汪兆銘と勝沼博士
日中戦争が泥沼化した1940年、中国の国民党内で蒋介石と勢力争いをしていた汪兆銘が重慶を脱出して南京に新政権を樹立し、汪が主席となった。彼のスローガンは親日、反共、和平救国であったため日本政府はこれに接近し国家承認を行った。世界の国の中ではわずかドイツとイタリヤのみが日本に従った。この政権は日本の敗戦まで続くことになる。
この汪の政権は日本の傀儡政権であったと一般的にはいわれている。だが汪は国益を主張し、日本の軍閥政府をして租界を返還させたり、治外法権を撤廃させたりしている。
1944年汪は病気のため来日し、名古屋帝国大学の医学部病院で神経外科の斉藤真教授と内科の勝沼精蔵教授の治療を受けることとなった。病気の理由は1935年11月1日、ある大会でカメラマンに扮した男に狙撃され銃弾が3発体内に入り2発は摘出されたが、後の1発が体内に残りこれが骨髄腫を引き起こしたとされている。なおこの狙撃事件は当時国民党内で勢力争いをしていた蒋介石の差し金であったという人もいる。
古枯の木の父親は長らく腎臓を病み、勝沼博士の治療を受けていた。博士は月に一度名古屋郊外の西尾という町に出張診療に来ており、父は診療の度ごとにその町に出かけていた。あるとき診療後、博士がつぶやくように父に語った。“汪は日本陸軍の要求をさっぱり受け入れぬ。そのため陸軍は汪が死んでもいいと考えている。でも死んだら後継者がいないから問題だ”と。
汪は1944年11月10日名古屋で客死した。現在、中国本土では彼は売国奴として扱われているそうだ。だが台湾では汪のシンパがずいぶんいると聞く。いずれ汪のことを調査してみたい。
古枯の木―2010年9月8日
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