2009年2月13日金曜日

Beate Shirota Gordonの後日談

Beate Shirota Gordon の後日談

古枯の木

筆者は学生時代、自主憲法期成青年同盟に属していた。この同盟はアメリカから押し付けられた憲法を一日も早く改正し、日本民族の、日本民族による、日本民族のための新憲法を制定することを目的とした。同盟の全員が標記の女性、Beate Shirota Gordonの名前を知っていたはずである。なぜならば憲法起草委員の一人として彼女が日本女性の憲法上の地位向上に努力したからである。現憲法第14条の法の下の平等や第23条の男女平等の原則などは彼女に負うところが大きいとされている。

Beateの両親はナチのユダヤ人迫害を逃れてウイーンから日本に来て永住を決意した。ウイーン生まれの彼女は5歳から15歳まで東京で過ごしたが、音楽家の父親は彼女が15歳のとき単身アメリカのミルズ・カレッジに留学させた。敗戦後両親に会いたい一心から日本に帰り、マッカーサー元帥のGHQ(General Headquarters 占領軍司令部、GHQをYankees, go home quickly. と揶揄した日本人がいた)に勤務した。マッカーサーの事務所は日々谷の第1ビルの中に置かれており、彼女はそのビルの6階で朝9時から真夜中12時まで憲法草案作成のため働いた。これは1946年2月のことである。起草委員は全部で28名、彼女を含めて4名の女性もいた。

自主憲法期成青年同盟で研究していたとき、ぜひBeateに会って彼女が憲法上果たした役割について訊き、さらにGHQの関与について知りたいと思ったがこれは夢のまた夢だった。2007年の春、所要で青森県の八戸へ行ったとき、知人からBeateは八戸に住んでおり、未だ健在で東北各地で憲法擁護のための講演会を開催していると聞いた。

筆者のアメリカ人の友人でHarold Bettencourtとう男がいる。彼は40年以上日本で暮らし、現在ロスの北200マイルのFresnoという町に住んでいる。われわれの共通の友人が死に、その葬式が2009年1月24日隣町Gardenaの仏教会で行われた。式後同じ町の“さぬきの里”というレストランで会食があり、Haroldと共にこれに出席した。食事中、談たまたま現行憲法とBeateのことに及んだ。HaroldはBeateをよく知っているという。Nice Surpriseだった。しかもHaroldとBeateは1946年2月の同じ日にGHQに職を得たという。Haroldは第1ビルの4階で働いたが、後にHarold夫人となる女性が6階にいたのでよく6階に行きBeateとは会話を重ねたそうだ。

HaroldによるとBeateは勤務中よくジープを駆って明治大学、早稲田大学、上野の図書館などを廻って英語の憲法書を集めたそうだ。彼女はつねに”可愛そうな日本人女性のために一肌脱ぎたい“と言っていたらしい。GHQ高官の日本人に対する態度はいつも尊大で高圧的であったが、反対に日本人政治家や憲法学者はいつも卑屈な態度を持したという。なおHaroldによればBeateはユダヤ人海軍士官と結婚してニュージャージー州に行ったそうである。

信頼しうる資料によれば、1946年2月2日、マッカーサーは2月10日までに憲法草案を作成することを委員会に命じ、2月10日までのわずか9日以内に出来上がった。マッカーサーはこの草案に対して全面的承認(my full approval)を与えた。さらにGHQ`は草案の作成者が誰であったかは言わなかったが、その深い関与(GHQ’s close involvement)は認めている。

Haroldは現在83歳。憲法成立の経過をさらに詳しく話してやるからFresnoまで来いと言う。彼の年齢を考えたら急がざるをえまい。

古枯の木―ロス在住、歴史愛好家、日本国憲法の成立に関しては拙著“日本敗れたり、第12章 ”マッカーサー憲法の改正“をご参照願いたい。




    

1 件のコメント:

  1. ドラマを見ているようです。続きが待ちどうしいです。日本女性の恩人がそんなところにいらしたとは!故人が古枯の木さんを喜ばせるためのサプライズを用意してくれたのでしょうか?

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