2009年1月16日金曜日

渡米時の思い出

渡米時の思い出

                       古枯の木

 筆者がはじめてアメリカの土を踏んだのは1967年1月21日午後4時ごろである。ある会社の駐在員としてである。当時、東京―ロス間の直行便はなく、羽田からハワイ経由。ホノルルでは乗降客全員が首にレイをかけてもらい、ジュースを振舞われた。ロス空港の税関吏は親切だった。戦争中、アメリカ人は鬼畜だと教えられていたので随分親切な鬼畜もいるものだと感心した。それ以来1970年代後半の5年間を除き今年でちょうどアメリカに35年も住んだことになる。ここで渡米時のことを振り返ってみたい。

 ロス空港から南東15マイルに位置するトーレンスの町に向かうフリーウエイを走る車のスピードには度肝を抜かれた。日本では当時名神高速道路の一部が開通したばかりで、筆者に高速道路をドライブする経験はなかった。日本では女性ドライバーの数はまだ僅少だったが、アメリカ人女性の多さは驚きだった。

 その夜、会社が手配しておいてくれたアパートに落ち着いたが、アパートの部屋の大きいこと、清潔なこと、水道から湯の出ること、さらにプール付きであることはナイス・サプライズだった。子供は1歳と3歳だったが、プールが珍しいのでその周りを「歩く、歩く」と叫びながら夜遅くまではしゃいでいた。

当時、日本製の自動車は日産の小型トラックが少し売れている程度だった。乗用車ではトヨタはコロナという車1車種のみを販売していたが、この車はほとんど街で見かけなかった。はじめてこれを見たとき思わず「コロナ、お前英語が分かるのか」と叫びたいような衝動にかられた。交通信号で待つとき、トヨタの車を発見するとお互いにクラクションを鳴らして手を振った。筆者が渡米したときはそうではなかったが、その1-2年前までは、サービス部の電話が鳴るとまたお客からの苦情かと社全体に緊張が走ったと聞いていた。

日本の企業に比較してアメリカの企業は非生産的な仕事が極めて少なく、上下の関係が大変オープンで、従業員は皆大人であり気持ち良く働けた。新入社員に行儀作法を教える必要などごうもなく、日本的形式主義はどこにもなかった。そのため渡米6カ月目にしてアメリカ永住を決意した。そのための第一歩として庭付きの家が欲しいと思って捜したところ北トーレンスに適当な家があった。2ベッドルームで価格は1万9千ドル、頭金9百ドル。買ってから2世の人に話したら、「よくトーレンスで家が買えたね」と言って驚いていた。当時、トーレンスは“Sun Down City”と呼ばれ太陽が沈んだら白色人種以外のあらゆる人種は出て行けといわれた町だったらしい。筆者の知人の黒人が夜間トーレンスでドライブしていたら、警官から「ニガー(黒人の蔑称)は早く出て行け」と言われたそうである。

 渡米当時、日本では名古屋から東京へ電話するのに市外電話といって申し込んでからつながるのに30分以上を要した。ところがロスからワシントンD.C.まで直通である。しかも日本に比較してその料金が格段に安いのには驚いた。そのころまだファックスはなく、いつも夕方になると日本本社にテレックスを打っていた。

 日本にいるとき、筆者の書いた英文の手紙をチェックできる上司はいなかった。いつもフリーパス。ところがアメリカに来で書いた手紙は最初から最後までアメリカ人によって赤鉛筆で徹底的に添削された。この添削の記録は今でももっており、個人の貴重なアセットだ。発音もいろいろ矯正してもらった。でもこれはホープレス。ある言語学者は日本人の舌は日本語の単純な発音のために退化してしまったと述べているが、これは本当かも知れない。

一世や二世から人種差別の話をいろいろ聞いた。プールに行ったら水が黄色になるから入るなと言われたこと、白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントをもって出かけたところ、その母親から「ここはお前ら黄色人種の来るところではない。プレゼントをもってすぐ帰れ」と追い返されたこと、戦後シカゴに住んでいたある日系老人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアプのためロングビーチまで車で来たが途中彼にベッドを提供するモテルは一つもなかったことなど、このような話は枚挙にいとまが無い。筆者に人種差別を受けたことがあるかと訊かれたら、なかったと言えばそれは嘘になろう。

当時、円とドルの交換比率は1ドル360円だった。日本を出るとき日本の法律では日本人はドルを100ドルまでしか持てない、それ以上のドルは円に換えることが義務付けられていると人事部の人から告げられた。ドルは大変貴重でダウンタウンへ行けば1ドルは380円にもなった。ロングビーチの闇市では400円だったそうだ。筆者はドルを日本のために稼ぐ企業戦士の覚悟で渡米した。車が1台売れるとこれで日本に何ドル落ちるかとほくそえんだものだ。アメリカで働くのはドルを稼ぐためとほとんどの駐在員が考えていたと思う。だがすべてに移ろいやすいのは世の常である。その後ドルを稼ぐのが罪悪であるかのように見做されることと相成った。

9年前にリタイアーし今は日米間を行き来したり、ロスを基点に世界各地を旅行している。調査したいことはまだ山とある。だが馬齢を重ねて74歳となり手持ち時間は少ない。一橋大学の同窓会報である如水会報7月号によれば故城山三郎の最後の言葉は「一日即一生」であったらしい。一時間、一日を大切にして力強く生きていきたい。
古枯の木― 歴史愛好家。本年5月トルコ旅行のあと6月ロスの近現代史研究会で「トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして」と題して講演をおこなった。


 

2 件のコメント:

  1. 当時の渡米は、想像を超えるほどの驚きの連続だったんでしょうね。6ヶ月で永住を決めたkokonokiさんの勇気や好奇心も素晴らしいと思います。 また渡米時のお話詳しく知りたいと思います。

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  2. もっともっと読みたいです。渡米時のエピソード教えてください。そのころ高校生だった私にはアメリカは映画やテレビで見る憧れの国でした。自分から希望して行かれたのでしょうか?苦労話を聞きたいです。

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