歴史家と作家の歴史観の違い
歴史家と作家または文士と呼ばれる者の歴史観は異なるように思われる。学問とはそもそもrealityの追求であり、学問としての歴史は歴史的事実の調査、追及である。ところが作家はある人物または事件を抽象化し、美化し、不都合な部分を故意に削除してしまう。ときには意図的に事実を歪曲し、脚色を施す。これにたいし歴史家はつねに冷静にしかも公平、公正に対処しようとする。
一例を挙げよう。最近、工藤美代子の“われ巣鴨に出頭せず”という近衛文麿の伝記を読んだ。工藤はその中で近衛を“悲劇の宰相”とか“高貴な血の流れ”とか述べて誉めそやしている。ところが歴史家によれば(もちろん左翼の歴史家は除くが)近衛は東条、松岡とともに日本を無謀な戦争に駆り立てた3悪人の一人である。近衛は生涯3度の大きな政治的ミステイクを犯した。
最初は第一次近衛内閣の1938年1月に発した“爾後蒋介石政権を相手にせず”の声明である。一旦国家承認をした相手を一方的に取り消すのは大きな国際法違反であり、さらにこれは蒋介石政権との外交交渉の窓口を自ら閉ざしてしまうものだった。近衛には定見なく、余りにも軽率な行為だった。第二回目は第二次近衛内閣のときの1940年9月27日ドイツのスターマー特使の口車に乗せられて三国同盟に署名したことである。この同盟が英米を敵に回し、大破局導く端緒となったのは明々白々である。
三回目は第三次近衛内閣のときに提唱した太平洋会議の失敗である。1941年8月、近衛はルーズベルトにたいし太平洋のどこかで会議を開きたいと申し入れたがにべも無く拒否された。その理由は二つある。一つはル大統領が近衛の人物に信を置かなかったことだ。近衛には悪い性癖があり、しばしば旅館や料亭の女中や仲居を無理やり押入れに連れ込んで乱暴する癖があった。しかもバカな彼は事後にそれを友人、知人に吹聴して廻ったのである。ル大統領は品性下劣な近衛の行動を全部知っていたのでその人間性を信用しなかった。次の拒否の理由はル大統領は日華事変処理のときの近衛の優柔不断さからして近衛の政治手腕に一切信を置かなかったことである。
他の例を挙げよう。山本五十六についての伝記は数多く出版されている。そのほとんどが五十六を賞賛し、美化したものだ。作家はこれにより出版部数を増やし、収入につなげようとしているかもしれない。一方、五十六を徹底的にけなしている本もある。太陽が西に沈むのも五十六が悪いからだとの理論である。彼らは五十六をけなすことによって本の部数を増やす魂胆があるかもしれない。作家の歴史観を100%そのまま受け入れることは主体性なく極めて危険だといわざるをえない。
古枯の木―2010年7月6日記す。
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