2010年8月22日日曜日

半年や一年は暴れてみせる

半年や一年は暴れてみせる

 2010年5月一橋大学の同窓会会報である如水会報に“山本五十六とロサンゼルス”なるエッセイを寄稿したが、これに対しいろいろな反響があった。山本五十六を研究する者として見逃すことのできぬ投書があった。1941年9月12日、五十六は荻窪の近衛文麿の別荘、荻外荘(てきがいそう)で近衛に会い、“やれと言われれば半年、一年は暴れてみせる。だが2年、3年では自信がない”と語ったとされている。
 1936年五十六が海軍次官に就任し、海軍大臣―米内光政、軍務局長―井上成美(しげみ)のいわゆる海軍トリオが誕生し、彼らは共同して三国同盟に強く反対した。作家の阿川弘之はこの時代が帝国海軍の最も輝ける時であったと書いている。その井上成美が五十六のこの言葉を取り上げて五十六の最大汚点の一つであるといっている。2007年に“山本五十六”を発刊した作家の半藤一利も同じような立場だ。
 投書主は古枯の木に対し、五十六の言葉は連合艦隊司令長官としてまことに無責任なものだと書いてきた。だが古枯の木は長い間、   本当に五十六がかかる言辞を呈したかどうか疑問に感じていた。眼光紙背に徹し、将来に対し深い洞察力をもった五十六のことだ。彼は日米の経済力と軍事力の差を知悉していた。さらに日本の科学、技術力の水準の低さも認識していた五十六がかかる言葉を発したかどうか。
 作家の工藤美代子が2004年6月”海燃ゆ“という五十六の伝記を発刊した。工藤はその中でこの言辞は近衛の自演自作だと喝破している。近衛の持っていた小さな手帳以外にこの言辞の情報源はないという。近衛は東条、松岡とともに日本を太平洋戦争に巻き込んだ3大凶悪犯の一人である。無責任、無自覚でその対中国政策はいつも優柔不断だった。趣味といえば旅館や料亭の女中仲居を押入れの中で凌辱することだった。しかもそれを吹聴して廻った。こんな品性下劣の男なら勝手に五十六の言葉を捏造した可能性も充分ありうる。
 工藤の本を読んで古枯の木は溜飲の下がる思いがした。

古枯の木-2010年8月21日記す。

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