リンカーンとケネディーの類似点
古枯の木
ロス郊外のブエナパークという町にKnott’s Berry Farmという遊園地がある。もともとこの遊園地はカリフォルニアのゴールドラッシュの時に繁栄し、後にゴーストタウンと化した町にあった学校、消防署、教会、バーなどを集めて展示したものだが、それ以外にアメリカ東部のフィラデルフィアにある独立記念館のレプリカも置かれている。この館内では1776年7月4日の独立宣言を見ることができる。独立宣言を起草したのは後にアメリカ第3代大統領になるThomas Jeffersonであったため誰も彼が最初にこの宣言に署名するものと期待していた。ところが当日John Hancock(1739-93)が最初にサインしてしまい、しかも中央に大書したのだ。この大書されたサインを宣言文書の中にはっきり見ることができる。余談ながらそれ以降“Put your John Hancock.”と言うと、それは「サインをください」の意味であることはわがエッセイ『英語のむずかしさ』の中で述べた。独立宣言は7月2日に議会を通過したが、この夜の会議の模様が人形やマイクを通じて実に巧妙に再現されている。
この記念館には独立宣言以外の米国史上重要な文書や独立の時打ち鳴らされたひび割れのある自由の鐘(Liberty Bell)が展示されている。有名になった大統領の業績の説明もなされている。筆者が日本からの来訪者をたびたびこの記念館に連れて行くものだから、係りのおばさんが小生を覚えていてあるときアメリカの歴代大統領の中で誰が好きかと訊いてきた。そこですぐ「奴隷を解放したリンカーンと排日法の撤廃を含め日系人の地位の向上に尽力してくれたケネディーが好きだ」と回答したところ大きく頷きにっこりと笑った。
一旦事務所に入ったが出てくると面白ものを見せてやるという。それはリンカーンとケネディーの類似点を書いた巻物だった。驚くほど類似点はたくさんあったが主なものだけを次に箇条書きしたい
1. リンカーンは1860年に、ケネディーは1960年に大統領に選ばれた。
2. 両者とも金曜日にワイフの面前で射殺された。
3. 両者とも後ろから頭を射抜かれた。
4. 両者の後継者はいずれもJohnsonで、両Johnsonとも南部選出の上院議員。
5. Andrew Johnson(リンカーンの後継者)は1808年、Lyndon Johnson(ケネディーの後継者)は1908年の生まれ。
6. リンカーンを射殺したJohn Wilkes Boothは1839年、ケネディーを射殺したLee Harvey Ozwaldは1939年の生まれ。
7. BoothもOzwaldも南部出身者。
8. リンカーンの秘書はケネディーでリンカーンにフォード劇場に行くなと忠告した。
9. ケネディーの秘書はリンカーンでケネディーにダラスに行くなと忠告した
10.Boothはリンカーンを劇場で射殺した後、倉庫に逃げ込んだ。
11.Ozwaldはケネディーを倉庫から撃ち、劇場に逃げ込んだ。
12.リンカーンとケネディーの名前は7レター(字)からなる。
13.Andrew Johnson とLyndon Johnsonの名前はそれぞれ13レターからなる。
14. John Wilkes BoothとLee Harvey Ozwaldの名前はそれぞれ15レターからなる。
以上述べたことはすべてまったくの偶然であろうが面白い。確実性を期すため家の近くにあるパーロスベルデス図書館に行き、可能な限り類似点のverificationを行った。上述のことはどうも本当のようである。
両者とも国民の基本的人権の確保や人種差別問題の撤廃に最大限の努力をした。リンカーンは奴隷解放を敢行するとともに兄弟戦争である南北戦争とその後の国家統一に努力した。ケネディーはキューバ危機に際して異常なほどの精力、能力を発揮してソ連の脅威からアメリカを救った。彼がホワイトハウスの窓際で1人聖書を開いて神に祈る写真をアメリカ人の友人から見せてもらったことがある。恐らく神の託宣(英語ではこれをmanifest destinyという)を求めていたのだろう。極めて印象深い写真だった。
アメリカの歴史学者の中にリンカーンとケネディーはアメリカの生存と価値が危殆に瀕したという決定的瞬間に決定的役割を果たした偉大な大統領であると賞賛する人がいる。同感である。だが同時に両者に共通するなにか運命的、悲劇的なものを感ぜざるをえない。
(古枯の木 歴史愛好家、在米35年以上、著書に『アメリカ意外史』など)
0 件のコメント:
コメントを投稿