ゴールドラッシュとジョン万次郎
古枯の木
カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。この金塊は今でもコロマの博物館に展示されているがこれがアメリカと世界の歴史を変えたのである。金を産出した地をゴールドカントリーと呼んだが、これは南北250キロにも及ぶ。その最南端の町にはロスから車で5時間もあれば行ける。
金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来た。彼らの働きぶりには各民族の特性が現れていて面白い。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身やって来た。メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者だった。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持した。シナ人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していた。
アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は1人もゴールドラッシュに来ていないと記している。日本人が来なかったのは鎖国のためだ。だが少なくとも1人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへーブンの町で教育を受け、航海術まで学んだ。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったが、1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。各種情報を精査の後、カリフォルニア行きを決心しホイットフィールドに別れを告げた。海路サンフランシスコに来て、現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働いたが、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができた。
ゴールドカントリーは超ワイルドな男たちの世界だった。良い鉱区が分刻みで減少していたため鉱区を巡る紛争が多発し、復讐劇であるリンチ裁判が横行し、娯楽に飢えた鉱夫たちはネクタイ・パーティーと呼ばれた絞首刑を見るのを楽しみにした。人種差別が激しくシナ人やインディアンは人間の数に入らなかった。シナ人の雑役夫の日給は25セント。しかもこの地にはひどいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるスコップが1本60ドルもした。ホテルでトーストが1枚1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルといわれたほどだ。金はあるにはあったが、鉱夫たちはこのインフレと好きなギャンブルのために稼いだカネのほとんどを使い果たしてしまった。
彼らゴールドハンターは若干の例外を除いて金持ちにはなれなかった。だが彼らは多くの人々から深く尊敬されている。それは彼らの勇気とパイオニア精神のためだ。白人の支配する世界で白人を相手に働いた万次郎であるから通常人の倍以上の用心、努力、交渉力を要求されたであろう。
1850年万次郎はホノルルに来て、金で稼いだカネでボートを購入してアドベンチャー号と名づけ、ホノルルに置いてきた漂流仲間2人と共に沖縄に帰国した。アドベンチャー号は沖縄近海から沖縄本土への上陸目的を果たすためのものだった。
その後、黒船来航に直面した徳川幕府に雇われ、中浜万次郎と名乗った。
1860年咸臨丸が海を渡った時、万次郎は通訳や航海士として活躍した。一方、幕府に対しては攘夷の無謀を説き開国を薦めるなど万次郎が近代日本の黎明期に果たした功績は測りしれない。同時に万次郎がゴールドラッシュの時に示した素晴らしい才覚、未知の世界にチャレンジする冒険心、素早い決断力などは高い賞賛に値する。
2006年9月コロラド州のコロラドスプリングズでジョン万次郎大会がありこれに出席した。万次郎5代目の中浜京さんにゴールドラッシュで示した万次郎の商才について触れたところ、中浜家の一族郎党の中で彼ほど商才のある者は誰もいないでしょうと言って笑っていた。万次郎を助けた船長の5代目ボブ・ホイットフィールドは日本人の筆者がゴールドラッシュの中の万次郎を研究していることを大変喜んでくれた。
コロラド大会の後、万次郎が育てられた東部のヘアへーブンに飛んだ。地元の歴史協会の人たちにいわゆる“万次郎トレール”を案内してもらった。この中には14歳の万次郎が小学校の1年生と一緒に勉強した学校、野球を楽しんだ隣接のグランド、彼が寄宿した船長の家、英語を個人的に教えてくれた先生の家などが含まれる。さらに町のミリセント図書館で多くの資料に目を通すことができたし、地元の人たちが開催してくれた座談会にも出席できた。
ゴールドラッシュの万次郎については未だ不明な点が多い。彼の入った金山さえも分かっていない。当時のゴールドハンターの多くは数人が分業と協業により採金したが万次郎が誰と採金したかは判明していない。採掘した金をいかに隠すかが大きな課題だったが万次郎がどのようにこの問題に対処したかも知られていない。最近ゴールドカントリー全体の風化が激しい。しかも筆者の年齢のことも考えると“ゴールハンター万次郎の研究”をなんらかの形で早くまとめたいと思っている。
古枯の木歴史愛好家、在米35年、著書に『ゴールドラッシュ物語』など。2008年2月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“万次郎余話”との演題で講演
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