トルコ女性のヘッド・スカーフ
古枯の木
2007年5月17日から31日までトルコを訪問した。主な目的はトルコの英雄アタチュルクに敬意を表するのと彼が現在いかに評価されているかを知るためだった。18日にイスタンブールに着き、19日からトルコ3千キロのバスツアーが始まった。19日は偶然にもトルコの独立記念日であり、しかもバスは彼が力戦奮闘したガリポリ半島の古戦場をめぐるものだった。各古戦場は休日のためもあって見学者で満ちあふれていた。「アタチュルクは生涯一度も戦争に負けたことがない」と熱意を込めて説明するバスガイドやアタチュルクの銅像の前でひざまずく老人もいた。先生に引率された小学生は「アタチュルク万歳」を叫んでいた。小生がトルコ訪問の目的を告げると「アタチュルクは偉大であった」と握手を求めてくる青年もいた。
トルコ滞在中のある日、スーパーでアタチュルクの絵葉書2枚求めカートに入れて歩いているとき、トルコの青年3人が「それは誰か知っているか」と言って近づいて来た。答えるとその絵葉書と筆者に向かい挙手の礼をした。アンカラのアタチュルク廟に詣でたとき、売店でアタチュルクのポスターを買った。売り子がトルコ訪問の目的を訊いたので、アタチュルクに敬意を表するためにわざわざ来たと言ったら、「サムライ、サムライ」と叫び金は要らぬと言う。
トルコの街にはいたるところに国旗が掲げられていた。国旗とともにアタチュルクの肖像画の並んでいるところもあり、乗ったタクシーの運転手が肖像画を指して何度も「アタチュルルク」「アタチュルク」を繰り返していた。
アタチュルクは現在も大変高く評価されている。彼は軍事、政治、外交の天才であった。が同時にイスラム世界における宗教革命の先駆者でもあった。ここでキリスト教とイスラム教の関係に触れたい。キリスト教とイスラム教の対立の歴史は長くしかも根深い。キリスト教ではキリストの福音と神の愛を説き、霊魂の救済と倫理道徳の涵養を使命とする。マーチン・ルターに始まる宗教改革を起して古い宗教的権威を否認し、ルネサンスの嵐を呼び起こした。これに対してイスラム教はキリスト教を敵視し、神の啓示を文書にしたためたとするコーランを国法としてそれを科学の中心に据えている。632年マホメットが最後の説教でマホメットの後に神の啓示を伝える預言者は最早出現せず、また新しい教義も生まれないと説いた。イスラム信者は今でもこれを固く信じ、アラーの神のみを正義とし、極端に教条主義的で妥協を許さず、イスラム教徒がいかなる宗教に改宗することを禁じ、信教の自由を一切認めない。キリスト教は自助努力により、時代とともに進化してきたが、イスラム教徒は現在に至るも“マホメットの時代”に住んでいるのだ。
だがこのようなイスラムの世界にも変化はあった。1870年代、数千年にわたる“後進未開”の状態を脱却して、西洋的文化や制度の導入、西洋的教育の奨励、立憲運動の推進を初めて唱えたのはアフガニスタン出身でエジプト人のエッディン(J ed Din)とエジプト知事のサイト(Said 1854 –63)である。だが彼らはイスラム教がイスラム世界の停滞の理由とはしなかった。
これに対しアタチュルクはイスラム世界の後進性はイスラム人の心の中にあるイスラム教が原因であり、これがイスラム世界の人知の発展や国家繁栄の重大阻害要因であると道破したのだ。イスラム教徒でありながらイスラム教を批判したのは彼が最初であると思う。イスラム教の支配する世界でイスラム教徒を相手にかかる発言をするのは非常に大きな勇気と覚悟を必要としたであろう。
ここでアタチュルクの生い立ちを簡単に述べたい。ムスタファ・ケマル・パシャ(Mustapha Kemal Pasha)(1881-1938)が本名である。ケマルはトルコ語で“完全”(perfection)を意味するがこれは小学校でいつも算数のテストが100点と完璧であったため先生が与えたもので、アタチュルクはこれを生涯の誇りとしていた。パシャはオスマン帝国の文武高官に与えられた称号で、軍人なら将軍というところであろう。アタチュルクは現ギリシャのサロニカの生まれで、母親は息子をイスラム教の坊主にしたいと願ったが、彼はイスラム坊主の腐敗、堕落を知悉しており、坊主よりも陸軍幼年学校から各種軍学校を経て最後は陸軍大学校を卒業するという軍人への道を選んだ。同期には後に陸軍大臣になりドイツに味方してトルコを破滅させたエンベル・パシャがいる。
1914年6月28日ボスニア州のサラエボでセルビア人青年がオーストリアの皇太子夫妻に向け放ったたった1発の砲声がわずか1カ月のうちに全ヨーロッパの戦争に発展した。第1次世界大戦である。トルコはしばらく洞ヶ峠を決め込んで戦塵外にいたが、8月30日東プロイセンに侵入した10数倍のロシア軍をドイツ軍参謀本部の鬼才ルーデンドルフがタンネンベルグで包囲粉砕した。これに幻惑された陸相のエンベル・パシャは無分別にも11月11日連合国に対して“ジハード”と称して宣戦布告したが、アタチュルクは彼のドイツ不信論から参戦に強く反対した。だが一旦戦端が開かれるとアタチュルクはダーダネルス海峡のガリポリ半島で分かれて進み、合して撃つという1点集中主義の戦術で10カ月以上も連合軍を悩まし続け最後にはこれを撤退せしめた。連合軍のこの作戦を企画したのは海相のチャーチルで彼はそのため海相の地位を追われた。後年チャーチルはアタチュルクを評し、「お前がいなかったら世界の歴史は変わっていただろう」と述べている。その軍功により彼は“首都イスタンブールとダーダネルスの救済者”と呼ばれ名を馳せることになった。
ドイツの敗北によりトルコは連合国に休戦を乞うよりほかに道なく、18年10月31日ムドロスの休戦条約が調印された。19年5月15日名目上の戦勝国であるギリシャが大ギリシャ主義に酔ってアナトリア(小アジアのこと、トルコ語でアナトリアとは東から太陽の昇る地域を意味する)の西半分を要求して西部のイズミールに侵入した。これではトルコ人の住むところがなくなってしまう。でもトルコの戦力は枯渇していたので、アタチュルクは戦力持久の方針に決した。農民にも協力を呼びかけ、ギリシャ軍の補給が伸びきった地点で果敢な反撃を試み、アンカラの北50キロ、サカルヤ(Sakarya)の会戦で大勝利を博した。その後, トルコ得意の軽騎兵隊がギリシャ軍をイズミールに追い海に落とした。ギリシャ軍5万人のうち、4万人が殺された。トルコ人はこの戦争を“トルコの独立戦争”と呼んでいる。このときアタチュルクは天敵であるソ連のレーニンともある種の協定を結んでトルコの安全を図った。なおアタチュルクはサカルヤの勝利が大変嬉しかったようで、彼の馬を“サカルヤ”と名付けた。
22年11月1日700年以上も続いたオスマントルコが正式に消滅し、23年10月29日トルコ共和国が誕生すると彼は初代の大統領に選出され、アタチュルクの称号を賜った。アタはトルコ語で「父」であり、チュルクは“Turkish”、つまりアタチュルクはトルコ人の父を意味する。彼は23年10月から死ぬまでの15年間(38年11月10日死去)深い慈悲心と鉄のような意思をもってトルコ人によるトルコの建設に邁進した。彼が目的としたのはトルコ帝国の再建ではなくて、トルコ人のためのトルコの建設だった。政教を完全に分離してこれを不磨の大典とし、宗教が国家権力や個人の公的生活に介入することを禁止し、全宗教学校を閉鎖し、公立の小学校、中学、高校を設立した。宗教省、宗教警察、宗教裁判所も廃止した。すべてのイスラム法を廃棄し、モスクの所有になる土地を没収してこれの国有化を断行した。信教の自由を認め、世襲の帝政を廃し、婦人に参政権を与え、一夫多妻制を禁じ、文字の改革も断行した。
これらはイスラム教に対する完全な反逆であり、革命であった。イスラム教はしばしば国政からベッドルームのことまで事細かに干渉、規制するといわれるが、アタチュルクはイスラム教の持つ束縛、制限、桎梏を極力排除しようとした。だが彼はイスラム教そのものを完全には否定せず、必要最低限はこれを残した。なぜなら完全に否定するとトルコ国民はバックボーンやアイデンティティーを喪失し、倫理道徳も見失って、無色透明の民族に陥る恐れがあったからだ。
アタチュルクの断行した諸革命の中でファッション革命とでも呼ぶべきものについて触れてみたい。彼は宗教と深い関係のある服装やファッションをすべて禁止した。婦人のチャドル(chador またはabayaともいう)着用を禁止した。イスラム国では今でも既婚婦人は黒か白のチャドルを着て、夫以外の他の男性にその姿を見せない。6世紀マホメットが婦人の髪はセクシーだからこれを隠せと命じた。それ以来ヘッド・スカーフで女性は髪を隠すようになったが、アタチュルクはこれの使用も禁じた。一般的に女性は自分の好きなドレスが着られないと非常な苦痛を感じるようだが、アタチュルクはこの点でも女性の解放者であった。さらにフェズと呼ばれる男性のトルコ帽の使用も禁止した。これは円筒形の帽子で赤色が多く、頭のテッペンから房の下がったものである。
今回トルコを訪問する前にこれらはすでにトルコの社会から消滅しているだろうと想像していた。ところがチャドルやヘッド・スカーフが復活しているのだ。マーケットではフェズも売られている。フェズを一つ買おうと思って値段の交渉をしたが、余りに高いことをいうので止めた。店を出るとき店員が笑顔で「ドケチ」「守銭奴」「貧乏性」などと叫んでいた。
これらは完全にアタチュルク革命への逆襲である。ヘッド・スカーフを着用する女性の比率は現在27%であると聞いたが、この比率はさらに上昇する傾向にあるらしい。女の子が8歳になったらヘッド・スカーフの着用を義務とする町も出てきた。公立学校の女生徒たちがヘッド・スカーフをしてイスラム教の歌を歌っている光景がいたるところで見られるそうである。農村の女性がヘッド・スカーフを着用するとお祈りなどに時間をとられて農業の生産性が降下し、さらに農地の荒廃に至るケースもあるそうだ。アタチュルクが“イスラム文明の裏切り者”であるとして反アタチュルク旋風が吹いているという人もいる。特にアラブ諸国がその後押しをしているらしい。以前トルコ政府はヘッド・スカーフの使用は公の場所や学校でのみ禁ずるという政策だったが2008年2月憲法を改正して大学における女性のヘッド・スカーフを容認するという方向に転換した。
トルコ政界は現在親イスラム主義と世俗主義(英語ではsecularity、日本語訳はむずかしい。よくアメリカ人は“I am a secular Christian.”と言うが、これは「教会から足の遠のいたクリスチャン」の意味だろう)または自由主義に2分されている。現首相のエルドアンは親イスラムであり、現大統領のギュルもイスラムシンパだ。ギュル夫人はヘッド・スカーフの愛用者だが、大統領府という公の場所でヘッド・スカーフを脱ぐかどうか。
トルコのイスラム回帰にEUの加盟問題が関係しているかもしれない。加盟のためには35もの交渉項目があり、そのうち8項目は現在凍結されている。一つの問題が解決されるとさらにまた別の問題(トルコ人はこれを皮肉を込めてホームワークと呼んでいる)が提起され、これが無際限に続く。結局イスラム国は加盟不可能ではないかと考え始める人が増えてきた。トルコ訪問中に見たアンカラの英字紙はEU加盟はrealityではなくてillusionになってしまったと報じている。もしEU加盟が不可能ならば当然ながらアラブ諸国に向かう傾向が出てきても不思議ではない。
トルコからの帰途ドイツで購入したHerald Tribune紙は現在トルコでは従来オフリミットであった領域にイスラム勢力が浸透しつつあり、世俗主義に大きなひずみが生じているという。公立学校でイスラム教の授業が復活し、政教分離が音を立てて崩壊しつつあるとも報じている。チャドルやヘッド・スカーフの着用者数が増加しているとも記している。同紙は最後に面白い逸話を引用している。それは次の通りだ。あるとき一人の少年が湖でボートを漕いでいた。そこに突然マホメットとアタチュルクが現れた。二人は少年に対しボートに乗せてくれと依頼した。ところが乗れる席は一つしかない。しばらく考えた後、少年はマホメットを乗せることに決めた。理由はアタチュルクには才覚があり、どんな困難にも対処しうるが、マホメットにはそのような力がないとのことだった。
一体トルコはどちらの方向に進むだろうか。トルコ国民の77%は現在の世俗主義、自由主義、民主主義を擁護しているといわれる。だがこの国にイスラム革命の起こらぬ保証はない。なぜなら77%の国民が現体制を支持していても、革命とはその歴史に照らしても明らかのように一般大衆、人民大衆が行うものではなくて、いつも少数の精鋭分子によって行われるからである。ある人はいざとなればトルコ陸軍が出てきてイスラム化を阻止するという。確かに1960年と1980年の2回にわたり陸軍が武力により阻止した。だが武力にも限界がある。強力なトルコ陸軍とはいえいつまでも同胞に対して銃口を向けられるものではないからだ。
古枯の木 歴史愛好家、ロス在住、2007年6月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして”と題して講演を行った。著書に『アメリカ意外史』『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『楽しい英語でアメリカを学ぶ』など。
全く無知の私でも引き込まれる文章でわかりやすく面白く読みました。今後どうなるのか?などと思ってしまいました。
返信削除これからは新聞を読むとき世界の動きにも注目しそうです。古枯の木さんのブログからも目が離せなくなりそうです。