2009年2月22日日曜日

ゴールドハンター万次郎

ゴールドハンター万次郎
古枯の木

 アメリカ・カリフォルニア州のゴールドラッシュは1848年1月24日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。金を産出した地域をゴールドカントリーと呼んだが、これは南のマリポサから北のシエラシティーまで南北250マイルにも及ぶ。最南端のマリポサにはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れるとアメリカ中が錯乱状態に陥った。世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた男たちが集まって来た。アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は一人もゴールドラッシュには来ていないと記している。だが少なくても一人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられた後、アメリカ東部のマサチュウセッツ州のヘアへブン(Fairhaven)の町で教育を受け、航海術や捕鯨術をも学んだ。1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。直ちにカリフォル二ア行きを決心し、ホイットフィールドに別れを告げた。
 当時アメリカ東部から西部に来る方法は三つあった。一つは陸路で主にミズリー州のセント・ジョセフかインディペンデンスを出て、北路をとり、オレゴン、カリフォル二アの両トレールを通りアイダホ州からネバダ州を経由して北カリフォル二アに入る方法だった。全長3,200キロもあり、6カ月を要し、極めて危険だった。危険とは聳え立つ山々、熱砂の砂漠それにインディアンの攻撃だった。馬の世話から始めてやるべきことが山とあり、慣れない炊事、洗濯、裁縫もしなければならなかった。しかも悪いことにこの方法による出発の時期は5月中旬だけだった。長い酷寒の冬、その後の春の雪解け水と泥濘などが出発の時期を限定したわけである。
 かつて万次郎がどのようにして西部に来たかについて論じられたことがあると聞く。万次郎がゴールドラッシュを耳にしたのは1849年の9月であり、彼が翌年の5月まで待っていたとはとても考えられない。よって陸路説に賛同することはできぬ。
 海路による方法は二つあった。一つは南米チリの最南端のケープ・ホーンを廻る方法で主にニューイングランド地方の鉱夫がこの方法によった。ケープ・ホーンは海の岩と峻厳な気候のため極めて危険で、航海の総延長2万9千キロ、通常6カ月以上かかった。中でも狭隘で560キロにも及ぶマゼラン海峡は日に50回も気候が変わるといわれるほど困難を極めたところだった。
 他の海路による方法はパナマ・コネクションと呼ばれるもので、最も多く用いられた方法であり、最大の利用者は中部及び南部の鉱夫たちだった。主にニューオルリンズを出てパナマの東海岸まで船で行き、その後南北アメリカをつなぐパナマ地峡をガイドに守られ、雨、湿気、風土病と戦いながらパナマ西海岸に来る方法。すべてがスムーズにゆけば4カ月だったが、最大の問題は西海岸からカリフォル二アに行く船便だった。船がサンフランシスコに入ると船員たちが船を捨てて、ゴールドカントリーに走るケースが多かった。そのため常時500隻ぐらいの船がサンフランシスコ湾に捨てられていた。船便が少ないため一時パナマには2千人以上のウエイティングリストができたという。
 万次郎はニューイングランドから来た人だからもちろんケープ・ホーンを廻る方法を取った。七つの海を駆け巡って航海術になれた万次郎は船中でアルバイトをしたと思われる。チリのタルカウアノに立ち寄っている。
 1850年5月下旬サンフランシスコに上陸した。ゴールドラッシュのためサンフランシスコは行き交う鉱夫でいつも賑わい、すでに大きな町になっていたが、万次郎は3日間滞留した後ここから川蒸気船に乗ってその北東約160キロのサクラメントまで行った。サクラメントは現在カリフォル二ア州の州都のあるところで、ここにはサターズ要塞があった。名前は要塞でも実際は交易所でその中ではパンを焼いたり、織物を織ったり、ろうそくや樽の製造などをしていた。この要塞の経営者は金の発見者ジム・マーシャルのボスであるジョン・サターである。350人余りのインディアンが働いていた。
ここからわずか東に65キロ行ったところに金の発見されたコロマが位置する。万次郎は当然このサターズ要塞に来て食料品や日用品を購入したものと思われる。
 その後金山に入ったわけだが、それがどこの金山であったか今日に至るも確証はない。なにしろ金山や町は一晩で開け、翌朝は消えていった。金についてはそれがどのように生成されたか分からないが、東のシェらネバダ山脈の中で作られ長年月をかけて山の裾野や平野に流れて来たものと想定されている。それの比重が19.3と非常に重かったため川に流れた金は川底に沈んだ。川底に沈殿した金を掘り出すために川の流れを人為的に変える。金の採掘に水は必需品でそのために川の流れが変えられることもあった。平野で発見される金は春の雪解け水に流されたものである。
 万次郎はゴールドラッシュ参加の後、ホノルルを経由して1851年8月27日沖縄摩文仁の丘に上陸を果たすが長崎で奉行の取調べを済ますと、52年8月25日四国の高知に来てここに10月1日まで滞在する。その間土佐藩の河田小竜という取調べ官が万次郎から聞いてことを書き留めている。これが漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という本で万次郎研究上極めて貴重な本である。その漂巽紀略によれば万次郎はサクラメントを出発した後あるときは馬に乗り、あるときは御輿に乗りまたは歩いて難所を進むこと5日で“エエンナ”というところに到着したとある。当時アメリカには日本的な御輿などは存在しなかったが、ここでいう“御輿”が何を意味するのか不明である。御輿をpalanquin(一人乗りのかご)と英訳している本もあるが、御輿に乗ったアメリカ人というものを見たことはない。エエンナの廻りには高山が聳え立ち、夏であるというのに山は雪を被っていた。
 漂巽紀略を英訳したJunya Nagakuni 氏とJunji Kitadai氏はその著“Drifting Toward The Southeast” の中でエエンナをSierra Nevadaと訳している。これが適当かどうかは分からぬ。
エエンナには三つの河が流れ、北支流(North Fork)、南支流(South Fork)、中支流(Middle Fork)といった。現在の地図を見てもエエンナを想像させるようなところはどこにもない。当時の町や村は瞬時に興り、瞬時に消えていったが、1800年代の地図を見てもエエンナかまたはそれに近い地名はない。
 当時の鉱夫たちの平均像は次の通りである。鉱夫が一人で金の採掘をすることはもちろんあったが、多くの場合は4-5人でグループを組み分業と協業を原則として働いた。各グループはラバを2-3頭つれ、ラバには食料品、日用品、食器類、ショベルやピックなどの採掘の道具、水を入れたタンク、毛布、テント、火薬それにライフル銃などを運ばせた。万次郎はテリーという男とヘアへブンでゴールドカントリーに行くことを話していたらしいが、実際テリーがいっしょだったという記録はない。万次郎は常に拳銃2丁を持っていたそうである。赤、グレイまたはブルーのフランネルのシャツを着て、ズボンは分厚い頑丈なリーバイスのもの、ハイブーツをはいていた。彼ら鉱夫の一日の平均歩行マイルは20マイルであった。万次郎が5日歩いたとあるからマイル数にすると100マイルであろう。
 中浜博氏は万次郎の4代目で名古屋大学とスペイン・マドリッド大学の医学博士である。氏はその著“中浜万次郎”の中で万次郎の金山をフェザー河(Feather)の北支流のあたりと推定しておられる。だがフェザー河の北支流はゴールドカントリー最北端の金山のオロビル(Oroville)やチェロキー(Cherokee)よりもはるかに北方を流れており、この推定には賛同しかねる。ここまでサクラメントから5日ではとても行けぬ。当時の鉱夫の多くは
サクラメントから東進しプラサビル(Placerville)から北に針路をとり、コロマの地でアメリカ河周辺の地勢を調査し、河の砂を瓶につめて、そこから北、南に散って行った。この事実を考慮に入れると中浜博氏のいわれる土地までとても5日では行けぬ。
 これは筆者の推定だがはるか南のユバ河(Yuba)のことを言っているように思える。ユバ河にも北支流、南支流と中支流の三つの支流がある。中浜博氏は写本などでノースリバーと
言及されているといわれるが、多分ユバ河の北支流のことだろう。
 ではユバ河の北支流にはどんな金山があったか。ユバ河の北支流沿いでダウニー河との合流地点にダウニービル(Downieville)という鉱山がある。サクラメントから110マイルの地点にあり5日で行けるところだ。河が合流しておれば当然金が豊富にあることが想定される。ゴールドカントリーの最東北端の金山がシエラシティー(Sierra City)であるが、ここはゴールドカントリーの最終の金山でダウニービルから東にわずか13マイルの地点だが峻険な山が多く、海抜4,187フィートでゴールドカントリーの中では一番高いところだ。ダウニービルという有望な金山があるのにわざわざ万次郎がシエラシティーまで来たであろうか。ユバリバーの北支流にはさらにグッドイヤーズという金山があるがこれがオープンされたのが1852年だからそのとき万次郎はもうゴールドカントリーにはいない。
 中浜博氏は万次郎は“ノースリバー”の近くの金山に入ったとしているが、ノースユバリバーの“ユバ”が脱落してノースリバーと表現したと考えることに無理はないと思う。
 ではダウニービルとはどんな町であったかを簡単に説明したい。この町はかつてザ・フォークスと呼ばれていた。たぶんユバ河の北フォークのためだろう。1849年スコットランド人のウイリアム・ダウニーという男がやって来て、もし町名をダウニービルに変えてくれるなら金をやろうといって金を道路に撒いたのでこの名前に変更されたという。真偽のほどは分からぬ。
 ダウニーはこの年他のスコットランド人と一緒に河の上流で採金することを決め、グループを組む。ある晩、鮭を捕らえてボイルして食べたが、翌朝鍋を見たら驚くなかれ鍋の底に金塊があったのだ。全員狂気し、寒い冬でも朝から晩まで働き続けた。最初はグループ全体で一日500グラムしか採取できなかった金が最後は一日2キログラム近くも得られるようになった。ダウニーは大変寛容な男で、後にダウニービルの市長になった。多くの人を助けたので彼の名声は中米のパナマまで響いていたという。1852年の最盛期には人が2,000人も住んでいて、一日一人で300ドルも稼げる日があったらしい。現人口は325人。
 この町には北ユバ河とダウニー河の合流するところに三角州がある。この場所はティン・カップ・ディギングと呼ばれている。ティンはすずのことであり、昔鉱夫たちがこのすず製のカップに熱いコーヒーを入れて飲んでいた。ここで3人の鉱夫たちが金の採取をしていたが、すずのカップを金でいっぱいにするのにさほど時間がかからなかったといわれている。彼らは良いときは11日間で1万2千ドルも稼いだそうである。
 筆者は万次郎のような機敏な男がダウニービルのように有望な金山を見逃すはずはないと確信する。たぶんここが彼の金山であったろう。2003年の夏、このような思いをもって再度この町を訪問してみた。町のビジターセンター、新聞社、図書館に行ったが日本人がゴールドラッシュに来た記録はないという。そのときダウニー河の近くにあるパキスタン人が所有するモテルに宿泊した。特別に河のせせらぎの聞こえる部屋を取ってもらった。一晩このせせらぎを聞きながら万次郎はどのような気持ちでこのせせらぎを聞いただろうかと想像した。
 ゴールドラッシュは一大ロマンであり、各所に面白い話や悲しい話がある。ダウニービルにも面白い話と悲しい話が一つずつある。詳しくは他の機会に譲りたい。ゴールドラッシュ時代の古い建物がいまだ数多く残っており、四囲を高い山に囲まれた静かな町である。平地が少なく山の中腹まで家が散在する。そのため空が狭い。
 金が発見されたのは1948年であるが、この年は地表に金がたくさんあった。アメリカはよく犯罪王国といわれるが、この年カリフォルニアには犯罪がまったく無かったそうである。他人の物を盗むよりも、自分で金を拾ったほうが早かったためである。万次郎が金山に入った1850年はカリフォル二ア全体で200万オンスの金を産出した。51年から54年はゴールドラッシュの輝ける日々であり毎年約350万オンスの採金がなされた。ところがその開始から17年を経た65年には産出額は86万オンスにまで減少してゴールドラッシュの“ラッシュ”は消滅し、採金は普通の企業に発展していった。万次郎がカリフォル二アに来たタイミングは大変よかったといえる。
 佐渡の金山は1601年に始まり1989年に終了するまで389年も続いた。なぜこんなに大きな差異が発生したか。カリフォルニアでは機械が導入されたが、佐渡ではたがねとのみによった。カリフォル二アではベンチャーキャピタルが存在したが、佐渡ではそんなものは微塵もなかった。
もっとも大きな差は金を掘る鉱夫たちの質の違いである。佐渡の鉱夫たちはホームレスか前科者が多く、その生活は悲惨を極め、彼らは米のためにのみ働き奴隷と変わりなかった。佐渡の金山は地獄の鉱山といわれ、全体が灰色で、暗くて悲しい話が多い。都落ちして田舎を廻ることを“どさ廻り”というが“どさ”は“さど”から来ている。ところがカリフォル二アの鉱夫たちは自由、独立で熱意、覇気があり“のぞみ”もあれば“ひかり”もあるという新幹線方式だった。人種、皮膚の色、宗教、言語、経験、教育、国籍に関係なく誰でも参加できる国際的大イベントであり、奴隷制度はどこにもなかった。彼らには明確なモチベイションとチャレンジがあり、それは金の発見だった。富に対する平等な機会が存在したといえる。もちろん鉱夫たちには苦しみも失敗に対する恐れもあったが、成功に対する期待と夢が同時に存在した。ゴールドカントリーには悲しい話もあるが、面白い話も山とある。ゴールドカントリー自体が万次郎の性格に大変適合していたといえるだろう。万次郎は良い国に来たものだ。
 マーシャルがコロマで金を発見したとき、アメリカには鉱業権にかんする法律は皆無だった。だが自治の観念の発達した鉱夫たちは分捕り合戦の無法状態を好まずラテン・アメリカやヨーロッパで数世紀にわたり発達した規則や慣習法を参考にして紛争の解決をはかった。1849年、キャンプごとにコミッティーが設立されて登記人が選定された。一人が占有できる鉱区の面積はコミッティーごとに異なった。例えば、あるキャンプでは河に面した正面は7メートルまで、奥行きは17メートルまでと決めたり、また他のキャンプでは6平方メートルとしていた。自分の鉱区内では穴を掘ってつるはしやショベルを置くようにして先占の意思表示をし、さらにその権利を継続的に保持するためには金の採掘と金の水荒いが必要とされた。このときの登記簿があればそれをチェックして万次郎の名前を発見することができるかもしれない。
 万次郎が金の採掘方法をどのようにして習得したか。最初万次郎はオランダ人のところで雇われたらしい。だが彼が賃金の支払いを拒否したためすぐに独立した。その頃金の採掘は2本の腕に頼っており、高度な技術や資本など必要とされなかった。一日採金すればエキスパートと呼ばれたそうである。
 万次郎がどのような器具を使って採金したかも分かっていない。一人で採金しておればパンニングといって直径30センチぐらいの底の浅い平なべに砂と岩を盛り水を入れて重い金を底に沈殿させる方法を取ったであろう。またはクレイドルといって長方形の木箱の上に篩(ふるい)が付き下に溝を施したものがある。砂を上から入れて篩にかけて大きな岩などを取り除き、後でバケツ一杯の水を砂にかける方法である。水と泥は流れ金が底の溝に溜まるという仕組みである。このクレイドルに長さ3-7メートルのレールを取り付けたものがロングトムである。幅は通常30センチ、1850年夏頃から使用され始め、通常3-6人が分業と協業で働いた。レールは上下2重の構造になっていて、上のレールの下面には小さな穴のあいた金属製のシートが張られ、金と小さな砂が下のレールに落ちるようになっていた。ロングトムの最大の欠点は大量の水が必要だったことである。
 もし万次郎が複数人で働いておればたぶんこのロングトムを採用したであろう。足摺岬の先端にJohn Mung Houseという万次郎に関する博物館がある。この中に万次郎の採金の様子を絵に描いたものがある。ここで使用されているものがロングトムでもある。
鉱夫の他の平均像は次の通りである。彼らは土曜日の昼ごろ金山から帰ってくる。そのときは皆金持ちになっている。ところが月曜日の朝はほとんど無一文である。なぜか。ゴールドカントリーにはものすごいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるショベルが60ドルもした。ホテルでトースト1枚が1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルと言われたほどだ。さらにアメリカ人は大変なギャンブル好きである。他に娯楽がないのでギャンブル場はどこも大繁盛した。鉱夫が最後のドルをかけて失い、悄然とギャンブル場を去る光景がどこでも見られた。英語で表現すると、Thousands have lost their last dollar and left the gambling places in despair. となる。万次郎は多分ギャンブルすれば必ず負けることを知っていてギャンブルには手を染めなかったと思う。それとも早く儲けて、早く家に帰ろう(quick fortune and speedy return home)という考え方が働いたかもしれない。または苦労せずに儲けた金はすぐに失われる(Many earn money with ease and spend as fast as they make it.)という観念の下にギャンブルを避けたとも思われる。
 鉱夫たちの最大の難事は採掘した金をどこに隠すかということだった。鉱夫たちの多くはテントの中で暮らした。他人の金を少しでも盗めば死刑になることもあった。インディアンの子供が極めて少量の金を盗んだだけで死刑になっている。万次郎はどうやって自分の金を隠したであろうか。
 万次郎は70日で600ドルを稼いだといわれている。よくこれが現在の価値でどるぐらいかという質問を受ける。アメリカで金の公定価格が35ドルと最初に決められたのは1853年である。万次郎が採金していた頃の金相場は1オンス当たり15ドルだった。600ドルを15で割るとオンスが出てくる。40オンスである。現在金の価格は1オンス当たり700ドルぐらいだからこれに40を掛けると現在の価値が出てくる。
 人間は稼げば稼ぐほど欲の出てくるものである。Human avarice knows no bound.である。ではなぜ万次郎が600ドル稼いだ時点で採金を止めたかの疑問が出てくる。万次郎は無欲恬淡だったから帰国の費用さえ得られれば採掘は止めたという説ももちろんなりたつ。だが筆者は万次郎が止めた別の理由があったように思える。これはクオルツ・マイニングの誕生である。これはまず金を含むクオルツ鉱脈の岩をダイナマイトで爆破させ、爆破された岩を地上に持ち出して粉砕し、最後は水銀を利用して金を砂や岩の中から取り出す方法である。水銀は他のいかなる金属とも結びつかないが金とだけは結びつくという不思議な性質を持つ。
 1849年クオルツ鉱石粉砕用のスタンプ・ミルという機械がゴールドカントリー最南端の町であるマリポサで使用され始めた。これはスタンプと呼ばれる長い垂直の杵と臼からなる。スタンプが動力を用いたシャフトによって上に揚げられた後、自然に落下してスタンプの先に取り付けられた大きな鉄の頭が鉱石を砕くというものである。鉄の頭は通常450キロもあり、スタンプ・ミルは当時の価格で一台3万ドルもした。
 情報にさとい万次郎は多分この情報を入手していたのたのだろう。2本の腕と冒険心で金を掘る時代がすでに過ぎ次は採金が企業によって行われることを予見していたのではないか。もしそうだとすれば万次郎はすばらしい先見性を持っていたといえる。 
 いずれにせよゴールドハンター・ジョン万次郎については未だ不明な点が極めて多い。これからも調査を続けるつもりでいる。

                           2006年8月15日
                            
                              古枯の木
参考文献
“咸臨丸海を渡る”土井良三 未来社 1992年
“中浜万次郎”  中浜博  冨山房インターナショナル 2005年
“Drifting Toward The Southeast”Junya Nagakuni & Junji Kitadai Spinner
Publications 2003年
“漂巽紀略”   川田小竜 日米学院出版部 2003年
“ゴールドラッシュ物語” 岡本孝司 文芸社 2000年
“ゴールドラッシュとジョン万次郎”岡本孝司 如水会報 2005年3月
“越知町とジョン・万次郎” 山本有光 佐川印刷所 2003年

追伸 中浜博博士は2008年4月急逝された。筆者のごとき者に手紙と電話でいろいろご指導いただいたことを深く感謝するとともに博士のご冥福を心からお祈りしたい。

                     2009年2月21日   古枯の木
  
 

1 件のコメント:

  1. 古枯の木さんのエッセイは読みやすく楽しいです。名前は知っていたジョン万次郎に興味がわき冒険小説を読むようにワクワクします。きっと古枯の木さんも少年のようにワクワクしながら次々といろいろな本を読み想像し新しい発見をするのでしょうね。知識の豊富さと多方面から物を見る洞察力はすごい!自分の目で見る行動力もすごい!です。

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