2009年2月27日金曜日

山本五十六の実像に迫る

山本五十六の実像に迫る
古枯の木

1. 五十六のDNA  
 山本五十六は1884年4月4日新潟県長岡市の王蔵院町で産声をあげた。父は高野定吉、母は峰。定吉56歳のときの子供であったため五十六と名付けられたという。旧姓は高野。五十六の祖父、秀右衛門、父、定吉と兄の譲と登はいずれも長岡藩士、河合継之助(つぎのすけ)に従って戊辰戦争に参加し、祖父は命を落としている。五十六は官軍に対して徹底抗戦を叫んだこの河合敬之助を深く尊敬していた。高野家はもともと儒学者の家系であったため五十六には武人としての血とともに文人としての血も濃厚に流れていたといえるかもしれない。
 1915年五十六33歳のとき山本家に養子に入り、姓を山本と改めた。山本家は山本帯刀(たてわき)が会津で戦死して以来断絶していた長岡藩家老の家である。34歳で会津藩士族の娘である三橋礼子と結婚。五十六の死後、女元帥といわれた人だが彼女に好意を持たぬ日本人が多い。
 五十六の性格については無口、寡言で人におもねることなど一切なかったが一旦親しくなると心置きなく話せる人間であったとされている。エリート意識など微塵もなく、常に海軍と日本の将来を考えて愛国の赤誠は非常に強かった。大変open-minded の人で、他人に威張ることなく、部下の敬礼に対してはいつも端正な敬礼で返していた。自制心の非常に強い人で、人を感服させる洞察力、先見性、見識、度量があった。無表情の中にときどききらりと光る目がある種の威圧感を与えたという人もいる。ある人は五十六は非常に茶目っ気のある人で新橋の芸者衆に人気があったが、意見を述べるときはいつも冷静、沈着、毅然、颯爽とした態度を維持したと言っている。言辞はいつも簡にして要を得ており、交渉は必ず単刀直入を旨とし、いらざる駆け引きを嫌った。だがときどき憂愁さを含んだ表情を見せることもあったらしい。
 筆者の姉2人は熱烈な五十六ファンだった。“五十六が生きていれば絶対に戦争には負けない”と戦時中、主張していた。また五十六の静かで哀愁を含んだ表情がなんともいえぬ魅力だとも言っていた。“Admiral of The Pacific-The Life of Yamamoto”を著したJohn Deane Potterによれば日本人は五十六の中に二つの顔を発見したという。一つは海軍軍人としての顔でありもう一つは神としての顔であったと。

2. 五十六の軍歴
 五十六は非常に利発な子供で小学校は首席で卒業し、長岡社の学資援助を受けながら1901年長岡中学を卒業。同年海軍兵学校(以下海兵と略す)に190人中2番で入学した。同期には生涯の友人であった堀梯吉がいた。04年海兵を11番で卒業したが、当時は日露戦争の真っ只中で装甲巡洋艦日進に乗り組み左手の指2本を失った。指3本を失えば廃兵となるところだった。
 09年初めてアメリカを訪問、11年海軍大学校(以下海大)乙種を卒業、さらに16年海大甲種を卒業。19年アメリカに駐在し、ボストンのハーバード大学で英語の勉強。このときアメリカの航空機産業の発達に注意を払い、アメリカとメキシコの石油産業にも大きな興味を抱いた。23年霞ヶ浦航空隊の教頭を命ぜられたが、26年大使館付武官としてワシントンに駐在。28年帰国したが、帰路ロスに立ち寄り、長岡出身で農場を経営していた新保徳太郎と山岸太三郎を激励している。これがロスとのただ一つの接点。同年練習艦五十鈴の艦長に命ぜられた後、航空母艦赤城の艦長にも任ぜられた。
 29年少将でロンドン海軍軍縮会議の全権随員を命ぜられたがその頃の五十六は条約派よりも艦隊派に近かったと思われる。艦隊派と条約派については後に説明する。
 33年第1航空戦隊司令官になる。34年第2次ロンドン軍縮会議が開催されたが、そのときも五十六は出席。軍縮条約が消滅して無条約時代に突入することを恐れた五十六はこのとき条約派に近い立場を取った。
 35年航空本部長に補せられたが、18インチ砲を搭載する戦艦大和と武蔵の建造に大西滝次郎とともに猛反対。その理由はどのような巨艦を建造しても、“不沈戦船などはありえない”ということだった。
 36年海軍次官となり、米内光政海軍大臣とともに2年7カ月間広田、林、第1次近衛、平沼各内閣に仕えた。米内、山本、井上の三国同盟反対、対米戦争反対の強い一本の筋が海軍内に出来上がった。
 55歳の39年連合艦隊司令長官に転出し43年4月18日ブーゲンビル島ブイン基地の近くで戦死した。
 五十六のことを簡潔に知るためには新潟新幹線長岡駅のすぐ近くの呉服町にある山本元帥記念館を訪問するといい。誕生から死に至るまでの経緯を知ることができるし、館の中央には撃墜された一式陸上攻撃機(航空母艦からではなく、陸上の基地から飛び立ったので陸上と呼んだ)の主翼部分や五十六坐乗の椅子が展示されている。またこの館の近くにある山本記念公園では復元された五十六の生家を見ることができる。玄関上、二階の五十六の二畳の勉強部屋は頭が天井に着きそうな部屋である。
アメリカは長岡が五十六の故郷であることを知っていた。記念館の老ガイドによれば敗戦直前に長岡は大空襲を受け、99%が焦土と化したそうである。焼け残った1%は当時駅前にあった米軍の捕虜収容所。ロス帰って調査したら45年8月1日の空襲で1,143人が死亡し、家屋1,985棟が焼失したとある。

3. 帝国海軍の対米戦略思想
 ここで当時、帝国海軍が抱いていた対米戦略思想を一瞥する必要がある。海軍には2つの戦略思想があった。ひとつは守勢的邀撃漸減(ようげきぜんげん)作戦であり他は大鑑巨砲主義である。守勢的邀撃漸減作戦とはアメリカ海軍を西太平洋上で散発的に迎え撃ち、徐々にその戦力を削ぎながら敵が日本本土に接近するまで待ち伏せてそこで本格的に逆襲して殲滅しようとするものである。日本近海で迎え撃てば長い補給路を維持しなければならないアメリカに比べ日本の守備力は3倍に自然増強されるというのがその理論的根拠であった。だが経済力の脆弱なものが、強力なものに時間を稼がせたら経済格差はますます増大し、経済的弱者はより不利な立場に追い込まれる。よってこの戦略思想は実際的とは考えられない。
 大鑑巨砲主義とは沈まぬ大きな戦艦を建造してこれに巨砲を搭載し、敵が撃ってくる前にこちらから撃ち始め、その長距離着弾能力によって敵艦を撃沈しようとするものである。この思想の下、口径18インチの巨砲をもつ戦艦大和が誕生し、その砲弾は42キロ先まで飛んだ。だが考えていただきたい。弾は42キロも飛ぶかもしれないが、どうやって42キロ先のものに照準するのか。これは飛距離のみを争うゴルフと同じで非実戦的と言わざるをえない。
 

4. 軍政家としての五十六
近時、五十六について名将であったという説と同時に彼は凡将であったとか愚将だったとの説もある。五十六の評価をするとき、軍政家としての五十六と用兵家としての五十六に別けて観察、分析する必要がある。軍政家とは軍人でありながら高度な政治的判断を要求される者のことである、用兵家とは現実に兵隊を動かす者である。まず軍政家としての五十六について述べてみたい。結論からいえば五十六は軍政家として大局を見るの明があり優れた識見の持ち主だった。
なお五十六に関する書物は国の内外で多数刊行されているが、軍政家としての五十六と用兵家として五十六の二面から捉えた書物を筆者は知らぬ。

A.条約派の五十六
 当時の海軍は大別して艦隊派と条約派に分かれていた。艦隊派は軍縮条約を破棄して自由に艦隊の増強をしようとする派であるが、条約派は条約を遵守して艦隊の増強を抑制しようとするものである。1929年から始まった第1次ロンドン軍縮会議に先に述べたように五十六は少将で全権随員として参加したが、このとき彼は明らかに艦隊派で補助艦比率の対米7割を強く主張した。若槻全権が69.75%の比率を呑むと五十六は猛烈にこれに抗議した。
 ロンドン条約は36年に消滅するため、34年から第2次ロンドン軍縮会議が始まった。このとき五十六はロンドン軍縮会議予備交渉の首席代表として参加した。34年に日本はワシントンの軍縮条約から脱退しており、さらにロンドンの軍縮条約から脱退すれば世界に無条約時代が到来することを恐れて五十六は艦隊派に属した。その理由は軍備の制限は我を制限するが同時に相手も抑止するものであるということだった。さらに世界の灯台が日本に対してその灯を消してゆく現実に着眼したものと思われる。だが日本は36年ロンドン条約からも脱退してしまった。

B.大艦巨砲主義に反対
 日露戦争に勝利して以来、日本海軍は大艦巨砲主義の影響下にあった。先に述べたように大艦巨砲とは大きな不沈性の戦艦に大きな大砲を搭載して敵の砲弾が到着する前にこちらの巨砲をもって敵の艦船を撃沈してしまおうとする考えである。つまり敵の手の届かない内にわれから斬って出ようとするものであり射程距離至上主義だった。それは具体的に18インチ砲を9門も搭載した戦艦大和、武蔵、それに途中から空母に変更された信濃の建造に現れてくる。
これに対し五十六は18インチ砲は宝の持ち腐れであり、わが巨艦は敵の戦艦に遭遇する前に敵空軍の雷爆撃により撃沈されてしまうと説いた。五十六は不沈戦艦というものは存在せず国防の主力は航空機で軍艦はその補助に過ぎないとした。つまり航空主兵主義、空母中心主義が国防の要であったのだ。この五十六の理論を強力にバックアップしたのが特攻隊生みの親で敗戦の翌日割腹自殺した大西滝次郎である。
 当時世界に無用の長物が3つあると囁かれていた。ピラミッド、万里の長城それにわが戦艦大和であったそうな。

C.日独伊3国同盟に反対
 36年五十六は海軍次官に補せられた。当時の海軍大臣は東条英機の男妾と言われた嶋田繁太郎。五十六はこの嶋田を“――あのおめでたい嶋はんがーー”と軽蔑している。海軍軍令部長は“グッタリ大将”とあだ名されていた長野修身(おさみ)。後妻が超美人であったため昼間の重要会議によく居眠りをしていた。天皇からなぜ12月8日を真珠湾攻撃の日にしたかと問われたとき、“アメリカの7日は日曜日でアメリカ軍将兵は遊び疲れて日曜日はグッタリしているからこの日がいいでしょう”と回答したと言われている。当時の政府は2頭政府だった。海軍省のほかに海軍軍令部が存在した。両者の責任と権限が明確でなくときにはお互いに責任のなすりあいを行った。陸軍では陸軍省のほかに参謀本部(或る人は参謀とは無謀、乱暴、横暴のことだという)があり海軍と同じような問題を抱えていた。海軍にも陸軍にも人がいなかったということである。
 間もなく海軍大臣は米内光政に変わり、37年には軍務局長は豊田副武(そえむ)から井上成美(しげよし)に変わった。ここに米内、山本、井上のトリオが形成された。五十六は37年2月から39年8月まで廣田、林、第1次近衛、平沼の各内閣に仕え、2年7か月にわたり三国同盟に反対することになった。このトリオは若い海軍将校たちの思い上がった下克上の風潮を完全に抑えた。阿川弘之はこのときが日本海軍のもっとも輝ける時期だったと指摘している。だが米内、山本が辞職すると元の木阿弥に戻ってしまった。
 五十六はドイツを信用していなかった。とくにナチスドイツを。また3国同盟を締結すれば旧秩序を破壊せんとするドイツの勢いに巻き込まれ必然的に現状維持の英米との戦争になることを予測していた。五十六は“日米戦争は一大凶事なり”と言って3国同盟に猛反対した。世界の趨勢はドイツではなくて依然として英米のアングロサクソンによって支配されていることを五十六は熟知していたからだ。
 開戦の直前、首相だった近衛文麿との荻窪の荻外荘(てきがいそう)における会見で五十六が“やれと言われれば半年、一年は大いに暴れてみせる。だが2年、3年では自信なし”と言ったとされている。半藤一利もこの説をとる。だが工藤美代子は五十六のこの言辞は近衛の手記から出たものに過ぎず大変疑問だと述べている。責任感のかけらもない近衛や外務大臣だった松岡洋介を五十六はいつも攻撃していたそうである。
 一方、五十六は近衛に対し、“3国同盟が締結されたのは仕方ないが、対米戦争の防止には最大限努力して欲しい”と頼んでいるそうだ。これは事実であろう。だが惜しいことに五十六は最後まで対米戦争“ノー”とは言ってくれなかった。
 

5. 用兵家としての五十六
 現場で作戦指揮をとるのが用兵家だが、五十六に関しては用兵家としても天才的なイメージがあるものの結論を先に言えば五十六は用兵家としては凡庸であり、勇気がなく臆病で、お粗末な戦術、戦略思想に基づいていたずらに消耗を繰り返し大局を判断するの明を欠いた。
 昔、ニューメキシコ州のアルバカーキーの町でアメリカ海軍の元提督という男に会った。筆者から帝国海軍の戦いぶりについて意見を求めた。こちらとしては、帝国海軍は劣悪な条件下にあっても善戦したとの回答ぐらいが来ると期待していた。だがその期待はまったく裏切られた。彼はアメリカ海軍は帝国海軍をチキンだと見做していたと言ったのだ。チキンとは臆病者を意味する。帝国海軍はあと一押しすれば完勝できたもかかわらず、勝を粘らずいつも早々に引き揚げてしまったそうである。当方に言わせれば深追いしないのがその伝統であるかもしれないが、小成に甘んじ貪欲なき淡白すぎた戦闘行為が提督にはチキンと映ったらしい。
 先ほど紹介したPotterは、帝国海軍はイギリス海軍より多くを学んだが、イギリス士官の甘い端麗なマスクにのみに惚れてそのマスクの裏側にあるむき出しの闘争心を学ばなかったと記している。さらにイギリス紳士という一つの鋳型の中に自分をはめ込み、彼らが何を考えているかという点を深く洞察しなかったとも述べている。
 以下に五十六が関与した4作戦についての私見を述べたい。

A.真珠湾攻撃の失敗
 五十六は帝国海軍の伝統的、守勢的、消極的、対米戦略思想を捨てて自ら撃って出るという積極的戦法を編み出した。Potter は五十六の対米戦略思想では真珠湾湾攻撃は当然の帰結であったと記している。ではその戦い振りはどうだったか。日露戦争以来、我が海軍の伝統は“戦場近くに指揮を執れ”“旗艦陣頭主義”“陣頭指揮”ということだった。だが五十六は真珠湾攻撃にもそのあとのミッドウエイ攻撃にも最前線で指揮を執っていない。瀬戸内海の柱島錨地か敵機の行動範囲外のところにいた。これはいかなる理由によるであろうか。チキンと言われても仕方ないか。
 いずれにせよ真珠湾攻撃は大失敗であった。アリゾナ、カリフォルニア、オクラホマ、ネバダ、ウエスト・バージニアなどの旧式戦艦を沈没させさらに13隻に損傷を与えることができた。だが真珠湾の水深が浅かったため、アリゾナ、ユタ、オクラホマの3戦艦を除くすべての艦船は引き揚げられ、修復され後日戦列に復帰。最大の悲劇は正式空母を1隻も撃沈できなかったことだ。
 さらに巨大石油貯蔵庫、潜水艦基地、艦船修理所、海軍工廠などは無傷。戦艦なしでは戦争ができないと思っていた帝国海軍の意思に反し、米潜水艦隊の幹部は彼らが直ちに作戦行動が可能であることをキンメル提督に報告している。わが機動部隊の南雲長官は第1次攻撃隊を第1派、2派に分けて出撃させたものの、小成に甘んじて第2次攻撃隊と出動させなかった。五十六は南雲を深く信頼せず、このことを予測していたと工藤美代子は言うが、ではなぜ五十六は南雲に対し第2次攻撃隊を発進させよと命令しなかったのか。
 世間では五十六が真珠湾攻撃の意図を訊かれたとき、“米太平洋艦隊に大打撃を与え米国民の戦意を回復できぬまでに喪失せしめることにある”と宣言したとされている。だが本当に五十六がそんなことを言っただろうか。これは世間の思い込みだろう。アメリカの軍事、経済力に精通し、しかもアメリカの国民性と戦史を知る者としてこんなバカな発言はできないと確信する。アメリカには太平洋艦隊のほかに大西洋に大艦隊が存在したし、さらに空母25隻の建造計画もあった。事実、世間の思惑とは反対に開戦前、アメリカ国民の85%が対日戦に反対であったのが、真珠湾の一撃により100%が戦争賛成に廻ってしまった。
 余談ながら五十六が真珠湾の計画を発表したとき山口多門を除きすべての提督が反対したが、一応の成功を収めて終了すると“真珠湾は俺がやった”という提督がたくさん出てきたそうな。

B.ミッドウエイの敗戦
 わが驕れる連合艦隊は42年6月5日ミッドウエイ島の近くで、赤城、加賀、蒼竜、飛竜の虎の子正式空母4隻と航空機322機それに百戦練磨のパイロット多数を失い完敗した。植民地軍相手の緒戦の戦勝に勝利に酔い、“敵には戦意が乏しい”とアメリカを甘く見た慢心の結果である。でもその一寸前の42年春の花見はそれまで日本民族が経験したことのない最高のものだった。筆者は当時のことをはっきり記憶している。桜の木の下で大人たちは“勝った、勝った”で酔いしれていた。兵隊を見ると酒食でもてなし‘アメリカ兵は日本兵を見ると泣いて逃げるそうだ“、”戦争はもうすぐ終わるから兵隊さん、早く戦地へ行きなさい“、”アメリカ海軍は日本の病院船しか攻撃できない“とわめいていた。
 Potter はミッドウエイで大勝したら五十六は東条に圧力をかけて米国との講和にこぎつける計画であったという。彼はもし五十六がミッドウエイまで来て指揮をとり、戦艦と巡洋艦郡をこの海戦に参加させ、さらにアリューシャン列島まで陽動作戦に行った空母の瑞鶴を参戦させていたら日本は楽勝したであろうとも書いている。
 では講和の可能性はあったのか。42年春、ワシントンに特使として派遣されハル国務長官とのネゴを重ねた来栖三郎大使らが帰国した。東条が彼らの慰労のためパーティを開催したので来栖はこれをチャンスと東条に対してアメリカとの早期講和をすすめた。だが東条は有頂天になっていて聞く耳をまったく持たなかったし、来栖は東条の単細胞(simplicity)ぶりに腰を抜かすほど驚いた。
 軍事学には避けてはならない鉄則がいろいろある。作戦間隔もその内の一つだ。連合艦隊の将兵は真珠湾攻撃、マレー沖海戦、インド洋への遠征、スラバヤ沖海戦などで疲労困憊の極に達していた。近藤副提督は彼らをしばらく休養させるよう進言したが五十六はそれを拒否しミッドウエイ海戦を急がせた。アメリカでは五十六のせっかちな性格が日本の大悲劇を招来したとしている。この敗戦の結果に対し五十六は責任を追及されなかったしまた責任を取ろうともしなかった。半藤一利はその頃帝国海軍は無責任主義の染まっていたという。
 戦争にはいつもインテリジェンスが必要不可欠である。インテリジェンスとは知性ではなくて軍事用語では敵情判断を意味する。Potterはミッドウエイのころから帝国海軍にインテリジェンスが欠如しすべて推測(guesswork)に頼っていたと述べている。
 ミッドウエイの敗戦により短期決戦を目指した五十六の夢は完全に打ちひしがれた。アメリカ側はその後日本海軍の作戦は支離滅裂になったと伝えている。開戦へき頭、“本職と生死を共にせよ”と訓辞した五十六の強靭な闘志は衰えてしまったかもしれない。
ミッドウエイの敗戦を日本政府は秘匿とし、反対に戦果をあげたような発表をした。当時、小学校では黒板に先生が大本営の発表する戦果を書き、これを生徒に読ませていた。敵の空母2隻を撃沈したが、当方損失も1隻撃沈、1隻大破というものだった。いつもの華々しい戦果の発表に比較して、子供ながら我が方の損害の多さに驚いた。五十六は“嘘を言うようになったら戦争は必ず負ける”と言っていたが事実そのようになった。

C.第1期ソロモン消耗戦
 42年8月7日から43年3月7日までのガダルカナル島(以下ガ島と略す)を巡る大消耗戦である。(Attrition without intermission)陸軍の戦死者14,550、戦病死4,300、行方不明2,350、海軍は24隻、13万5千トン、海空軍機893機、パイロット2,362人を失う。消耗戦になれば軍事力と経済力の弱い貧乏人の方が必ず負ける。
 ガ島は陸海軍の本拠地であったラバウルの南東1,100キロにあった。攻める方の力がある線を越えると減退し、反対に退却する方が勢いを得て攻守そのところを異にする一歩手前の線が攻勢終末点である。攻勢終末点を越えて進撃してならないのも軍事学の鉄則である。日本はこの攻勢終末点を逸脱し、実力不相応に侵攻しすぎた。無定見に戦力を消耗するのではなく、もっと早く戦線を収拾すべきであった。
 空手では大男と対決するときは正面攻撃を避け、横から攻撃を仕掛けろと教える。大男でも横からの攻撃には弱い。また時間的に余裕のないときは体を小さくして思い切って相手の中に飛び込んで死中に活を求めるべきだという。空手と戦争を比較することは無理だが、帝国海軍には正面攻撃より他に方法はなかったのか。大局に着眼し早く防御の態勢を固めるべきであったと思う。
 ガ島からの徹退を小学校でも徹退とは言わせず“転進”と言えと教えられた。これも嘘の糊塗である。慶応大学のある教授がこれを英語で“strategic retreat”と説明したら、陸軍から“advance by turning”と言えと横槍が入ったそうだ。
 その後第2期ソロモン消耗戦が展開されるが五十六はそのときはもうこの世にいなかった。
 なぜ見込みのない消耗戦を続けたのか、五十六の責任はやはり重大であったと思う

D.“い号作戦”と戦死
 42年8月カロリン諸島のトラック島に連合艦隊の本部が移され五十六は大和に座乗した。戦艦の大和や武蔵には最早出場の機会がなく専ら将兵の宿舎として利用されていた。アメリカではこの事実を知っていて、これら冷房の完備した2艦をヤマトホテル、武蔵旅館と呼んでいた。
ガ島撤退後ラバウルの航空隊は連日敵の空襲を受けていた。この頃になると日本人パイロットの士気は著しく低下した。搭乗機が撃墜されるとアメリカ人パイロットは素早く救助されたが日本人パイロットは放置された。撃墜しても撃墜しても敵は新たな航空機が補充され物量の差を思いしらされた。士気の低下に対してはmorale builder(士気の再建)が必要だった。五十六のラバウル行きはこの点から捉えるべきだろう。
この敵の航空兵力を撃滅し、ニューギニア東海岸への補給路を遮断するための攻勢が“い号作戦”であった。航空機約380機が参加した日本最後の大規模航空決戦となった。43年4月7日から始まり11、12、14日と出撃、16日に終了したが戦果ほとんどなし。わが方はゼロ戦18、艦攻16機、一式陸攻9機が撃墜された。
 工藤美代子は五十六最後のこの作戦は五十六が命令した作戦ではなくて。現地の司令官に任せた作戦であったと記述している。もしそれが本当とするとその頃五十六の闘争心もすでに萎えていたかもしれない。だとすればラバウル行きは彼自信の士気の高揚のためでもあったとも推測される。
 五十六は4月3日トラック発、その日の午後ラバウルに着いた。出撃部隊の士気の鼓舞が主目的だったろう。17日作戦の反省会があり、翌18日ブーゲンビル島のブイン基地に移動しようとした。19日にはラバウルからトラックに帰還する予定だったらしい。だがブインの目的地に到着する15分前に待ち伏せしていた米軍戦闘機P38, 16機に撃墜されてしまった。アメリカ側は五十六の時刻厳守の性格を知っており、彼の時刻厳守の習慣がアダになったとされている。ハルゼー提督は五十六を邀撃、撃墜したとき“かもの袋の中に一匹の孔雀(五十六のこと)がいた”と言って大変喜んだが、同時に米首脳部は五十六無き後、講和のための交渉相手が日本軍部の中にいるかどうかと心配したと半藤一利は述べている。事実アメリカ海軍首脳部の間では次のように言われていた。“山本は一人だけで彼を継げる者は一人もいない”(There was only one Yamamoto and no one can replace him.)
 アメリカの将兵の中で真珠湾攻撃以前、五十六の名前を知る者は誰もいなかった。だが真珠湾の後、五十六を知らぬ者はなく、彼は全アメリカ人の怨嗟の的となってしまった。邪悪の権化、スニークアタックの首謀者、後ろから人を刺す殺人鬼などの汚名が冠せられた。そのため五十六殺害の計画は復讐作戦(Operation Vengeance)と呼ばれ、周到な準備がなされた。アメリカは山本を殺せば日本国民に精神的大打撃を与えうると確信していた。(--it would stun the nation psychologically---)
 一方、日本側では五十六のブイン行きを信書使で知らせようという意見があったが、其の年の4月1日に新しい暗号ができたばかりだから暗号で知らせようということに決まった。ところがこの新暗号をアメリカ軍はアラスカ・ダッチハーバーの深い地下壕の中で4月14日朝までに解読に成功していたのだ。彼らのインテリジェンスには驚くほかない。なお五十六に仕えた参謀は全部で12名いたが通信、暗号の参謀はいても情報参謀は一人もいなかった。
 五十六が戦死したのは43年4月18日だったが、これが日本国内で発表されたのは同じ年の5月頃だったと思う。筆者は小学校の5年生でこれを先生から最初に聞いた。先生が“山本大将が戦死された”と発表すると、ざわざわしていた教室の中が一瞬シーンと静まりかえった。いつもは東京の方向を向かせて“天皇陛下に敬礼”と言って礼をさせていた先生がこのときは“山本大将に最敬礼”と“最”をつけた。先生も気が動転していたのだろう。日本国民はしばらく呆然自失の状態にあり、子供ながら五十六無しで戦争に勝てるのかとの危惧の念がよぎった。彼の国葬は6月5日、日々谷公園で行われた。

6. 終わりに
 日本や世界の偉人について調査研究することは筆者の趣味の一つである。今までに日本人では石川啄木、野口英世、ジョン・万次郎を取り上げ、外国人ではドイツのビスマルク、トルコのアタチュルクなどに傾倒した。今回、五十六を書くについて新潟長岡市の山本五十六記念館、東京赤坂の水交会、広島江田島の旧海軍兵学校、舞鶴の旧海軍機関学校、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各軍港、真珠湾などを廻り五十六を知る人にも会うことができた。
 各種資料を集めて書き出したとき不思議な体験をした。それは対米戦争に反対しながらこれに巻き込まれ全海軍の先頭に立って戦わざるをえなかった五十六の無念さが筆者に乗り移ってきたように感じたのだ。他の偉人たちの研究では一度も感じたことのなかった不思議な経験である。
一時はアメリカ全国民の敵(personal foe of every American)とまで言われた五十六だが現在彼はこれをどのように理解しているだろうか。また用兵家としての五十六は凡庸だったと失礼なことを書いた筆者を五十六は許してくれるだろうか。
 五十六が戦死してすでに66年。南冥の果てに散華したこの不運の知将に対して心からの冥福を祈りたい。

主たる参考文献
John Dean Potter“Admiral of The Pacific-The Life of Yamamoto”William Heineman Ltd.
1965
阿川弘之 “山本五十六 上、下巻”新潮文庫 2004
半藤一利 “山本五十六” 平凡社 2007
工藤美代子 “海燃ゆ”講談社 2004
岡本孝司  “日本敗れたり”創造書房 2003
山本義正  “父 山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉”恒文社 2007

古枯の木―アメリカ在住35年以上。歴史愛好家。著書に“アメリカ意外史”など。
筆者の先生は国際法と国際政治の権威だった。その先生が論文を書くについてよく言っていたことがる。多くの資料に目を通すことは勿論必要だが、ベストと思われる本一冊を徹底的に読み果ては“ヨミ”をなすぐらい読みこなせということだった。読みとヨミは違う。今回それに近かったのは工藤美代子の上述の書物である。さらに先生は日本の本だけでなく外国の本も一冊は読めと教えてくれた。今回の外国の書物はPotterのそれである。

古枯の木-2009年2月26日記す。

2009年2月25日水曜日

Blueberry no

Blueberry の効用
古枯の木
 
 アメリカではBlueberry は目によいとされている。これに関するる有名な話がある。太平洋戦争中、ある青年が米空軍に入隊し、戦闘機のパイロットとして戦地に赴いた。戦闘機のパイロットにとり目は死活的に重要である。そこで青年の母親はBlueberryの乾燥したものを青年に送り続けた。その甲斐あって青年は大役を終えて無事生還することができた。
 
 筆者も2年ぐらい前からフレッシュとドライのBlueberry を食べ続けている。さらに中国では目のために“クコ”の実をたべると中国人から聞いたのでBlueberryと一緒にクコの実も食べてきた。

 先週眼科医に定期健診に出かけた。驚いたことに最近下がりぱなしの視力が少し回復したと告げられた。さらに目の健康状態が大変いいので今まで6カ月に一度行っていた定期健診は今後1年に一回でいいと言われた。Blueberry が効いたのかクコの実が効いたのかそれは知らぬ。

 最近アメリカ人の間では“Thank you VERY much.”と言う代わりにBlueberryに感謝して“Thank you BERRY much.”と言うそうだ。

古枯の木―76歳、極めて健康、2009年2月24日記す。

2009年2月22日日曜日

ゴールドハンター万次郎

ゴールドハンター万次郎
古枯の木

 アメリカ・カリフォルニア州のゴールドラッシュは1848年1月24日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。金を産出した地域をゴールドカントリーと呼んだが、これは南のマリポサから北のシエラシティーまで南北250マイルにも及ぶ。最南端のマリポサにはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れるとアメリカ中が錯乱状態に陥った。世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた男たちが集まって来た。アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は一人もゴールドラッシュには来ていないと記している。だが少なくても一人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられた後、アメリカ東部のマサチュウセッツ州のヘアへブン(Fairhaven)の町で教育を受け、航海術や捕鯨術をも学んだ。1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。直ちにカリフォル二ア行きを決心し、ホイットフィールドに別れを告げた。
 当時アメリカ東部から西部に来る方法は三つあった。一つは陸路で主にミズリー州のセント・ジョセフかインディペンデンスを出て、北路をとり、オレゴン、カリフォル二アの両トレールを通りアイダホ州からネバダ州を経由して北カリフォル二アに入る方法だった。全長3,200キロもあり、6カ月を要し、極めて危険だった。危険とは聳え立つ山々、熱砂の砂漠それにインディアンの攻撃だった。馬の世話から始めてやるべきことが山とあり、慣れない炊事、洗濯、裁縫もしなければならなかった。しかも悪いことにこの方法による出発の時期は5月中旬だけだった。長い酷寒の冬、その後の春の雪解け水と泥濘などが出発の時期を限定したわけである。
 かつて万次郎がどのようにして西部に来たかについて論じられたことがあると聞く。万次郎がゴールドラッシュを耳にしたのは1849年の9月であり、彼が翌年の5月まで待っていたとはとても考えられない。よって陸路説に賛同することはできぬ。
 海路による方法は二つあった。一つは南米チリの最南端のケープ・ホーンを廻る方法で主にニューイングランド地方の鉱夫がこの方法によった。ケープ・ホーンは海の岩と峻厳な気候のため極めて危険で、航海の総延長2万9千キロ、通常6カ月以上かかった。中でも狭隘で560キロにも及ぶマゼラン海峡は日に50回も気候が変わるといわれるほど困難を極めたところだった。
 他の海路による方法はパナマ・コネクションと呼ばれるもので、最も多く用いられた方法であり、最大の利用者は中部及び南部の鉱夫たちだった。主にニューオルリンズを出てパナマの東海岸まで船で行き、その後南北アメリカをつなぐパナマ地峡をガイドに守られ、雨、湿気、風土病と戦いながらパナマ西海岸に来る方法。すべてがスムーズにゆけば4カ月だったが、最大の問題は西海岸からカリフォル二アに行く船便だった。船がサンフランシスコに入ると船員たちが船を捨てて、ゴールドカントリーに走るケースが多かった。そのため常時500隻ぐらいの船がサンフランシスコ湾に捨てられていた。船便が少ないため一時パナマには2千人以上のウエイティングリストができたという。
 万次郎はニューイングランドから来た人だからもちろんケープ・ホーンを廻る方法を取った。七つの海を駆け巡って航海術になれた万次郎は船中でアルバイトをしたと思われる。チリのタルカウアノに立ち寄っている。
 1850年5月下旬サンフランシスコに上陸した。ゴールドラッシュのためサンフランシスコは行き交う鉱夫でいつも賑わい、すでに大きな町になっていたが、万次郎は3日間滞留した後ここから川蒸気船に乗ってその北東約160キロのサクラメントまで行った。サクラメントは現在カリフォル二ア州の州都のあるところで、ここにはサターズ要塞があった。名前は要塞でも実際は交易所でその中ではパンを焼いたり、織物を織ったり、ろうそくや樽の製造などをしていた。この要塞の経営者は金の発見者ジム・マーシャルのボスであるジョン・サターである。350人余りのインディアンが働いていた。
ここからわずか東に65キロ行ったところに金の発見されたコロマが位置する。万次郎は当然このサターズ要塞に来て食料品や日用品を購入したものと思われる。
 その後金山に入ったわけだが、それがどこの金山であったか今日に至るも確証はない。なにしろ金山や町は一晩で開け、翌朝は消えていった。金についてはそれがどのように生成されたか分からないが、東のシェらネバダ山脈の中で作られ長年月をかけて山の裾野や平野に流れて来たものと想定されている。それの比重が19.3と非常に重かったため川に流れた金は川底に沈んだ。川底に沈殿した金を掘り出すために川の流れを人為的に変える。金の採掘に水は必需品でそのために川の流れが変えられることもあった。平野で発見される金は春の雪解け水に流されたものである。
 万次郎はゴールドラッシュ参加の後、ホノルルを経由して1851年8月27日沖縄摩文仁の丘に上陸を果たすが長崎で奉行の取調べを済ますと、52年8月25日四国の高知に来てここに10月1日まで滞在する。その間土佐藩の河田小竜という取調べ官が万次郎から聞いてことを書き留めている。これが漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という本で万次郎研究上極めて貴重な本である。その漂巽紀略によれば万次郎はサクラメントを出発した後あるときは馬に乗り、あるときは御輿に乗りまたは歩いて難所を進むこと5日で“エエンナ”というところに到着したとある。当時アメリカには日本的な御輿などは存在しなかったが、ここでいう“御輿”が何を意味するのか不明である。御輿をpalanquin(一人乗りのかご)と英訳している本もあるが、御輿に乗ったアメリカ人というものを見たことはない。エエンナの廻りには高山が聳え立ち、夏であるというのに山は雪を被っていた。
 漂巽紀略を英訳したJunya Nagakuni 氏とJunji Kitadai氏はその著“Drifting Toward The Southeast” の中でエエンナをSierra Nevadaと訳している。これが適当かどうかは分からぬ。
エエンナには三つの河が流れ、北支流(North Fork)、南支流(South Fork)、中支流(Middle Fork)といった。現在の地図を見てもエエンナを想像させるようなところはどこにもない。当時の町や村は瞬時に興り、瞬時に消えていったが、1800年代の地図を見てもエエンナかまたはそれに近い地名はない。
 当時の鉱夫たちの平均像は次の通りである。鉱夫が一人で金の採掘をすることはもちろんあったが、多くの場合は4-5人でグループを組み分業と協業を原則として働いた。各グループはラバを2-3頭つれ、ラバには食料品、日用品、食器類、ショベルやピックなどの採掘の道具、水を入れたタンク、毛布、テント、火薬それにライフル銃などを運ばせた。万次郎はテリーという男とヘアへブンでゴールドカントリーに行くことを話していたらしいが、実際テリーがいっしょだったという記録はない。万次郎は常に拳銃2丁を持っていたそうである。赤、グレイまたはブルーのフランネルのシャツを着て、ズボンは分厚い頑丈なリーバイスのもの、ハイブーツをはいていた。彼ら鉱夫の一日の平均歩行マイルは20マイルであった。万次郎が5日歩いたとあるからマイル数にすると100マイルであろう。
 中浜博氏は万次郎の4代目で名古屋大学とスペイン・マドリッド大学の医学博士である。氏はその著“中浜万次郎”の中で万次郎の金山をフェザー河(Feather)の北支流のあたりと推定しておられる。だがフェザー河の北支流はゴールドカントリー最北端の金山のオロビル(Oroville)やチェロキー(Cherokee)よりもはるかに北方を流れており、この推定には賛同しかねる。ここまでサクラメントから5日ではとても行けぬ。当時の鉱夫の多くは
サクラメントから東進しプラサビル(Placerville)から北に針路をとり、コロマの地でアメリカ河周辺の地勢を調査し、河の砂を瓶につめて、そこから北、南に散って行った。この事実を考慮に入れると中浜博氏のいわれる土地までとても5日では行けぬ。
 これは筆者の推定だがはるか南のユバ河(Yuba)のことを言っているように思える。ユバ河にも北支流、南支流と中支流の三つの支流がある。中浜博氏は写本などでノースリバーと
言及されているといわれるが、多分ユバ河の北支流のことだろう。
 ではユバ河の北支流にはどんな金山があったか。ユバ河の北支流沿いでダウニー河との合流地点にダウニービル(Downieville)という鉱山がある。サクラメントから110マイルの地点にあり5日で行けるところだ。河が合流しておれば当然金が豊富にあることが想定される。ゴールドカントリーの最東北端の金山がシエラシティー(Sierra City)であるが、ここはゴールドカントリーの最終の金山でダウニービルから東にわずか13マイルの地点だが峻険な山が多く、海抜4,187フィートでゴールドカントリーの中では一番高いところだ。ダウニービルという有望な金山があるのにわざわざ万次郎がシエラシティーまで来たであろうか。ユバリバーの北支流にはさらにグッドイヤーズという金山があるがこれがオープンされたのが1852年だからそのとき万次郎はもうゴールドカントリーにはいない。
 中浜博氏は万次郎は“ノースリバー”の近くの金山に入ったとしているが、ノースユバリバーの“ユバ”が脱落してノースリバーと表現したと考えることに無理はないと思う。
 ではダウニービルとはどんな町であったかを簡単に説明したい。この町はかつてザ・フォークスと呼ばれていた。たぶんユバ河の北フォークのためだろう。1849年スコットランド人のウイリアム・ダウニーという男がやって来て、もし町名をダウニービルに変えてくれるなら金をやろうといって金を道路に撒いたのでこの名前に変更されたという。真偽のほどは分からぬ。
 ダウニーはこの年他のスコットランド人と一緒に河の上流で採金することを決め、グループを組む。ある晩、鮭を捕らえてボイルして食べたが、翌朝鍋を見たら驚くなかれ鍋の底に金塊があったのだ。全員狂気し、寒い冬でも朝から晩まで働き続けた。最初はグループ全体で一日500グラムしか採取できなかった金が最後は一日2キログラム近くも得られるようになった。ダウニーは大変寛容な男で、後にダウニービルの市長になった。多くの人を助けたので彼の名声は中米のパナマまで響いていたという。1852年の最盛期には人が2,000人も住んでいて、一日一人で300ドルも稼げる日があったらしい。現人口は325人。
 この町には北ユバ河とダウニー河の合流するところに三角州がある。この場所はティン・カップ・ディギングと呼ばれている。ティンはすずのことであり、昔鉱夫たちがこのすず製のカップに熱いコーヒーを入れて飲んでいた。ここで3人の鉱夫たちが金の採取をしていたが、すずのカップを金でいっぱいにするのにさほど時間がかからなかったといわれている。彼らは良いときは11日間で1万2千ドルも稼いだそうである。
 筆者は万次郎のような機敏な男がダウニービルのように有望な金山を見逃すはずはないと確信する。たぶんここが彼の金山であったろう。2003年の夏、このような思いをもって再度この町を訪問してみた。町のビジターセンター、新聞社、図書館に行ったが日本人がゴールドラッシュに来た記録はないという。そのときダウニー河の近くにあるパキスタン人が所有するモテルに宿泊した。特別に河のせせらぎの聞こえる部屋を取ってもらった。一晩このせせらぎを聞きながら万次郎はどのような気持ちでこのせせらぎを聞いただろうかと想像した。
 ゴールドラッシュは一大ロマンであり、各所に面白い話や悲しい話がある。ダウニービルにも面白い話と悲しい話が一つずつある。詳しくは他の機会に譲りたい。ゴールドラッシュ時代の古い建物がいまだ数多く残っており、四囲を高い山に囲まれた静かな町である。平地が少なく山の中腹まで家が散在する。そのため空が狭い。
 金が発見されたのは1948年であるが、この年は地表に金がたくさんあった。アメリカはよく犯罪王国といわれるが、この年カリフォルニアには犯罪がまったく無かったそうである。他人の物を盗むよりも、自分で金を拾ったほうが早かったためである。万次郎が金山に入った1850年はカリフォル二ア全体で200万オンスの金を産出した。51年から54年はゴールドラッシュの輝ける日々であり毎年約350万オンスの採金がなされた。ところがその開始から17年を経た65年には産出額は86万オンスにまで減少してゴールドラッシュの“ラッシュ”は消滅し、採金は普通の企業に発展していった。万次郎がカリフォル二アに来たタイミングは大変よかったといえる。
 佐渡の金山は1601年に始まり1989年に終了するまで389年も続いた。なぜこんなに大きな差異が発生したか。カリフォルニアでは機械が導入されたが、佐渡ではたがねとのみによった。カリフォル二アではベンチャーキャピタルが存在したが、佐渡ではそんなものは微塵もなかった。
もっとも大きな差は金を掘る鉱夫たちの質の違いである。佐渡の鉱夫たちはホームレスか前科者が多く、その生活は悲惨を極め、彼らは米のためにのみ働き奴隷と変わりなかった。佐渡の金山は地獄の鉱山といわれ、全体が灰色で、暗くて悲しい話が多い。都落ちして田舎を廻ることを“どさ廻り”というが“どさ”は“さど”から来ている。ところがカリフォル二アの鉱夫たちは自由、独立で熱意、覇気があり“のぞみ”もあれば“ひかり”もあるという新幹線方式だった。人種、皮膚の色、宗教、言語、経験、教育、国籍に関係なく誰でも参加できる国際的大イベントであり、奴隷制度はどこにもなかった。彼らには明確なモチベイションとチャレンジがあり、それは金の発見だった。富に対する平等な機会が存在したといえる。もちろん鉱夫たちには苦しみも失敗に対する恐れもあったが、成功に対する期待と夢が同時に存在した。ゴールドカントリーには悲しい話もあるが、面白い話も山とある。ゴールドカントリー自体が万次郎の性格に大変適合していたといえるだろう。万次郎は良い国に来たものだ。
 マーシャルがコロマで金を発見したとき、アメリカには鉱業権にかんする法律は皆無だった。だが自治の観念の発達した鉱夫たちは分捕り合戦の無法状態を好まずラテン・アメリカやヨーロッパで数世紀にわたり発達した規則や慣習法を参考にして紛争の解決をはかった。1849年、キャンプごとにコミッティーが設立されて登記人が選定された。一人が占有できる鉱区の面積はコミッティーごとに異なった。例えば、あるキャンプでは河に面した正面は7メートルまで、奥行きは17メートルまでと決めたり、また他のキャンプでは6平方メートルとしていた。自分の鉱区内では穴を掘ってつるはしやショベルを置くようにして先占の意思表示をし、さらにその権利を継続的に保持するためには金の採掘と金の水荒いが必要とされた。このときの登記簿があればそれをチェックして万次郎の名前を発見することができるかもしれない。
 万次郎が金の採掘方法をどのようにして習得したか。最初万次郎はオランダ人のところで雇われたらしい。だが彼が賃金の支払いを拒否したためすぐに独立した。その頃金の採掘は2本の腕に頼っており、高度な技術や資本など必要とされなかった。一日採金すればエキスパートと呼ばれたそうである。
 万次郎がどのような器具を使って採金したかも分かっていない。一人で採金しておればパンニングといって直径30センチぐらいの底の浅い平なべに砂と岩を盛り水を入れて重い金を底に沈殿させる方法を取ったであろう。またはクレイドルといって長方形の木箱の上に篩(ふるい)が付き下に溝を施したものがある。砂を上から入れて篩にかけて大きな岩などを取り除き、後でバケツ一杯の水を砂にかける方法である。水と泥は流れ金が底の溝に溜まるという仕組みである。このクレイドルに長さ3-7メートルのレールを取り付けたものがロングトムである。幅は通常30センチ、1850年夏頃から使用され始め、通常3-6人が分業と協業で働いた。レールは上下2重の構造になっていて、上のレールの下面には小さな穴のあいた金属製のシートが張られ、金と小さな砂が下のレールに落ちるようになっていた。ロングトムの最大の欠点は大量の水が必要だったことである。
 もし万次郎が複数人で働いておればたぶんこのロングトムを採用したであろう。足摺岬の先端にJohn Mung Houseという万次郎に関する博物館がある。この中に万次郎の採金の様子を絵に描いたものがある。ここで使用されているものがロングトムでもある。
鉱夫の他の平均像は次の通りである。彼らは土曜日の昼ごろ金山から帰ってくる。そのときは皆金持ちになっている。ところが月曜日の朝はほとんど無一文である。なぜか。ゴールドカントリーにはものすごいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるショベルが60ドルもした。ホテルでトースト1枚が1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルと言われたほどだ。さらにアメリカ人は大変なギャンブル好きである。他に娯楽がないのでギャンブル場はどこも大繁盛した。鉱夫が最後のドルをかけて失い、悄然とギャンブル場を去る光景がどこでも見られた。英語で表現すると、Thousands have lost their last dollar and left the gambling places in despair. となる。万次郎は多分ギャンブルすれば必ず負けることを知っていてギャンブルには手を染めなかったと思う。それとも早く儲けて、早く家に帰ろう(quick fortune and speedy return home)という考え方が働いたかもしれない。または苦労せずに儲けた金はすぐに失われる(Many earn money with ease and spend as fast as they make it.)という観念の下にギャンブルを避けたとも思われる。
 鉱夫たちの最大の難事は採掘した金をどこに隠すかということだった。鉱夫たちの多くはテントの中で暮らした。他人の金を少しでも盗めば死刑になることもあった。インディアンの子供が極めて少量の金を盗んだだけで死刑になっている。万次郎はどうやって自分の金を隠したであろうか。
 万次郎は70日で600ドルを稼いだといわれている。よくこれが現在の価値でどるぐらいかという質問を受ける。アメリカで金の公定価格が35ドルと最初に決められたのは1853年である。万次郎が採金していた頃の金相場は1オンス当たり15ドルだった。600ドルを15で割るとオンスが出てくる。40オンスである。現在金の価格は1オンス当たり700ドルぐらいだからこれに40を掛けると現在の価値が出てくる。
 人間は稼げば稼ぐほど欲の出てくるものである。Human avarice knows no bound.である。ではなぜ万次郎が600ドル稼いだ時点で採金を止めたかの疑問が出てくる。万次郎は無欲恬淡だったから帰国の費用さえ得られれば採掘は止めたという説ももちろんなりたつ。だが筆者は万次郎が止めた別の理由があったように思える。これはクオルツ・マイニングの誕生である。これはまず金を含むクオルツ鉱脈の岩をダイナマイトで爆破させ、爆破された岩を地上に持ち出して粉砕し、最後は水銀を利用して金を砂や岩の中から取り出す方法である。水銀は他のいかなる金属とも結びつかないが金とだけは結びつくという不思議な性質を持つ。
 1849年クオルツ鉱石粉砕用のスタンプ・ミルという機械がゴールドカントリー最南端の町であるマリポサで使用され始めた。これはスタンプと呼ばれる長い垂直の杵と臼からなる。スタンプが動力を用いたシャフトによって上に揚げられた後、自然に落下してスタンプの先に取り付けられた大きな鉄の頭が鉱石を砕くというものである。鉄の頭は通常450キロもあり、スタンプ・ミルは当時の価格で一台3万ドルもした。
 情報にさとい万次郎は多分この情報を入手していたのたのだろう。2本の腕と冒険心で金を掘る時代がすでに過ぎ次は採金が企業によって行われることを予見していたのではないか。もしそうだとすれば万次郎はすばらしい先見性を持っていたといえる。 
 いずれにせよゴールドハンター・ジョン万次郎については未だ不明な点が極めて多い。これからも調査を続けるつもりでいる。

                           2006年8月15日
                            
                              古枯の木
参考文献
“咸臨丸海を渡る”土井良三 未来社 1992年
“中浜万次郎”  中浜博  冨山房インターナショナル 2005年
“Drifting Toward The Southeast”Junya Nagakuni & Junji Kitadai Spinner
Publications 2003年
“漂巽紀略”   川田小竜 日米学院出版部 2003年
“ゴールドラッシュ物語” 岡本孝司 文芸社 2000年
“ゴールドラッシュとジョン万次郎”岡本孝司 如水会報 2005年3月
“越知町とジョン・万次郎” 山本有光 佐川印刷所 2003年

追伸 中浜博博士は2008年4月急逝された。筆者のごとき者に手紙と電話でいろいろご指導いただいたことを深く感謝するとともに博士のご冥福を心からお祈りしたい。

                     2009年2月21日   古枯の木
  
 

2009年2月20日金曜日

バカ正直な日系人

バカ正直な日系人
古枯の木
 去年の秋、所要でロスの北120マイルのBakersfieldという町まで出かけた。突然車にmaintenance required のサインが出たのでrepair shopへ車を持って行った。多くの皆さんには経験がおありと思うがrepair shop の中にはこちらが依頼しないにもかかわらず要らざる修理をしてその請求をしてくるところがある。

 車を持って行ったrepair shopに実直そうな老日系人がいた。Motor oil change以外に絶対に何もしてはいけないと何度も日本語と英語で伝えてランチに行った。帰って来ると前のタイヤが一本パンクしている。なぜタイヤの修理をしてくれなかったかと詰ったら“お前はmotor oil changeだけをやれ”と言ったではないかと反対に食って掛かってきた。
 昔、日本の我が町にはバカ正直と呼ばれる人間がいた。彼らをそのように呼んだの尊敬してかまたは侮蔑してかまたはその両方だったのか?いずれにせよ日本人のバカ正直さを引き継いだ日系人をアメリカで

カーネイションはアメリカの国花’

カーネイションはアメリカの国花
古枯の木

 日本の国の国花は桜と菊とされている。カリフォルニア州の州花はゴールデン・ポピーである。ではアメリカの国花は何であるか。1967年冬に初めてアメリカの土を踏んで以来、多くのアメリカ人にアメリカの国花は何かと尋ねてみた。誰も知らないという。ところがある日ついにそれを知るアメリカ人に出会った。彼によればカーネイションがアメリカの国花であるそうだ。

 理由は?当時からアメリカは世界最大の自動車生産国だった。彼によればアメリカは世界最大の car manufacturing nationである。Car manufacturing nationの中のmanufacturingを取り去ればあとにcar nationが残る。だからアメリカの国花はカーネイションというわけだ。

 ところが最近GM, Fordなどが経営危機に陥り世界最大の自動車生産国にも影がさしてきた。それでもアメリカの国花はやはりカーネイションだろうか。

古枯の木

2009年2月13日金曜日

Beate Shirota Gordonの後日談

Beate Shirota Gordon の後日談

古枯の木

筆者は学生時代、自主憲法期成青年同盟に属していた。この同盟はアメリカから押し付けられた憲法を一日も早く改正し、日本民族の、日本民族による、日本民族のための新憲法を制定することを目的とした。同盟の全員が標記の女性、Beate Shirota Gordonの名前を知っていたはずである。なぜならば憲法起草委員の一人として彼女が日本女性の憲法上の地位向上に努力したからである。現憲法第14条の法の下の平等や第23条の男女平等の原則などは彼女に負うところが大きいとされている。

Beateの両親はナチのユダヤ人迫害を逃れてウイーンから日本に来て永住を決意した。ウイーン生まれの彼女は5歳から15歳まで東京で過ごしたが、音楽家の父親は彼女が15歳のとき単身アメリカのミルズ・カレッジに留学させた。敗戦後両親に会いたい一心から日本に帰り、マッカーサー元帥のGHQ(General Headquarters 占領軍司令部、GHQをYankees, go home quickly. と揶揄した日本人がいた)に勤務した。マッカーサーの事務所は日々谷の第1ビルの中に置かれており、彼女はそのビルの6階で朝9時から真夜中12時まで憲法草案作成のため働いた。これは1946年2月のことである。起草委員は全部で28名、彼女を含めて4名の女性もいた。

自主憲法期成青年同盟で研究していたとき、ぜひBeateに会って彼女が憲法上果たした役割について訊き、さらにGHQの関与について知りたいと思ったがこれは夢のまた夢だった。2007年の春、所要で青森県の八戸へ行ったとき、知人からBeateは八戸に住んでおり、未だ健在で東北各地で憲法擁護のための講演会を開催していると聞いた。

筆者のアメリカ人の友人でHarold Bettencourtとう男がいる。彼は40年以上日本で暮らし、現在ロスの北200マイルのFresnoという町に住んでいる。われわれの共通の友人が死に、その葬式が2009年1月24日隣町Gardenaの仏教会で行われた。式後同じ町の“さぬきの里”というレストランで会食があり、Haroldと共にこれに出席した。食事中、談たまたま現行憲法とBeateのことに及んだ。HaroldはBeateをよく知っているという。Nice Surpriseだった。しかもHaroldとBeateは1946年2月の同じ日にGHQに職を得たという。Haroldは第1ビルの4階で働いたが、後にHarold夫人となる女性が6階にいたのでよく6階に行きBeateとは会話を重ねたそうだ。

HaroldによるとBeateは勤務中よくジープを駆って明治大学、早稲田大学、上野の図書館などを廻って英語の憲法書を集めたそうだ。彼女はつねに”可愛そうな日本人女性のために一肌脱ぎたい“と言っていたらしい。GHQ高官の日本人に対する態度はいつも尊大で高圧的であったが、反対に日本人政治家や憲法学者はいつも卑屈な態度を持したという。なおHaroldによればBeateはユダヤ人海軍士官と結婚してニュージャージー州に行ったそうである。

信頼しうる資料によれば、1946年2月2日、マッカーサーは2月10日までに憲法草案を作成することを委員会に命じ、2月10日までのわずか9日以内に出来上がった。マッカーサーはこの草案に対して全面的承認(my full approval)を与えた。さらにGHQ`は草案の作成者が誰であったかは言わなかったが、その深い関与(GHQ’s close involvement)は認めている。

Haroldは現在83歳。憲法成立の経過をさらに詳しく話してやるからFresnoまで来いと言う。彼の年齢を考えたら急がざるをえまい。

古枯の木―ロス在住、歴史愛好家、日本国憲法の成立に関しては拙著“日本敗れたり、第12章 ”マッカーサー憲法の改正“をご参照願いたい。




    

2009年2月8日日曜日

ホーへーのたわごと

ホーへーのたわごと
   古枯の木
 むかしわがホームタウンに“ホーへー”というあだ名のついた男がいた。本職は提灯屋だが“張ってならないのはオヤジの頭、張らなきゃ食えないのは提灯屋”とつぶやきながら提灯を張っていた。ホーへーというのは彼が日露戦争(1904-05)のとき砲兵として従軍したからで、いつもこの事実を自慢の種にしていたためそのようなあだ名がついたわけだ。

 筆者は子供のころ近所の子供を誘ってよくこのホーへーのところへ日露戦争の話を聞きに行った。ホーへーの話には勇敢無比な日本兵の話しなどはほとんどなく、いつもちょっぴり物悲しい話ばかりだった。聞いた話はいまでもたくさん記憶しているが、ここではその内の二つだけを紹介したい。

 日露戦争のとき旅順攻略を担当したのは第3軍の乃木希典(のぎまれすけ)司令官。だがホーへーによれば乃木ほど戦争の下手な将軍は日本の戦史上存在しなかったそうである。乃木は近代科学戦を知らず、肉弾攻撃一本槍の超乱暴な非合理戦闘が多かったそうである。その乃木を日露戦後に、乃木神社まで建設して彼を神として崇拝するのはいかなる理由によるのかというのがホーへーの主張であった。

戦史によれば乃木は1904年7月31日から翌年1月1日までの155日間の戦闘で5万9千人を死傷させた。これを見兼ねた満州軍総参謀長児玉源太郎が現地に来て砲兵の布陣を変更して前進させ、日本内地から持って来た28センチ榴弾砲18門でいとも簡単にロシア軍の203高地の砲台を陥落させ、引き続いて旅順も征服した。

世間一般に正しいと信じられていることに批判の目を向けること、また教科書や新聞、雑誌を無条件に信用しないという筆者の性癖はホーへーのたわごとによって培われた可能性が大きい。

第2番目の話。日露戦争中、日本陸軍は満州の馬賊、匪賊の協力を得るために彼らに対し多くの約束手形を発行した。事実彼らは偵察行動の点で日本陸軍に大いに協力した。ところが戦争が終わると陸軍はそれら約束手形をすべて反故にした。これに怒ったある馬賊の頭領が“人を裏切るこんな国は50年とはもつまい”と言ったそうである。

馬賊の頭領が言った通りこの国は50年を経ずして壊滅した。筆者の好きな作家の一人である司馬遼太郎は昭和の軍隊に比較して明治の軍隊は正直であり律儀であったと機会あるごとに書いている。だが果たして明治の軍隊にそのような素質があったかどうか疑問に感じている。

古枯の木―アメリカ在住35年以上、歴史愛好家、最近は山本五十六の研究に精を出している。

2009年2月7日土曜日

かーさんのこと

カーさんのこと

古枯の木

昨年9月文窓会東海支部ホームページのエッセイの部に“太平洋戦争と日系人の苦悩”を寄稿した。その中でコロラド州の知事であったラルフ・カー(Ralph Carr)について触れたが、昨年9月コロラド州コロラド・スプリングズのジョン・万次郎大会に出席し、その際カーゆかりの地を訪問する機会があったので、改めて彼について説明したい。
開戦翌年の1942年2月19日夕刻ルーズベルト大統領の発した行政命令9066によりアメリカ西海岸の日系人は敵性外国人(enemy alien)と見做され強制収容所に入れられることとなった。この命令がまったく突然であったため日系社会には大混乱が発生した。だがコロラド州の知事であったカーは人道的見地からこの命令に強く反対し、コロラドの日系人は全員が収容所入りを免れた。カーはさらに日系人のコロラドへの移住を許可したがこれが州民の反発を招き、日系人反対の大デモに発展した。“ジャップを太平洋にぶち込め”“ジャップを殺せ”というスローガンまで現れた。このときカーは毅然としてデモ隊に対し、“日系人も合衆国憲法によって基本的人権は保障されている。彼らのその権利を侵す者があれば断固処罰する”とまで宣言してくれた。
西部の諸州では日系人の収容所をどこに設けるかが大問題となった。広いカリフォルニア州でも“ジャップのdump siteは2ヵ所まで”と言って2ヵ所以上の設置を承認しなかった。南カリフォルニアではマンザナールに、北カリフォルニアではチュールレイクである。Dump siteとはごみ捨て場のことで、日系人はごみ扱いされていたのだ。オレゴン州、ワシントン州、ネバダ州は収容所の建設を一切認めなかった。これを聞いてカーは直ちにコロラド州に強制収容所を設けることを決意し、州南東部のアマチ(現在名グラナダ)にそれが建設された。定員7,318人のところに他州から来た日系人が多いときは7千6百人も住んでいた。アマチ収容所は42年8月27日にオープンし、45年10月15日にクローズされたが日系人はかなり快適に過ごしたらしい。コロラドの日系人からメロンなどの差し入れもときどきなされた。昨年9月コロラドを訪問したときこの収容所を見たいと思ったが、時間がなくて実現しなかった。ある人が現在収容所の跡を示すものが何もないため、たとえ行ってもその場所は発見できないだろうと教えてくれた。
強制収容所はアマチのものも含めて全米で10ヵ所に作られ12万人の日系人が収容された。これら日系人はルーズベルトの命令により、家、農園、自由、権利、職業、商売などのすべてを失ってしまったのだ。
これに反し太平洋戦争中コロラドの日系人は安全に農業に従事することができ、コロラドの農業生産に大いに貢献した。昨年9月のエッセイで述べたように彼らが受けた唯一の制約は自宅から2マイル以上離れるときは事前にFBIに知らせるということだけだった。コロラドにはメロン王と呼ばれる日系人が数人いる。その内の一人の農場を訪問する機会があったが、メロン栽培は戦前から始め、戦中は何の妨害を受けることなく栽培を継続することがきたそうである。
日系人に寛容であり過ぎるとしてカーはコロラド州民の間では不人気だった。上院議員に立候補したが気の毒にも落選してしまった。カーは上院議員を経て大統領になるべき器量のある政治家だったと述べたアメリカ人もいた。
ジョン・万次郎大会の折にロッキーフォードという町の近くのクラウリー・ヘリテージ・センターを訪問した。これは日系人のコロラド開拓の歴史とカーの偉大さを伝えるための博物館である。コロラドの日系人がいかにカーの良識と勇気ある決断に感謝していたかがよく分かる。見学のあと地元の日系人とアメリカ人からセンター内でおいしいローストビーフとメロンの昼食が提供された。ある白人の女性はカーは冷徹な理性の持ち主だったと言い、また他の女性はカーの演説をラジオで聞いたが、その内容は分かりやすく、その声はいつも溌剌としていたと語った。彼こそはコロラドの歴史上最も信頼しうる(most reliable)知事であったと教えてくれた人もいた。年老いた二世たちは今日あるはカーのおかげだと断言し、彼を親しみを込めて“カーさん”“カーさん”と呼んでいた。
日系人が“さん”付けで呼ぶもう一人のアメリカ人政治家がいる。それは排日法の撤廃を含めて日系人の地位の向上に尽力してくれた元大統領の“ケネディーさん”である。

古枯の木。一橋大学大学院修了のあとアメリカで勤務。フロリダ州西フロリダ大学、オレゴン州ウイラメット大学などで講師。著書に“日本敗れたり”など。ロスに永住の予定。

大日本主義を排せ

大日本主義を排せ
  古枯の木

 筆者のライフワークの一つは太平洋戦争の原因論である。私見では戦争の原因の一つに軍部、マスコミ、国民の酔った大日本主義があったと思う。実力も無いのに驕っていたわけだ。これは現在に至るも引き継がれている。経済大国という言葉が端的にこれを表している。

 第一次大戦後、日本は5大国の一つになったと自惚れていたがその実力のほどはいかがであったか。当時、機関銃の数はイギリス20万挺、ドイツ50万挺に対し、日本はわずか1,300挺、自動車の数は英仏35万台に対し、日本はたったの300輌、しかも修理能力はゼロ。しかるに軍部は自らを世界の軍事大国なりと錯覚、過信していた。

 ドイツ海軍の副提督で戦前と戦中に東京に駐在したことのあるポール・べネカー(Paul H. Weneker)がいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦に至る過程を第3者的に観察していたが、日本敗戦の最大理由を自信過剰としている。

 1992年バブルがはじける前、日本人の多くは日本が-経済大国であり、アメリカ全土を購入することも夢ではないと考えていた。だが冷静に観察すれば日本のように国土が狭小で資源の乏しい国は経済大国たるの第1要件を満たしていない。産業を近代化するための市場、原料を欠き、さらに学問、科学の遅れから技術を欧米に学ばなければならなかった。今も欧米が先生である。この意味から日本人は理由のない驕慢、思い上がり、跳ね上がり、自惚れを廃棄しなければならない。(この点に興味のある方は筆者のブログ・エッセイ“日本は経済大国か”をご参照願いたい)

 数年前、日本で“日本敗れたり”というタイトルの本を発行した。これは日本が経済力と軍事力で10倍も強力なアメリカになぜ戦いを挑み、どのように敗れていったかを書いたものである。この本を英訳し、ほぼ完全なバイリンガルであるわが家の次男にレビューさせた後、ニューヨークの出版社に送った。現在なお出版についてネゴを重ねている。英訳本のタイトルは“Fallen Sun” であるが副題を”From Overconfidence to Despair“とした。アメリカの友人に本のタイトルについて相談したところ、”Overconfidence“なる言葉ほど当時の日本の実情を反映しているものはないだろうとのことだった。

古枯の木―アメリカ在住35年、歴史愛好家、著書の一つである“日本破れたり”は阿川弘之さんに読んでもらい、氏から手紙をいただいた。


 

2009年2月6日金曜日

インテリジェンスの軽視

インテリジェンスの軽視
                  古枯の木

 ドイツ海軍の副提督で戦前(1933-37)と戦中(1940-45)に東京の駐在武官であったポール・ベネカー(Paul H. Weneker)がいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦の過程を第3者的に冷静にしかもつぶさに観察していたが、その敗戦の理由を次ぎの3つに分析している。
1. 自信過剰
2. 敵の力の過小評価
3. 余りに長く延びきった補給線
まことに立派な識見である。でももし筆者がベネカーだったらさらに“インテリジェンの
軽視”を追加したい。

英語のインテリジェンスは本来知性のことだが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵
情判断を意味する。アングロサクソンの諜報活動はまったくすさまじい。ここに外交史上有名なケースを一つ紹介したい。1807年6月25日、ナポレオンとロシアのアレキサンダー1世が、ニエメン河(当時のロシア西部国境の河)にいかだを浮かべ、テントを張ってその中で会議をした。これは外部に情報が漏れるのを防ぐためである。ところがイギリスの諜報機関はその日の夕方までに会議の内容をすべて知っていたという。彼らの諜報能力たるや恐るべきである。

 昔、ナショナル・セールス・マネジャーとして使っていた男にE.H. なる男がいる。(彼はいまもオークランド東郊のPleasant Hillに実在のため名は秘す)彼はアトランタ郊外のStone Mountainの貧農の倅に生まれた。アルバイトを重ねながら学校を卒業したが、卒業と同時に太平洋戦争が勃発し海軍に志願した。諜報部に配属された。この男のすごさは極めてユニークな経験にある。以下は彼の語ったところ。1942年秋、潜水艦とゴムボートで単身、千葉県の房総半島の一寒村に上陸した。このとき、通信機器、当面の食料、双眼鏡、手旗、ナイフ、友軍機に連絡するためのミラー、釣り道具などを与えられた。東京湾に出入りする日本艦船の動向を調査するためであるが。特に注意したのは出港する日本の輸送船であった。彼の報告により潜水艦が輸送船を撃沈したわけである。

 房総半島に上陸する直前、潜水艦の潜望鏡で東京―横須賀間の電車を見せられ、この電車の1,2等車(現在のグリーン車)の中に朝鮮人や中国人のスパイが大勢乗り込んでいて日本海軍士官や提督の不用意に発する言葉にいつも耳を研ぎ澄ましていると教えられた。
 また彼はたくさんのコンドームを与えられた。一体何のため?帰国の際に海岸の砂を採取し、これをコンドームに詰めるよう指示された。あとで分かったことだが、アメリカ軍ではこの砂を分析して敵前上陸の際、いかなる車両を使用すべきか、またその車両は一日何マイルまで侵攻できるかを計算するためだった。

 彼はいつも日本兵は個人としては極めて勇敢であり劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、日本軍は戦術と戦略において悲しいほどインテリジェンスが欠如したいたと語っていた。同じような話は他の多くのアメリカ人復員軍人からも聞いた。われわれの勤務していた会社についてもあらゆる面でインテリジェンスの不足はおおいようがないというのがE.H.の持論だった。連合艦隊司令長官であった山本五十六は大変合理的な考え方を持つ人だったといわれている。だが恐るべきことに、彼に仕える12名の参謀の中に暗号、通信の参謀はいても情報参謀はいなかったそうである。海軍の他の並みいる提督たちは大鑑巨砲がすべてを解決し、情報なんかくそ食らえと考えていたかもしれない。

 どうもこのインテリジェンス軽視の伝統が今も日本の会社に引き継がれていないだろうか。筆者は1967年1月ある会社の駐在員としてアメリカに赴任したが、赴任するときカリスマ性を有するという会社の幹部から“自社の製品は必ず売れるという自信を持って行けは成功する”と言われたが、それに反しインテリジェンスの不足、不十分は覆うべくもなかった。また筆者は生涯に2つの会社に仕えたが、どうも日本人のインテリジェンスの収集は細かいことに拘泥し、そのために物事の本質や大本を見失う傾向にあった。現在の事情は分からぬがこの点日本の会社は進歩しただろうか。軍国日本の反省にも学ぶべき点はある。

古枯の木 アメリカ在住35年以上、歴史愛好家、著書に『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など。