2010年1月18日月曜日

裏から見たノモンハン事件

裏から見たノモンハン事件

 昨年12月17日トーレンス市でノモンハン事件についての講演を行った。出席者の一人であった宮森某さんからさらに詳しい話を聞きたいとの要請があったので、1月13日ランチを取りながら会談に及んだ。
 うれしいことに宮森さんから“ジューコフ元帥回想録(著者ゲ・カ・ジューコフ、訳者清川勇吉、相場正三久、大沢正、1970年、朝日新聞社発行)”のノモンハン戦争の部分(第7章)をいただいたことだ。ソ連のものはいつの時代でも宣伝臭が強くて直ちに信用することはできないが、ものごとは可能な限り表と裏から見ることが肝要であろう。学問とはreality(真実)の追求だ。左翼学者はドグマに基づき議論するので彼らの主張はいつも非科学的だ。でもヒョットすると彼らの主張の中にも真理があるかもしれない。いただいたこの資料の中で面白かった部分を以下に箇条書きする。
1. ジューコフは1939年5月11日早朝、攻撃を仕掛けてきたのは日本軍であると主張する。日本の左翼学者は大体この説を支持する。さらに彼は日本はソ連と外蒙古に対する侵略の目的を放棄していなかったと説く。
日本では外蒙古の軽騎兵隊がハルハ河を越えて最初に越境攻撃してきたというのが定説になっている。ハイラルに駐屯していた小松原道太郎の23師団は確かに一旦ことあるときソ連のバイカル湖まで進軍することになっていたが、これはあくまでアイデアの段階であり、進軍の具体的目標があったわけではない。
2. 勝利を信じきっていた日本陸軍はイタリヤやドイツの新聞記者や駐在武官を多数招待していた。これは知らなかった。彼らの驕慢ぶりをみよ。
3. 日本軍はソ連軍と異なり戦車師団や自動機械化部隊を持たなかった。その通りである。
4. 夜間の移動には飛行機の爆音、大砲、機関銃の発射音などの偽音を多く利用した。また虚偽情報をたくさん流した。さらに総攻撃の日は日本軍の将校たちがハイラルに帰って休暇を楽しんでいる日曜日の朝とした。ジューコフは頭がいい。
5. 日本軍兵士はバンザイを叫びながら死ぬように運命付けられていた。そうだ。生きて虜囚の辱めを受けずなどとバカなことを教えられていた。
ノモンハンの後、ジューコフはモスクワに帰りスターリンと会見した。スターリンに日本軍の戦いぶりを聞かれたとき、ジューコフは“日本軍兵士の間では規律がよく保たれ、兵士は真剣で頑強だった。彼らに降伏という言葉はなく、最後の一兵までよく戦った、特に接近戦術と防御戦争に強かった。若い指揮官たちはよく訓練され、狂信的な頑張りをみせた。だが古参の下士官、年老いた高級将校は訓練不足で積極性が乏しく、紋切り型の行動しかできなかった。
その通りであろう。彼らの目当ては勲章と出世だけだった。“将軍勲章、将校商売、下士官火遊びでお国のためは兵ばかりなり”という俗謡がこの辺の事情をもっとも端的に表現している。

古枯の木―2010年1月17日記す

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