2009年1月30日金曜日

アメリカドッキリ物語 4

アメリカ・ドッキリ物語 (4)

                    古枯の木

帝国海軍はチキンだった

 まだ現役で働いていた30代後半頃の話である。ニューメキシコ州のアルバカーキーに出張した。目的は新たに任命した代理店との間に代理店契約を締結することだった。事前の調査によりその代理店のCEOが米海軍の元提督であることが分かっていた。会ったその提督は眼光鋭く、小柄ながらしっかりと引き締まった体をしており、全身精気に満ち溢れ若々しかった。代理店契約書について2-3質問を受けた後、サインしてくれランチに招待された。

 ランチがほぼ終わったとき、筆者から帝国海軍の戦いぶりについて彼の意見を求めた。こちらとしては、帝国海軍が劣悪な条件下にあっても善戦したとの回答ぐらいが返ってくることを期待していた。だがその期待はまったく裏切られた。彼は帝国海軍がチキンだと言ったのだ。チキンとは臆病者を意味する。勇敢なる帝国海軍を信じていた筆者にはこれはドッキリだった。チキンであったことの具体例をいろいろ説明してくれたが、あと一押しすれば完勝できたものをねばりがなく早々に引き揚げてしまったと言う。以下に述べる3つの例が今も強く印象に残っている。

 真珠湾攻撃のとき帝国海軍は旧型の戦艦5隻を沈没させさらに13隻に損傷を与えたが真珠湾に隣接する巨大な石油貯蔵庫、潜水艦基地、海軍工廠、艦船修理所などは無傷だった。さらに近くの海域にいた敵の正式航空母艦4隻の索敵さえも実施せずにサット引き揚げた。この貪欲なきあっさりした行為が提督にはチキンと映ったらしい。一方帝国海軍に言わせれば深追いしないのがその伝統であるということになるであろうが。

 第2の指摘は帝国海軍が持てるものを臆病のため最大限利用しなかったことである。帝国海軍は戦艦大和と武蔵をトラック島の泊地に繋留していた。この2戦艦が水兵のホテル代わりに利用されていたことを米海軍は知っており、これらの戦艦を大和ホテール、武蔵リョカンと呼んでいた。大鑑巨砲の時代が去り、航空兵力中心の時代であったが、これら戦艦を艦隊決戦用ではなく、コンボイ(輸送船団)の護送に使用していれば相当の戦果を挙げられたはずであるとの説明だった。最高速度が20ノットという足の遅い戦艦だったが、輸送船の速度もそれぐらいだった。彼によれば臆病風に吹かれてこれら2戦艦をみすみす無意味に温存したことになる。乾坤一擲の勝負に出ようとするアメリカとあくまで艦隊保全主義を信奉する山本の連合艦隊では勝敗は戦う前から明らかであったかもしれない。因みにドイツ民族の最大のプライドであった戦艦ビスマルクは艦隊決戦用ではなくて,敵のコンボイ撃滅用の戦艦だった。ドイツ贔屓の日本帝国がなぜドイツに学ばなかったのか不思議に思う。

 なお余談ながらアメリカ海軍は山本五十六がトッラク島にいることを知っていた。山本を殺すべきか生かしておくべきかが一時米海軍部内で議論の対象になったと聞いた。生かしておくべき理由は連合国の早期講和の呼びかけに応じられる者が彼以外にいなかったためである。そのインテリジェンスと深謀遠慮にはまたもドッキリした。

 また発想を転換して戦艦郡を艦隊決戦用ではなくてアメリカ陸軍基地の砲撃に使用したならば相当の効果を挙げえたはずであるとも彼は述べた。発想の転換ができないのもチキンであることの証拠か。

 最後の例はレイテ湾の栗田艦隊である。1944秋、フィッリッピンのシブヤン海に進撃した栗田艦隊が1週間前にレイテ湾で荷揚げ作業を始めたマッカーサーの輸送船団を2-3時間の眼前に見ながらこれを攻撃せず、栗田の臆病のため反転北上した事実である。後に栗田はそのとき余りにも疲れていたと説明している。滅多に訪れないチャンスを疲れのために生かせぬようではチキンということになるかもしれない。

 彼の説明した上記3例が果たして帝国海軍の臆病のためだったのかまたは別に戦略上の理由があったかは定かでない。でも帝国海軍が千載一遇の好機を逸したことは間違いなかろう。

古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『アメリカ意外史』など)

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