2009年8月6日木曜日

シベリア出兵の教訓

シベリア出兵の教訓

 日本は1918年8月から22年10月までシベリアに出兵し、駐留したが、戦費9億円、5千人余りの死傷者を出し、最後は一物も得ずして撤兵するという悲しむべき暗黒の1ページでを持つ。チェック兵の救済という所期の目的を達成すると1920年8月までに米、仏、伊、支、ポーランド、セルビア、ルーマニアの諸国はいずれも撤兵を完了したが、ひとり日本のみ駐留を続け、そのため住民には反日感情が芽生え、列強からは日本の領土的野心を疑われたのである。1945年8月ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵入したが、多くの外国の歴史書はこれを“ソ連は復讐を果たした”と簡単に片付けている。多分復讐の中には日露戦争、シベリア出兵とそれにノモンハン事件に対するものが含まれているのだろう。
さてチェック軍とは何であったか説明しておきたい。チェック軍とはオーストリア軍の中にあって第一次大戦が始まるや否やロシア軍に降伏し、反対に独墺軍と戦った数万の民族的兵士のことである。ところが1918年ドイツとロシアの間にブレストリトウスク条約が締結されると彼らは行き場を失った。ロシアの離脱により東部戦線から開放された独墺軍100万が西部戦線に向かいつつあった。このため連合軍にはウラル地方に一つの戦線を構築して独墺軍を背後から脅かそうとする計画が持ち上がった。その方策としてチェック軍を救済し、東行させ、その後船舶で輸送してウラル戦線に投入することになった。だが、レーニンの共産主義政府はドイツの支配下にあり、各地でチェック軍が共産軍に攻撃されるという事態が発生した。
 チェック軍の救済という観点からシベリア出兵は充分に理由のあることである。後世の学者の中にこれを無名の師と呼んで非難する者がいるが、彼らの非難に正当性はない。だが日本はチェック軍の救済以外にレーニンの共産軍の東漸に対し、これと戦うべきがどうかで躊躇浸潤した。内政不干渉の傍観主義を取るかと思えば、両軍が各々数千人の規模で激闘を演ずるというようなこともあった。つまり共産軍と戦うべきかどうかで断を欠き、戦うようで戦わず、戦わないようで戦ったところに悲劇の根本があった。さらに共産軍以外に労働者、農民のゲリラの問題もあった。
 アメリカの強い要請により日本は1918年8月出兵を始め、わずか一カ月で沿海州を占領し、その後も順調に戦線を西に向け拡大し、チェック軍との連絡に成功した。問題はその後である。具体的政治目標、戦略、戦争目的、外交、信念が不確定で、一貫せず、共産軍の東漸に対処するとか、朝鮮との国境を保全するとか、居留民を保護するとんかのスローガンを掲げたもののいつも中間に彷徨し、シベリアの荒野に無為無策の駐兵を続けた。
 この間に軍司令官の交代が3回、師団の動員数数コ師、しかも増派と撤退を繰り返すという体たらくだった。田中大隊、西川大隊は全滅し、兵隊の2割が凍傷に罹った。ウラジオストックやニコライエフスクの惨劇があった。とくに後者では日本軍守備隊と居留民全員が虐殺された。そのとき摩訶不思議なことが起こった。世界でもっとも信用でぬ共産軍を信用して自軍の通信不能のとき彼らに電信の送受信を委託してしまったのだ。たちまち共産軍の謀略と奸計に陥ってしまった。
 1919年ベルサイユ条約が締結されると英仏伊は戦意を喪失し、共産軍は逆襲に転じ、反ソビエト政権は凋落し、住民は変心して民族主義的観点から共産政権に同情を示し、反日に転化した。日本政府はソビエト政権を崩壊させた後撤兵すべきと考えてようだが、それに対しても断固たる措置がとれなかった。
 シベリア出兵には多くの教訓が厳存する。国連の最大の任務は国際平和と安全の維持であり、国連それ自体が一つの大きな集団安全保障機構である。イラク戦争のとき日本はイラクに出兵した。それは平和維持活動への参加と呼ばれたが、事実は戦争への参加である。今後ますますそのような出兵の機会が増えると思われる。そのとき注意すべきことがある。それは確固たる政治目的である。戦争論の著者のクラウエウイッツは“戦争とは他の手段による政治の延長である”と道破した。戦争とは政治目的という女王に仕える侍女のようなものであり、あくまで中心は政治だ。
 ここで歴史上有名なノモンハン事件に触れたい。ノモンハンとは旧満州国と旧外蒙古の間を流れるハルハ河沿いの一寒村である。この河を1939年5月12日700人の外蒙古騎兵隊が渡って満州に侵入してきた。外蒙古の後ろにはソ連軍がおり、ソ連軍と日本軍の間で戦争が始まった。この戦争で日本軍は装備と火力の点で格段にソ連軍に劣り大敗を喫した。新しい国境はハルハ河より遥か東に決められた。後にソ連の国防相になるジューコフ司令官は国境画定という政治目的を達成するや否やトーチカ2-3個を残してサッと引き揚げた。見事な撤収ぶりである。無責任な帝国陸軍の辻政信参謀はノモンハンでは勝ったと言い張るがこれは彼特有の詭弁である。
 すでに述べたようにシベリア出兵はきわめて多くの教訓をわれわれに提供する。一番重要なことは確固たる政治目標、戦略目標そして作戦思想である。しかも政治目標は大きなものではなくてなるべく限定的なものがよい。目標を達成したら機を逸せず撤収することだ。ひとり居残るなどは愚の骨頂であり、被占領地の国民を敵にするなどは論外である。
古枯の木――2009年8月6日記す。

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