2009年5月13日水曜日

ルーマニアの油田

ルーマニアの油田

 古枯の木は2009年4月4日から19日までドナウ河の河下りを楽しみながら東欧7カ国を駆け足で廻って来た。この旅の最大の関心事の一つがルーマニアの油田だった。なぜならこの油田が独ソ戦の引き金になり、ヒットラーとドイツの運命に大きな影響を与えたからである。ヒットラーは1933年政権を獲得したが、すべての人に職業を、またすべての家庭にパンとスープを与えると公約して勢力を拡大していった。36年から38年の間にラインランド、オーストリア、ズデーテン、ボヘミア、モラビアを回復した。39年9月1日、ポーランドのダンッチヒと15マイルに渉るポーランド回廊を要求してポーランドに宣戦布告した。
 さらに41年6月22日午前3時15分突如ソ連に対して宣戦布告をした。(ナポレオンがロシア遠征を開始したのは1812年6月23日でヒットラーより一日遅い)その理由については種々の説があるが近年ではヒットラーが真に欲したのはルーマニアの油田であったと言われている。当時ブルガリアが油田から50マイルの地点まで兵を進めたし、ソ連もルーマニアとの境界線となっている河から100マイル以内に迫っていた。ドイツの作戦はバルバロッサ作戦と呼ばれ、動員兵力400万、タンク3,300台、大砲7千門、航空機2千機、想像を絶する大規模の動員だった。
 ルーマニア油田の奪取についてはドイツ軍部内に異論があった。ドイツが40年5月、ベルギーとオランダを占領したとき、これら2国から大量の石油が入手できた。さらにライプチッヒ近くの精油所で石炭から液体の航空燃料を抽出することに成功していたので空軍のボスであるヘルマン・ゲーリングは2年分の石油の備蓄はあるとして危険な対ソ戦に強く反対した。だがドイツ陸軍は自身の石油資源を保有すべきであるとしてソ連戦を強力に推進した。
 開戦してみるとドイツ軍はその年の秋の長雨と予想より早い冬の到来で苦戦を強いられた。さらにドイツ軍には電撃作戦のスピードがあったが、ソ連にはそのスピードに耐えうる広漠さがあった。この作戦は結局失敗に帰し、ヒットラーのThird Reich建設の夢は消え失せ、ルーマニア油田の奪取の野望が結局彼にとり命取りとなったのだ。
ルーマニアはドナウ河の北に位置し、鉄鉱石、石炭、石油を含む天然資源の豊富なトランシルベニア地方を含む。 トランシルベニアはトランシルベニア・アルプスとカラペチアン山脈に囲まれたルーマニア東南部地域で世界史にたびたび登場する。この地域では農産物も小麦をはじめとして各種のものが大量に生産されており、近代に入って西欧, 東欧各国の垂涎の的であった。支配者はローマ、ポーランド、オスマントルコ、ハンガリー、ドイツ、ソ連と変遷した。
 古代ローマ人はドナウ河の南は文明地域だが、北側は非文明地域であり野蛮人が住むところとして渡河して北側に入ろうとはしなかった。ところがトランシルベニアに金が発見されたとの情報が伝わると大挙この地に侵入した。ゴールドラッシュはカリフォルニアのものが有名だが、ルーマニア人は最初のゴールドラッシュはトランシルベニアで始まったと言う。
 ルーマニア油田はこのトランシルベニアのど真ん中に位置する。プロイエシティ(Ploiesti)という人口20万人の町の西部に展開する。首都のブカレストから北に60キロのところにある。カリフォルニアでよく見かける原油をくみ上げるポンプが多数存在し、石油のパイプが縦横に走り、精油所は煙を上げている。花に囲まれたこの町は石油の匂いと花の香りがミックスしている。
 第二次大戦初期、ナチスドイツが油田を占領した後、英米連合軍の飛行機がたびたびこの油田を爆撃した。やがてソ連軍が近づくと連日ドイツ軍とソ連軍の間で激戦が展開され、最後はドイツ軍が一木一草も残らぬほで破壊尽くして遁走した。
 プロイエシティの石油の生産量は決して多くなく、ルーマニア全需要の半分にも満たないそうで、ルーマニアはロシアから毎年大量の石油を輸入している。こののどかなプロイエシティの街を散歩したとき豊かさゆえに蒙ったルーマニアの悲劇、惨劇に思いをいたした。世に“貧困の哲学”なる言葉はあるが、果たして“豊富の哲学”なる言葉はあるだろうか。

古枯の木                 2009年5月11日記す

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