2010年8月14日土曜日

映画442を見て

映画442を見て

 2010年7月31日ロス近郊のサンペドロで上映された映画442を見た。これは第二次大戦中、アメリカで編成された日系兵士の欧州戦線での活躍を描いたものである。この映画とは別に当時の日系人の社会的地位について述べたい。日系人は戦前、戦中、アメリカ社会で厳しい差別待遇を受けていた。たとえば、あるとき白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントを持って出かけたところ、その母親からプレゼントを持ってすぐ帰れと追い返された。母親は“ここはお前ら汚らしいオリエンタルの来るところではない。今後とも絶対に来るな”と付け加えたそうである。プールに行くと水が黄色になるからといって断られた。ダンスホールには入場できなかったし、映画館やボーリング場では日系人の座れる場所には“Japs and dogs only”の張り紙が出されていた。戦争終結直後、シカゴに住んでいた日系人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアップのためカリフォルニアのロングビーチまで車ででかけたが途中彼にベッドを提供するモテルは皆無だった。
 アメリカ人は日系人に対し過酷であったがアメリカ人の寛容さを示す話が無きにしもあらずである。1941年12月7日の真珠湾攻撃の翌日、日系人の子供たちは皆びくびくしながら登校した。いつも日系人をいじめる白人の番長に殴られるものと全員が覚悟した。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、日本政府は憎んで余りあるがこれら日系人の子供に罪はないから彼らに対して絶対に手出しをしてはならないと宣言してくれた。多分番長の親が番長にそのように告げたのだろう。
 442部隊は1943年に編成され、5,000人以上がこれに入隊し、イタリヤとフランスでドイツ軍と戦い大きな功績をあげた。ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍の死傷率は平均5.8%だったが、日系兵士のそれは28.5%にも達した。700人が戦死した。日系兵士のモットーは“Go for broke"(当たって砕けろ)だったが、彼らはアメリカ市民として米国への忠誠心を示すためには身を挺して戦う他なかったと思われる。”当たって砕けろ“は実に彼らのやるえない気持ちを表していたものと思われる。
 フランス戦線ではアメリカ軍が2度まで救出に失敗したテキサスの141部隊を442部隊が救出に成功した。救出された141部隊は全部で211名だったが、442部隊の死傷者は800名にも達した。戦後テキサス人はこれを感謝して442部隊の全員に名誉テキサス市民の称号を贈った。だがすべてに移ろぎ易いのは人の心である。テキサスに“Jap Lane“とか”Jap Road“と呼ばれる道路が建設された。これに対し、最近日系社会がら猛烈な講義が寄せられたが、テキサス人はこれを黙殺し改めようとしない。
 映画442は日系人の置かれた差別的地位をインタビューを交えながら克明に描いている。口の重い元日系兵士に語らせるのは非常に骨の折れる仕事であったと思う。ローマ開放のときその尖兵を努めた442部隊にはローマ入城が許されず迂回して他の戦線に向かわされたことなど知らなかった事実も多い。だが対独戦争とは何であったか、なぜ日系人はこの戦争に参加したのか、また彼らがいかに戦ったについてもう少し理論的。系統的な説明があればなおよかったと思う。
 この映画の監督であった鈴木氏が映画の開演前に、壇上で挨拶し、最後に”Please enjoy the movie.“と言った。この映画を見たある白人の男性が古枯の木に最近手紙を寄せた。これによればこれは記念すべき(memorable)映画ではあるが、あまりにも深刻で楽しむことなどとてもできぬと言ってきた。これは鈴木氏と共通の知人を通じて鈴木氏に伝えられた。
 日系人に対する差別や442部隊の活躍についての詳細は拙著“日本敗れたり”(オーク出版サービス 2003年)の第8章 “日系人の苦悩”を参照されたい。

古枯の木-2010年8月13日記す。

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