逆境をバネにして
古枯の木
一九六七年一月ある会社の駐在員としてロスに赴任したとき最初の仕事は従業員の採用だった。日本を出る前、あるアメリカ通と言われる人にこの点について相談したところ、彼は宗教心の篤い人間を採用しろと言ってはくれたが、これは余り実用的ではなかった。結局、応募者をいろいろな面から短時間の内に効率的に観察するより他に手はなかった。年齢や学歴の詐称が多いと聞いてもいたのでこれには事前の調査が必要だった。実際の採用にあたり人種によっていろいろの差異があったから日系人、アングロサクソン系の白人、ユダヤ人に分けて自分が気づきまたは印象に残ったことを記してみたい。
まず日系人の採用だ。最初にUSCを卒業した男性を採用したが年齢は筆者より十三歳も上だった。彼はいつも会社に就職できたことを深く感謝していたが彼によればごく最近まで日系人は大学を卒業しても就職口はなく卒業式は失業式を意味したとのことである。多くの者は庭師か日系人所有のレストランで働くより他に方法がなかったらしい。彼は一九四二年二月ルーズベルト大統領の署名した行政命令で強制収容所に入れられたが、志願してサンフランシスコ郊外プレシディオの軍事情報外国語学校(MISLS, Military Intelligence Service Language School)に学びほぼ完璧なバイリンガルになった。幼稚園に入るまでアメリカ人と交際する機会が無かったのでMISLSでは日本語より英語を学ぶ機会が多かったと言う。戦後、B,C級戦犯の通訳をやった。彼の日英両語がどれだけ会社の発展に役立ったかは筆舌に尽くし難い。その後も多くの日系人を採用したが彼らは異口同音に採用されたことを感謝しており、積極性と自己主張に欠ける恨みはあったものの、おしなべて誠実、勤勉で残業を厭わず夜遅くまで働いてくれた。彼らは祖父母、父母からいつも“泣くな、頑張れ、オヤコッコ(親孝行)”と教えられていたそうである。
だがあるとき日本の本社が従業員の現地化を唱導し、幹部に白人が採用され駐在員は黒子的な存在と相成った。その結果、日系人の多くは白人の幹部により淘汰されてしまった。この現実を目の当たりにして筆者は自分の子供にたいしてはアメリカでは会社勤務などを考えず何らかのタイトルを取得して自主独立的に働ける道を考え出すよう教え続けた。
つぎは白人の採用。あるときUCLAを卒業し企画力があり優秀そうに見えた白人男性を幹部に採用しようとしたが、最後の段階で失敗した。なぜ失敗したかの原因を突き止めたいと思いある日、夕食に招待した。聞くところによると仕事は大変challenging で待遇にも不満はなかったが最終的決断の前に大きなためらいがあったと言う。周知のようにアメリカでは会社を変わるごとに給料と地位が上がるが、これはアメリカの会社に限ってのこと、日本の会社に働くことはキャリアー上マイナスになることはあってもプラスになることは絶対にないとのことだった。つまり日本の会社で働くとその期間は人生のムダになるわけだ。これにはひどいショックを受けたが悲しいことに日本の企業はアメリカの企業と同列にはなかったのである。彼の採用に失敗した後も同じような経験を2-3度した。現在ではこの辺の事情は変わっているであろうか。それとも白人はやはりアメリカの会社で働きたいと思っているだろうか。
最後にユダヤ人女性の採用にあたりこちらが反対にいろいろ質問を受け、最後に勇気づけられた話。インタビューのとき彼女が日本企業であるが故にアメリカでいろいろ差別待遇を受けているだろうと訊いてきた。筆者はアメリカ政府は大変フェアーだが、それ以外の場での差別のあることは否定しなかった。それにたいし彼女は人種偏見や差別が起爆剤となってアメリカ社会が発展してきた事実は見逃せないと断言し、その例証としてロスの市内にイギリス系やアメリカ系のアングロサクソンしか入会できないゴルフクラブを挙げた。ユダヤ人も日本人も一切入会は許されていない。ユダヤ人の偉大さはこの逆境をバネにアングロサクソンが羨むような数倍立派なゴルフコースを建設したことだ。差別されたときへこたれてしまうかそれともそれをバネに立ち上がるかによって結果に大きな違いが生ずると教えてくれた。そしてわが社もいろいろな逆境にめげずむしろそれをバネにして頑張れと言ったのだ。彼女は採用された。
ブログ開設おめでとうございます!これから、たくさんの方に読んでもらえるといいですね。 ようこ
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