2009年1月16日金曜日

Intelligenceを欠いた帝国陸海軍

Intelligenceを欠いた帝国陸海軍

古枯の木

 われわれは国際社会に住んでいる。この社会では各国家はその国家的利益を第一に、熾烈な生存競争を展開している。治にいて乱を忘れず、安けれど危うきを忘れず、存すれど亡びるを忘れずなどは国際社会に住む者の未来永劫に忘れてはならない格言である。日本国民が真に平和を希求するならば平和のアンチテーゼである戦争の研究は不可避である。そのため筆者は会社勤めをしながら戦争のレアリティーを追求することをライフワークとした。とくに太平洋戦争の失敗の原因は糾明されねばならぬと思う。東西冷戦の終了した現在、戦争の研究などは“骨董趣味”にすぎないという人もいる。だが冷戦が解消したからといって戦争の起こらぬ理由はどこにもない。中国、北朝鮮、韓国、ロシア、イスラムのテロリストに攻め込まれる可能性があるからだ。
 筆者がはじめて訪米したのは1967年1月である。そのころ職場にも近所にも太平洋戦争に参加したアメリカ人がたくさんいた。彼らに大戦中の日本軍の戦いぶりについて意見を徴してみたところ異口同音に、日本兵は極めて勇敢であり、劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、日本軍となると戦術と戦略において悲しいほどintelligenceを欠いていたと語ってくれた。Intelligenceの本来の意味は知性のことだが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵情判断を意味する。
 アングロサクソンの諜報活動はまったくすさまじい。ここで外交史上有名な事例を1つだけ紹介したい。1807年6月25日、ナポレオンとロシアのアレキサンダー1世が、ニエメン河(当時のロシア西部国境の河)にいかだを浮かべ、テントを張ってその中で会議をした。これは外部に情報が漏れるのを防ぐためである。ところがイギリスの諜報機関はその日の夕方までに会議の内容をすべて知っていたという。まことにその諜報能力たるや恐るべしである。
 アメリカ軍は戦争中、諜報活動のための最も有効な武器を言語だと考え優秀な頭脳をこれに傾注した。この点、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで英語を敵視した日本政府とは180度も考え方が異なる。真珠湾攻撃のあとアメリカ各地に日本語の研究機関が多数創設された。そこで彼らは日本兵が“l”(エル)の発音のできぬことを発見した。アメリカ陸軍の太平洋戦線における兵士間の合言葉(watch word)は“lice”に決まった。日本兵は全員が“rice”に近い発音しかできなかった。アメリカ兵は相手がliceではなくてriceと発音したとき、直ちに銃を発射したのである。
 ハーバード大学では1919年に完成した日本の著名な言語学者、上田万年の“大日本国語辞典”を版権なしに大量の海賊版を作り、これを陸海空軍や日本語の研究機関に配布した。
 日本語研究のためアメリカは誰を利用しようとしたか。それは日系人である。1942年2月ルーズベルトが署名した行政命令により、アメリカ西海岸の日系人は強制収容所に入れられた。アメリカ軍は収容所に入れられた日系人の中から教育があり特別に優秀な者を選び出して、彼らをワシントンDCに集めアメリカ軍将校のための日本語教育を始めた。その目的は日本が降伏したとき、直ちに将校たちに日本語を使用させることにあった。
 外国語研究機関の中で最も有名なのが陸軍の軍事情報外国語学校(MISLS, Military Service Language Schoolの略)である。最初アメリカ南部のジョージア州に設立されたがそのあとミネソタ州のスネリングに移り、さらに42年5月サンフランシスコ郊外のプレシディオに移設された。ここには多くの日系人が集まった。日本語学校の初代校長はジョン・フジオ・アイソだった。アイソは戦前早稲田大学に学んだ帰米2世である。帰米2世とはアメリカに生まれ、日本で教育を受けた後、再びアメリカに帰った者をいう。アイソは日米両語に堪能で、有能な帰米2世をたくさん入校させた。入校した2世生徒はすべて軍籍を与えられ、日系人としては非常に厚遇された。食事、衣服は無償で、月給も人により異なるが大体$10ぐらい与えられた。
 校長のアイソはいつも笑顔で生徒に接し、威張ることなく、校内の評判は極めてよかった。余談ながら、アイソは戦後ロサンゼルス郡の最高裁の判事にまでなったが、ハリウッドのガソリンスタンドで自分の車に給油中、何者かによって射殺された。彼の名前を付した通りが今でもロスのダウンタウンに残っている。筆者はかつてカンプトンという町の日本語学校で2世、3世たちに日本語を教えたことがある。生徒の中にアイソの娘がいた。大変もの静かで聡明な子供だった。
 アイソの笑顔とは反対に生徒たちはこの学校でしごかれた。アメリカ西部の大学の雄であるスタンフォード大学の教育学部が開発した教育方法が採用されたため、生徒たちは当初戸惑ったらしい。授業は朝8時から夕方4時まで。消灯は午後10時だったので多くの生徒は便所の中のほの暗い明かりの下で勉強を続行した。教育期間は6カ月。教材としては日本で発行された古新聞、古雑誌、日本の小学生用の教科書、それにデンバーで発行されていた日本語のロッキー時報などである。今年9月筆者はコロラドで開催されたジョン万次郎大会に出席したがそのときロッキー時報の社主である今田英一氏に会うことができた。ロッキー時報は今でも週刊紙として発行されていると聞いた。
 日本軍ではアメリカ人は行書、草書は読めまいとたかをくくっていたが、優秀な生徒はそれらを読みこなすまでになった。ときどき“丹下左膳”や“愛染かつら”の映画を見せて日本人のメンタリティーを学ばせた。
生徒たちは週末はフリーだった。アメリカ軍が彼らをある程度信用し厚遇もしてくれたので、差別待遇の厳しいシャバとは異なって学校は快適な生活の場であったらしい。かまぼこ型の兵舎は極めて清潔で、夏でも蚊はおらず、冬は暖房が入り、当時すでに配給制になっていたパン、コーヒー、バター、ミルク、ガソリンなども自由に入手できた。アメリカでは1942年に乗用車の生産は打ち切られたが、生徒たちはかなり自由に車を使用することが認められていた。MISLS内での2世の日本語教師の最高月給が$16に対し、白人の日本語教師のそれは数百ドルだった。理由は軍の必要上の特殊技能者ということにあったらしい。なぜ2世の教師が特殊技能者ではなかったのか。
この学校を卒業した2世は6千人にも達したが、半数以上が太平洋戦線に投入された。全員が陸軍に入隊した。海軍は皮膚の色のため1人の入隊も許さなかった。でもこれは米海軍が日本語に無関心であったことの証拠ではない。それどころか大いに高かったのである。開戦当時、米海軍で日本語を解する者は12人しかいなかったという。そこで海軍もやはり強制収容所に入れられた日系人の中で日本語に堪能な者を140人もピックアップして日本語教師として採用した。だが彼らは陸軍とは異なり軍籍に入れられることはなかった。これら日本語教師に日本語を教えられた海軍将校は千人以上に達した。
実戦に参加する兵士もいたが多くは諜報の仕事に従事した。彼らは日本軍の文書の翻訳、暗号の解読のみでなく、日本軍に接近して士官が兵に下す命令の盗み聞きまでした。便所に捨てられた紙の中に多くの秘密があった。また日本語を利用して日本兵を説得し降伏させることにもある程度成功した。
降伏した日本兵の尋問も日系兵士の大きな役割だった。彼らは学校で日本兵の名前を分析することも教えられた。もし名前に“いち”の付くときは長男である。長男は日本では家督を継ぐことが義務づけられているのでなるべく早く帰国したいと願っているはずである。彼らのこの心理状態を利用しなければならぬ。次男、三男よりも長男をより丁重に扱って最大限白状させ、できる限り多くの情報を長男からとれと日系兵士たちは訓練されていた。
日本軍の暗号はいとも簡単にアメリカ軍に解読されてしまったが、アメリカ軍ではナバホ・インディアンの言葉を暗号の基礎にしたのでさすがのドイツ軍でもこれは解読できなかった。さらに米軍は太平洋戦線に450-500名のナバホ・コード・トーカー(Navajo Code Talker)を配置した。これは前線と後方に英語の堪能なナバホ・インディアンを置き、無線電話による敵情報告と指示命令をナバホ語で行い、その内容を日本軍に盗まれないようにしたものである。
アメリカの軍隊では捕虜になったときの心構えをいろいろ教えていた。国際法上、名前、軍隊名、階級と背番号さえ白状すればいいと教えた。日本軍ではそのような教育はまったく存在しなかった。したがって日本兵は捕虜になるとすべてを白状してしまった。
アメリカの日系兵士はその語学能力をもってアメリカの勝利に大きく貢献した。マッカーサー元帥の情報部長であったマッシュバー大佐は日系兵士のintelligenceが太平洋戦争の終結を2年も早めたと賞賛している。2002年11月、ロス近郊のポモナ大学で、米海軍は戦時中海軍将校に日本語を教えた日本語教師の生き残りやその遺族を米海軍の諜報活動に著しく貢献したとして表彰した。
これに対し日本ではどうであったか。さきに述べたように日本政府は英語を敵性外国語としてその使用や教育をまったく認めなかった。エンジンは“発動機”、インキは“青汁”、野球のセイフは“安全”となった。でも中学生の英語に対する関心は強かった。辞書は“ジヒクショナリ”、犬小屋は“ケンネル”、百は“ハンドル”、番号は“ナンバン”、ゆっくりは“ソロリ”、いくら(How much?)は“ハマチ”と英語で言うらしいとまことしやかに教室で囁かれていた。
2004年秋、舞鶴の旧海軍機関学校(現海上自衛隊舞鶴地方総監部)を訪問したとき、驚くべきものが展示されていた。1944年の全入学生に与えられた研究社発行の英英辞典である。しかもその説明書によれば教科書は英文のものだったとのこと。中学では英語を禁止しておきながら機関学校で英語を教えたのはいかなる理由によるのか。江田島の旧海軍兵学校(現海上自衛隊第1術科学校)では英語の話せぬ海軍士官は世界中どこにもいないとの主旨から英語を教えていた。旧海軍経理学校でも専門用語は英語であったと聞く。なんたる帝国海軍の矛盾や自家撞着か。
日本軍の中にも英語のできる2世がいた。だが日本軍は彼らをスパイとして疑い、敵信隊に配属して敵の暗号の解読に従事させる以外は重要な仕事を与えなかった。2世をアメリカ軍に対する諜報活動、原住民に対する宣撫活動に利用したならばきっと大きな成果を挙げたに違いないと思われる。日本軍は言語、諜報、宣伝、宣撫などをすべて見くびっていた。海軍は大艦巨砲がすべてを解決すると勘違いしていたのだろう。帝国海軍の並み居る提督の中で、連合艦隊司令長官であった山本五十六は大変合理的な考え方を持った人だと一般にいわれている。だが驚くべきことに、彼に仕える12名の参謀の中に情報参謀は1人もいなかった。このような情報無視は米海軍ではとても考えられぬことらしい。
軍隊が戦に破れて撤退するとき誰を最初に逃がすかを日米の旧陸軍将校に聞いたことがある。米軍ではいつもintelligence関係の兵隊を最初に撤退させるそうである。これは彼らが重要な“軍機”を握り、もし捕虜になると面倒な問題が発生するからである。ところが日本軍は“軍旗”を持つ者を最初に逃がしたそうである。“天皇から下賜された”一枚の布切れの方が情報よりも重要だったのか。同じ“グンキ”でも重要なものに対する認識の相違があり、帝国陸軍のバカサ加減もここまでくると極まれりと言うべきだろう。

2006年9月19日記す

古枯の木一橋大学大学院修了ののち日本企業のアメリカ法人に勤務。フロリダ州西フロリダ大学などの講師を経て、現在著述業。著書に“日本敗れたり”など。アメリカ永住

0 件のコメント:

コメントを投稿