真珠湾の影
1967年1月21日午後4時ごろ家族と一緒に初めてアメリカの土を踏んだ。子供は2人、3才と1才だったがカリフォルニアの温暖な気候と豊富な栄養に支えられてちょうど1年後に第3子が誕生した。この子どもたちが小学校の高学年に進むころ明らかに真珠湾攻撃を意識するようになった。学校で先生が真珠湾攻撃の話をすると頭を上げることができないとこぼしていた。日系人の子供もすべて同じ思いをしていたそうだ。またある年の12月7日の朝、白人の男がわが家の長男に向かって“Happy Pearl Harbor Day”と言ったそうだが、そのとき長男は背筋が凍てつくような思いをしたという。真珠湾の影として子供を悩ませたのはなぜ日本が真珠湾を騙し討ち(sneak attack)し、不正な戦争を始めたかにあるようだった。これが子供の教育上逢着した最も困難な問題の一つだった。
そこで筆者からは戦争とはいつも正義と正義の衝突であり、日本だけを一方的に不正義とすることはできないこと、また奇襲であった真珠湾攻撃に国際法上の違法性の問題はなかったことなどを説明したが子供がどこまで理解できたかは知らぬ。さらに真珠湾攻撃はいまだ交渉中の相手を最後通牒も発せずに突然討つという騙し討ちになったがこれは道義的には責められるであろうと付け加えた。
真珠湾の影は日系社会にも及びそれは日系人排斥の大合唱になってしまった。日系人は法律的には敵性外国人(enemy alien)と見做され、いたるところで悪意ある扱いを受けた。ロスのダウンタウンにあるリットル東京では怒り狂った白人の若者がトラックから飛び降りてきて日系人と見れば誰何の別なく殴り倒した。コーヒーショップや床屋は堂々と“No Japs”の看板を掲げていた。サンフランシスコで発行されているPacific Citizen紙はそのころの様子を次のように伝えている。“真珠湾から旬日を出ないある日、日系人の母子が道を歩いていた。そこに白人の母子が現れ、白人の子供が石を拾い上げて日系人の子供に投げつけた。だが日系人の母親も白人の母親もそれを止めようとはしなかった”と。真珠湾の恨みと影は子供にまで染み込んでいたのである。日系人大虐殺のデマも流れた。
暗い真珠湾の影の中にただ一縷の光もあった。これはハリウッドのある小学校での出来事。真珠湾攻撃の翌日は月曜日だった。日系人の子供は皆びくびくしながら登校した。白人の番長に殴られるものと全員が覚悟をしていた。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、“日本政府は憎んで余りあるが、これら日系人の子供には罪はないから彼らに対し絶対に手出しをしてはならぬ”と宣言してくれた。たぶん番長の親が番長にそのように告げたのだろう。筆者は昔、カンプトンという町にあった日本語学校の教師をしていたことがある。この話は生徒の父兄の一人から聞いたものだ。その人はハリウッドの小学校の現場に居合わせたそうである。いずれにせよアメリカの底深い寛容な一面を見た思いがする。
自信を持つことはいいことだが、日本人はすぐに自信を過信に転化するという悪癖を持つ。真珠湾攻撃や経済大国というおごりはその一典型である。アメリカでマーケティングの仕事を始めたころ複数の日系人からアメリカの力を過小評価せぬようにと何度もアドバイスを受けた。これには今も感謝している。
筆者が渡米したころ真珠湾の影は商売の面にも及んでいた。日本製商品が売れ始めるとアメリカのメーカーは“なぜ真珠湾を攻撃した国の商品を買うのか”と叫び始めた。また“ジャップは真珠湾の反省を一切していない”“山本五十六は真珠湾で無辜の民2,400人以上を殺した”などの宣伝も見られるよになった。日本製商品を攻撃するためのcheap Japanese junksとかcut corners products (手間を省いた粗悪品)などの言葉があざ笑うかのように踊っていた。でもこれらの言葉はさすがに新聞、テレビ、雑誌など公共のメディアには登場せず、メーカーが傘下の代理店に出すニューズレターの中に特筆大書されていたのだ。自尊心を傷つけられた日本は実に悲しい国だと思った。このような時には耐えて、耐えて、隠忍自戒するより他に方法はない。が同時にこんな下らぬ宣伝を相手にしてはいけないと痛感した。詰まらぬものに大騒ぎするとかえって相手が勢いづいてくるからである。いろいろ考えた末、黙殺という有効な手段のあることを発見した。日本の政治家の中には中国や韓国から恫喝されると直ちに右往左往する者がいるが、彼らは一体黙殺という手のあることを知っているであろうか。
岡本孝司―歴史愛好家、在米35年以上、最近ロスの近現代史研究会で“トルコ歴史紀行-アタチュルクを中心にして”“万次郎余話”などと題した講演を行った。
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