2009年1月16日金曜日

裁判員制度は成功するか

裁判員制度は成功するか

                       古枯の木

 昔、オレゴン州の州都セイラムで働いていたとき、同州の元検事総長であるロバート・ソーントン氏(Robert Thornton)を知るチャンスがあった。ソーントン氏は非常な知日家で日本の法律に詳しいが同時に佐渡の金山に何度も出かけ、セイラムの町で佐渡金山についての講演会を開催したことがある。筆者もカリフォルニアのゴールドラッシュと佐渡の金採掘を比較するため佐渡金山を一度訪問したことがあるがこのとき氏が与えてくれたアドバイスが大変役に立った。氏は日本の交番制度に詳しくそれに関する著書もあるとのこと。奥さんのドロシー(Dorothy)は日本の民芸品に非常な興味を持ちたびたびその展示会も開催していた。

 ソーントン氏と一度日本の裁判員制度について議論したことがある。氏によれば日本は明治の或る時期裁判員制度を導入したものの見事に失敗したという。失敗の原因を徹底的に追究したところ次の2つの結論に達した。

1. 裁判員制度の下で人は`“reasonable men”(日本では“普通の人”と訳されているが、適訳ではないと思う)でなければならないが、日本人は被告や犯人を憎む性癖が大変強く、とても普通の人にはなれない。
2. 日本人には親に対する子の道徳など相対的な道徳はあるが、欧米人の持つ人間の人間たる絶対的道徳はない。普遍的価値観や確固たる倫理観が欠如し、“個”が未だ確立していない。このような未熟な個が果たして自分の意見を持ち、その意見を裁判所で発表できるだろうか。また日本人は法の正義の実現の意欲に欠ける。

氏は日本人の性情や価値観が大きく変化しない限り、今回新しく導入される裁判員制度は上述の理由から失敗するだろうと予測していた。

裁判員制度に似たものにアメリカでは陪審員制度(Jury System)がある。西洋社会では陪審員制度は極めて古い歴史をもつ。紀元前5世紀の中ごろ、アテネ市民は立法に参与したが、さらにその力を司法の民主化にまで進めた。これが陪審制度の嚆矢である。中世のイギリスでは、国王が司法の分野にまで干渉したり、裁判官が国王の気に入る判決を出さない限り裁判官が何度も裁判のやり直しを命じられたことがある。人々は陪審制度の必要性を痛感し、司法の民主化の旗印のもと、この制度は西洋文明に定着していった。

陪審員は事実審理(finding of fact)のみを行う。例えば殺人事件のとき犯人に殺意があったかどうかの事実の認定のみを行い、法の解釈や適用の分野にまで立ち入らない。その事実認定は終局的である。Common law上のあらゆる訴訟に参加でき、訴訟金額も$20.00以上とされている。陪審員が下す評決(verdict)の前に、裁判官は陪審員にどうすべきかの説示(instruction)は行うものの原則的には何もしない。このように陪審員は裁判で極めて大きな役割を果たす。したがって陪審員はソートン氏か強調するように一時の感情に支配されず円満な常識をもつreasonable menでなければならないだろう。

歴史的背景もなく、ただ上から与えられた裁判員制度が果たして日本で育つであろうか。人間の持つ本性や道徳がそんなに簡単には変わらぬとすればソーントン氏が言ったように日本での実験は失敗に終わるかも知れない。さらに日本でも必ず裁判員忌避の問題が発生するだろう。陪審制度はアメリカでは建国以来存在するが陪審員を集めることは今も昔も容易ではない。カリフォルニアのゴールドラッシュに来た鉱夫たちが陪審員召喚を忌避するための面白い話が山とある。筆者の知人の中でも1人を除き誰もその召喚に応じていない。陪審員たちは裁判所外で友人、知人と事件について話すことを禁じられており、テレビ報道を見ないように命ぜられたり、また長期間ホテルに缶詰になることもある。

不当な陪審忌避に対しカリフォルニア州では、$1,500までの罰金が科せられる。それでも召喚に応ずる者の率はわずか5%である。日当はたったの$12.00.しかも自分の車で出頭しなければならない。応ずるのは女性と失業者が圧倒的に多い。会社に忠実な?日本のサラリーマンが果たして召喚に応ずるであろうか。

さらにアメリカでは最近陪審制度そのものに対する欠陥が指摘されるようになった。この契機になったのはO.J.シンプソン事件である。これは1994年元フットボールの有名選手であったシンプソンが前妻の二コール・ブラウンを殺害したもの。明らかに有罪であったものが何らかの圧力により無罪になってしまったのである。また陪審員が原告と被告の双方を信用できないので評決を下せぬとの苦情も多い。

日本の裁判所における判決をチェックしていると常識にひどく欠ける裁判官の存在することが分かる。このような裁判官に裁かれる日本人は禍なるかなである。このような日本の実情に鑑みて司法の民主化は絶対に必要であろう。だが裁判員制度の導入の前に、日本は欧米の陪審制度を他山の石としてもっと研究すべきではなかったかと考える。また日本では司法試験にパスし、司法修習生の研修を終えた者がほぼ生涯、弁護士、検察官、裁判官へと分かれて進む。ところがアメリカでは弁護士として実社会の経験を積んだ者が裁判官への道を進む。日本でも裁判員制度の実施の前にアメリカと同じような制度の導入を検討したらいいと思うが。

古枯の木、歴史愛好家。在米35年。著書に『アメリカ意外史』『楽しい英語でアメリカを学ぶ』など。

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