2009年2月6日金曜日

インテリジェンスの軽視

インテリジェンスの軽視
                  古枯の木

 ドイツ海軍の副提督で戦前(1933-37)と戦中(1940-45)に東京の駐在武官であったポール・ベネカー(Paul H. Weneker)がいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦の過程を第3者的に冷静にしかもつぶさに観察していたが、その敗戦の理由を次ぎの3つに分析している。
1. 自信過剰
2. 敵の力の過小評価
3. 余りに長く延びきった補給線
まことに立派な識見である。でももし筆者がベネカーだったらさらに“インテリジェンの
軽視”を追加したい。

英語のインテリジェンスは本来知性のことだが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵
情判断を意味する。アングロサクソンの諜報活動はまったくすさまじい。ここに外交史上有名なケースを一つ紹介したい。1807年6月25日、ナポレオンとロシアのアレキサンダー1世が、ニエメン河(当時のロシア西部国境の河)にいかだを浮かべ、テントを張ってその中で会議をした。これは外部に情報が漏れるのを防ぐためである。ところがイギリスの諜報機関はその日の夕方までに会議の内容をすべて知っていたという。彼らの諜報能力たるや恐るべきである。

 昔、ナショナル・セールス・マネジャーとして使っていた男にE.H. なる男がいる。(彼はいまもオークランド東郊のPleasant Hillに実在のため名は秘す)彼はアトランタ郊外のStone Mountainの貧農の倅に生まれた。アルバイトを重ねながら学校を卒業したが、卒業と同時に太平洋戦争が勃発し海軍に志願した。諜報部に配属された。この男のすごさは極めてユニークな経験にある。以下は彼の語ったところ。1942年秋、潜水艦とゴムボートで単身、千葉県の房総半島の一寒村に上陸した。このとき、通信機器、当面の食料、双眼鏡、手旗、ナイフ、友軍機に連絡するためのミラー、釣り道具などを与えられた。東京湾に出入りする日本艦船の動向を調査するためであるが。特に注意したのは出港する日本の輸送船であった。彼の報告により潜水艦が輸送船を撃沈したわけである。

 房総半島に上陸する直前、潜水艦の潜望鏡で東京―横須賀間の電車を見せられ、この電車の1,2等車(現在のグリーン車)の中に朝鮮人や中国人のスパイが大勢乗り込んでいて日本海軍士官や提督の不用意に発する言葉にいつも耳を研ぎ澄ましていると教えられた。
 また彼はたくさんのコンドームを与えられた。一体何のため?帰国の際に海岸の砂を採取し、これをコンドームに詰めるよう指示された。あとで分かったことだが、アメリカ軍ではこの砂を分析して敵前上陸の際、いかなる車両を使用すべきか、またその車両は一日何マイルまで侵攻できるかを計算するためだった。

 彼はいつも日本兵は個人としては極めて勇敢であり劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、日本軍は戦術と戦略において悲しいほどインテリジェンスが欠如したいたと語っていた。同じような話は他の多くのアメリカ人復員軍人からも聞いた。われわれの勤務していた会社についてもあらゆる面でインテリジェンスの不足はおおいようがないというのがE.H.の持論だった。連合艦隊司令長官であった山本五十六は大変合理的な考え方を持つ人だったといわれている。だが恐るべきことに、彼に仕える12名の参謀の中に暗号、通信の参謀はいても情報参謀はいなかったそうである。海軍の他の並みいる提督たちは大鑑巨砲がすべてを解決し、情報なんかくそ食らえと考えていたかもしれない。

 どうもこのインテリジェンス軽視の伝統が今も日本の会社に引き継がれていないだろうか。筆者は1967年1月ある会社の駐在員としてアメリカに赴任したが、赴任するときカリスマ性を有するという会社の幹部から“自社の製品は必ず売れるという自信を持って行けは成功する”と言われたが、それに反しインテリジェンスの不足、不十分は覆うべくもなかった。また筆者は生涯に2つの会社に仕えたが、どうも日本人のインテリジェンスの収集は細かいことに拘泥し、そのために物事の本質や大本を見失う傾向にあった。現在の事情は分からぬがこの点日本の会社は進歩しただろうか。軍国日本の反省にも学ぶべき点はある。

古枯の木 アメリカ在住35年以上、歴史愛好家、著書に『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など。

1 件のコメント:

  1. 大変興味深く読みました。子供のころアメリカ映画”風と共に去りぬ”を見て日本映画と余りにスケールが違うことに驚きました。そして戦争前後にこれだけのものを作るアメリカと日本ではあらゆる点で話にならないと思いました。

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