2009年11月25日水曜日

ノモンハン事件

皆さん                        2009年11月24日
 古枯の木は12月17日トーレンスの倫理研究所で午後7時から9時まで“ノモンハン事件”について講義します。ノモンハン事件は1939年5月11日早朝、モンゴル、ソ連連合軍が旧満州の日本軍を攻撃することから始まります。日本軍は至るところで惨敗を喫しますが、古枯の木は次の4項目について詳細に説明します。
1. なぜソ連軍は日本軍を攻撃したか。
2. ソ連軍が圧勝したが、彼らの戦術は。
3. 日本の大敗に誰が責任を負うべきか。
4. この事件は陸軍近代化への警鐘であったがなぜ無視したのか。

 時間と興味のある方はぜひおいでください。

古枯の木

2009年9月28日月曜日

癒着体質の日本社会

癒着体質の日本社会

 最近、1939年5月11日(12日との説もある)に始まったノモンハン事件の研究、調査をしている。この事件で近代化の遅れた日本陸軍はソ連戦車部隊により大打撃を受け、大敗北を喫した。日本陸軍の責任者は関東軍作戦参謀の服部卓四郎と作戦主任の辻政信。事件は8月いっぱいでほぼ終わり、9月15日、後にソ連の国防相となるジュウコフ中将との間に停戦協定が結ばれた。40年1月“ノモンハン事件研究委員会”が設置され、春ごろ報告書が完成した。ところがこれが発表されるまえに要点はぼかされ、真実は曲げられ、余計な文章が挿入されて精神主義を強調したおかしなものになってしまった。おそらく委員会のメンバーと服部や辻を助けたいと思うグループが癒着した結果であろう。
 2005年の尼崎JR線脱線事故で国土交通事故調査委員会が最終報告案を守秘義務に違反して正式発表まえに一部の関係者に漏らしていた。最終報告書が改ざんされたか、または余分な文章が入れられたかは未だ定かではないが、委員会と一部関係者の間には公共の利益を無視してお互いに助けたいという癒着の念が存在したのであろう。
 日本の社会や日本人の精神構造はノモンハン事件のころから余り進歩していないように思われる。

古枯の木――2009年9月27日

核なき世界への決議

核なき世界への決議

 2009年9月24日国連の安全保障理事会で各国首脳たちの全会一致で“核兵器のない世界”の実現への決議がなされた。オバマ大統領は歴史的な決議であると自画自賛し、鳩山首相はこれを核軍拡の連鎖を断ち切る道だと賛美した。
 この決議は古枯の木によれば世界最大の核保有国であるアメリカが国連という宣伝の場を利用して行った大宣伝、大芝居に過ぎぬ。冷戦を何年続けても核問題は少しも解決されなかった。これが一片の決議で解決されるわけがない。核の廃絶を叫ぶのは単なるイデーの繰り返しで別に目新しいことではない。大体核の廃絶などという最大極限のものはいつも無害のものである。
 平和の宣伝はもともとアングロサクソンの18番であった。彼らはこれにより世界の国々を抑えてきた。一方、ロシアもこの点ではときに外交の天才性を発揮する。とくに彼の軍事力が強大なときcomplete disarmament を主張してきた。これはロシアの伝統であり、外交史上有名な事例が3件ある。第1回目は1899年の第1回ハーグ平和会議のときでニコラス2世がcomplete disarmament を提唱した。第2回目は1927年の国際連盟総会でリトビノフ外相が“世界は一つ、平和は一つ”と叫んで完全軍縮を提起した。これは“Litovinoff general disarmament” として有名である。第3回目は1959年9月19日で、このときソ連は軍事力で世界第一と目されていた。フルシチョフが国連総会で原爆の全廃を含むcomplete disarmamentを持ち出し、アイゼンハワーやマクミランの顔色無からしめた。
 今回メドベージェフに先を越されることを恐れたオバマが軍事力の世界最強の現在、無用、無害な決議を提起し宣伝効果の大きな大芝居(propaganda mountain)を打ったのだ。オバマが宣伝戦でロシアに勝ったと言い得る。
古枯の木――2009円9月27日

2009年9月21日月曜日

CMと日航は同じ穴の狢

GMと日航は同じ穴の狢(むじな)

 GMの労働組合が極めて貪欲で傲岸不遜、経営のことにまで干渉していたことはつとに知られている。退職者の膨大なベネフィットがGM破産の大きな原因だった。一方、日航の社員が在職中手厚く庇護され、退職後のベネフィットがダントツであることは周知の事実である。
 古枯の木の知り合いの娘さんは日航のフライト・アテンダントだった。すばらしい会社の社宅に住み、アラブの女王のような生活をしていたという。空港へ出勤するのはすべてタクシーで電車に乗ったことはなかったそうだ。洗濯ものは箱に入れさえすればすべて無料でやってくれた。たびたび飛行機に乗って、札幌までラーメン一杯を食べに行った。そのころ貧乏人がバカに見えてしかたなかったという。
 こんなに社員を甘やかした会社は必ず破綻を来たす。日航の西松社長が日航の再建計画なるものを示したが、それは6,800人の従業員の削減と大幅な路線の縮小のみで社員のベネフィットの再検討には触れていない。鳩山新政権の前原国土交通相が日航の有識者のメンバーを切り替えると言っているがこれはいいことだ。
 もし日本人社長がベネフィットの削減を打ち出せないならば、日産の場合と同様外部の力に頼らざるを得ない。デルタ航空やアメリカン航空から人を得て彼にやらせるのがいい。古枯の木は昔アメリカで会社を経営していたとき、日本の本社の抵抗が強いと判断した場合は必ず白人を立てて日本本社の抵抗を排除しようとした。白人はプレゼンテイションがうまいし、日本人は白人に極度に弱いからだ
 日航がこの手法を用いて白人を利用すれば労働組合は屈服し会社の再建が成るかもしれない。それは同時に今まで貧乏人をバカにしてきた者への因果応報でもある。

古枯の木――2009年9月19日記す。

2009年9月16日水曜日

対等な日米関係など論外

対等な日米関係など論外

 民主党の鳩山代表がその政権公約で対等な日米関係を打ち出した。ではそれは本当に実現可能か。結論から先に言えばそれはドンキホーテ的公約であり、絵に描いた餅に過ぎぬ。実力関係から不可能である。鳩山氏は日本がアメリカによって守られているという事実を忘れているのか。また鳩山は対等な日米関係を提唱しないと自己の地位を失うかもしれないと恐れているか。
 “自ら防守しないものはすべて略奪される”というのは国際政治の鉄則である。日本に充分な防衛力のないときに、戦後日本の平和が維持されたのはアメリカ軍のプレゼンスのおかげだ。日本が核武装をし、充分な防衛力を保持し、真に自主独立の国になったときに対等な日米関係が実現するかもしれない。
 もし古枯の木が鳩山だったら対米関係では安保条約と地位協定の改定を政権公約に掲げる。安保条約には条約という名称が付されているが、じつは無制限にアメリカに対し、基地と駐兵権を与えた一方通行のものだ。わが国が提供する基地は具体的になるべく少数に限定すべきだ。基地の施設や使用は、NATOにおける英仏と同じく, 日米両国の共同管理、共同使用に服しなければならない。現行のようにアメリカの単独管理、単独使用の権利は排除されるべきだ。
 駐兵権については軍隊の量を制限するのが望ましい。また装備に関しては協議の義務を規定するのが理の当然である。核はわが国の生存および安全に至大の関係あるものであるからその持込、使用、移動などは協議事項としなければならない。
 日本の無条件降伏に対する最大の権利が安保条約と地位協定だった。軍隊の持つ機動性と機密性からこれら条約の改定は決して容易なことはないが、なるべく上記の線に近いところで改定するのが望ましい。

古枯の木――2009年9月15日記す。

2009年9月14日月曜日

訪日の楽しみ

訪日の楽しみ

 古枯の木は10月11日から約3週間訪日する。今まで日本では戦史に関係する場所を訪問する機会が多かったが、山本五十六の講演会も終わったので今回は趣をがらりと変えて世界遺産の一つである島根県の石見銀山と青森県の日本海側にある保養地ウエスパ椿山を訪問することにした。
 かくするうち日本在住の友人から連絡があり、自宅で山本五十六の手紙が発見されたので見に来ないかと伝えてきた。彼の父君は戦前に東大を卒業し、直ちにプリンストン大学に学んだエンジニアーだ。五十六はアメリカ在勤中、彼の才能を見出し、海軍に入隊するよう要請した。友人が発見した五十六の手紙とはこの要請ためのものである。彼の父君はこの手紙に痛く感動し、海軍大尉の階級で海軍に入隊した。五十六に従ってロンドンの軍縮会議に参加し、敗戦まで海軍に奉職したとのこと。
 もちろん友人には必ず行くから五十六の手紙を見せて欲しいと依頼した。これで訪日の楽しみが一つ増えたことになる。

古枯の木――2009年9月13日記す。
1.

2009年9月10日木曜日

契約と条約

契約と条約

 一国内の契約についてはおそらくすべての人々はこれを遵守すべきと考えているだろう。では国際間の条約についてはどうか。日本人は条約と契約を同一の次元で捉えて条約は契約と同じく律儀に守るべきものと考えている。では欧米人はどうか。彼らは条約をどのように考えているのだろうか。契約と条約は別物であるとみなしていないだろうか。
 欧米諸国は自分に都合のよいときは条約を守る。ところが一旦都合が悪くなると弊履のごとく履き捨てる。これは外交史上実証できる。そのためある人は条約当事者は所詮同床異夢であると喝破した。では条約に対して何が優先するのか。思うにそれは国益(national interest)である。
 条約に対処する方法につき欧米諸国の間でも違いが生ずる。アングロサクソンは偽善的紳士であるため条約の廃棄にはある種の限度がある。一方ロシアは野武士的、労働者的であるためなんでもできる。ロシア史は実に破約の歴史である。
 1945年8月7日ソ連が1946年4月13日まで有効期間のある日ソ中立条約を破って旧満州に侵入した。でも欧米の学者はこれを大きな問題として取り上げない。“ソ連は日本に対して復讐した”と簡単に片付けている書物が多い。ソ連侵略のとき、ソ連とソ連の友好を信用しなかったモスクワ駐在の佐藤尚武大使は直ちにソ連の参戦に抗議したが、ソ連は中立条約の侵犯については触れず“汝をを救わんがために、汝を殺す”という冷酷無比のロジックで回答してきた。
 国際社会と国内社会の基本的相違は何であろうか。思うにそれは誰が万能であるかの相違であろう、国内社会ではそれを構成する各メンバーは無力であり、国家が万能である。一方国際社会ではそのメンバーである各国家が万能であり、国際社会そのものは極めて無力である。それが証拠に、かつてドイツは全世界を敵に回して2度まで戦いを挑んだ。1991年フセインのイラクは全欧米を相手に一人で戦った。そのため国際社会は国内社会に比較して発展の度合いが低く、自然状態に近く、法治社会以前の後進未開の状態にあると言い得る。条約とはそのような社会の法的産物である。
 日米間には安保条約があり、日本人は一旦ことあるときはアメリカが日本を守ってくれると信じているがアメリカか日本を守る保障はどこにもない。具体的にもし北朝鮮がわが国を攻撃してきたとき、アメリカは日本を守るだろうか。それはアメリカがリスクと国益を比較し、利益あると判断したときのみ日本を助ける。日本を助けるに当たって一番大きな課題は中朝間の同盟条約であり、アメリカは中国との戦争を覚悟してまで日本に肩入れはせぬだろう。
古枯の木――2009年9月9日記す。

2009年9月3日木曜日

民主党の圧勝に思う

民主党の圧勝に思う

 自民党はここ10年ぐらい小泉純一郎の場合を除いて影武者たちが弱い総理を擁立して自由にこれを操作し、票田に金をばら撒いて議員席の確保のみに注力し、国の安全や国民の福祉をおろそかにしてきた。今回の衆議院選挙で民主党が308議席を獲得し大勝したが自民党にとりその敗北は因果応報である。
 そもそも政党とは政権獲得会社であり、もし配当がなければ株主は直ちに雲散霧消してしまう。しかもオバマ大統領のように素早くやらねばならぬ。さらに日本の政党は真の意味の政党ではなくてfactionに過ぎぬ。もたもたしていると烏合の衆である民主党そのものが瓦解してしまう。
 鳩山総理候補に望むことは民主党が天下の公党として日本民族の運命を背負っており、民族の利益を増大させるという気概を持ってほしいということである。影武者を寄せ付けず、いつも公明正大に大所高所から建設的なpolicy making, decision making をなすことが必要である。
 政治とは生存競争の表れであり、生存競争には絶対に力が必要である。308議席という力をフルに利用すべきである。わずかな議員しか持たぬ福島みずほの社民党、亀井静香の国民新党、志位和夫の共産党などは黙殺すればよい。つまらぬ相手に大騒ぎするから相手が図に乗って第一党や第二党のような振る舞いをする。連立政権の下らぬ夢は忘れるべきだ。
 四日市市に住む日本の友人が最近発表された鳩山論文を送ってくれた。これは全くの正論であり、自民党の細田幹事長がなぜ非難したのか理解できない。この論文に対してアメリカのジャーナリズムは鳩山はグローバリゼーションや市場原理主義に反対であるとかアジアに軸足を移さんとする日本の外交政策は危険であるとかコメントしている。またたとえアジア共同体ができても日米関係の維持強化を望むとも述べている。いつまでも、どこまでもアメリカに追従してくると思っていたアメリカ政府にとり鳩山論文は驚きというよりは意外の念を持って受けとられたのだろう。
 グローバリゼイションの目的は私見では市場の狭隘化に対する対症療法と石油を含む資源の独占を意味した。一国の総理大臣がこれを批判するのは当然の権利である。またアジアの一国としてアジアを重視することも理の当然である。過去に記者団から日本の進むべき方向について質問を受けると、“適切に判断する”という総理が多かった。総理たる者は得るところと失うところのいずれが大きいかをよく斟酌し、ときには“日本はその国益の命ずるところに従って行動する”と言ったらどうか。
 さらにアメリカのジャーナリズムはゲイツ国防長官を含むアメリカの要人数人が近く鳩山に会うため日本を訪問すると伝えている。こんなことはいままでに決してなかったことであり、アメリカの力の衰退を感じる。
 外交史上有名な格言がある。それは“アレクサンダー、それは夢であり、ナポレオン、それは行動である”である。アレクサンダーとは1821年、アラスカとカリフォルニアの領有宣言を発した夢多きロシアのアレクサンダー1世を意味する。鳩山総理候補にとり政権公約は一種の夢であったろうが今後はチェンジに向け果敢な行動を起こしてもらいたい。
 敗戦後、日本の平和が保たれたのは、アメリカに負んぶしてきたからだ。平和憲法のためではない。もしアメリカの核の傘を脱したら、たちまち真空地帯が生じ、中国、北朝鮮、韓国に日本の領土の全部または一部が狙われてしまう。安保条約があってもアメリカが日本を守るという確約はない。同盟関係を維持しつつ、この点についてにのアメリカのコミットメントを得ることが肝要だ。もちろん国力の差からアメリカとの対等な関係はドダイ無理で、ある程度従わざるをえないと考える。
 安保条約は日本に領土公権があることを承認するもアメリカは租借地を自由にいくらでも得ることができる。地位協定は全く不平等条約の典型だ。NATOでは英仏は共同使用権としてアメリカに基地を提供している。日本は早急にNATO並みにその改定を求めるべきだ。
 最後に鳩山総理候補は祖父鳩山一郎の友愛精神を説くが、1929-34年のロンドン軍縮会議の頃、海軍の対米強硬派の加藤寛治、末次信正の尻馬に乗って犬飼毅とともに日本を軍国主義の方向に追いやった張本人の一人であることを付け加えておく。
古枯の木――2009年9月2日記す。

2009年9月2日水曜日

人種の坩堝

人種の坩堝(るつぼ)

 アメリカは一般的には多種多様な民族の混在する人種の坩堝であるといわれている。でも本当に人種の坩堝であろううか。坩堝というからにはすべてのものが混合、融和していなければならないが、本当に融和しているだろうか。アメリカ人ジャーナリストで歴史学者でもあるMichael Lindはその著書“The Next American Nation” の中でアメリカは過去に3度革命を経験し、今さらに4度目の革命に入りつつあると強調する。第1のものは独立時のアングロアメリカン革命、第2番目のものはドイツ、イギリスから多数の移民がやって来、アメリカが第一次大戦に参戦するユーロアメリカ革命、3番目のものは多種の文化が混在するマルタイ・カルチャー革命、そして最後のものがいま経験しつつある全アメリカ的坩堝革命(Trans-American Melting Pot)だという。

 Lindは5族(アングロサクソン、黒人、ラティーノ、インディアンそしてアジア人)が共存共栄し、人種の坩堝の中で新しい社会的そして政治的秩序を形成しつつあるという。そして彼はこの現象を人種偏見のないリベラルなナショナリストの革命だと説明する。だが本当にこの社会は5族が協和し人種の坩堝をなしているだろうか。
 
 古枯の木は人智はそこまでは発達していないと思う。各種族は自分たちの伝統、文化、言語、宗教を墨守し、容易に他種族と交わろうとしない。このような現実に逢着して、あるアメリカの識者はアメリカは人種の坩堝からは遥かに遠く、ブイヤベース(bouillabaisse)の社会を形成しているに過ぎないと喝破した。ブイヤベースはフランス料理の一種で白身の魚、いか、貝などの海の食材と玉ねぎ、セロリ、トマトなど陸の食材に香辛料としてサフランを加えたごちゃ煮のスープ。ごちゃ煮ではあっても各食材は崩れず原型を留めている。現在のアメリカはmelting potではなくて、せいぜいブイヤベース程度かもしれない。

古枯の木――2009

2009年8月20日木曜日

共同声明の意味について

共同声明の意味について

 最近オバマ大統領が就任後初めてロシアを訪れ、メドベージェフ大統領と会談を行った。彼らの主たる目的は今年12月に失効する第1次戦略兵器削減条約(START 1)に代わる新核軍縮条約について話し合うことで、その結果共同声明が発表された。
 日本人はこの共同声明に狂喜した。核軍縮がこれにより急速に進むかのようなイリュージョンを持った。ナイーブな日本の学者の中には世界唯一の被爆国として核軍縮や非核化に日本は主導的役割を果たすべきなどと言い出した。これはドンキホーテ式の空論である。なぜなら軍備弱小な国が世界軍縮史上主導的役割を果たしたことなどは一度もないからだ。
 大体共同コミュニケなどというものは余り意味がなく、しかも無害のものが多い。さらにそれにはイデオロギーが含まれている。ベーコンはかつてイデオロギーを欺瞞の意味に用いた。すぐにでも実現するかのように見せかけて世の善男善女を騙すのがイデオロギーであり、宗教の念仏と同じである。そもそもすべての宗教は欺瞞であり、ありもしないことを堂々とあるかのように述べる。でも反対に欺瞞は人間の安心立命のためには必要であるかもしれぬ。
 共同コミュニケは当事者の政治的利益を擁護するための思想的武器に過ぎぬ。こんなものに長時間をかけ、余り真剣に議論するのは時間とエネルギーの浪費である。国際政治学の基礎概念はやはりPowerとNational Interest であることを片時も忘れてはならない。

古枯の木――2009年8月19日記す。

2009年8月16日日曜日

一冊の本

一冊の本

 慶応大学の学長であった小泉信三博士(1888-1966)はかつて“トルストイの戦争と平和を読む前と読んだ後では人生観がすっかり変わってしまった”と述べておられる。古枯の木はいままでに何冊本を読んだかは知らぬが、あの世に旅発つときもしも閻魔大王から一冊だけ本を地獄へ持って行ってもよいとの許可を得たら躊躇なく吉川英治の“宮本武蔵”を選ぶ。高校生のとき読んたこの本の中で武蔵の剣一筋に生きる生涯に非常に強い感銘を受けたためである。
古枯の木――2009年8月1

2009年8月15日土曜日

敗戦の日に思う

敗戦の日に思う

 今年もまた敗戦の日が迫ってきた。この日、古枯の木は中学1年生、学徒動員で戦闘機の部品工場で働いていた。この日朝、工場に着くと正午に玉音放送があるので全員事務所前の広場に集まれと命令された。放送は雑音が多くよく聞き取れなかったが、終わると工場長がポツダム宣言を受諾して日本は戦争に負けたと教えてくれた。同じ工場に働きにきていた女学生の一人が壇上に上がり、“今日から徹夜で働くので戦争を続けてください”と叫んでぶっ倒れてしまった。この放送を聞くまで日本が戦争に負けると思った日本人は極めて少なかったと思う。
 だが古枯の木は日本が敗戦に至ることを知っていた数少ない日本人の一人である。1943年8月大学卒業と同時に陸軍に応召した叔父の一人が傷病兵として南洋のラバウルから帰って来た。その頃、国民はまだミッドウエイの敗戦を知らず、いつか日本は勝利するものと確信していた。国内に戦争の緊迫感は全然なかったのである。この叔父が父に向かって“この戦争に必ず日本は負ける。今から敗戦後の準備をしておけ”と言った。
 ショックを受けた父が敗戦の理由を質問すると、“アメリカ軍と日本軍では武器の質と量が全く違う。日露戦争に使用された大砲がラバウルまで行っている。こちらが煙幕を張ると相手は弾幕を張る”と回答した。父がさらに“でも日本人には大和魂があるぞ”と反論したところ、叔父は次のように答えた。“あるとき高射砲で敵の戦闘機を撃墜した。パイロットが落下傘で降りてきたのでこれを捕らえて敵情について白状させようとした。ところがこのパイロットは国際法を盾に一切白状しなかった。最後は殴り殺してしまったが、それでも白状しなかった。日本人に大和魂があるかもしれないが、ヤンキーにはヤンキー魂がありこれは見上げたもものだ”説明した。
 その頃日本では大学を出た人間の数は極めて限られていた。田舎のまちではとくにその傾向が強かった。小学校しか出ていない筆者の父は大学出を非常に尊敬し、大學出の言うことはいつも正しいと確信していた。いつも大学出についてそのように教えられていた古枯の木は叔父の言うことは正しいものと信じて疑わなかった。叔父の言葉により負けることは充分理解していた。でもいつ負けるかは分からなかったが、それがついに8月15日にきたわけだ。
 それにしても余りにも無謀な戦争を引き起こし、国民を悲劇のどん底に陥れ、塗炭の苦しみを与えながら東条英機、松岡洋介、近衛文麿らはまだ一度も国民に謝罪していない。彼らほど無責任、無定見、不条理の輩はない。いつも8月15日がくると思いを馳せるのはこのことである。

古枯の木――2009年8月14日記す。

2009年8月7日金曜日

3番目の原爆

3番目の原爆
 
 アメリカは第3番目の原爆を新潟に落とす予定であったと一般に広く信じられている。古枯の木は新潟県の新潟市ではなくて山本五十六の生誕地である新潟県の長岡市が標的ではなかったかと長年考えていた。
 2009年7月2日ロスで“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。そのとき新聞で発表された講演会の予告記事や講演会当日出席者に渡したハンドアウトそれに長岡出身で100歳の猪瀬夫人のエピソードなどを交えた手紙を長岡市の山本五十六記念館に送った。古枯の木はいままでこの記念館を2度訪問している。
 ごく最近長岡市の商工会議所内にある山本元帥景仰会からこの手紙に対する礼状が届いた。同時に本年7月17日に発刊された“山本五十六の覚悟”なる書籍が親切にも同封されていた。直ちに通読したがこれは五十六研究上きわめて有益な書籍である。その中に注目すべき一文がある。
 長岡市は敗戦直前の8月1日空襲を受け、市の80%が壊滅し、死者630人を出した。これは長岡市の第1回目の空襲であったと考えていた。ところが上述の本ではこれは第2回目の空襲であったそうな。第1回目は7月20日午前8時過ぎで模擬原爆が長岡市の郊外に投下され、4人が即死、5人が負傷、集落の家屋全部が爆風による被害を受けたとある。これは原爆投下の訓練の一環であったことが最近判明したそうである。
 太平洋戦争の開戦時、日本は38隻の潜水艦を保有していた。そのうち35隻が艦隊決戦用で残りの3隻のみが通商破壊用だった。この用法の誤りに気がついたのは敗戦間近のことだった。これにより通商破壊用に向けられたわが潜水艦が幸運にも単独で航行する巡洋艦インディアナポリスを発見し、これを撃沈したのである。この巡洋艦には新潟に落下予定の第3番目の原爆が搭載されていたということは一般によく知られている。
 “Admiral of The Pacific”の著者であるJohn D. Potter は真珠湾攻撃の直後、五十六は突如全アメリカ人のpersonal foe となり、アメリカ人は五十六をembodiment of evil enemy, the stab-in-the –back aggressor であるとして非難したと述べている。それほどまでにアメリカ人は五十六を憎んでいたのだ。アメリカ軍は五十六の生誕地が長岡であることを知っており、おそらく“五十六みておれ”の復讐心で原爆の長岡投下を計画していたのではないかと古枯の木は考える。名著“山本五十六の覚悟”はこの点少し実証的に語っているように思えてならない。

 古枯の木――2009年8月6日記す。

2009年8月6日木曜日

シベリア出兵の教訓

シベリア出兵の教訓

 日本は1918年8月から22年10月までシベリアに出兵し、駐留したが、戦費9億円、5千人余りの死傷者を出し、最後は一物も得ずして撤兵するという悲しむべき暗黒の1ページでを持つ。チェック兵の救済という所期の目的を達成すると1920年8月までに米、仏、伊、支、ポーランド、セルビア、ルーマニアの諸国はいずれも撤兵を完了したが、ひとり日本のみ駐留を続け、そのため住民には反日感情が芽生え、列強からは日本の領土的野心を疑われたのである。1945年8月ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵入したが、多くの外国の歴史書はこれを“ソ連は復讐を果たした”と簡単に片付けている。多分復讐の中には日露戦争、シベリア出兵とそれにノモンハン事件に対するものが含まれているのだろう。
さてチェック軍とは何であったか説明しておきたい。チェック軍とはオーストリア軍の中にあって第一次大戦が始まるや否やロシア軍に降伏し、反対に独墺軍と戦った数万の民族的兵士のことである。ところが1918年ドイツとロシアの間にブレストリトウスク条約が締結されると彼らは行き場を失った。ロシアの離脱により東部戦線から開放された独墺軍100万が西部戦線に向かいつつあった。このため連合軍にはウラル地方に一つの戦線を構築して独墺軍を背後から脅かそうとする計画が持ち上がった。その方策としてチェック軍を救済し、東行させ、その後船舶で輸送してウラル戦線に投入することになった。だが、レーニンの共産主義政府はドイツの支配下にあり、各地でチェック軍が共産軍に攻撃されるという事態が発生した。
 チェック軍の救済という観点からシベリア出兵は充分に理由のあることである。後世の学者の中にこれを無名の師と呼んで非難する者がいるが、彼らの非難に正当性はない。だが日本はチェック軍の救済以外にレーニンの共産軍の東漸に対し、これと戦うべきがどうかで躊躇浸潤した。内政不干渉の傍観主義を取るかと思えば、両軍が各々数千人の規模で激闘を演ずるというようなこともあった。つまり共産軍と戦うべきかどうかで断を欠き、戦うようで戦わず、戦わないようで戦ったところに悲劇の根本があった。さらに共産軍以外に労働者、農民のゲリラの問題もあった。
 アメリカの強い要請により日本は1918年8月出兵を始め、わずか一カ月で沿海州を占領し、その後も順調に戦線を西に向け拡大し、チェック軍との連絡に成功した。問題はその後である。具体的政治目標、戦略、戦争目的、外交、信念が不確定で、一貫せず、共産軍の東漸に対処するとか、朝鮮との国境を保全するとか、居留民を保護するとんかのスローガンを掲げたもののいつも中間に彷徨し、シベリアの荒野に無為無策の駐兵を続けた。
 この間に軍司令官の交代が3回、師団の動員数数コ師、しかも増派と撤退を繰り返すという体たらくだった。田中大隊、西川大隊は全滅し、兵隊の2割が凍傷に罹った。ウラジオストックやニコライエフスクの惨劇があった。とくに後者では日本軍守備隊と居留民全員が虐殺された。そのとき摩訶不思議なことが起こった。世界でもっとも信用でぬ共産軍を信用して自軍の通信不能のとき彼らに電信の送受信を委託してしまったのだ。たちまち共産軍の謀略と奸計に陥ってしまった。
 1919年ベルサイユ条約が締結されると英仏伊は戦意を喪失し、共産軍は逆襲に転じ、反ソビエト政権は凋落し、住民は変心して民族主義的観点から共産政権に同情を示し、反日に転化した。日本政府はソビエト政権を崩壊させた後撤兵すべきと考えてようだが、それに対しても断固たる措置がとれなかった。
 シベリア出兵には多くの教訓が厳存する。国連の最大の任務は国際平和と安全の維持であり、国連それ自体が一つの大きな集団安全保障機構である。イラク戦争のとき日本はイラクに出兵した。それは平和維持活動への参加と呼ばれたが、事実は戦争への参加である。今後ますますそのような出兵の機会が増えると思われる。そのとき注意すべきことがある。それは確固たる政治目的である。戦争論の著者のクラウエウイッツは“戦争とは他の手段による政治の延長である”と道破した。戦争とは政治目的という女王に仕える侍女のようなものであり、あくまで中心は政治だ。
 ここで歴史上有名なノモンハン事件に触れたい。ノモンハンとは旧満州国と旧外蒙古の間を流れるハルハ河沿いの一寒村である。この河を1939年5月12日700人の外蒙古騎兵隊が渡って満州に侵入してきた。外蒙古の後ろにはソ連軍がおり、ソ連軍と日本軍の間で戦争が始まった。この戦争で日本軍は装備と火力の点で格段にソ連軍に劣り大敗を喫した。新しい国境はハルハ河より遥か東に決められた。後にソ連の国防相になるジューコフ司令官は国境画定という政治目的を達成するや否やトーチカ2-3個を残してサッと引き揚げた。見事な撤収ぶりである。無責任な帝国陸軍の辻政信参謀はノモンハンでは勝ったと言い張るがこれは彼特有の詭弁である。
 すでに述べたようにシベリア出兵はきわめて多くの教訓をわれわれに提供する。一番重要なことは確固たる政治目標、戦略目標そして作戦思想である。しかも政治目標は大きなものではなくてなるべく限定的なものがよい。目標を達成したら機を逸せず撤収することだ。ひとり居残るなどは愚の骨頂であり、被占領地の国民を敵にするなどは論外である。
古枯の木――2009年8月6日記す。

2009年8月2日日曜日

弱さ故の脅威

弱さ故の脅威

 最近、桜井よしこが“桜井よしこの憂国”という書籍を出版したそうである。古枯の木はまだそれを読んでいないが、その中で桜井は“弱い味方は強い敵よりも恐ろしい”と言って日本のことを揶揄しているらしい。これは敗戦後、自国を守るための意思を放棄し、他国に自国の安全を委ねた日本のことだ。
 この点に関し有名な事例が外交史上存在する。オスマントルコは1299年に建設され、無慈悲、無情の征服戦争(ジハード)により14世紀には版図を著しく拡大した。エジプト、スーダン、モロッコ、メソポタミア、シリア、ウイーン、中央アジアなどはすべてトルコに属した。ところが19世紀に入りセルビア、ギリシャが独立してから急激に勢力が衰え始め、20世紀に入るとトルコは“弱さ故の脅威”と呼ばれるようになった。それはトルコ領を狙うロシアに対し、西欧列強がトルコが軍事的に弱いためにロシアにより侵食され、仮想敵国のロシアよりもトルコに対し大きな脅威を感じはじめたからだ。
 敗戦後、日本は軍事的に極東の一寸法師になり、平和憲法を呪詛していれば日本の平和と安全は確保されるとかん違いし始めた。だが日本の平和と安全が確保されたのはアメリカにおんぶしてきたからである。中国、韓国、北朝鮮は虎視眈々日本を狙っている。いつまでたっても自衛能力を向上させず、集団的自衛権のつまらぬ法解釈にうつつを抜かす日本をアメリカが“弱さ故の脅威”と感じ、日本が第2のオスマントルコになるかもしれぬという疑念を持つかもしれない。

古枯の木――2009年8月1日記す。

2009年7月31日金曜日

広島、長崎の日に思う

広島、長崎の日に思う

 今年も広島と長崎に原爆が投下された日が近づく。毎年ながら戦争の惨害と平和に対するマスコミの無責任な宣伝攻勢は激しい。新聞はカミの増加を、テレビは視聴率の上昇を図っているとしか思われない。マスコミの攻勢にもかかわらず最も重要なことは戦争の惨害を知る理性の力のみによっては世界の平和は決して得られないことを知ることである。
 また日本の進歩的学者の中には日本は核廃絶運動や軍備縮小運動で主導的役割を果たすべきだと主張する者がいる。だがこれはまったくナンセンスな議論であり、ドンキホーテ的主張である。軍備弱小の国がいまだかつて軍縮において主導権をとったことは歴史上一度もない。かかる主張は貧乏人が金持ちに向かって、ただいたずらに金をすてよ、金を捨てよと叫ぶのに等しい。
 日本の平和を維持するためには強力な軍備が必要だ。だがある日本の文化人は日本が軍備を増強すれば、それだけ攻撃を受けやすくなると主張する。では訊きたい。交番を設置したら犯罪は増えるかと。古枯の木はトーレンスという町に住んでいる。この町のあるアメリカ人の古老に聞いた。トーレンスで新しい消防署を設置したらその翌日この消防署が火災で焼失したと。日本の文化人の言うことは正しいかも知れない。
古枯の木――2009年7月30日記す。

2009年7月26日日曜日

みかん箱二つ

みかん箱二つ

 古枯の木の知り合いのおばあさんで最近92歳で亡くなられた方がある。この方のご主人は大阪大学医学部の教授を長年勤められ、退官後は医院を開業されていたのでかなりの財産があったものと思われる。85歳を過ぎたころみかん箱二つを見せられ、彼女の持ち物全部と全財産がこの中に入っていると告げられた。もっとも印象に残った彼女の言葉は“死人は生きている人間になるべく迷惑をかけるべきではない”であった。
 古枯の木は家の中にジャンクの余りにも多いことに気がつき数年前からその整理に追われてきた。おばあさんの生活態度や助言に刺激されたことはいうまでもない。棚や引き出しを空にする運動であり、これを自らカラカラ運動と名づけてきたが、みかん箱二つに収めるのには前途遼遠である。死の直前にはみか箱2個は無理にしてもせめて8個ぐらいには収めたいと考えている。

 古枯の木――2009年7月25日記す。

2009年7月25日土曜日

ドイツ人と日本人の戦争観

ドイツ人と日本人の戦争観

 よく日本人とドイツ人との類似点が指摘される。一般的には両者は勤勉で、几帳面であり、がまん強く、個人の利益よりも団体の利益を重んじ、団体内の調和を心がけるなどといわれている。だが両者の戦争観には月とスッポンほどの違いがある。
 学生時代、学習院大学の教授で今の天皇の皇太子時代に彼の家庭教師をしていたイギリス人ブライス博士の話を聞いたことがある。博士は第二次大戦中の日独人の戦争観の相違につき概要次のように説明した。
1. 日本人はムードに弱く“戦争に勝った、勝つぞ”といって自己陶酔に陥り、集団催眠にかかったように浮かれていたが、ドイツ人は戦争(war)ではなく特定の戦闘(battle)に勝てるかどうかを冷静にしかも第三者的に観察をしていた。その点で日本人に比しドイツ人はさめた目を持っていたといえる。
2. 日本では戦時中“贅沢は敵だ”とのモットーによりパーマネントや華美な服装は禁止され質素な生活が強制された。パーマネントをした都会の女性を見ると“ツバメの巣の髪型”とののしって石を投げる不逞の輩もいた。だがドイツの若者は“青春は短い。戦争によりこれはもっと短くなるかもしれない。命あるる内に青春を大いに楽しもう”といって仕事が終わると毎晩着飾ってダンスに出かけた。
3. 狭い潜水艦に勤務する者の苦労は大変なものである。勤務が一度終了すると日本では乗組員を熱海の料亭に集め、一晩食えや飲めやの大宴会を催した。ところがドイツの潜水艦がはるばるドイツからシンガポールや呉に到着すると乗組員たちは到着の翌朝から将来のさらなる困難に耐え体力作りのためにテニスに精を出した。
4. 日本人は召集令状が来ると自分は戦争に行きたくないが、反抗もできないのでしぶしぶ応召した。他人が徴兵されるのには大賛成だが、自分や身内の者が戦地へ行くのを嫌悪した。だがドイツ人は招集礼状にたいし、自分も第三帝国の建設に参加できることを大きな誇りとして応召した。親もまた喜んで息子を送り出した。これは日独人の間の越ゆべからざる政治哲学の相違だ。
 日本人とドイツじんでは宗教、文化、言語、歴史、体格、皮膚の色などで共通点は皆無だ。中でももっとも大きな相違点は上述アイテム4の政治哲学ではないだろうか。

   古枯の木――2009年7月23日記す。

2009年7月7日火曜日

怒ると叱る

 日本語は難しい。7月2日の講演会の後、”読む”と”ヨミ”の違いについて意見を寄せてくださった人がいた。また講演で使用した”兵站補給”は何と読み、どんな意味があるのかと訊いてくるインテリーの女性もいた。

 日本人はよく”怒る”と”叱る”を混同して使用しているように見受けられる。怒るは単に感情的に怒りを発するのみであるが、叱るは相手のためを思って矯正、諭すことである。教育上の見地からは叱るほうが怒るよりも数倍いい。

 古枯の木ーーー2009年7月7日(七夕の日)記す。

講演会を終えて

講演会を終えて

 古枯の木は2009年7月2日、トーレンス市の倫理研究所で“山本五十六の実像に迫る”という演題で講演を行った。定員50名のところに55名が出席してくれた。主宰者の話ではさらに10数名の応募者があったが、椅子の数不足のため残念ながら断ったとのこと。2時間以上も運転して来てくれた知人やタクシーで駆けつけてくれた女性もいた。まことに感謝すべきことである。
 五十六の評価では軍政家(軍人でありながら高度な政治的判断を求められる人)としての五十六と用兵家(戦争の現場で作戦指揮をとる人)としての五十六に分けて行った。軍政家としての五十六は1936年から1940年までの3年7か月にわたり日独伊3国同盟に反対し、海軍内の下克上を封鎖してくれた。この点、彼にいくら感謝しても感謝しきれぬ。だが五十六の用兵家としての資質には若干疑問点がある。
 五十六は日本の国力の限界を知り、アメリカに勝てるとは思わなかった。だが政府、マスコミ、国民は無敵艦隊、天下無敵を呼号し、アメリカ弱しとの過信を捨て切れなかった。日本国民はムードに弱く、現実を直視しない、集団催眠や自己陶酔にかかったように雪崩を打って戦争賛美の方向に傾斜して行った。これは五十六が最も恐れた日本国民の欠点であり、古枯の木には今でも日本国民がその欠点を引きずっているように思える。
 ロスの新聞社が講演会予告の記事を発表したときトーレンス在住の100歳の女性から手紙を受け取った。この女性の母親が五十六の小学校のときの同級生で、クラスではいつも五十六が一番、彼女の母親が二番だったそうな。五十六は長岡の町ではつとに神童の誉れが高かったとも書かれている。主宰者はこの女性を講演会に招待したいと申し入れたが、年齢を理由に断られたとのこと。この女性からの手紙は新聞社の人により全員の前で朗読された。
 またある女性は五十六の多磨霊園内の墓の写真をくれた。東郷元帥の墓の横にあるのが印象的だ。1943年6月5日、五十六の国葬が日比谷公園で営まれたが、級長としてこの国葬に参加した女性もいた。UCLAで歴史を学ぶうら若き女性も参加者の一人だった。専攻は第2次大戦原因論。教授は空軍の見地から研究をするよう勧めるが、小生の話を聞いてからは海軍の見地からも研究をしたいという。ありがたい言葉である。
 特攻隊の生き残りという人が海軍の戦闘帽をかぶって来ていた。五十六を今でも高く尊崇しているとのこと。また元海軍経理学校に在学した老弁護士もいた。五十六は帝国海軍の英雄であり、永遠に記憶さるべき人だと強調していた。彼は五十六の書いた書を所有している。
 講演会の翌日、知人の一人から講演の劈頭15分も時間を空費したのは残念だ、Q &Aの時間がなかったのでもう一度講演してくれとの電話もあった。
 古枯の木―――2009年7月6日記す。
 

ほどよい貧乏

 古枯の木の父親はいつも今年の生活はその前の年の収入によって営めと言っていた。一般のアメリカ人は今の生活を未来の収入に頼っている。これではダメなわけだ。一方、父親は一年分の生活費以上の蓄財は必要ないともアドバイスしていた。



 古枯の木は富の蓄積を否定はせぬ。ただほどよい貧乏の域を脱した蓄積は必要ないと提言するのだ。金は死蔵してはいけない。死ぬときは三途の河を渡る船の船頭に渡すチップを残しておけばよい。金は休眠、死蔵させず、よい目的に費消されるときに最も光彩を放つ。子孫に美田を残すとそれが彼らをスポイルしてしまうだろう。



 腐っても鯛というが腐った鯛よりも生きのいい鰯のほうがよっぽどいい。数年前、千葉県の銚子へ行き、鰯のつみれ汁を食った。こんなにうまいものがこの世に存在するのかとの感慨を持った。



 古枯の木ーーー2009年7月6日記す。

2009年7月6日月曜日

トルコはどこへ行く

トルコはどこへゆく

 2009年6月22日、当地パーロスベルデスに住むアメリカ人のグループからトルコの現況についての説明を求められた。古枯の木の説明は、トルコのケマルパシャ(1881-1938、別名アタチュルク)が成し遂げた宗教、教育、社会、ファッションの諸革命が音をたてて崩壊していること、アタチュルクを”イスラム文明の裏切り者”として非難し、マホメットが”余の後に予言者は現れず、新しい信仰は生まれない”と説いた632年の後進未開の状態に回帰したいと願っていること、過去7年間でイスラム原理主義者が倍増したこと、EUの加盟はもはや絶望的とみなしてアラブ世界に向かう傾向の強いことなどを焦点とした。
 出席者からはイスラム教は”コーランか剣か”のプリンシプルで全世界を切り従えたこと、彼らがその原則を放棄したと聞いたことは一切なく、依然好戦的であること、アタチュルクの目指した近代化、西欧化に対する逆襲の始まっていること、宗教を個人の倫理から国教に再変更する運動のあること、一部のアメリカの学者はイスラム教は平和な宗教であると主張するがこれは真っ赤なウソであること、西欧とイスラムの融和は不可能であるなどが陳述された。
 古枯の木が”Turkey is the catalyst for Arabic Changes。”と述べたとこら全員がこれに賛成し、早急にトルコをEUに加盟させるべきだとの結論に達した。1999年にトルコは正式加盟交渉の候補国になり、2004年には交渉開始が決定され、2005年から交渉開始となった。正式加盟には、35もの交渉項目があり、一つの問題が解決されるとさらに新たな問題が提起されるため、トルコ人は皮肉を込めてこれをホームワークと呼びうんざりしている。さらに2006年12月以来、交渉項目のうち8項目が棚上げされたことにより加盟交渉のスピードは大幅にダウンしてしまったことなどを説明した。いずれにせよトルコのEU加盟は容易なことではない。
 古枯の木ーーー2009年7月5日記す。
 

Good Job!

Good Job!

 最近孫二人が日本からロスに移住し、近くのプリスクールに通園している。最初に覚える英語は何であろうかと興味をもって注意していたが、それは“Good Job!”だった。これにはそれなりの理由がある。
 アメリカ人はたいしたことでもないのによくお互いに褒め合う。悪く言うより褒めた方がいいに決まっている。今から40年もまえアメリカで仕事を始めころ、よくアメリカ人が小生に向かって、“You are good speaker of English.”と言って褒めてくれた。本当に英語がうまいと思ったらわざわざそんなことを言う必要はなかっただろうに。
 日本人は外国人から褒められると本当に褒められたとすぐ喜んでしまう。でも彼らの外交辞令と真の感情とは別物であることを銘記すべきである。孫二人が覚えた最初の英語が“Good Job!”であったのは、多分プリスクールで下手ではあっても先生から何度もそのように褒められた結果だろう。いずれにせよ褒め合うことはアメリカ人の第二の天性であり、古枯の木はアメリカ社会をMutual Society of Admirationと呼んでいる。ご賛同いただけますか?

 古枯の木―――2009年7月5日記す。

2009年6月27日土曜日

講演会の開催

皆さん

古枯の木は7月2日(木)午後7時から9時まで”山本五十六の実情に迫る”と題して講演を行います。場所は次の通りです。

2202 W. Artesia Blvd., #L
Torrance, CA 90504

出席ご希望の方は800-479-0667に電話して予約をおとりください。なお参加費は$5.00です。

古枯の木

2009年6月1日月曜日

講演会

皆さん

古枯の木は6月中旬この近くのパーロスベルデスという町のあるアメリカ人の会合でトルコの現状についてプレゼンテイションを行います。アタチュルクの行った各種の革命に反し、最近のトルコのアラブ化、イスラム化が中心になるでしょう。さらに7月2日、トーレンスという現在住んでいる町で日本人と日本語の分かる日系人を対象に”山本五十六の実像に迫る”というタイトルの講演を行います。五十六については名将だったという説と凡将、愚将だったという説がありますが、古枯の木は公平、客観的に彼を評価したいと思います。
若い人たちに”ゼロ戦””空母”と言っても理解できないかもしれんなと自分の子供の一人に相談したところ早速、ゼロ戦のプラモデルと空母”しょうかく”のプラモデルを送ってくれました。したがって五十六の講演は親子の合作です。
現在この二つの講演会の準備に追われています。

古枯の木

2009年5月17日日曜日

チャウシェスクの罪と罰

チャウシェスクの罪と罰
 多くの方はルーマニアにチャウシェスク(Nicolae Ceausescu 1965 -1989)という大統領がいたことを記憶されているだろう。彼は酒好きな大工のせがれに生まれたが、1965年共産党のリーダーとして大統領に就任するや否や国を私物化し、暴虐の限りを尽くした。厳しい思想の統制を行い、信教の自由を認めず、坊主を虐待して共産主義によるユートピア思想を強制した。教育は厳格を極め、女性のファッションは一切認めなかった。娯楽を禁止し、医学生をレーバーキャンプに送ってペットボトルの洗浄をさせた。ルーマニア人は外国人との会話を禁止され、全国民の3割が秘密警察とその関係機関に属するとされた。
 1984年、西欧諸国からの借金を全額一挙に返済したため国はたちまち食糧難に陥り、マーケットの棚は空っぽとなった。月間10個の卵しか買えず、ミルクを買うために国民は朝5時に起きることを余儀なくされた。クッキングオイルの入手が特に難しくなった。チョコレート、クッキー、チューインガムの生産は禁止され、一日に2時間の停電が当たり前となった。そのため5万人が餓死したと伝えられている。
 チャウシェスク最大の罪は1966年人工流産(堕胎、英語ではabortionという)を禁じたことだ。彼は同年、中国と北朝鮮を訪問し多大の人民の大歓迎を受けた。そこで愚かにも大人口が国力の源泉なりと錯覚したのだ。これは戦時中、日本の軍閥政府が同じ思想の下、“生めよ増やせよ”の政策を取ったのに似ている。だが人口は戦力であるとともに非戦力でもある。チャウシェスクはコンドームの販売を一切禁止し、一人でも多くの子供を生ませようとした。子供を5人生めば多くのベネフィットが得られたし、10人生めば英雄としてもてはやされ、あらゆる交通機関が無料となった。
 だがこの政策は婦人たちに大きな衝撃と難題を与え、流産できぬため死亡したり、重病人となるケースも多発した。100万人以上の婦人が健康を害し、そのうち半数が死んだとされている。
 さらにチャウシェスクは1984年、首都ブカレストの中央に巨大な宮殿(Palace of Parliament)の建設を始めた。これは面積ではアメリカのペンタゴンに次ぐもので、大理石を基調にして1,000室以上を有し、2万人の労働者と7千人の建築技術者が動員された。
 1989年ベルリンの壁が崩壊して自由主義と民主主義の嵐が吹き荒れると、チャウシェスクは服従しなかった国防長官を殺し、手兵を使って自由主義者の虐殺を始めた。ところがその年12月、ある青年たちの“チャウシェスクを倒せ”の一言で逃亡中のチャウシェスクとその夫人は即刻死刑に処せられた。その直後、ルーマニア人の提出した要求は、没収された元の土地を返せということと人工流産を法的に認めよということであった。
古枯の木   2009年5月16日記す。

正教とキリスト教

正教とキリスト教

 皆さんの中にはギリシャ正教とかロシア正教とかについて聞かれた方が多いと思う。今回の旅行の目的の一つは正教について知ることだった。英語で正教はOrthodox という。ブルガリアとルーマニアでは正教会を訪問し、正教徒がイースターのお祈りをするのを見た。正教ではイースターはキリスト教よりも一週間遅い。正教徒のイースターの祈りは厳粛ながらもキリスト復活の喜びに溢れており見飽きることはなかった。
 正教とキリスト教の違いは大きい。キリスト教では信者はキリスト像か聖母マリアさんを通じて祈るが、正教ではイコンを通じて祈る。祈るときキリスト教では男女は同じ部屋でするが、正教では男女別々の部屋でする。十字で横を切るときキリスト教徒は左から右に切るが、正教徒は右から左に切る。カトリックには法王が存在するが、正教に法王はいない。カトリックは坊主の結婚を許可しないが、正教では許される。
 古枯の木の最大の関心事はイコンだった。キリスト教には存在しないイコンがなぜ正教にはあるのか。ガイドや同じ旅行に参加した正教徒の説明では、イコンは東方の野蛮な民族にキリスト教を教えるための手段であったとのこと。多分、キリスト教について未知の者に説明するときイコンの方が便利だとと考えたのだろう。キリスト教では坊主は説教をするが、正教では説教をせず、その代わり坊主と教徒が一緒に歌を歌って説教の代わりとする。歌の方が説教よりも野蛮人には分かりやすいと判断されたためだろう。
 正教国でイコンは厳しく法律で規制されている。新しいイコンを製作することは厳禁されており、現存のものからコピーを作るだけである。
 古枯の木       2009年5月16日記す

ジプシーの存在

ジプシーの存在

 バルカン諸国とルーマニア(ルーマニアはドナウ河の北にあるため正確にはバルカン半島の国ではない。ヨーロッパの国である)を廻ったとき、彼らに共通の社会問題がジプシーの存在であることを教えられた。ジプシーは北インドに起源をもち、エジプトに移住した後、バルカン諸国とルーマニアに定住した。ジプシーの中には医者、弁護士、公認会計士、音楽家など社会の重鎮として活躍している人もいるが、ほとんどがスリを生業としているそうだ。
 男の子供に対し親はスリになれと教え、スリの養成学校に入学させる。数年前、あるイタリヤの女性記者が子供スリ団の行うスリを見て、その巧妙さに舌を巻いたという。彼らは自転車に乗り、広場を徘徊していることが多い。カメラと財布をスラれた人がわが旅行団の中にもいた。
 娘が12-14歳に達すると親はきらびやかなドレスを着せて彼女らを公衆の場に送り出す。これは彼女らを富豪に嫁入りさせるためだ。でもこれは他の人々の大きな顰蹙を買っている。
 ジプシーが社会に同化しないとことがこれら諸国の頭痛の種らしい。次に機会があったらぜひジプシー村を訪問し、彼らの実情を見たり彼らの考え方を聞きたいと思っている。
 古枯の木     2009年5月16日記す

2009年5月15日金曜日

ルーマニア陸軍に幸いあれ!

ルーマニア陸軍に幸いあれ!

 東欧7カ国を旅行中、我々を見守るルーマニア人の医師がいた。この医師と仲良くなったので、ある日、ルーマニア陸軍は本当に弱かったねと切り出した。事実ブルガリア、イタリアの陸軍と同様ルーマニア陸軍は大変弱かった。戦史上有名な事実がある。1940年夏、ドイツがスターリングラード(現ボルゴグラード)を攻撃したときルーマニア陸軍もドイツ側に参戦した。ところがルーマニア陸軍はソ連兵を見るや否や直ちに敗走した。それだけではなくドイツから供給された近代兵器をすべてソ連側に引渡し、ドイツ軍はこれにより思わぬ苦戦を強いられた。
 このことをルーマニア人医師に話したとき、医師はルーマニア陸軍が初年兵に最初に施す訓練は両腕を肩より上に挙げること(降伏すること)だと言った。さらに彼はルーマニアのタンクには前進のギアが一つ、後進のギアーが4つ装備されていると説明した。後進のギアーは敵前逃亡のためだが、一つの前進ギアは何のためかと訊いたら、敵が後ろから来たときに前に逃げるためのギアだと言って大笑いした。もちろんこれは医師のジョークである。
 ああ、弱いルーマニア陸軍に幸いあれ!

古枯の木        2009年5月14日記す

共産主義の遺産

共産主義の遺産

 2009年4月4日から19日までの東欧旅行はオーストリアを除いてすべて旧共産国への旅行であった。これらの国々で共産主義の遺産とも言うべきものをたくさん見た。廃墟と化した工場が多い。ガイドの説明では共産党の時代に不要のものを生産していたが、自由化された今ではその工場の買い手がなく放置されているとのこと。また共産主義時代使用されていた機械が旧式であるとか、工場の生産効率が極めて低いなどのため荒れるがままに任されているものもある。このような工場はブルガリアとセルビアに特に多かった。
 一方、ブルガリアでは放置されている農場をたくさん見た。畑に生えているのが“wheatか”と訊いたら“weedだ”との回答があった。共産主義時代、生産性などを一切考慮せずに行われていた集団農場制が崩壊したのだ。農薬が買えぬためまたは機械が買えぬため放置されている農場もある。また農民がドイツやスペインに出稼ぎに行ってしまったため百姓のできないところもある。このような農場の買占めが最近始まった。買い手は中国である。
 今まで述べたものはすべて共産主義時代の負の遺産である。ブルガリアのある古城で一人の男が溝を掘っていた。彼の周りに男が4人もいて一人の労働者のすることをぼんやり見ているのだ。4人の男は一体何者かとガイドに訊いたら4人は一人の男の監督官だとの返事が返ってきた。ガイドはさらに“これが共産主義の効率性だ”と言ってにやりと笑った。

古枯の木      2009年5月14日記す

楽しい河船旅行

楽しい河船旅行
16日間ドナウ河の船旅を楽しんできた。河は狭いところで幅800メートルぐらいだったが、黒海に近ずくと対岸が見えるほど広くなる。雪解け水を集めて流れは思ったより急だった。船は動くホテルである。そのため毎日、荷物をパックしたりアンパックしたりする苦労から完全に開放された。河船は飛行機と異なり大体ダウンタウンのど真ん中に船着場を持つ。そのため船を離れて簡単にダウンタウンの散歩、買い物が楽しめる。
 ブダペストでは船窓の左側に宮殿を、右側に国会議事堂を眺めることができた。街行く人の顔もはっきり観察することができた。船内ではいつも食事が用意されている。ダウンタウンに出たときはその地方のレストランで食事をすればよいのだが、ついしまりや根性が出て、船に帰って食事をすることが多かった。クロアチアでは一般の民家でランチのご馳走になったが、そのスープとパスタは最高だった。セルビアやスロバキアではトルココーヒーに似たコーヒーを堪能した。ブルガリヤでは黒海を眺めながらシーフードではなくチキン照り焼きを食べた。黒海は塩分が多くて魚類が住めないそうである。
 船の客にはリタイヤーした人が多い。彼らは押しなべて早起きである。そのため朝6時に焼きたてのクロワッサンとフレシュなコーヒーが用意されている。このクロワッサンのおいしかったこと今でも忘れることができない。朝食と昼食はバッフェスタイル。おいしいものがいっぱい並んでいるが、注文をすれば何でも作ってくれら。朝食にはよく特注でベジタブル・オムレツを食べたし、ランチにはハンバーガーも注文した。夜はメニューがくる。各地の特産物を食べさせることが多かったが、依頼すればアメリカ風のビーフステーキも食べられる。ウエイターやウエイトレスがいつも微笑みを忘れぬのが大変気持ちよい。あるウエイトレスは小生の好きなコーヒーの味を知っていて、いつも同じコーヒーを頼みもしないのにサーブしてくれた。古枯の木は酒は飲まぬが、各地のワインは大人気だったようだ。
 船には必ず医者が乗っている。我々の医者はルーマニア人だった。大変なインテリーでルーマニアについていろいろ教えてもらった。医者はいつも船の客全員の観察をしているそうである。健康に問題があると大体この観察があたるらしい。外から帰ると船室に入る前に必ず船員が客の手に消毒液のスプレイをしていた。
 朝の太陽が川面に映るのを眺めながら朝食を取ったり、また大きく真っ赤な太陽が沈むのを楽しみながら夕食を食べていると日本の大会社の社長かアラブの王様になったような気分である。夕方には必ずティーとおいしいクッキーがでる。夕食後はピアノの生演奏を聞きながら食後酒を楽しめる。各グループに分かれて時にはクイズがある。我々はオーストラリア人とアイルランド人とグループを結成し、グループ名をマルタイ(multi-culture)として大いに健闘した。また各地の民族衣装を着た男女によるダンスや歌もたびたび楽しんだ。
 チャンスがあれば今度は北欧を船で廻りたいと思っている。 古枯の木

2009年5月13日水曜日

ルーマニアの油田

ルーマニアの油田

 古枯の木は2009年4月4日から19日までドナウ河の河下りを楽しみながら東欧7カ国を駆け足で廻って来た。この旅の最大の関心事の一つがルーマニアの油田だった。なぜならこの油田が独ソ戦の引き金になり、ヒットラーとドイツの運命に大きな影響を与えたからである。ヒットラーは1933年政権を獲得したが、すべての人に職業を、またすべての家庭にパンとスープを与えると公約して勢力を拡大していった。36年から38年の間にラインランド、オーストリア、ズデーテン、ボヘミア、モラビアを回復した。39年9月1日、ポーランドのダンッチヒと15マイルに渉るポーランド回廊を要求してポーランドに宣戦布告した。
 さらに41年6月22日午前3時15分突如ソ連に対して宣戦布告をした。(ナポレオンがロシア遠征を開始したのは1812年6月23日でヒットラーより一日遅い)その理由については種々の説があるが近年ではヒットラーが真に欲したのはルーマニアの油田であったと言われている。当時ブルガリアが油田から50マイルの地点まで兵を進めたし、ソ連もルーマニアとの境界線となっている河から100マイル以内に迫っていた。ドイツの作戦はバルバロッサ作戦と呼ばれ、動員兵力400万、タンク3,300台、大砲7千門、航空機2千機、想像を絶する大規模の動員だった。
 ルーマニア油田の奪取についてはドイツ軍部内に異論があった。ドイツが40年5月、ベルギーとオランダを占領したとき、これら2国から大量の石油が入手できた。さらにライプチッヒ近くの精油所で石炭から液体の航空燃料を抽出することに成功していたので空軍のボスであるヘルマン・ゲーリングは2年分の石油の備蓄はあるとして危険な対ソ戦に強く反対した。だがドイツ陸軍は自身の石油資源を保有すべきであるとしてソ連戦を強力に推進した。
 開戦してみるとドイツ軍はその年の秋の長雨と予想より早い冬の到来で苦戦を強いられた。さらにドイツ軍には電撃作戦のスピードがあったが、ソ連にはそのスピードに耐えうる広漠さがあった。この作戦は結局失敗に帰し、ヒットラーのThird Reich建設の夢は消え失せ、ルーマニア油田の奪取の野望が結局彼にとり命取りとなったのだ。
ルーマニアはドナウ河の北に位置し、鉄鉱石、石炭、石油を含む天然資源の豊富なトランシルベニア地方を含む。 トランシルベニアはトランシルベニア・アルプスとカラペチアン山脈に囲まれたルーマニア東南部地域で世界史にたびたび登場する。この地域では農産物も小麦をはじめとして各種のものが大量に生産されており、近代に入って西欧, 東欧各国の垂涎の的であった。支配者はローマ、ポーランド、オスマントルコ、ハンガリー、ドイツ、ソ連と変遷した。
 古代ローマ人はドナウ河の南は文明地域だが、北側は非文明地域であり野蛮人が住むところとして渡河して北側に入ろうとはしなかった。ところがトランシルベニアに金が発見されたとの情報が伝わると大挙この地に侵入した。ゴールドラッシュはカリフォルニアのものが有名だが、ルーマニア人は最初のゴールドラッシュはトランシルベニアで始まったと言う。
 ルーマニア油田はこのトランシルベニアのど真ん中に位置する。プロイエシティ(Ploiesti)という人口20万人の町の西部に展開する。首都のブカレストから北に60キロのところにある。カリフォルニアでよく見かける原油をくみ上げるポンプが多数存在し、石油のパイプが縦横に走り、精油所は煙を上げている。花に囲まれたこの町は石油の匂いと花の香りがミックスしている。
 第二次大戦初期、ナチスドイツが油田を占領した後、英米連合軍の飛行機がたびたびこの油田を爆撃した。やがてソ連軍が近づくと連日ドイツ軍とソ連軍の間で激戦が展開され、最後はドイツ軍が一木一草も残らぬほで破壊尽くして遁走した。
 プロイエシティの石油の生産量は決して多くなく、ルーマニア全需要の半分にも満たないそうで、ルーマニアはロシアから毎年大量の石油を輸入している。こののどかなプロイエシティの街を散歩したとき豊かさゆえに蒙ったルーマニアの悲劇、惨劇に思いをいたした。世に“貧困の哲学”なる言葉はあるが、果たして“豊富の哲学”なる言葉はあるだろうか。

古枯の木                 2009年5月11日記す

2009年5月4日月曜日

2009年4月25日土曜日

東欧旅行から帰って

皆さん
古枯の木は2009年4月4日から20日まで東欧7カ国をドナウ河のリバークルーズで訪問しました。船内の食事は超豪華で体重も大分増えたようです。幸い天気に恵まれ雨の日はただ一日だけでした。
青きドナウ河ではなく春の雪解け水による黄色のドナウ河でしたが、この河については終着点の黒海と同様語りたいことがたくさんあります。ルーマニアのトランシルベニアにあるルーマニア油田は最も印象的でした。正教徒の教会や彼らの祈りも忘れることができません。
でも一つ問題があります。それは筆者の老コンピュータが熱をもちすぐにturn offすることです。そのため扇風機を廻しながらキーを叩いていますが、それでも切れることがあります。コンピューターの専門家にみてもらったところ冷却用のファンが壊れたとのことです。しかもこのパーツがないそうです。
よって東欧旅行記の発表は少しさきになりそうです。悪しからず。

古枯の木

2009年3月28日土曜日

Subtle Pleasure

先に送ったメールのタイトルにミススペルがあるとの指摘が一読者からなされました。正しいタイトルは上記の通りです。なお本文中のスペルには誤りはありません。失礼しました。

古枯の木

2009年3月25日水曜日

Subtle Pleasuer

Subtle Pleasure
古枯の木
平凡な日常生活の中にも極めてささやかな楽しみがあります。あるアメリカ人にそのような楽しみを英語で何と言うかと訊いたところsubtle pleasure がいいだろうとのことでした。さて皆さんのsubtle pleasure は何ですか。筆者の最大のsubtle pleasure は孫の笑い声を聞きながら床に就くことです。これは最良の子守唄です。孫の会話の中に“おじいちゃんがーー”などの表現が出てくると思わずほくそ笑んでしまいます。じじ馬鹿ぶりを発揮して誠にすみません。

東欧旅行

  古枯の木
皆さん

古枯の木は4月4日から20日まで東欧旅行に出かけます。訪問国はオーストリア、ハンガリー。クロアチア、スロバキア、セルビア、ブルガリア、ルーマニアの7カ国です。オーストリアのウイーンから川舟でダニューブ河を下り、黒海まで行きます。第一次世界大戦と第二次世界大戦の引き金となったところも廻ります。ルーマニアのトランシルベニァ地方には特に興味があります。
帰ったらまたレポートさせていただきます。

2009年3月24日火曜日

ロスの恥部

ロスの恥部
   古枯の木
どんな国家、都市、個人にも外部には知られたくないネガティブな恥部というものがある。あるアメリカの学者はアメリカ最大の恥部は奴隷の酷使、インディアンの虐殺そして第二次大戦中の日系人の強制収容だという。では筆者の住むロスの恥部とは何だろうか。各地の商工会議所やVisitor Centerの発行するパンフレットの中にその町の恥部など一切記されていない。ロスも例外ではない。

長い間考えた末、ロス最大の恥部はアメリカの恥部同様にインディアンの虐殺であるとの結論に達した。スペイン人の坊主セラとポルトラ将軍が南カリフォルニアのサンディエゴにミッション(教会)を開いたのは1760年7月1日だった。そのころ南カリフォルニアには約13万人のインディアンが住んでいたと言われる。“約”と言ったのは当時インディアンは人間の数に入らなかったためである。このインディアンの数が1910年には1,250人にまで減少してしまった。メンドシーノという町には1850年、ほぼ6千人のインディアンが住んでいたが、1864年にはわずか300人にまで減少してしまった。アメリカの新聞はこれを“サクセス”と記した。

1846年6月14日アメリカ人の一団がカリフォルニア州ソノマという町のメキシコの兵舎を襲いCalifornia Republic (カリフォルニア共和国)の建設を宣言したころからインディアンの虐殺が始まった。1848年、アメリカがメキシコ戦争に勝利すると虐殺はますます激しくなった。1848年1月24日に始まったゴールドラッシュには多くのアメリカ人が参加したが、夢破れてロスに来る者もいた。彼らはロスで腹いせに狼藉の限りを尽くし、ロスは地球上で最も危険な町と言われた。1854年、年俸1万ドルという当時としては破格の高給でロス警察署長の募集があったが、応募する者はいなかった。 ニガー小道(Nigger Alley)にはインディアンのスラムができ、そこで彼らは悲惨な生活を送るのを余儀なくされた。この小道は世界中で一番不潔な通りとされた。アメリカ人はインディアンを邪魔者扱いし、敵視して殺しまくった。

驚くことに当時のカリフォルニアには合法的にインディアンを殺しうるという法律があったし、知事のバーネットは1851年、議会に対し、“インディアン殲滅作戦は、インディアンが完全にこの世から姿を消すまで続けなければならない”と宣言した。インディアンは当時レッドスキーンと呼ばれたが、レッドスキーンを一瞬のうちに何人殺せるかがアメリカ人の自慢の種となった。インディアンはハンティングの対象だったのだ。インディアン・ファイターのキッド・カースンが英雄になったのもこのころである。インディアンの子供が“アメリカはもともと俺たちの土地だ”と言って少しの盗みを働いたとき、見せしめのためにアメリカ人はこの子供を絞首刑に処した。そのとき、多くの見物人が集まり屋台まで現れた。子供の絞首刑は彼らにとりリクリエーションだったのだ。

官憲による虐待、虐殺もひどかった。ある官憲はアル中のインディアンをランチェーロー(ranchero)と呼ばれた大地主に売りつけた。また他の官憲はインディアンの子供盗み、これらに等級をつけてランチェーローに売却した。このような現象をアメリカの学者は後日、社会的殺人(social homicide)と呼んだ。哀れにもインディアンは悪徳官憲の私欲の犠牲になったのだ。またインディアンは1872年まで法廷で証言することを許されなかった。

 紺碧の空、目の醒めるような美しい海岸線、どこまで続く砂漠、高く聳える山々、地下資源の豊富な大地、肥沃な谷間―カリフォルニアはまさにこの世のパラダイスである。国家はいつの時代でも博愛主義を標榜している。でもその裏には意外にも悲しいインディアン虐殺の歴史のあることを片時も忘れてはならない。

古枯の木―ロス在住、著書に“アメリカ意外史”など。

2009年2月27日金曜日

山本五十六の実像に迫る

山本五十六の実像に迫る
古枯の木

1. 五十六のDNA  
 山本五十六は1884年4月4日新潟県長岡市の王蔵院町で産声をあげた。父は高野定吉、母は峰。定吉56歳のときの子供であったため五十六と名付けられたという。旧姓は高野。五十六の祖父、秀右衛門、父、定吉と兄の譲と登はいずれも長岡藩士、河合継之助(つぎのすけ)に従って戊辰戦争に参加し、祖父は命を落としている。五十六は官軍に対して徹底抗戦を叫んだこの河合敬之助を深く尊敬していた。高野家はもともと儒学者の家系であったため五十六には武人としての血とともに文人としての血も濃厚に流れていたといえるかもしれない。
 1915年五十六33歳のとき山本家に養子に入り、姓を山本と改めた。山本家は山本帯刀(たてわき)が会津で戦死して以来断絶していた長岡藩家老の家である。34歳で会津藩士族の娘である三橋礼子と結婚。五十六の死後、女元帥といわれた人だが彼女に好意を持たぬ日本人が多い。
 五十六の性格については無口、寡言で人におもねることなど一切なかったが一旦親しくなると心置きなく話せる人間であったとされている。エリート意識など微塵もなく、常に海軍と日本の将来を考えて愛国の赤誠は非常に強かった。大変open-minded の人で、他人に威張ることなく、部下の敬礼に対してはいつも端正な敬礼で返していた。自制心の非常に強い人で、人を感服させる洞察力、先見性、見識、度量があった。無表情の中にときどききらりと光る目がある種の威圧感を与えたという人もいる。ある人は五十六は非常に茶目っ気のある人で新橋の芸者衆に人気があったが、意見を述べるときはいつも冷静、沈着、毅然、颯爽とした態度を維持したと言っている。言辞はいつも簡にして要を得ており、交渉は必ず単刀直入を旨とし、いらざる駆け引きを嫌った。だがときどき憂愁さを含んだ表情を見せることもあったらしい。
 筆者の姉2人は熱烈な五十六ファンだった。“五十六が生きていれば絶対に戦争には負けない”と戦時中、主張していた。また五十六の静かで哀愁を含んだ表情がなんともいえぬ魅力だとも言っていた。“Admiral of The Pacific-The Life of Yamamoto”を著したJohn Deane Potterによれば日本人は五十六の中に二つの顔を発見したという。一つは海軍軍人としての顔でありもう一つは神としての顔であったと。

2. 五十六の軍歴
 五十六は非常に利発な子供で小学校は首席で卒業し、長岡社の学資援助を受けながら1901年長岡中学を卒業。同年海軍兵学校(以下海兵と略す)に190人中2番で入学した。同期には生涯の友人であった堀梯吉がいた。04年海兵を11番で卒業したが、当時は日露戦争の真っ只中で装甲巡洋艦日進に乗り組み左手の指2本を失った。指3本を失えば廃兵となるところだった。
 09年初めてアメリカを訪問、11年海軍大学校(以下海大)乙種を卒業、さらに16年海大甲種を卒業。19年アメリカに駐在し、ボストンのハーバード大学で英語の勉強。このときアメリカの航空機産業の発達に注意を払い、アメリカとメキシコの石油産業にも大きな興味を抱いた。23年霞ヶ浦航空隊の教頭を命ぜられたが、26年大使館付武官としてワシントンに駐在。28年帰国したが、帰路ロスに立ち寄り、長岡出身で農場を経営していた新保徳太郎と山岸太三郎を激励している。これがロスとのただ一つの接点。同年練習艦五十鈴の艦長に命ぜられた後、航空母艦赤城の艦長にも任ぜられた。
 29年少将でロンドン海軍軍縮会議の全権随員を命ぜられたがその頃の五十六は条約派よりも艦隊派に近かったと思われる。艦隊派と条約派については後に説明する。
 33年第1航空戦隊司令官になる。34年第2次ロンドン軍縮会議が開催されたが、そのときも五十六は出席。軍縮条約が消滅して無条約時代に突入することを恐れた五十六はこのとき条約派に近い立場を取った。
 35年航空本部長に補せられたが、18インチ砲を搭載する戦艦大和と武蔵の建造に大西滝次郎とともに猛反対。その理由はどのような巨艦を建造しても、“不沈戦船などはありえない”ということだった。
 36年海軍次官となり、米内光政海軍大臣とともに2年7カ月間広田、林、第1次近衛、平沼各内閣に仕えた。米内、山本、井上の三国同盟反対、対米戦争反対の強い一本の筋が海軍内に出来上がった。
 55歳の39年連合艦隊司令長官に転出し43年4月18日ブーゲンビル島ブイン基地の近くで戦死した。
 五十六のことを簡潔に知るためには新潟新幹線長岡駅のすぐ近くの呉服町にある山本元帥記念館を訪問するといい。誕生から死に至るまでの経緯を知ることができるし、館の中央には撃墜された一式陸上攻撃機(航空母艦からではなく、陸上の基地から飛び立ったので陸上と呼んだ)の主翼部分や五十六坐乗の椅子が展示されている。またこの館の近くにある山本記念公園では復元された五十六の生家を見ることができる。玄関上、二階の五十六の二畳の勉強部屋は頭が天井に着きそうな部屋である。
アメリカは長岡が五十六の故郷であることを知っていた。記念館の老ガイドによれば敗戦直前に長岡は大空襲を受け、99%が焦土と化したそうである。焼け残った1%は当時駅前にあった米軍の捕虜収容所。ロス帰って調査したら45年8月1日の空襲で1,143人が死亡し、家屋1,985棟が焼失したとある。

3. 帝国海軍の対米戦略思想
 ここで当時、帝国海軍が抱いていた対米戦略思想を一瞥する必要がある。海軍には2つの戦略思想があった。ひとつは守勢的邀撃漸減(ようげきぜんげん)作戦であり他は大鑑巨砲主義である。守勢的邀撃漸減作戦とはアメリカ海軍を西太平洋上で散発的に迎え撃ち、徐々にその戦力を削ぎながら敵が日本本土に接近するまで待ち伏せてそこで本格的に逆襲して殲滅しようとするものである。日本近海で迎え撃てば長い補給路を維持しなければならないアメリカに比べ日本の守備力は3倍に自然増強されるというのがその理論的根拠であった。だが経済力の脆弱なものが、強力なものに時間を稼がせたら経済格差はますます増大し、経済的弱者はより不利な立場に追い込まれる。よってこの戦略思想は実際的とは考えられない。
 大鑑巨砲主義とは沈まぬ大きな戦艦を建造してこれに巨砲を搭載し、敵が撃ってくる前にこちらから撃ち始め、その長距離着弾能力によって敵艦を撃沈しようとするものである。この思想の下、口径18インチの巨砲をもつ戦艦大和が誕生し、その砲弾は42キロ先まで飛んだ。だが考えていただきたい。弾は42キロも飛ぶかもしれないが、どうやって42キロ先のものに照準するのか。これは飛距離のみを争うゴルフと同じで非実戦的と言わざるをえない。
 

4. 軍政家としての五十六
近時、五十六について名将であったという説と同時に彼は凡将であったとか愚将だったとの説もある。五十六の評価をするとき、軍政家としての五十六と用兵家としての五十六に別けて観察、分析する必要がある。軍政家とは軍人でありながら高度な政治的判断を要求される者のことである、用兵家とは現実に兵隊を動かす者である。まず軍政家としての五十六について述べてみたい。結論からいえば五十六は軍政家として大局を見るの明があり優れた識見の持ち主だった。
なお五十六に関する書物は国の内外で多数刊行されているが、軍政家としての五十六と用兵家として五十六の二面から捉えた書物を筆者は知らぬ。

A.条約派の五十六
 当時の海軍は大別して艦隊派と条約派に分かれていた。艦隊派は軍縮条約を破棄して自由に艦隊の増強をしようとする派であるが、条約派は条約を遵守して艦隊の増強を抑制しようとするものである。1929年から始まった第1次ロンドン軍縮会議に先に述べたように五十六は少将で全権随員として参加したが、このとき彼は明らかに艦隊派で補助艦比率の対米7割を強く主張した。若槻全権が69.75%の比率を呑むと五十六は猛烈にこれに抗議した。
 ロンドン条約は36年に消滅するため、34年から第2次ロンドン軍縮会議が始まった。このとき五十六はロンドン軍縮会議予備交渉の首席代表として参加した。34年に日本はワシントンの軍縮条約から脱退しており、さらにロンドンの軍縮条約から脱退すれば世界に無条約時代が到来することを恐れて五十六は艦隊派に属した。その理由は軍備の制限は我を制限するが同時に相手も抑止するものであるということだった。さらに世界の灯台が日本に対してその灯を消してゆく現実に着眼したものと思われる。だが日本は36年ロンドン条約からも脱退してしまった。

B.大艦巨砲主義に反対
 日露戦争に勝利して以来、日本海軍は大艦巨砲主義の影響下にあった。先に述べたように大艦巨砲とは大きな不沈性の戦艦に大きな大砲を搭載して敵の砲弾が到着する前にこちらの巨砲をもって敵の艦船を撃沈してしまおうとする考えである。つまり敵の手の届かない内にわれから斬って出ようとするものであり射程距離至上主義だった。それは具体的に18インチ砲を9門も搭載した戦艦大和、武蔵、それに途中から空母に変更された信濃の建造に現れてくる。
これに対し五十六は18インチ砲は宝の持ち腐れであり、わが巨艦は敵の戦艦に遭遇する前に敵空軍の雷爆撃により撃沈されてしまうと説いた。五十六は不沈戦艦というものは存在せず国防の主力は航空機で軍艦はその補助に過ぎないとした。つまり航空主兵主義、空母中心主義が国防の要であったのだ。この五十六の理論を強力にバックアップしたのが特攻隊生みの親で敗戦の翌日割腹自殺した大西滝次郎である。
 当時世界に無用の長物が3つあると囁かれていた。ピラミッド、万里の長城それにわが戦艦大和であったそうな。

C.日独伊3国同盟に反対
 36年五十六は海軍次官に補せられた。当時の海軍大臣は東条英機の男妾と言われた嶋田繁太郎。五十六はこの嶋田を“――あのおめでたい嶋はんがーー”と軽蔑している。海軍軍令部長は“グッタリ大将”とあだ名されていた長野修身(おさみ)。後妻が超美人であったため昼間の重要会議によく居眠りをしていた。天皇からなぜ12月8日を真珠湾攻撃の日にしたかと問われたとき、“アメリカの7日は日曜日でアメリカ軍将兵は遊び疲れて日曜日はグッタリしているからこの日がいいでしょう”と回答したと言われている。当時の政府は2頭政府だった。海軍省のほかに海軍軍令部が存在した。両者の責任と権限が明確でなくときにはお互いに責任のなすりあいを行った。陸軍では陸軍省のほかに参謀本部(或る人は参謀とは無謀、乱暴、横暴のことだという)があり海軍と同じような問題を抱えていた。海軍にも陸軍にも人がいなかったということである。
 間もなく海軍大臣は米内光政に変わり、37年には軍務局長は豊田副武(そえむ)から井上成美(しげよし)に変わった。ここに米内、山本、井上のトリオが形成された。五十六は37年2月から39年8月まで廣田、林、第1次近衛、平沼の各内閣に仕え、2年7か月にわたり三国同盟に反対することになった。このトリオは若い海軍将校たちの思い上がった下克上の風潮を完全に抑えた。阿川弘之はこのときが日本海軍のもっとも輝ける時期だったと指摘している。だが米内、山本が辞職すると元の木阿弥に戻ってしまった。
 五十六はドイツを信用していなかった。とくにナチスドイツを。また3国同盟を締結すれば旧秩序を破壊せんとするドイツの勢いに巻き込まれ必然的に現状維持の英米との戦争になることを予測していた。五十六は“日米戦争は一大凶事なり”と言って3国同盟に猛反対した。世界の趨勢はドイツではなくて依然として英米のアングロサクソンによって支配されていることを五十六は熟知していたからだ。
 開戦の直前、首相だった近衛文麿との荻窪の荻外荘(てきがいそう)における会見で五十六が“やれと言われれば半年、一年は大いに暴れてみせる。だが2年、3年では自信なし”と言ったとされている。半藤一利もこの説をとる。だが工藤美代子は五十六のこの言辞は近衛の手記から出たものに過ぎず大変疑問だと述べている。責任感のかけらもない近衛や外務大臣だった松岡洋介を五十六はいつも攻撃していたそうである。
 一方、五十六は近衛に対し、“3国同盟が締結されたのは仕方ないが、対米戦争の防止には最大限努力して欲しい”と頼んでいるそうだ。これは事実であろう。だが惜しいことに五十六は最後まで対米戦争“ノー”とは言ってくれなかった。
 

5. 用兵家としての五十六
 現場で作戦指揮をとるのが用兵家だが、五十六に関しては用兵家としても天才的なイメージがあるものの結論を先に言えば五十六は用兵家としては凡庸であり、勇気がなく臆病で、お粗末な戦術、戦略思想に基づいていたずらに消耗を繰り返し大局を判断するの明を欠いた。
 昔、ニューメキシコ州のアルバカーキーの町でアメリカ海軍の元提督という男に会った。筆者から帝国海軍の戦いぶりについて意見を求めた。こちらとしては、帝国海軍は劣悪な条件下にあっても善戦したとの回答ぐらいが来ると期待していた。だがその期待はまったく裏切られた。彼はアメリカ海軍は帝国海軍をチキンだと見做していたと言ったのだ。チキンとは臆病者を意味する。帝国海軍はあと一押しすれば完勝できたもかかわらず、勝を粘らずいつも早々に引き揚げてしまったそうである。当方に言わせれば深追いしないのがその伝統であるかもしれないが、小成に甘んじ貪欲なき淡白すぎた戦闘行為が提督にはチキンと映ったらしい。
 先ほど紹介したPotterは、帝国海軍はイギリス海軍より多くを学んだが、イギリス士官の甘い端麗なマスクにのみに惚れてそのマスクの裏側にあるむき出しの闘争心を学ばなかったと記している。さらにイギリス紳士という一つの鋳型の中に自分をはめ込み、彼らが何を考えているかという点を深く洞察しなかったとも述べている。
 以下に五十六が関与した4作戦についての私見を述べたい。

A.真珠湾攻撃の失敗
 五十六は帝国海軍の伝統的、守勢的、消極的、対米戦略思想を捨てて自ら撃って出るという積極的戦法を編み出した。Potter は五十六の対米戦略思想では真珠湾湾攻撃は当然の帰結であったと記している。ではその戦い振りはどうだったか。日露戦争以来、我が海軍の伝統は“戦場近くに指揮を執れ”“旗艦陣頭主義”“陣頭指揮”ということだった。だが五十六は真珠湾攻撃にもそのあとのミッドウエイ攻撃にも最前線で指揮を執っていない。瀬戸内海の柱島錨地か敵機の行動範囲外のところにいた。これはいかなる理由によるであろうか。チキンと言われても仕方ないか。
 いずれにせよ真珠湾攻撃は大失敗であった。アリゾナ、カリフォルニア、オクラホマ、ネバダ、ウエスト・バージニアなどの旧式戦艦を沈没させさらに13隻に損傷を与えることができた。だが真珠湾の水深が浅かったため、アリゾナ、ユタ、オクラホマの3戦艦を除くすべての艦船は引き揚げられ、修復され後日戦列に復帰。最大の悲劇は正式空母を1隻も撃沈できなかったことだ。
 さらに巨大石油貯蔵庫、潜水艦基地、艦船修理所、海軍工廠などは無傷。戦艦なしでは戦争ができないと思っていた帝国海軍の意思に反し、米潜水艦隊の幹部は彼らが直ちに作戦行動が可能であることをキンメル提督に報告している。わが機動部隊の南雲長官は第1次攻撃隊を第1派、2派に分けて出撃させたものの、小成に甘んじて第2次攻撃隊と出動させなかった。五十六は南雲を深く信頼せず、このことを予測していたと工藤美代子は言うが、ではなぜ五十六は南雲に対し第2次攻撃隊を発進させよと命令しなかったのか。
 世間では五十六が真珠湾攻撃の意図を訊かれたとき、“米太平洋艦隊に大打撃を与え米国民の戦意を回復できぬまでに喪失せしめることにある”と宣言したとされている。だが本当に五十六がそんなことを言っただろうか。これは世間の思い込みだろう。アメリカの軍事、経済力に精通し、しかもアメリカの国民性と戦史を知る者としてこんなバカな発言はできないと確信する。アメリカには太平洋艦隊のほかに大西洋に大艦隊が存在したし、さらに空母25隻の建造計画もあった。事実、世間の思惑とは反対に開戦前、アメリカ国民の85%が対日戦に反対であったのが、真珠湾の一撃により100%が戦争賛成に廻ってしまった。
 余談ながら五十六が真珠湾の計画を発表したとき山口多門を除きすべての提督が反対したが、一応の成功を収めて終了すると“真珠湾は俺がやった”という提督がたくさん出てきたそうな。

B.ミッドウエイの敗戦
 わが驕れる連合艦隊は42年6月5日ミッドウエイ島の近くで、赤城、加賀、蒼竜、飛竜の虎の子正式空母4隻と航空機322機それに百戦練磨のパイロット多数を失い完敗した。植民地軍相手の緒戦の戦勝に勝利に酔い、“敵には戦意が乏しい”とアメリカを甘く見た慢心の結果である。でもその一寸前の42年春の花見はそれまで日本民族が経験したことのない最高のものだった。筆者は当時のことをはっきり記憶している。桜の木の下で大人たちは“勝った、勝った”で酔いしれていた。兵隊を見ると酒食でもてなし‘アメリカ兵は日本兵を見ると泣いて逃げるそうだ“、”戦争はもうすぐ終わるから兵隊さん、早く戦地へ行きなさい“、”アメリカ海軍は日本の病院船しか攻撃できない“とわめいていた。
 Potter はミッドウエイで大勝したら五十六は東条に圧力をかけて米国との講和にこぎつける計画であったという。彼はもし五十六がミッドウエイまで来て指揮をとり、戦艦と巡洋艦郡をこの海戦に参加させ、さらにアリューシャン列島まで陽動作戦に行った空母の瑞鶴を参戦させていたら日本は楽勝したであろうとも書いている。
 では講和の可能性はあったのか。42年春、ワシントンに特使として派遣されハル国務長官とのネゴを重ねた来栖三郎大使らが帰国した。東条が彼らの慰労のためパーティを開催したので来栖はこれをチャンスと東条に対してアメリカとの早期講和をすすめた。だが東条は有頂天になっていて聞く耳をまったく持たなかったし、来栖は東条の単細胞(simplicity)ぶりに腰を抜かすほど驚いた。
 軍事学には避けてはならない鉄則がいろいろある。作戦間隔もその内の一つだ。連合艦隊の将兵は真珠湾攻撃、マレー沖海戦、インド洋への遠征、スラバヤ沖海戦などで疲労困憊の極に達していた。近藤副提督は彼らをしばらく休養させるよう進言したが五十六はそれを拒否しミッドウエイ海戦を急がせた。アメリカでは五十六のせっかちな性格が日本の大悲劇を招来したとしている。この敗戦の結果に対し五十六は責任を追及されなかったしまた責任を取ろうともしなかった。半藤一利はその頃帝国海軍は無責任主義の染まっていたという。
 戦争にはいつもインテリジェンスが必要不可欠である。インテリジェンスとは知性ではなくて軍事用語では敵情判断を意味する。Potterはミッドウエイのころから帝国海軍にインテリジェンスが欠如しすべて推測(guesswork)に頼っていたと述べている。
 ミッドウエイの敗戦により短期決戦を目指した五十六の夢は完全に打ちひしがれた。アメリカ側はその後日本海軍の作戦は支離滅裂になったと伝えている。開戦へき頭、“本職と生死を共にせよ”と訓辞した五十六の強靭な闘志は衰えてしまったかもしれない。
ミッドウエイの敗戦を日本政府は秘匿とし、反対に戦果をあげたような発表をした。当時、小学校では黒板に先生が大本営の発表する戦果を書き、これを生徒に読ませていた。敵の空母2隻を撃沈したが、当方損失も1隻撃沈、1隻大破というものだった。いつもの華々しい戦果の発表に比較して、子供ながら我が方の損害の多さに驚いた。五十六は“嘘を言うようになったら戦争は必ず負ける”と言っていたが事実そのようになった。

C.第1期ソロモン消耗戦
 42年8月7日から43年3月7日までのガダルカナル島(以下ガ島と略す)を巡る大消耗戦である。(Attrition without intermission)陸軍の戦死者14,550、戦病死4,300、行方不明2,350、海軍は24隻、13万5千トン、海空軍機893機、パイロット2,362人を失う。消耗戦になれば軍事力と経済力の弱い貧乏人の方が必ず負ける。
 ガ島は陸海軍の本拠地であったラバウルの南東1,100キロにあった。攻める方の力がある線を越えると減退し、反対に退却する方が勢いを得て攻守そのところを異にする一歩手前の線が攻勢終末点である。攻勢終末点を越えて進撃してならないのも軍事学の鉄則である。日本はこの攻勢終末点を逸脱し、実力不相応に侵攻しすぎた。無定見に戦力を消耗するのではなく、もっと早く戦線を収拾すべきであった。
 空手では大男と対決するときは正面攻撃を避け、横から攻撃を仕掛けろと教える。大男でも横からの攻撃には弱い。また時間的に余裕のないときは体を小さくして思い切って相手の中に飛び込んで死中に活を求めるべきだという。空手と戦争を比較することは無理だが、帝国海軍には正面攻撃より他に方法はなかったのか。大局に着眼し早く防御の態勢を固めるべきであったと思う。
 ガ島からの徹退を小学校でも徹退とは言わせず“転進”と言えと教えられた。これも嘘の糊塗である。慶応大学のある教授がこれを英語で“strategic retreat”と説明したら、陸軍から“advance by turning”と言えと横槍が入ったそうだ。
 その後第2期ソロモン消耗戦が展開されるが五十六はそのときはもうこの世にいなかった。
 なぜ見込みのない消耗戦を続けたのか、五十六の責任はやはり重大であったと思う

D.“い号作戦”と戦死
 42年8月カロリン諸島のトラック島に連合艦隊の本部が移され五十六は大和に座乗した。戦艦の大和や武蔵には最早出場の機会がなく専ら将兵の宿舎として利用されていた。アメリカではこの事実を知っていて、これら冷房の完備した2艦をヤマトホテル、武蔵旅館と呼んでいた。
ガ島撤退後ラバウルの航空隊は連日敵の空襲を受けていた。この頃になると日本人パイロットの士気は著しく低下した。搭乗機が撃墜されるとアメリカ人パイロットは素早く救助されたが日本人パイロットは放置された。撃墜しても撃墜しても敵は新たな航空機が補充され物量の差を思いしらされた。士気の低下に対してはmorale builder(士気の再建)が必要だった。五十六のラバウル行きはこの点から捉えるべきだろう。
この敵の航空兵力を撃滅し、ニューギニア東海岸への補給路を遮断するための攻勢が“い号作戦”であった。航空機約380機が参加した日本最後の大規模航空決戦となった。43年4月7日から始まり11、12、14日と出撃、16日に終了したが戦果ほとんどなし。わが方はゼロ戦18、艦攻16機、一式陸攻9機が撃墜された。
 工藤美代子は五十六最後のこの作戦は五十六が命令した作戦ではなくて。現地の司令官に任せた作戦であったと記述している。もしそれが本当とするとその頃五十六の闘争心もすでに萎えていたかもしれない。だとすればラバウル行きは彼自信の士気の高揚のためでもあったとも推測される。
 五十六は4月3日トラック発、その日の午後ラバウルに着いた。出撃部隊の士気の鼓舞が主目的だったろう。17日作戦の反省会があり、翌18日ブーゲンビル島のブイン基地に移動しようとした。19日にはラバウルからトラックに帰還する予定だったらしい。だがブインの目的地に到着する15分前に待ち伏せしていた米軍戦闘機P38, 16機に撃墜されてしまった。アメリカ側は五十六の時刻厳守の性格を知っており、彼の時刻厳守の習慣がアダになったとされている。ハルゼー提督は五十六を邀撃、撃墜したとき“かもの袋の中に一匹の孔雀(五十六のこと)がいた”と言って大変喜んだが、同時に米首脳部は五十六無き後、講和のための交渉相手が日本軍部の中にいるかどうかと心配したと半藤一利は述べている。事実アメリカ海軍首脳部の間では次のように言われていた。“山本は一人だけで彼を継げる者は一人もいない”(There was only one Yamamoto and no one can replace him.)
 アメリカの将兵の中で真珠湾攻撃以前、五十六の名前を知る者は誰もいなかった。だが真珠湾の後、五十六を知らぬ者はなく、彼は全アメリカ人の怨嗟の的となってしまった。邪悪の権化、スニークアタックの首謀者、後ろから人を刺す殺人鬼などの汚名が冠せられた。そのため五十六殺害の計画は復讐作戦(Operation Vengeance)と呼ばれ、周到な準備がなされた。アメリカは山本を殺せば日本国民に精神的大打撃を与えうると確信していた。(--it would stun the nation psychologically---)
 一方、日本側では五十六のブイン行きを信書使で知らせようという意見があったが、其の年の4月1日に新しい暗号ができたばかりだから暗号で知らせようということに決まった。ところがこの新暗号をアメリカ軍はアラスカ・ダッチハーバーの深い地下壕の中で4月14日朝までに解読に成功していたのだ。彼らのインテリジェンスには驚くほかない。なお五十六に仕えた参謀は全部で12名いたが通信、暗号の参謀はいても情報参謀は一人もいなかった。
 五十六が戦死したのは43年4月18日だったが、これが日本国内で発表されたのは同じ年の5月頃だったと思う。筆者は小学校の5年生でこれを先生から最初に聞いた。先生が“山本大将が戦死された”と発表すると、ざわざわしていた教室の中が一瞬シーンと静まりかえった。いつもは東京の方向を向かせて“天皇陛下に敬礼”と言って礼をさせていた先生がこのときは“山本大将に最敬礼”と“最”をつけた。先生も気が動転していたのだろう。日本国民はしばらく呆然自失の状態にあり、子供ながら五十六無しで戦争に勝てるのかとの危惧の念がよぎった。彼の国葬は6月5日、日々谷公園で行われた。

6. 終わりに
 日本や世界の偉人について調査研究することは筆者の趣味の一つである。今までに日本人では石川啄木、野口英世、ジョン・万次郎を取り上げ、外国人ではドイツのビスマルク、トルコのアタチュルクなどに傾倒した。今回、五十六を書くについて新潟長岡市の山本五十六記念館、東京赤坂の水交会、広島江田島の旧海軍兵学校、舞鶴の旧海軍機関学校、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各軍港、真珠湾などを廻り五十六を知る人にも会うことができた。
 各種資料を集めて書き出したとき不思議な体験をした。それは対米戦争に反対しながらこれに巻き込まれ全海軍の先頭に立って戦わざるをえなかった五十六の無念さが筆者に乗り移ってきたように感じたのだ。他の偉人たちの研究では一度も感じたことのなかった不思議な経験である。
一時はアメリカ全国民の敵(personal foe of every American)とまで言われた五十六だが現在彼はこれをどのように理解しているだろうか。また用兵家としての五十六は凡庸だったと失礼なことを書いた筆者を五十六は許してくれるだろうか。
 五十六が戦死してすでに66年。南冥の果てに散華したこの不運の知将に対して心からの冥福を祈りたい。

主たる参考文献
John Dean Potter“Admiral of The Pacific-The Life of Yamamoto”William Heineman Ltd.
1965
阿川弘之 “山本五十六 上、下巻”新潮文庫 2004
半藤一利 “山本五十六” 平凡社 2007
工藤美代子 “海燃ゆ”講談社 2004
岡本孝司  “日本敗れたり”創造書房 2003
山本義正  “父 山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉”恒文社 2007

古枯の木―アメリカ在住35年以上。歴史愛好家。著書に“アメリカ意外史”など。
筆者の先生は国際法と国際政治の権威だった。その先生が論文を書くについてよく言っていたことがる。多くの資料に目を通すことは勿論必要だが、ベストと思われる本一冊を徹底的に読み果ては“ヨミ”をなすぐらい読みこなせということだった。読みとヨミは違う。今回それに近かったのは工藤美代子の上述の書物である。さらに先生は日本の本だけでなく外国の本も一冊は読めと教えてくれた。今回の外国の書物はPotterのそれである。

古枯の木-2009年2月26日記す。

2009年2月25日水曜日

Blueberry no

Blueberry の効用
古枯の木
 
 アメリカではBlueberry は目によいとされている。これに関するる有名な話がある。太平洋戦争中、ある青年が米空軍に入隊し、戦闘機のパイロットとして戦地に赴いた。戦闘機のパイロットにとり目は死活的に重要である。そこで青年の母親はBlueberryの乾燥したものを青年に送り続けた。その甲斐あって青年は大役を終えて無事生還することができた。
 
 筆者も2年ぐらい前からフレッシュとドライのBlueberry を食べ続けている。さらに中国では目のために“クコ”の実をたべると中国人から聞いたのでBlueberryと一緒にクコの実も食べてきた。

 先週眼科医に定期健診に出かけた。驚いたことに最近下がりぱなしの視力が少し回復したと告げられた。さらに目の健康状態が大変いいので今まで6カ月に一度行っていた定期健診は今後1年に一回でいいと言われた。Blueberry が効いたのかクコの実が効いたのかそれは知らぬ。

 最近アメリカ人の間では“Thank you VERY much.”と言う代わりにBlueberryに感謝して“Thank you BERRY much.”と言うそうだ。

古枯の木―76歳、極めて健康、2009年2月24日記す。

2009年2月22日日曜日

ゴールドハンター万次郎

ゴールドハンター万次郎
古枯の木

 アメリカ・カリフォルニア州のゴールドラッシュは1848年1月24日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。金を産出した地域をゴールドカントリーと呼んだが、これは南のマリポサから北のシエラシティーまで南北250マイルにも及ぶ。最南端のマリポサにはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れるとアメリカ中が錯乱状態に陥った。世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた男たちが集まって来た。アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は一人もゴールドラッシュには来ていないと記している。だが少なくても一人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられた後、アメリカ東部のマサチュウセッツ州のヘアへブン(Fairhaven)の町で教育を受け、航海術や捕鯨術をも学んだ。1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。直ちにカリフォル二ア行きを決心し、ホイットフィールドに別れを告げた。
 当時アメリカ東部から西部に来る方法は三つあった。一つは陸路で主にミズリー州のセント・ジョセフかインディペンデンスを出て、北路をとり、オレゴン、カリフォル二アの両トレールを通りアイダホ州からネバダ州を経由して北カリフォル二アに入る方法だった。全長3,200キロもあり、6カ月を要し、極めて危険だった。危険とは聳え立つ山々、熱砂の砂漠それにインディアンの攻撃だった。馬の世話から始めてやるべきことが山とあり、慣れない炊事、洗濯、裁縫もしなければならなかった。しかも悪いことにこの方法による出発の時期は5月中旬だけだった。長い酷寒の冬、その後の春の雪解け水と泥濘などが出発の時期を限定したわけである。
 かつて万次郎がどのようにして西部に来たかについて論じられたことがあると聞く。万次郎がゴールドラッシュを耳にしたのは1849年の9月であり、彼が翌年の5月まで待っていたとはとても考えられない。よって陸路説に賛同することはできぬ。
 海路による方法は二つあった。一つは南米チリの最南端のケープ・ホーンを廻る方法で主にニューイングランド地方の鉱夫がこの方法によった。ケープ・ホーンは海の岩と峻厳な気候のため極めて危険で、航海の総延長2万9千キロ、通常6カ月以上かかった。中でも狭隘で560キロにも及ぶマゼラン海峡は日に50回も気候が変わるといわれるほど困難を極めたところだった。
 他の海路による方法はパナマ・コネクションと呼ばれるもので、最も多く用いられた方法であり、最大の利用者は中部及び南部の鉱夫たちだった。主にニューオルリンズを出てパナマの東海岸まで船で行き、その後南北アメリカをつなぐパナマ地峡をガイドに守られ、雨、湿気、風土病と戦いながらパナマ西海岸に来る方法。すべてがスムーズにゆけば4カ月だったが、最大の問題は西海岸からカリフォル二アに行く船便だった。船がサンフランシスコに入ると船員たちが船を捨てて、ゴールドカントリーに走るケースが多かった。そのため常時500隻ぐらいの船がサンフランシスコ湾に捨てられていた。船便が少ないため一時パナマには2千人以上のウエイティングリストができたという。
 万次郎はニューイングランドから来た人だからもちろんケープ・ホーンを廻る方法を取った。七つの海を駆け巡って航海術になれた万次郎は船中でアルバイトをしたと思われる。チリのタルカウアノに立ち寄っている。
 1850年5月下旬サンフランシスコに上陸した。ゴールドラッシュのためサンフランシスコは行き交う鉱夫でいつも賑わい、すでに大きな町になっていたが、万次郎は3日間滞留した後ここから川蒸気船に乗ってその北東約160キロのサクラメントまで行った。サクラメントは現在カリフォル二ア州の州都のあるところで、ここにはサターズ要塞があった。名前は要塞でも実際は交易所でその中ではパンを焼いたり、織物を織ったり、ろうそくや樽の製造などをしていた。この要塞の経営者は金の発見者ジム・マーシャルのボスであるジョン・サターである。350人余りのインディアンが働いていた。
ここからわずか東に65キロ行ったところに金の発見されたコロマが位置する。万次郎は当然このサターズ要塞に来て食料品や日用品を購入したものと思われる。
 その後金山に入ったわけだが、それがどこの金山であったか今日に至るも確証はない。なにしろ金山や町は一晩で開け、翌朝は消えていった。金についてはそれがどのように生成されたか分からないが、東のシェらネバダ山脈の中で作られ長年月をかけて山の裾野や平野に流れて来たものと想定されている。それの比重が19.3と非常に重かったため川に流れた金は川底に沈んだ。川底に沈殿した金を掘り出すために川の流れを人為的に変える。金の採掘に水は必需品でそのために川の流れが変えられることもあった。平野で発見される金は春の雪解け水に流されたものである。
 万次郎はゴールドラッシュ参加の後、ホノルルを経由して1851年8月27日沖縄摩文仁の丘に上陸を果たすが長崎で奉行の取調べを済ますと、52年8月25日四国の高知に来てここに10月1日まで滞在する。その間土佐藩の河田小竜という取調べ官が万次郎から聞いてことを書き留めている。これが漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という本で万次郎研究上極めて貴重な本である。その漂巽紀略によれば万次郎はサクラメントを出発した後あるときは馬に乗り、あるときは御輿に乗りまたは歩いて難所を進むこと5日で“エエンナ”というところに到着したとある。当時アメリカには日本的な御輿などは存在しなかったが、ここでいう“御輿”が何を意味するのか不明である。御輿をpalanquin(一人乗りのかご)と英訳している本もあるが、御輿に乗ったアメリカ人というものを見たことはない。エエンナの廻りには高山が聳え立ち、夏であるというのに山は雪を被っていた。
 漂巽紀略を英訳したJunya Nagakuni 氏とJunji Kitadai氏はその著“Drifting Toward The Southeast” の中でエエンナをSierra Nevadaと訳している。これが適当かどうかは分からぬ。
エエンナには三つの河が流れ、北支流(North Fork)、南支流(South Fork)、中支流(Middle Fork)といった。現在の地図を見てもエエンナを想像させるようなところはどこにもない。当時の町や村は瞬時に興り、瞬時に消えていったが、1800年代の地図を見てもエエンナかまたはそれに近い地名はない。
 当時の鉱夫たちの平均像は次の通りである。鉱夫が一人で金の採掘をすることはもちろんあったが、多くの場合は4-5人でグループを組み分業と協業を原則として働いた。各グループはラバを2-3頭つれ、ラバには食料品、日用品、食器類、ショベルやピックなどの採掘の道具、水を入れたタンク、毛布、テント、火薬それにライフル銃などを運ばせた。万次郎はテリーという男とヘアへブンでゴールドカントリーに行くことを話していたらしいが、実際テリーがいっしょだったという記録はない。万次郎は常に拳銃2丁を持っていたそうである。赤、グレイまたはブルーのフランネルのシャツを着て、ズボンは分厚い頑丈なリーバイスのもの、ハイブーツをはいていた。彼ら鉱夫の一日の平均歩行マイルは20マイルであった。万次郎が5日歩いたとあるからマイル数にすると100マイルであろう。
 中浜博氏は万次郎の4代目で名古屋大学とスペイン・マドリッド大学の医学博士である。氏はその著“中浜万次郎”の中で万次郎の金山をフェザー河(Feather)の北支流のあたりと推定しておられる。だがフェザー河の北支流はゴールドカントリー最北端の金山のオロビル(Oroville)やチェロキー(Cherokee)よりもはるかに北方を流れており、この推定には賛同しかねる。ここまでサクラメントから5日ではとても行けぬ。当時の鉱夫の多くは
サクラメントから東進しプラサビル(Placerville)から北に針路をとり、コロマの地でアメリカ河周辺の地勢を調査し、河の砂を瓶につめて、そこから北、南に散って行った。この事実を考慮に入れると中浜博氏のいわれる土地までとても5日では行けぬ。
 これは筆者の推定だがはるか南のユバ河(Yuba)のことを言っているように思える。ユバ河にも北支流、南支流と中支流の三つの支流がある。中浜博氏は写本などでノースリバーと
言及されているといわれるが、多分ユバ河の北支流のことだろう。
 ではユバ河の北支流にはどんな金山があったか。ユバ河の北支流沿いでダウニー河との合流地点にダウニービル(Downieville)という鉱山がある。サクラメントから110マイルの地点にあり5日で行けるところだ。河が合流しておれば当然金が豊富にあることが想定される。ゴールドカントリーの最東北端の金山がシエラシティー(Sierra City)であるが、ここはゴールドカントリーの最終の金山でダウニービルから東にわずか13マイルの地点だが峻険な山が多く、海抜4,187フィートでゴールドカントリーの中では一番高いところだ。ダウニービルという有望な金山があるのにわざわざ万次郎がシエラシティーまで来たであろうか。ユバリバーの北支流にはさらにグッドイヤーズという金山があるがこれがオープンされたのが1852年だからそのとき万次郎はもうゴールドカントリーにはいない。
 中浜博氏は万次郎は“ノースリバー”の近くの金山に入ったとしているが、ノースユバリバーの“ユバ”が脱落してノースリバーと表現したと考えることに無理はないと思う。
 ではダウニービルとはどんな町であったかを簡単に説明したい。この町はかつてザ・フォークスと呼ばれていた。たぶんユバ河の北フォークのためだろう。1849年スコットランド人のウイリアム・ダウニーという男がやって来て、もし町名をダウニービルに変えてくれるなら金をやろうといって金を道路に撒いたのでこの名前に変更されたという。真偽のほどは分からぬ。
 ダウニーはこの年他のスコットランド人と一緒に河の上流で採金することを決め、グループを組む。ある晩、鮭を捕らえてボイルして食べたが、翌朝鍋を見たら驚くなかれ鍋の底に金塊があったのだ。全員狂気し、寒い冬でも朝から晩まで働き続けた。最初はグループ全体で一日500グラムしか採取できなかった金が最後は一日2キログラム近くも得られるようになった。ダウニーは大変寛容な男で、後にダウニービルの市長になった。多くの人を助けたので彼の名声は中米のパナマまで響いていたという。1852年の最盛期には人が2,000人も住んでいて、一日一人で300ドルも稼げる日があったらしい。現人口は325人。
 この町には北ユバ河とダウニー河の合流するところに三角州がある。この場所はティン・カップ・ディギングと呼ばれている。ティンはすずのことであり、昔鉱夫たちがこのすず製のカップに熱いコーヒーを入れて飲んでいた。ここで3人の鉱夫たちが金の採取をしていたが、すずのカップを金でいっぱいにするのにさほど時間がかからなかったといわれている。彼らは良いときは11日間で1万2千ドルも稼いだそうである。
 筆者は万次郎のような機敏な男がダウニービルのように有望な金山を見逃すはずはないと確信する。たぶんここが彼の金山であったろう。2003年の夏、このような思いをもって再度この町を訪問してみた。町のビジターセンター、新聞社、図書館に行ったが日本人がゴールドラッシュに来た記録はないという。そのときダウニー河の近くにあるパキスタン人が所有するモテルに宿泊した。特別に河のせせらぎの聞こえる部屋を取ってもらった。一晩このせせらぎを聞きながら万次郎はどのような気持ちでこのせせらぎを聞いただろうかと想像した。
 ゴールドラッシュは一大ロマンであり、各所に面白い話や悲しい話がある。ダウニービルにも面白い話と悲しい話が一つずつある。詳しくは他の機会に譲りたい。ゴールドラッシュ時代の古い建物がいまだ数多く残っており、四囲を高い山に囲まれた静かな町である。平地が少なく山の中腹まで家が散在する。そのため空が狭い。
 金が発見されたのは1948年であるが、この年は地表に金がたくさんあった。アメリカはよく犯罪王国といわれるが、この年カリフォルニアには犯罪がまったく無かったそうである。他人の物を盗むよりも、自分で金を拾ったほうが早かったためである。万次郎が金山に入った1850年はカリフォル二ア全体で200万オンスの金を産出した。51年から54年はゴールドラッシュの輝ける日々であり毎年約350万オンスの採金がなされた。ところがその開始から17年を経た65年には産出額は86万オンスにまで減少してゴールドラッシュの“ラッシュ”は消滅し、採金は普通の企業に発展していった。万次郎がカリフォル二アに来たタイミングは大変よかったといえる。
 佐渡の金山は1601年に始まり1989年に終了するまで389年も続いた。なぜこんなに大きな差異が発生したか。カリフォルニアでは機械が導入されたが、佐渡ではたがねとのみによった。カリフォル二アではベンチャーキャピタルが存在したが、佐渡ではそんなものは微塵もなかった。
もっとも大きな差は金を掘る鉱夫たちの質の違いである。佐渡の鉱夫たちはホームレスか前科者が多く、その生活は悲惨を極め、彼らは米のためにのみ働き奴隷と変わりなかった。佐渡の金山は地獄の鉱山といわれ、全体が灰色で、暗くて悲しい話が多い。都落ちして田舎を廻ることを“どさ廻り”というが“どさ”は“さど”から来ている。ところがカリフォル二アの鉱夫たちは自由、独立で熱意、覇気があり“のぞみ”もあれば“ひかり”もあるという新幹線方式だった。人種、皮膚の色、宗教、言語、経験、教育、国籍に関係なく誰でも参加できる国際的大イベントであり、奴隷制度はどこにもなかった。彼らには明確なモチベイションとチャレンジがあり、それは金の発見だった。富に対する平等な機会が存在したといえる。もちろん鉱夫たちには苦しみも失敗に対する恐れもあったが、成功に対する期待と夢が同時に存在した。ゴールドカントリーには悲しい話もあるが、面白い話も山とある。ゴールドカントリー自体が万次郎の性格に大変適合していたといえるだろう。万次郎は良い国に来たものだ。
 マーシャルがコロマで金を発見したとき、アメリカには鉱業権にかんする法律は皆無だった。だが自治の観念の発達した鉱夫たちは分捕り合戦の無法状態を好まずラテン・アメリカやヨーロッパで数世紀にわたり発達した規則や慣習法を参考にして紛争の解決をはかった。1849年、キャンプごとにコミッティーが設立されて登記人が選定された。一人が占有できる鉱区の面積はコミッティーごとに異なった。例えば、あるキャンプでは河に面した正面は7メートルまで、奥行きは17メートルまでと決めたり、また他のキャンプでは6平方メートルとしていた。自分の鉱区内では穴を掘ってつるはしやショベルを置くようにして先占の意思表示をし、さらにその権利を継続的に保持するためには金の採掘と金の水荒いが必要とされた。このときの登記簿があればそれをチェックして万次郎の名前を発見することができるかもしれない。
 万次郎が金の採掘方法をどのようにして習得したか。最初万次郎はオランダ人のところで雇われたらしい。だが彼が賃金の支払いを拒否したためすぐに独立した。その頃金の採掘は2本の腕に頼っており、高度な技術や資本など必要とされなかった。一日採金すればエキスパートと呼ばれたそうである。
 万次郎がどのような器具を使って採金したかも分かっていない。一人で採金しておればパンニングといって直径30センチぐらいの底の浅い平なべに砂と岩を盛り水を入れて重い金を底に沈殿させる方法を取ったであろう。またはクレイドルといって長方形の木箱の上に篩(ふるい)が付き下に溝を施したものがある。砂を上から入れて篩にかけて大きな岩などを取り除き、後でバケツ一杯の水を砂にかける方法である。水と泥は流れ金が底の溝に溜まるという仕組みである。このクレイドルに長さ3-7メートルのレールを取り付けたものがロングトムである。幅は通常30センチ、1850年夏頃から使用され始め、通常3-6人が分業と協業で働いた。レールは上下2重の構造になっていて、上のレールの下面には小さな穴のあいた金属製のシートが張られ、金と小さな砂が下のレールに落ちるようになっていた。ロングトムの最大の欠点は大量の水が必要だったことである。
 もし万次郎が複数人で働いておればたぶんこのロングトムを採用したであろう。足摺岬の先端にJohn Mung Houseという万次郎に関する博物館がある。この中に万次郎の採金の様子を絵に描いたものがある。ここで使用されているものがロングトムでもある。
鉱夫の他の平均像は次の通りである。彼らは土曜日の昼ごろ金山から帰ってくる。そのときは皆金持ちになっている。ところが月曜日の朝はほとんど無一文である。なぜか。ゴールドカントリーにはものすごいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるショベルが60ドルもした。ホテルでトースト1枚が1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルと言われたほどだ。さらにアメリカ人は大変なギャンブル好きである。他に娯楽がないのでギャンブル場はどこも大繁盛した。鉱夫が最後のドルをかけて失い、悄然とギャンブル場を去る光景がどこでも見られた。英語で表現すると、Thousands have lost their last dollar and left the gambling places in despair. となる。万次郎は多分ギャンブルすれば必ず負けることを知っていてギャンブルには手を染めなかったと思う。それとも早く儲けて、早く家に帰ろう(quick fortune and speedy return home)という考え方が働いたかもしれない。または苦労せずに儲けた金はすぐに失われる(Many earn money with ease and spend as fast as they make it.)という観念の下にギャンブルを避けたとも思われる。
 鉱夫たちの最大の難事は採掘した金をどこに隠すかということだった。鉱夫たちの多くはテントの中で暮らした。他人の金を少しでも盗めば死刑になることもあった。インディアンの子供が極めて少量の金を盗んだだけで死刑になっている。万次郎はどうやって自分の金を隠したであろうか。
 万次郎は70日で600ドルを稼いだといわれている。よくこれが現在の価値でどるぐらいかという質問を受ける。アメリカで金の公定価格が35ドルと最初に決められたのは1853年である。万次郎が採金していた頃の金相場は1オンス当たり15ドルだった。600ドルを15で割るとオンスが出てくる。40オンスである。現在金の価格は1オンス当たり700ドルぐらいだからこれに40を掛けると現在の価値が出てくる。
 人間は稼げば稼ぐほど欲の出てくるものである。Human avarice knows no bound.である。ではなぜ万次郎が600ドル稼いだ時点で採金を止めたかの疑問が出てくる。万次郎は無欲恬淡だったから帰国の費用さえ得られれば採掘は止めたという説ももちろんなりたつ。だが筆者は万次郎が止めた別の理由があったように思える。これはクオルツ・マイニングの誕生である。これはまず金を含むクオルツ鉱脈の岩をダイナマイトで爆破させ、爆破された岩を地上に持ち出して粉砕し、最後は水銀を利用して金を砂や岩の中から取り出す方法である。水銀は他のいかなる金属とも結びつかないが金とだけは結びつくという不思議な性質を持つ。
 1849年クオルツ鉱石粉砕用のスタンプ・ミルという機械がゴールドカントリー最南端の町であるマリポサで使用され始めた。これはスタンプと呼ばれる長い垂直の杵と臼からなる。スタンプが動力を用いたシャフトによって上に揚げられた後、自然に落下してスタンプの先に取り付けられた大きな鉄の頭が鉱石を砕くというものである。鉄の頭は通常450キロもあり、スタンプ・ミルは当時の価格で一台3万ドルもした。
 情報にさとい万次郎は多分この情報を入手していたのたのだろう。2本の腕と冒険心で金を掘る時代がすでに過ぎ次は採金が企業によって行われることを予見していたのではないか。もしそうだとすれば万次郎はすばらしい先見性を持っていたといえる。 
 いずれにせよゴールドハンター・ジョン万次郎については未だ不明な点が極めて多い。これからも調査を続けるつもりでいる。

                           2006年8月15日
                            
                              古枯の木
参考文献
“咸臨丸海を渡る”土井良三 未来社 1992年
“中浜万次郎”  中浜博  冨山房インターナショナル 2005年
“Drifting Toward The Southeast”Junya Nagakuni & Junji Kitadai Spinner
Publications 2003年
“漂巽紀略”   川田小竜 日米学院出版部 2003年
“ゴールドラッシュ物語” 岡本孝司 文芸社 2000年
“ゴールドラッシュとジョン万次郎”岡本孝司 如水会報 2005年3月
“越知町とジョン・万次郎” 山本有光 佐川印刷所 2003年

追伸 中浜博博士は2008年4月急逝された。筆者のごとき者に手紙と電話でいろいろご指導いただいたことを深く感謝するとともに博士のご冥福を心からお祈りしたい。

                     2009年2月21日   古枯の木
  
 

2009年2月20日金曜日

バカ正直な日系人

バカ正直な日系人
古枯の木
 去年の秋、所要でロスの北120マイルのBakersfieldという町まで出かけた。突然車にmaintenance required のサインが出たのでrepair shopへ車を持って行った。多くの皆さんには経験がおありと思うがrepair shop の中にはこちらが依頼しないにもかかわらず要らざる修理をしてその請求をしてくるところがある。

 車を持って行ったrepair shopに実直そうな老日系人がいた。Motor oil change以外に絶対に何もしてはいけないと何度も日本語と英語で伝えてランチに行った。帰って来ると前のタイヤが一本パンクしている。なぜタイヤの修理をしてくれなかったかと詰ったら“お前はmotor oil changeだけをやれ”と言ったではないかと反対に食って掛かってきた。
 昔、日本の我が町にはバカ正直と呼ばれる人間がいた。彼らをそのように呼んだの尊敬してかまたは侮蔑してかまたはその両方だったのか?いずれにせよ日本人のバカ正直さを引き継いだ日系人をアメリカで

カーネイションはアメリカの国花’

カーネイションはアメリカの国花
古枯の木

 日本の国の国花は桜と菊とされている。カリフォルニア州の州花はゴールデン・ポピーである。ではアメリカの国花は何であるか。1967年冬に初めてアメリカの土を踏んで以来、多くのアメリカ人にアメリカの国花は何かと尋ねてみた。誰も知らないという。ところがある日ついにそれを知るアメリカ人に出会った。彼によればカーネイションがアメリカの国花であるそうだ。

 理由は?当時からアメリカは世界最大の自動車生産国だった。彼によればアメリカは世界最大の car manufacturing nationである。Car manufacturing nationの中のmanufacturingを取り去ればあとにcar nationが残る。だからアメリカの国花はカーネイションというわけだ。

 ところが最近GM, Fordなどが経営危機に陥り世界最大の自動車生産国にも影がさしてきた。それでもアメリカの国花はやはりカーネイションだろうか。

古枯の木

2009年2月13日金曜日

Beate Shirota Gordonの後日談

Beate Shirota Gordon の後日談

古枯の木

筆者は学生時代、自主憲法期成青年同盟に属していた。この同盟はアメリカから押し付けられた憲法を一日も早く改正し、日本民族の、日本民族による、日本民族のための新憲法を制定することを目的とした。同盟の全員が標記の女性、Beate Shirota Gordonの名前を知っていたはずである。なぜならば憲法起草委員の一人として彼女が日本女性の憲法上の地位向上に努力したからである。現憲法第14条の法の下の平等や第23条の男女平等の原則などは彼女に負うところが大きいとされている。

Beateの両親はナチのユダヤ人迫害を逃れてウイーンから日本に来て永住を決意した。ウイーン生まれの彼女は5歳から15歳まで東京で過ごしたが、音楽家の父親は彼女が15歳のとき単身アメリカのミルズ・カレッジに留学させた。敗戦後両親に会いたい一心から日本に帰り、マッカーサー元帥のGHQ(General Headquarters 占領軍司令部、GHQをYankees, go home quickly. と揶揄した日本人がいた)に勤務した。マッカーサーの事務所は日々谷の第1ビルの中に置かれており、彼女はそのビルの6階で朝9時から真夜中12時まで憲法草案作成のため働いた。これは1946年2月のことである。起草委員は全部で28名、彼女を含めて4名の女性もいた。

自主憲法期成青年同盟で研究していたとき、ぜひBeateに会って彼女が憲法上果たした役割について訊き、さらにGHQの関与について知りたいと思ったがこれは夢のまた夢だった。2007年の春、所要で青森県の八戸へ行ったとき、知人からBeateは八戸に住んでおり、未だ健在で東北各地で憲法擁護のための講演会を開催していると聞いた。

筆者のアメリカ人の友人でHarold Bettencourtとう男がいる。彼は40年以上日本で暮らし、現在ロスの北200マイルのFresnoという町に住んでいる。われわれの共通の友人が死に、その葬式が2009年1月24日隣町Gardenaの仏教会で行われた。式後同じ町の“さぬきの里”というレストランで会食があり、Haroldと共にこれに出席した。食事中、談たまたま現行憲法とBeateのことに及んだ。HaroldはBeateをよく知っているという。Nice Surpriseだった。しかもHaroldとBeateは1946年2月の同じ日にGHQに職を得たという。Haroldは第1ビルの4階で働いたが、後にHarold夫人となる女性が6階にいたのでよく6階に行きBeateとは会話を重ねたそうだ。

HaroldによるとBeateは勤務中よくジープを駆って明治大学、早稲田大学、上野の図書館などを廻って英語の憲法書を集めたそうだ。彼女はつねに”可愛そうな日本人女性のために一肌脱ぎたい“と言っていたらしい。GHQ高官の日本人に対する態度はいつも尊大で高圧的であったが、反対に日本人政治家や憲法学者はいつも卑屈な態度を持したという。なおHaroldによればBeateはユダヤ人海軍士官と結婚してニュージャージー州に行ったそうである。

信頼しうる資料によれば、1946年2月2日、マッカーサーは2月10日までに憲法草案を作成することを委員会に命じ、2月10日までのわずか9日以内に出来上がった。マッカーサーはこの草案に対して全面的承認(my full approval)を与えた。さらにGHQ`は草案の作成者が誰であったかは言わなかったが、その深い関与(GHQ’s close involvement)は認めている。

Haroldは現在83歳。憲法成立の経過をさらに詳しく話してやるからFresnoまで来いと言う。彼の年齢を考えたら急がざるをえまい。

古枯の木―ロス在住、歴史愛好家、日本国憲法の成立に関しては拙著“日本敗れたり、第12章 ”マッカーサー憲法の改正“をご参照願いたい。




    

2009年2月8日日曜日

ホーへーのたわごと

ホーへーのたわごと
   古枯の木
 むかしわがホームタウンに“ホーへー”というあだ名のついた男がいた。本職は提灯屋だが“張ってならないのはオヤジの頭、張らなきゃ食えないのは提灯屋”とつぶやきながら提灯を張っていた。ホーへーというのは彼が日露戦争(1904-05)のとき砲兵として従軍したからで、いつもこの事実を自慢の種にしていたためそのようなあだ名がついたわけだ。

 筆者は子供のころ近所の子供を誘ってよくこのホーへーのところへ日露戦争の話を聞きに行った。ホーへーの話には勇敢無比な日本兵の話しなどはほとんどなく、いつもちょっぴり物悲しい話ばかりだった。聞いた話はいまでもたくさん記憶しているが、ここではその内の二つだけを紹介したい。

 日露戦争のとき旅順攻略を担当したのは第3軍の乃木希典(のぎまれすけ)司令官。だがホーへーによれば乃木ほど戦争の下手な将軍は日本の戦史上存在しなかったそうである。乃木は近代科学戦を知らず、肉弾攻撃一本槍の超乱暴な非合理戦闘が多かったそうである。その乃木を日露戦後に、乃木神社まで建設して彼を神として崇拝するのはいかなる理由によるのかというのがホーへーの主張であった。

戦史によれば乃木は1904年7月31日から翌年1月1日までの155日間の戦闘で5万9千人を死傷させた。これを見兼ねた満州軍総参謀長児玉源太郎が現地に来て砲兵の布陣を変更して前進させ、日本内地から持って来た28センチ榴弾砲18門でいとも簡単にロシア軍の203高地の砲台を陥落させ、引き続いて旅順も征服した。

世間一般に正しいと信じられていることに批判の目を向けること、また教科書や新聞、雑誌を無条件に信用しないという筆者の性癖はホーへーのたわごとによって培われた可能性が大きい。

第2番目の話。日露戦争中、日本陸軍は満州の馬賊、匪賊の協力を得るために彼らに対し多くの約束手形を発行した。事実彼らは偵察行動の点で日本陸軍に大いに協力した。ところが戦争が終わると陸軍はそれら約束手形をすべて反故にした。これに怒ったある馬賊の頭領が“人を裏切るこんな国は50年とはもつまい”と言ったそうである。

馬賊の頭領が言った通りこの国は50年を経ずして壊滅した。筆者の好きな作家の一人である司馬遼太郎は昭和の軍隊に比較して明治の軍隊は正直であり律儀であったと機会あるごとに書いている。だが果たして明治の軍隊にそのような素質があったかどうか疑問に感じている。

古枯の木―アメリカ在住35年以上、歴史愛好家、最近は山本五十六の研究に精を出している。

2009年2月7日土曜日

かーさんのこと

カーさんのこと

古枯の木

昨年9月文窓会東海支部ホームページのエッセイの部に“太平洋戦争と日系人の苦悩”を寄稿した。その中でコロラド州の知事であったラルフ・カー(Ralph Carr)について触れたが、昨年9月コロラド州コロラド・スプリングズのジョン・万次郎大会に出席し、その際カーゆかりの地を訪問する機会があったので、改めて彼について説明したい。
開戦翌年の1942年2月19日夕刻ルーズベルト大統領の発した行政命令9066によりアメリカ西海岸の日系人は敵性外国人(enemy alien)と見做され強制収容所に入れられることとなった。この命令がまったく突然であったため日系社会には大混乱が発生した。だがコロラド州の知事であったカーは人道的見地からこの命令に強く反対し、コロラドの日系人は全員が収容所入りを免れた。カーはさらに日系人のコロラドへの移住を許可したがこれが州民の反発を招き、日系人反対の大デモに発展した。“ジャップを太平洋にぶち込め”“ジャップを殺せ”というスローガンまで現れた。このときカーは毅然としてデモ隊に対し、“日系人も合衆国憲法によって基本的人権は保障されている。彼らのその権利を侵す者があれば断固処罰する”とまで宣言してくれた。
西部の諸州では日系人の収容所をどこに設けるかが大問題となった。広いカリフォルニア州でも“ジャップのdump siteは2ヵ所まで”と言って2ヵ所以上の設置を承認しなかった。南カリフォルニアではマンザナールに、北カリフォルニアではチュールレイクである。Dump siteとはごみ捨て場のことで、日系人はごみ扱いされていたのだ。オレゴン州、ワシントン州、ネバダ州は収容所の建設を一切認めなかった。これを聞いてカーは直ちにコロラド州に強制収容所を設けることを決意し、州南東部のアマチ(現在名グラナダ)にそれが建設された。定員7,318人のところに他州から来た日系人が多いときは7千6百人も住んでいた。アマチ収容所は42年8月27日にオープンし、45年10月15日にクローズされたが日系人はかなり快適に過ごしたらしい。コロラドの日系人からメロンなどの差し入れもときどきなされた。昨年9月コロラドを訪問したときこの収容所を見たいと思ったが、時間がなくて実現しなかった。ある人が現在収容所の跡を示すものが何もないため、たとえ行ってもその場所は発見できないだろうと教えてくれた。
強制収容所はアマチのものも含めて全米で10ヵ所に作られ12万人の日系人が収容された。これら日系人はルーズベルトの命令により、家、農園、自由、権利、職業、商売などのすべてを失ってしまったのだ。
これに反し太平洋戦争中コロラドの日系人は安全に農業に従事することができ、コロラドの農業生産に大いに貢献した。昨年9月のエッセイで述べたように彼らが受けた唯一の制約は自宅から2マイル以上離れるときは事前にFBIに知らせるということだけだった。コロラドにはメロン王と呼ばれる日系人が数人いる。その内の一人の農場を訪問する機会があったが、メロン栽培は戦前から始め、戦中は何の妨害を受けることなく栽培を継続することがきたそうである。
日系人に寛容であり過ぎるとしてカーはコロラド州民の間では不人気だった。上院議員に立候補したが気の毒にも落選してしまった。カーは上院議員を経て大統領になるべき器量のある政治家だったと述べたアメリカ人もいた。
ジョン・万次郎大会の折にロッキーフォードという町の近くのクラウリー・ヘリテージ・センターを訪問した。これは日系人のコロラド開拓の歴史とカーの偉大さを伝えるための博物館である。コロラドの日系人がいかにカーの良識と勇気ある決断に感謝していたかがよく分かる。見学のあと地元の日系人とアメリカ人からセンター内でおいしいローストビーフとメロンの昼食が提供された。ある白人の女性はカーは冷徹な理性の持ち主だったと言い、また他の女性はカーの演説をラジオで聞いたが、その内容は分かりやすく、その声はいつも溌剌としていたと語った。彼こそはコロラドの歴史上最も信頼しうる(most reliable)知事であったと教えてくれた人もいた。年老いた二世たちは今日あるはカーのおかげだと断言し、彼を親しみを込めて“カーさん”“カーさん”と呼んでいた。
日系人が“さん”付けで呼ぶもう一人のアメリカ人政治家がいる。それは排日法の撤廃を含めて日系人の地位の向上に尽力してくれた元大統領の“ケネディーさん”である。

古枯の木。一橋大学大学院修了のあとアメリカで勤務。フロリダ州西フロリダ大学、オレゴン州ウイラメット大学などで講師。著書に“日本敗れたり”など。ロスに永住の予定。

大日本主義を排せ

大日本主義を排せ
  古枯の木

 筆者のライフワークの一つは太平洋戦争の原因論である。私見では戦争の原因の一つに軍部、マスコミ、国民の酔った大日本主義があったと思う。実力も無いのに驕っていたわけだ。これは現在に至るも引き継がれている。経済大国という言葉が端的にこれを表している。

 第一次大戦後、日本は5大国の一つになったと自惚れていたがその実力のほどはいかがであったか。当時、機関銃の数はイギリス20万挺、ドイツ50万挺に対し、日本はわずか1,300挺、自動車の数は英仏35万台に対し、日本はたったの300輌、しかも修理能力はゼロ。しかるに軍部は自らを世界の軍事大国なりと錯覚、過信していた。

 ドイツ海軍の副提督で戦前と戦中に東京に駐在したことのあるポール・べネカー(Paul H. Weneker)がいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦に至る過程を第3者的に観察していたが、日本敗戦の最大理由を自信過剰としている。

 1992年バブルがはじける前、日本人の多くは日本が-経済大国であり、アメリカ全土を購入することも夢ではないと考えていた。だが冷静に観察すれば日本のように国土が狭小で資源の乏しい国は経済大国たるの第1要件を満たしていない。産業を近代化するための市場、原料を欠き、さらに学問、科学の遅れから技術を欧米に学ばなければならなかった。今も欧米が先生である。この意味から日本人は理由のない驕慢、思い上がり、跳ね上がり、自惚れを廃棄しなければならない。(この点に興味のある方は筆者のブログ・エッセイ“日本は経済大国か”をご参照願いたい)

 数年前、日本で“日本敗れたり”というタイトルの本を発行した。これは日本が経済力と軍事力で10倍も強力なアメリカになぜ戦いを挑み、どのように敗れていったかを書いたものである。この本を英訳し、ほぼ完全なバイリンガルであるわが家の次男にレビューさせた後、ニューヨークの出版社に送った。現在なお出版についてネゴを重ねている。英訳本のタイトルは“Fallen Sun” であるが副題を”From Overconfidence to Despair“とした。アメリカの友人に本のタイトルについて相談したところ、”Overconfidence“なる言葉ほど当時の日本の実情を反映しているものはないだろうとのことだった。

古枯の木―アメリカ在住35年、歴史愛好家、著書の一つである“日本破れたり”は阿川弘之さんに読んでもらい、氏から手紙をいただいた。


 

2009年2月6日金曜日

インテリジェンスの軽視

インテリジェンスの軽視
                  古枯の木

 ドイツ海軍の副提督で戦前(1933-37)と戦中(1940-45)に東京の駐在武官であったポール・ベネカー(Paul H. Weneker)がいる。彼は日本の戦争遂行と敗戦の過程を第3者的に冷静にしかもつぶさに観察していたが、その敗戦の理由を次ぎの3つに分析している。
1. 自信過剰
2. 敵の力の過小評価
3. 余りに長く延びきった補給線
まことに立派な識見である。でももし筆者がベネカーだったらさらに“インテリジェンの
軽視”を追加したい。

英語のインテリジェンスは本来知性のことだが、軍隊用語では諜報活動、秘密情報、敵
情判断を意味する。アングロサクソンの諜報活動はまったくすさまじい。ここに外交史上有名なケースを一つ紹介したい。1807年6月25日、ナポレオンとロシアのアレキサンダー1世が、ニエメン河(当時のロシア西部国境の河)にいかだを浮かべ、テントを張ってその中で会議をした。これは外部に情報が漏れるのを防ぐためである。ところがイギリスの諜報機関はその日の夕方までに会議の内容をすべて知っていたという。彼らの諜報能力たるや恐るべきである。

 昔、ナショナル・セールス・マネジャーとして使っていた男にE.H. なる男がいる。(彼はいまもオークランド東郊のPleasant Hillに実在のため名は秘す)彼はアトランタ郊外のStone Mountainの貧農の倅に生まれた。アルバイトを重ねながら学校を卒業したが、卒業と同時に太平洋戦争が勃発し海軍に志願した。諜報部に配属された。この男のすごさは極めてユニークな経験にある。以下は彼の語ったところ。1942年秋、潜水艦とゴムボートで単身、千葉県の房総半島の一寒村に上陸した。このとき、通信機器、当面の食料、双眼鏡、手旗、ナイフ、友軍機に連絡するためのミラー、釣り道具などを与えられた。東京湾に出入りする日本艦船の動向を調査するためであるが。特に注意したのは出港する日本の輸送船であった。彼の報告により潜水艦が輸送船を撃沈したわけである。

 房総半島に上陸する直前、潜水艦の潜望鏡で東京―横須賀間の電車を見せられ、この電車の1,2等車(現在のグリーン車)の中に朝鮮人や中国人のスパイが大勢乗り込んでいて日本海軍士官や提督の不用意に発する言葉にいつも耳を研ぎ澄ましていると教えられた。
 また彼はたくさんのコンドームを与えられた。一体何のため?帰国の際に海岸の砂を採取し、これをコンドームに詰めるよう指示された。あとで分かったことだが、アメリカ軍ではこの砂を分析して敵前上陸の際、いかなる車両を使用すべきか、またその車両は一日何マイルまで侵攻できるかを計算するためだった。

 彼はいつも日本兵は個人としては極めて勇敢であり劣悪な環境下でも異常なほどの持久力を発揮したが、日本軍は戦術と戦略において悲しいほどインテリジェンスが欠如したいたと語っていた。同じような話は他の多くのアメリカ人復員軍人からも聞いた。われわれの勤務していた会社についてもあらゆる面でインテリジェンスの不足はおおいようがないというのがE.H.の持論だった。連合艦隊司令長官であった山本五十六は大変合理的な考え方を持つ人だったといわれている。だが恐るべきことに、彼に仕える12名の参謀の中に暗号、通信の参謀はいても情報参謀はいなかったそうである。海軍の他の並みいる提督たちは大鑑巨砲がすべてを解決し、情報なんかくそ食らえと考えていたかもしれない。

 どうもこのインテリジェンス軽視の伝統が今も日本の会社に引き継がれていないだろうか。筆者は1967年1月ある会社の駐在員としてアメリカに赴任したが、赴任するときカリスマ性を有するという会社の幹部から“自社の製品は必ず売れるという自信を持って行けは成功する”と言われたが、それに反しインテリジェンスの不足、不十分は覆うべくもなかった。また筆者は生涯に2つの会社に仕えたが、どうも日本人のインテリジェンスの収集は細かいことに拘泥し、そのために物事の本質や大本を見失う傾向にあった。現在の事情は分からぬがこの点日本の会社は進歩しただろうか。軍国日本の反省にも学ぶべき点はある。

古枯の木 アメリカ在住35年以上、歴史愛好家、著書に『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など。

2009年1月30日金曜日

アメリカドッキリ物語 10

アメリカ・ドッキリ物語(10)

古枯の木

Close Out Sales

 いままで9回にわたり肝を冷やしたり、びっくりすることばかり書いてきたが、最後はドッキリではなくてナイスサプライズをご紹介したい。

 ロス郊外のブエナパークという町にKnott’s Berry Farm という遊園地がある。もともとこの遊園地はカリフォルニアのゴールドラッシュのときに繁栄し、後にゴーストタウンと化した町にあった学校、消防署、教会、サロンなどを集めて展示したものだが、それ以外にアメリカ東部のフィラデルフィアにある独立記念館のレプリカが置かれている。
 
 この遊園地のすぐ近くにCrystal Factoryという店があり、ここではガラス製品、陶磁器、ボーンチャイナなどを販売している。よく行く店だが、いつ訪問しても“Close Out Sales”(店じまいセール)と書いた大きな旗が店頭に掲げられている。これはおかしいと思ってあるときこの店のオーナーに訊いてみた。
 
 筆者―“いつ来ても“Close Out Sales”の旗が掲げられている。でも閉店するのを見たことがない、これはインチキではないか“
オーナー“いやインチキではない。われわれは毎晩9時に閉店している、だから今売っているのは店じまいセールだよ”
古枯の木―アメリカ在住35年

アメリカドッキリ物語 9

アメリカ・ドッキリ物語 (9)

                  古枯の木

教師に反論する

 わが家の長男は小学校をアメリカで学んだ。あるとき先生の意見に反論したいが。そのためには反論の根拠、理由を3つ上げなければ先生はとりあってくれないと言ってきた。反論の理由を2つまでは発見したが、最後の一つが見つからないのでヘルプしてくれというのだった。先生の意見とまったく別のことを長男は書いたが先生から“A”の評価をもらってきた。先生も自分の意見に反しても、根拠のある反論には充分価値を認めるという度量の大きさに驚くと同時に感服した。先生に反論するという長男の言葉に驚いたが同時にいろいろ考えさられることもあった。

 アメリカでは小学校の3年生から生徒にいろいろの本を読ませ、それをレポートにまとめた後、教室の中で発表させる。小さいときからこのような訓練を積んでくるので自分の意見や根拠を持つ習慣ができ、聴衆の前でのプレゼンテイションが上手になる。よくアメリカ人は口がうまいといわれるが、その理由はこの辺にあろう。

 幼児からの訓練も大いに関係してくるが、もっと重要なことは“個”に絶対的倫理観が根付いていることだと思う。西洋の倫理観には生命と活力に溢れたキリスト教の倫理観に基づくものが多い。日本人にはかかる強力な倫理観が欠如しているため個が未だ確立していない。日本人には子が親に対する、または妻が夫に対する相対的倫理観はあるが絶対的倫理観はない。隣がテレビを買えば自分も買う式に無定見に雪崩を打って傾斜するという欠点がある。このような状態では生徒が先生に反論するなどドダイ無理な話だ。生徒は先生の言うことに従順に従えというのが日本人の一般的感情だろう。これはわが民族の最大欠点の一つだ。この点から日本でも幼児期から倫理教育の必要性を感じる。

古枯の木―ロス在住35年、著書に『アメリカ意外史』『ゴールドラッシュ物語』など)

アメリカドッキリ物語 8

アメリカ・ドッキリ物語 (8)

                古枯の木

日本人旅行者に肝を冷やすこと

 アメリカのホテルやモテルには水泳プールのほかにジャクジを持っているところが多い。ジャクジとは小型円形の小さなプールまたは風呂場のようなもので、ジェット水流を流して中に入る者の疲れた筋肉をほぐし、精神的にリラックスしてくれる。

 このジャクジによく日本人が風呂を間違えてフリチンで飛び込む。するとジャクジやプールにいるアメリカ人男女が悲鳴をあげて逃げ出す。この話をあるホテルのマネジャーから聞いたときは大きな驚きだった。ジャクジに入るときはプールに入ると同様水泳パンツ(英語ではswimming pantsとは言わない。これは和製英語。英語ではbathing suitという)こんなことをしていると日本人は野蛮人と間違えられる。ホテルのマネジャーには日本語の注意書きをジャクジに立てるよう伝えた。

 日本人旅行者をレストランに連れて行くと、スープを飲むとき大きな音を立てる人がいる。スープは音を立てずに静かに飲むものであり、音を立てるとアメリカ人の顰蹙を買う。サラダの皿を上に持ち上げてサラダを食べる人もいるが皿なテーブルの上に置いておいた方がいいい。同じテーブルにアメリカ人が座っていても断りもせず、平気でタバコを吸う人がいる。必ず事前に次のように断って吸うべきだ。

 “Don’t you mind me smoking cigarettes?”(タバコを吸ってもよろしいでしょうか)
 ~“No, I don’t mind.”(吸ってもいいですよ)

 便所に行った日本人がよくズボンのzipper(チャックは和製英語で、英語ではzipperという)をかけるのを忘れることがある。そのようたとき、アメリカ人は、

 “What are you advertising?”(何の宣伝をしているの)

と言って相手の注意を引く。

 またときには日本人旅行者が公園などで平気で立小便している光景を目の当たりにする。立小便はいかなる場所でもしてはならない。

 日本人のホームステイの面倒をよくみているアメリカ人から、日本人は便所で用を足したとき必ず便所のドアを閉めてしまうという。アメリカ人は便所が空いているときは必ずドアを開けておく。閉めてしまうと家人には誰かが未だ便所に入っているという感じを与え使用すうことを遠慮してしまうという。

古枯の木―一橋大学大学大学院修了後、アメリカで勤務、歴史愛好家、著書に『楽しい英語でアメリカを学ぶ』『アメリカ意外史』など)

  

アメリカドッキリ物語 7

アメリカ・ドッキリ物語 (7)


                    古枯の木

Japanese Indians

去年の秋、アリゾナ州のインディアン居留区(reservation)の一つを訪問した。そのときある店のインディアンの老婆からニューメキシコ州に自他共に日本人の末裔であるといわれるインディアンの存在することを教えられた。このインディアンをズーニー(Zuni)と呼ぶ。ズーニーはGallupという人口2万人の比較的大きな町の南方35マイルの地点におり、人口は6千人。部族の団結力が強く、男性は非常に勤勉で他のインディアンとは異なり酒は飲まないという。女性は日本人と同様手先が大変器用で彼女らが葦を材料に織るバスケットは水を漏らさぬというし、彼女らの作る銀とトルコ石の装身具は日本的に極めて精巧で他のインディアンの追随を許さぬそうだ。値引きは絶対に不可能とのこと。日本人がアリューシャン列島やアラスカを経由してアメリカにやって来たという説があるが、こんなに具体的にJapanese Indians の存在を聞かされたのは初めてでこれも一つのドッキリだった。

 早速図書館に行き、ズーニーインディアンの特色を調査した。次にそれを箇条書きにするが果たして日本人との共通点はあるだろうか。

1. 太陽を神を崇め、酋長が絶対的権力を有する。
2. ズーニーは孤立性が極めて強く、その言語は他の種族の言語とまったく類似性がない。インディアンに共通語は存在しないが、それでも例えばホッピー族の話す言葉はアパッチーに対しで30%は通じる。他の70%はダンスによった。ところがズーニーの言葉は100%他の種族には通じない。
3. 南米のインディオと異なりインディアンは農耕をまったく知らなかったが、ズーニーだけはコーンの栽培を知っていた。この点彼らは農耕民族である。
4. 争いを好まず、他の種族特に好戦的なアパッチーやナバホとの交渉を意識的に避けてきた。部族内では和の精神を大切にしている。一方、積極性と自己主張に欠ける恨みがある。
5. 儀式が好きで、動物の超能力を信ずる。
6. 他のインディアンと異なり男がマスクを着けてダンスする。
7. 世界的なマラソン走者を輩出している。

 だが読んだ本の中でズーニーが日本人の末裔であるという記述はなかった。インディアンの居留区には彼らの政府、憲法、法律がある。ズーニーもその例外ではない。ただズーニー政府は非常に保守的でカメラ、ビデオの持ち込みを許さず、風景をスケッチしたり村を散歩するにも許可がいる。本年春にはズーニー族の町を訪問する予定だが、事前にズーニー政府に連絡して、当方の目的を告げ、極力協力してもらうつもりでいる。

古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など)

 

アメリカドッキリ物語 6

アメリカ・ドッキリ物語 (6)

          古枯の木

バンザイ、バンザイ

筆者の家の近くに“こぐま幼稚園”と呼ばれる小さな幼稚園がある。この幼稚園は日本人や日系人の子弟だけではなく白人や黒人の子供も受け入れている。今年のイースターの休み中にこの幼稚園の運動会があり、孫の一人かここに通園しているのでそれを見に行った。

園児が赤白に分かれてする競技が多かったが勝ち組が勝つたびに大声で“バンザイ、バンザイ”と連呼しでいた。先生や見学に来た父親、母親もそれに和していた。みんなそれを当然のことのように行っていた。ところが筆者の横に座っていた80歳ぐらいの白人の男がこの光景を見て筆者につぶやくようにしかも皮肉を込めて“日本人はまだ戦争をしているのか”と言った。バンザイと戦争―最初はこのこのことにまごつきさらにドッキリと肝を冷やしたが白人の男と話すうちにそのなぞが解けた。

バンザイは太平洋戦争中のバンザイ突撃と関係がある。バンザイ突撃は身を殺して国を救う崇高な犠牲的精神の発露でありまた生還を期せざる者の悲壮な肉弾戦であった。バンザイ突撃が有名になったのは1944年7月7日未明サイパン島北部のマッピ山に追い詰められた5千の日本兵が行った玉砕作戦である、これは今日でも多数のアメリカ人が知っている。アメリカでは帝国陸軍を“戦争の下手な残虐な素人集団”(cruel amateurs)と侮蔑していたが、帝国陸軍が実施した戦術の中で一番愚劣でしかも乱暴な蛮行がバンザイ突撃であると信じている。筆者は隣の白人の老人にバンザイは戦争とは関係なく、単に喜びの歓声であると説明したが、彼がどれほど理解できたかは分からぬ。手元にあるThe American Heritage Dictionaryを開くと“バンザイとは日本軍による戦争中の雄叫び”としか書いてない。どうもバンザイという言葉はアメリカ人には不快感を与えるようだ。

古枯の木―在米35年以上、歴史愛好家。著書に”日本敗れたり“など。


 

アメリカドッキリ物語 5

アメリカ・ドッキリ物語 (5)

                  古枯の木

礼は1回で充分

 空港や駅で日本人同士が“どうも、どうも”と言いながら、何度も礼を繰り返す光景をよく目にする。中には最初から終わりまで礼をしている人もいる。あるときこれを見たアメリカ人が、“日本人が礼をするのはアメリカ人が握手をするのと同じだと思う。だがなぜ日本人同士は何度も礼をするのか。アメリカ人は1度しか握手しない”と訊いてきた。日本人でありながらそれまで長く気の付かなかった点であり、アメリカ人に指摘されて驚いた次第である。それ以来注意しているが確かにアメリカ人が何度も握手を繰り返すことは見たことがない。

 このとき以来筆者は礼は1回で充分であり、常に1回しかしないことにしている。ついでながら日本人で握手するとき、同時に礼をする人があるが、これはやめたほうがいいい。握手すろときは相手の目をじっくり見るべきだ。


古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』など)
                     

アメリカドッキリ物語 4

アメリカ・ドッキリ物語 (4)

                    古枯の木

帝国海軍はチキンだった

 まだ現役で働いていた30代後半頃の話である。ニューメキシコ州のアルバカーキーに出張した。目的は新たに任命した代理店との間に代理店契約を締結することだった。事前の調査によりその代理店のCEOが米海軍の元提督であることが分かっていた。会ったその提督は眼光鋭く、小柄ながらしっかりと引き締まった体をしており、全身精気に満ち溢れ若々しかった。代理店契約書について2-3質問を受けた後、サインしてくれランチに招待された。

 ランチがほぼ終わったとき、筆者から帝国海軍の戦いぶりについて彼の意見を求めた。こちらとしては、帝国海軍が劣悪な条件下にあっても善戦したとの回答ぐらいが返ってくることを期待していた。だがその期待はまったく裏切られた。彼は帝国海軍がチキンだと言ったのだ。チキンとは臆病者を意味する。勇敢なる帝国海軍を信じていた筆者にはこれはドッキリだった。チキンであったことの具体例をいろいろ説明してくれたが、あと一押しすれば完勝できたものをねばりがなく早々に引き揚げてしまったと言う。以下に述べる3つの例が今も強く印象に残っている。

 真珠湾攻撃のとき帝国海軍は旧型の戦艦5隻を沈没させさらに13隻に損傷を与えたが真珠湾に隣接する巨大な石油貯蔵庫、潜水艦基地、海軍工廠、艦船修理所などは無傷だった。さらに近くの海域にいた敵の正式航空母艦4隻の索敵さえも実施せずにサット引き揚げた。この貪欲なきあっさりした行為が提督にはチキンと映ったらしい。一方帝国海軍に言わせれば深追いしないのがその伝統であるということになるであろうが。

 第2の指摘は帝国海軍が持てるものを臆病のため最大限利用しなかったことである。帝国海軍は戦艦大和と武蔵をトラック島の泊地に繋留していた。この2戦艦が水兵のホテル代わりに利用されていたことを米海軍は知っており、これらの戦艦を大和ホテール、武蔵リョカンと呼んでいた。大鑑巨砲の時代が去り、航空兵力中心の時代であったが、これら戦艦を艦隊決戦用ではなく、コンボイ(輸送船団)の護送に使用していれば相当の戦果を挙げられたはずであるとの説明だった。最高速度が20ノットという足の遅い戦艦だったが、輸送船の速度もそれぐらいだった。彼によれば臆病風に吹かれてこれら2戦艦をみすみす無意味に温存したことになる。乾坤一擲の勝負に出ようとするアメリカとあくまで艦隊保全主義を信奉する山本の連合艦隊では勝敗は戦う前から明らかであったかもしれない。因みにドイツ民族の最大のプライドであった戦艦ビスマルクは艦隊決戦用ではなくて,敵のコンボイ撃滅用の戦艦だった。ドイツ贔屓の日本帝国がなぜドイツに学ばなかったのか不思議に思う。

 なお余談ながらアメリカ海軍は山本五十六がトッラク島にいることを知っていた。山本を殺すべきか生かしておくべきかが一時米海軍部内で議論の対象になったと聞いた。生かしておくべき理由は連合国の早期講和の呼びかけに応じられる者が彼以外にいなかったためである。そのインテリジェンスと深謀遠慮にはまたもドッキリした。

 また発想を転換して戦艦郡を艦隊決戦用ではなくてアメリカ陸軍基地の砲撃に使用したならば相当の効果を挙げえたはずであるとも彼は述べた。発想の転換ができないのもチキンであることの証拠か。

 最後の例はレイテ湾の栗田艦隊である。1944秋、フィッリッピンのシブヤン海に進撃した栗田艦隊が1週間前にレイテ湾で荷揚げ作業を始めたマッカーサーの輸送船団を2-3時間の眼前に見ながらこれを攻撃せず、栗田の臆病のため反転北上した事実である。後に栗田はそのとき余りにも疲れていたと説明している。滅多に訪れないチャンスを疲れのために生かせぬようではチキンということになるかもしれない。

 彼の説明した上記3例が果たして帝国海軍の臆病のためだったのかまたは別に戦略上の理由があったかは定かでない。でも帝国海軍が千載一遇の好機を逸したことは間違いなかろう。

古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『アメリカ意外史』など)

アメリカドッキリ物語3

アメリカ・ドッキリ物語 (3)

                  古枯の木

子供に対する期待

 あるとき、わが家の三男の高校卒業式に出席した。アメリカで式とよべるものは卒業式だけであり、入学式、始業式、終業式などはまったくやらない。この点日本人は式好きである。日本の会社の営業会議ではいつもセールスマンの表彰式ばかりやっていた。わが家の息子たちがアメリカの小学校から日本の小学校に転校したときのインシデント。初日は始業式だった。息子たちはこの日からアメリカ式に授業が始まるものと思っていた。ところが授業はなく、しかも校長がながながと話をしていたが、聞いているものは一人もいなかったとのこと。冒頭述べた三男の卒業式に日頃親しくしていたアメリカ人の夫妻も彼らの息子のために来ていた。

 そのときアメリカ人夫妻に対し、息子は将来何になってほしいかと訊いた。日本人的発想では息子が一流大学に入り、一流会社に勤務すること、または医者、弁護士、IT技術者、大学教授になってくれることであろう。ところが夫妻の回答は意外なものだった。“息子がいい職業に就ければそれに越したことはない。だが人生にはこれよりもっと大事なことがたくさんある。息子が幸福で存分に個性を発揮し、自由で個人の尊厳に満ち、しかも独立心ある人生を送ってくれるよう期待する”とか“自分の幸福だけではなくて他人の幸福も追求するような人間に成長して欲しい“とか述べた。

 これにはまったく参った。そこには親が子に対し確固たる倫理感を持った個に成長する希望があった。また力と生命に満ち溢れたキリスト教的倫理観、道徳観、人間愛、隣人愛さえも感じられた。実利、栄誉、栄達、名声のみを求めていた人間には衝撃の言葉であり、ドッキリした。同時にかかる浅はかで世俗的な自分に深く恥じ入った次第である。いい学校、いい職業よりももっと重要なものがこの世の中にはあると再認識した。

 このインシデント以来、誰に対してもかかる愚問は一切発しないことにしている。

古枯の木―アメリカ在住35年、歴史愛好家で歴史の探索屋を自認している。本年2月ロスの近現代史研究会で“万次郎余話”と題して万次郎に関する第2回目の講演を行った)

アメリカドッキリ物語2

アメリカ・ドッキリ物語 2
                  
                 古枯の木

 現在アメリカでは日本食が大変なブームである。ブームとかラッシュというものは必ず終わるが、さて日本食ブームはいつまで続くのか。カリフォルニア州だけで日本食レストランは現在2,600軒、全米規模で6,000軒ぐらいあるといわれている。わが家の近くにもたくさんあり、新しいものもどんどんできている。今回はこの“日本食とアメリカ人”についての話題を2つ提供したい。

1. 懐石料理には事前の説明が必要
 
昔、名古屋で勤務しているとき、アメリカのディーラー社長夫妻がやって来た。ある晩、彼らを懐石料理に招待した。懐石料理は初めて食べるとのことで夫妻は非常にエンジヨイしていた。懐旧談に時間の経つのも忘れた。食事が終わりに近づいたとき、突然社長が、“Koji, what is the main dish tonight?”と訊いてきた。最初は何のことか分からずドッキリしたがすぐに彼の質問の意味が判明した。社長は懐石料理をアペタイザーと勘違いし、この後にメインコースがあると期待していたのだ。
 
 懐石料理には変化はあるが、量に乏しい。しかもアメリカ人は大食漢が多い。せっかく一流の懐石料理店に案内したのに彼らに満足してもらえなかったことに大きなショックを受けた。このインシデント以来、外国人を懐石料理に招待するときは事前にその意味を説明することにしている。

2. シャブシャブは避けよ

 やはりある晩、別のアメリカ人夫妻を今度はシャブシャブの店に案内した。席に着くや否や夫人が肉を見て、“オー、ノー”と叫び、シャブシャブの肉に一切箸をつけようとはしなかった。彼女の説明によると脂身の多い肉を食べることは不可能で、アメリカでこのような肉の販売は許可されないだろうとのことだった。脂身がおいしいと言う女将の言葉にもついに彼女は首を縦に振らなかった。せっかくシャブシャブの一流店に案内したのそこに現れた肉のためにシャブシャブを断られたときのショックは大きかった。

 アメリカの大きな社会問題の一つが肥満の問題である。肥満は英語でobesityと言い、テレビの中でこの言葉に出ぬ日はない。男性の63%、女性の55%がobesityに苦しんでいるといわれている。肥満が高血圧、高コレストロール、糖尿病、心臓病の原因であるらしい。

 肥満の最大の元凶が脂肪(fat)である。アメリカ人のfatに対するイメージは極めて悪い。Fat chanceというとチャンスがたくさんあるような感じを与えるが、これはまったく逆でチャンスのないことを意味する。Fat bookというと分厚くても余り内容のない本を意味する。
最近アメリカの商品の中には脂肪のないことを強調するため箱に“Zero grams of fat”とか“Fat Free”(この場合のfreeは“自由”ではなくて“ない“ことを意味する。最近China Freeの商品が人気を博している)と大書しているものが目立つ。学校によってはfat入りsoft drinksの販売を禁止しているところもある。

 日本人は肉の脂身が好きである。筆者も渡米直後ステーキの脂身を食べようとしたら、アメリカ人から食べぬようにとたしなめられた。霜降りの肉を英語でmarblingというが、アメリカのカウボーイたちはなぜ日本でこれが売れるのか不思議に思うらしい。

 一般に日本食はヘルシーと考えられているが余りに脂身の多い牛肉や豚肉のシャブシャブはヘルシーとは言えまい。以前“うに”がすし屋でアメリカ人に非常に人気があったが、最近ではコレステロールが多すぎるということでその人気はがた落ちだと聞いた。中にはうには“baby shit”(赤ん坊のくそ)だと言って敵愾心を示すアメリカ人もいる。

 いずれにせよこの1件以来、筆者は外国人をシャブシャブには連れて行かないことにしている。

 古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など)
 
アメリカ・ドッキリ物語 2
                  
                 古枯の木

 現在アメリカでは日本食が大変なブームである。ブームとかラッシュというものは必ず終わるが、さて日本食ブームはいつまで続くのか。カリフォルニア州だけで日本食レストランは現在2,600軒、全米規模で6,000軒ぐらいあるといわれている。わが家の近くにもたくさんあり、新しいものもどんどんできている。今回はこの“日本食とアメリカ人”についての話題を2つ提供したい。

3. 懐石料理には事前の説明が必要
 
昔、名古屋で勤務しているとき、アメリカのディーラー社長夫妻がやって来た。ある晩、彼らを懐石料理に招待した。懐石料理は初めて食べるとのことで夫妻は非常にエンジヨイしていた。懐旧談に時間の経つのも忘れた。食事が終わりに近づいたとき、突然社長が、“Koji, what is the main dish tonight?”と訊いてきた。最初は何のことか分からずドッキリしたがすぐに彼の質問の意味が判明した。社長は懐石料理をアペタイザーと勘違いし、この後にメインコースがあると期待していたのだ。
 
 懐石料理には変化はあるが、量に乏しい。しかもアメリカ人は大食漢が多い。せっかく一流の懐石料理店に案内したのに彼らに満足してもらえなかったことに大きなショックを受けた。このインシデント以来、外国人を懐石料理に招待するときは事前にその意味を説明することにしている。

4. シャブシャブは避けよ

 やはりある晩、別のアメリカ人夫妻を今度はシャブシャブの店に案内した。席に着くや否や夫人が肉を見て、“オー、ノー”と叫び、シャブシャブの肉に一切箸をつけようとはしなかった。彼女の説明によると脂身の多い肉を食べることは不可能で、アメリカでこのような肉の販売は許可されないだろうとのことだった。脂身がおいしいと言う女将の言葉にもついに彼女は首を縦に振らなかった。せっかくシャブシャブの一流店に案内したのそこに現れた肉のためにシャブシャブを断られたときのショックは大きかった。

 アメリカの大きな社会問題の一つが肥満の問題である。肥満は英語でobesityと言い、テレビの中でこの言葉に出ぬ日はない。男性の63%、女性の55%がobesityに苦しんでいるといわれている。肥満が高血圧、高コレストロール、糖尿病、心臓病の原因であるらしい。

 肥満の最大の元凶が脂肪(fat)である。アメリカ人のfatに対するイメージは極めて悪い。Fat chanceというとチャンスがたくさんあるような感じを与えるが、これはまったく逆でチャンスのないことを意味する。Fat bookというと分厚くても余り内容のない本を意味する。
最近アメリカの商品の中には脂肪のないことを強調するため箱に“Zero grams of fat”とか“Fat Free”(この場合のfreeは“自由”ではなくて“ない“ことを意味する。最近China Freeの商品が人気を博している)と大書しているものが目立つ。学校によってはfat入りsoft drinksの販売を禁止しているところもある。

 日本人は肉の脂身が好きである。筆者も渡米直後ステーキの脂身を食べようとしたら、アメリカ人から食べぬようにとたしなめられた。霜降りの肉を英語でmarblingというが、アメリカのカウボーイたちはなぜ日本でこれが売れるのか不思議に思うらしい。

 一般に日本食はヘルシーと考えられているが余りに脂身の多い牛肉や豚肉のシャブシャブはヘルシーとは言えまい。以前“うに”がすし屋でアメリカ人に非常に人気があったが、最近ではコレステロールが多すぎるということでその人気はがた落ちだと聞いた。中にはうには“baby shit”(赤ん坊のくそ)だと言って敵愾心を示すアメリカ人もいる。

 いずれにせよこの1件以来、筆者は外国人をシャブシャブには連れて行かないことにしている。

 古枯の木―在米35年、歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『アメリカ意外史』など)
 
アメリカ・ドッキリ物語1
           岡本孝司

アメリカに来て早や35年、この間に日米両国でアメリカ人相手に貴重な体験をいろいろ積み重ねたが中には肝を冷やすことや驚いてドッキリすることも多々あった。数えたらこれらは100を優に越すだろう。その内の10篇をアメリカ・ドッキリ物語として10回にわたり短い文章で紹介してみたい。

他人の食器に手を触れるな

1998年の晩秋、その頃勤務していたオレゴン州セイラム市のキワニスクラブから講演の
依頼を受けた。演題は任意といわれたので、明治末期、和歌山である日本人が村人を津波から救済するため自分の稲むらに火をつけたという犠牲的精神について1時間半余り話をした。小泉八雲の随筆“生き神様”を基礎に構成したものである。アメリカ人はモラルによって動く民族であり、このような話が大好きだ。120人余りの聴衆の反応はよかった。彼らの中には質問してくる人も数人いた。聴衆の反応は講演終了時の聴衆の顔つきを見、彼らの交わす雑談を聞けば大体分かる。ニコニコ顔が多かった。講演の後、ゲストスピーカーとして円形のヘッドテーブルに座らされランチをご馳走になった。ローストビーフのおいしいランチだった。
 
 小生の横に座ったのは金髪碧眼の超美人だった。英語ではこのような目も眩む美人をdazzling beauty という。彼女はまさにdazzling beautyで、クラブの会長夫人だった。着席するや否や彼女は小生の講演が大変印象的であったと言って褒めてくれた。そこまではよかった。だがその後がいけない。彼女が自分のコーヒーカップとソーサーを捜し始めたのだ。彼女の席の前にはそれがなかったためだ。

そこでおせっかいにも小生が遠くにあったカップとソーサーをとり、彼女の前に置いた。彼女は一応“サンキュー”とは言ったが、そのカップとソーサーをウエイターに命じて直ちに撤去させ新しいものを持ってこさせた。一時に冷水を浴びせられたような超ドッキリだった。それまでの講演後の有頂天はどこかに吹っ飛んでしまった。成功したかにみえた講演への感情はこの1事により無残にも打ちのめされてしまった。ローストビーフはたちまち味気のない炭みたいなものに変化してしまった。水だけをたくさん飲んだ記憶がある。

 彼女の真意がいずこにあったのか未だに分からぬ。小生がむさくるしいオリエンタルの男であったためか。本来衛生的であるべき食器を小生が手を触れることによって、非衛生なものになったと彼女が判断したのか。もし白人の美男子が同じ行為をしたとき、彼女はどのような反応を示したであろうか。ゲストスピーカーであることのプライドはこの彼女の驚天動地の行動によりたちまち雲散霧消してしまった。抜きがたい屈辱感のため腰が抜け、食後容易に席を立つことができぬほどだった。

かつて日本では女性の教育といえば行儀、作法のことを意味する時代もあった。日本の銀行の新入社員教育には男子行員も含めて今でも行儀、作法が大きな比重を占めると聞く。アメリカではこんな非生産的なことに時間を割く会社は1社もない。日本では当然テーブルマナーもうるさいだろう。テーブルマナーに関する本の中で、他人の食器に触るなというルールがあるかどうか。

いずれにせよこの1件以来、小生はいかなる場合にも他人の食器には一切手を触れないことにしている。


岡本孝司 歴史愛好家、ロス在住、著書に『日本敗れたり』など。



 

イデオロギーとは何だったのか

イデオロギーとは何だったのか
    古枯の木

 わが日本国民は多くの長所を持つと同時に短所をも有する。短所のうちの一つはあらゆる文明の実験者として他人の唱道する原理、原則に飛びつき、貪欲に取り入れ、しかも主体性、自主性なくこれに溺れることである。ソ連が平和のチャンピオンになるとそれにのった。また近時アメリカがグローバリゼーションのラッパを吹くと同じように小型で借り物のラッパを吹いた。ここで日本の敗戦後の偉大なエセ科学であった共産主義のイデオロギーについて私見を開陳しておきたい。
 
 祖国日本は100年近く共産主義のイデオロギーの悪夢、呪詛にさいなまれてきた。その間に浪費した時間、エネルギー、金銭はどれぐらいに達するであろうか。この悪夢から国民が開放されたのは、1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊したときである。第2次大戦終了後40年間も恐喝と圧力で西欧陣営の結束を破らんとしたソ連がアメリカとの軍拡競争、経済戦争に敗れ西側の経済援助を必要とするに至った。民主主義が冷戦で共産主義に勝ったのである。諸悪の根源が資本主義にあり、明日にでも共産政権が実現するかのように宣伝してきた無責任な日本のマスコミや進歩的文化人はどのような責任をとったであろうか。

 ここに有名な歴史的事実がある。共産主義の抑圧下にあった東ドイツで1980年代の初めに深刻な食糧危機が襲った。人々はスターリンギフトと呼ばれる粗末なアパートに住み、卵1ダースを買うのに長い行列を作って月給の152パーセントを支出しなければならないような羽目に陥ったのだ。それにもかかわらずわが国の進歩主義者はこの事実に目を覆い共産主義を賞賛し続けた。共産主義に裏打ちされたソ連の軍隊は絶対に略奪、暴行、強姦などしないと主張する大学教授がいた。そのような人格高潔な軍隊が世界のどこに存在するだろうか。

 イデオロギーにはイデーが含まれている。それは何千、何万年後には実現するかもしれない理想、幻想を意味する。それは夢とごまかしの世界であり、虚構であり神の世界である。マルクス理論の根本は、“人がその能力に応じて働き、その必要に応じて取る”社会の実現だった。人の能力といっても測定不能のものであり、人の必要、欲望は最大無限のものである。かかる妄想や神秘的世界は、到底この世界では実現不可能の夢の世界である。このような地上の楽園が明日にでも実現するかのごとく説いて、世の善男善女を騙したのだ共産主義のイデオロギーだった。

 学問とはレアリティー(reality)の追求である。レアリティーを追求せずに夢を追ったマルクス説は非学問的とも言いうる。司馬遼太郎はマルクス理論を一つの“宗教的真実”と喝破したがけだし名言であろう。かかる実現不可能な宗教的真実であっても、それは資本主義を攻撃するための戦術理論としては非常に有効であり、ある種の訴求力をもっていた。

1980年代よく仕事で中欧、東欧、ソ連に出張した。働いても働かなくても同じ給料だから人々の労働意欲はまったく低い。生産性が低いため貧困が支配し、共産党がすべてをコントロールしていた。進歩的学者がこの世のパラダイスと礼賛していたこれらの国で発見したものはすべて共産主義の奇形児に過ぎなかった。共産主義などこの地球上のいかなる場所でも実現していなかったし、また今後とも実現することはないだろう。

 日本人は古来海外の文物を輸入するのに極めて鋭い触覚を持っていた。そのためその背後に存在する原理、原則、精神などを深く考慮せずに外形のみを真似てきた。それにしてもいったん吸収した文物を廃棄するときのスピードも速かった。マルクスの理想、夢そして戦術理論の中には資本主義の負の部分を指摘した価値ある見解もあるのだが今日、日本人は誰もこれに見向きもしない。進歩的学者が信奉していた剰余価値説、唯物史観、階級闘争などは海の底に溺死してしまったのだろうか。マルクスはロンドン郊外のハイゲート墓地に埋葬されているとのことだが、彼は日本人のこのような性情に苦笑していることだろう。

 古枯の木―歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』など。ロス在住。



2009年1月16日金曜日

ズーニインディアン

ズーニーインディアン
    古枯の木

 2008年5月上旬ニューメキシコ州のZuni Puebloを訪問した。ここはロスから東へ600マイル、海抜6千4百フィートの砂漠のど真ん中にある。人口は11,700人、部外者に対し大変厳しいところでカメラ、ビデオの使用は禁じられ、風景をスケッチしたり町を散歩するにも特別の許可が必要である。聖職者への接近は固く禁じられている。ズーニーは日本人の末裔といわれているが、Visitor Centerで所長この関係について訊ねてところ、ズーニーが日本人と兄弟姉妹の関係にあると信じている者は皆無であろうとのことだった。

 所長によればこの問題を最初に提起したのは人類学者Nancy Davis の著書“The Zuni Enigma-Possible Japanese Connection(2005)” であるとのこと。彼女は平安時代の1350年日本人の大グループが大型船に乗って太平洋(彼女は太平洋をユーモラスにliquid highwayと呼んでいるそうな)を渡りアメリカの西海岸にやって来、そこから660マイルも東に歩いて現在のZuni Pueblo に到着したと説く。彼らは戦争と地震のない土地を探していたらしく、彼女は彼らをJapanese Pilgrims と呼ぶ。その後、土着のインディアンと混血して現在のズーニー族が生まれたと主張する。農耕民族でコーンの栽培を知っており、灌漑の設備まで持っていたそうである。

 Nancy Davis の著書をまだ読んでないが、筆者は次のような極めて素朴な疑問を持つ。まず第一に当時シナ人や日本人の造船技術者は竜骨(keel)の存在を知らなかった。竜骨無しで多人数が乗る大型船の建造が果たして可能であっただろうか。次にZuni Pueblo の中を観光バスや自分の車で廻ったがズーニーが文化的遺産として誇れるものは1629年スペイン人坊主によって建立されたカトリック教会だけだった。かつて平安時代、東大寺、唐招提寺、法隆寺、興福寺などをを建設した偉大な日本人の文化的遺産の痕跡はどこにもなかった。どうもズーニーは他のインディアン同様、文化不毛の土地らしい。最後にNancy Davis はズーニー語と日本語には共通点があり、両者に類似する単語を20語取り取り上げているそうだ。例えば鹿は“shoita “と発音し、日本語のシカに近いと主張する。無理はないだろうか。ズーニー滞在中調査したが両者に共通するような表現は一つも発見できなかった。

 彼女はズーニーの女性は日本人女性同様手先が大変器用で彼女らの作る装身具は素晴らしいという。これは事実だろう。彼女らの作る銀とトルコ石の装身具は日本的に極めて精巧で他の種族、たとえばナバホやホピーの追随を許さず値段も非常に高い。だが手先が器用というだけで日本人の末裔とするのはちょっと無理があろう。ズーニーの産業といえばこれら装身具だけだがこの販売はズーニーが行うのではなくすべてインド人とパキスタン人によって独占されている。

 だが日本人との共通点がまったくないというわけではない。争いや変化を好まず、いつも無抵抗、平和に徹することだ。かつてアパッチーやナバホ族に侵略されたことが何度もあったが、一切抵抗しなかったらしい。ズーニーがその際行ったことは屋内、屋外の灯りを全部消して祈祷師を中心にして静かに祈ることだけだった。そうすることによって、他部族の侵略はいつか終わったという。この点平和憲法の9条さえ守っていれば平和が維持されるという日本人の真情と共通するものがある。

渡米時の思い出

渡米時の思い出

                       古枯の木

 筆者がはじめてアメリカの土を踏んだのは1967年1月21日午後4時ごろである。ある会社の駐在員としてである。当時、東京―ロス間の直行便はなく、羽田からハワイ経由。ホノルルでは乗降客全員が首にレイをかけてもらい、ジュースを振舞われた。ロス空港の税関吏は親切だった。戦争中、アメリカ人は鬼畜だと教えられていたので随分親切な鬼畜もいるものだと感心した。それ以来1970年代後半の5年間を除き今年でちょうどアメリカに35年も住んだことになる。ここで渡米時のことを振り返ってみたい。

 ロス空港から南東15マイルに位置するトーレンスの町に向かうフリーウエイを走る車のスピードには度肝を抜かれた。日本では当時名神高速道路の一部が開通したばかりで、筆者に高速道路をドライブする経験はなかった。日本では女性ドライバーの数はまだ僅少だったが、アメリカ人女性の多さは驚きだった。

 その夜、会社が手配しておいてくれたアパートに落ち着いたが、アパートの部屋の大きいこと、清潔なこと、水道から湯の出ること、さらにプール付きであることはナイス・サプライズだった。子供は1歳と3歳だったが、プールが珍しいのでその周りを「歩く、歩く」と叫びながら夜遅くまではしゃいでいた。

当時、日本製の自動車は日産の小型トラックが少し売れている程度だった。乗用車ではトヨタはコロナという車1車種のみを販売していたが、この車はほとんど街で見かけなかった。はじめてこれを見たとき思わず「コロナ、お前英語が分かるのか」と叫びたいような衝動にかられた。交通信号で待つとき、トヨタの車を発見するとお互いにクラクションを鳴らして手を振った。筆者が渡米したときはそうではなかったが、その1-2年前までは、サービス部の電話が鳴るとまたお客からの苦情かと社全体に緊張が走ったと聞いていた。

日本の企業に比較してアメリカの企業は非生産的な仕事が極めて少なく、上下の関係が大変オープンで、従業員は皆大人であり気持ち良く働けた。新入社員に行儀作法を教える必要などごうもなく、日本的形式主義はどこにもなかった。そのため渡米6カ月目にしてアメリカ永住を決意した。そのための第一歩として庭付きの家が欲しいと思って捜したところ北トーレンスに適当な家があった。2ベッドルームで価格は1万9千ドル、頭金9百ドル。買ってから2世の人に話したら、「よくトーレンスで家が買えたね」と言って驚いていた。当時、トーレンスは“Sun Down City”と呼ばれ太陽が沈んだら白色人種以外のあらゆる人種は出て行けといわれた町だったらしい。筆者の知人の黒人が夜間トーレンスでドライブしていたら、警官から「ニガー(黒人の蔑称)は早く出て行け」と言われたそうである。

 渡米当時、日本では名古屋から東京へ電話するのに市外電話といって申し込んでからつながるのに30分以上を要した。ところがロスからワシントンD.C.まで直通である。しかも日本に比較してその料金が格段に安いのには驚いた。そのころまだファックスはなく、いつも夕方になると日本本社にテレックスを打っていた。

 日本にいるとき、筆者の書いた英文の手紙をチェックできる上司はいなかった。いつもフリーパス。ところがアメリカに来で書いた手紙は最初から最後までアメリカ人によって赤鉛筆で徹底的に添削された。この添削の記録は今でももっており、個人の貴重なアセットだ。発音もいろいろ矯正してもらった。でもこれはホープレス。ある言語学者は日本人の舌は日本語の単純な発音のために退化してしまったと述べているが、これは本当かも知れない。

一世や二世から人種差別の話をいろいろ聞いた。プールに行ったら水が黄色になるから入るなと言われたこと、白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントをもって出かけたところ、その母親から「ここはお前ら黄色人種の来るところではない。プレゼントをもってすぐ帰れ」と追い返されたこと、戦後シカゴに住んでいたある日系老人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアプのためロングビーチまで車で来たが途中彼にベッドを提供するモテルは一つもなかったことなど、このような話は枚挙にいとまが無い。筆者に人種差別を受けたことがあるかと訊かれたら、なかったと言えばそれは嘘になろう。

当時、円とドルの交換比率は1ドル360円だった。日本を出るとき日本の法律では日本人はドルを100ドルまでしか持てない、それ以上のドルは円に換えることが義務付けられていると人事部の人から告げられた。ドルは大変貴重でダウンタウンへ行けば1ドルは380円にもなった。ロングビーチの闇市では400円だったそうだ。筆者はドルを日本のために稼ぐ企業戦士の覚悟で渡米した。車が1台売れるとこれで日本に何ドル落ちるかとほくそえんだものだ。アメリカで働くのはドルを稼ぐためとほとんどの駐在員が考えていたと思う。だがすべてに移ろいやすいのは世の常である。その後ドルを稼ぐのが罪悪であるかのように見做されることと相成った。

9年前にリタイアーし今は日米間を行き来したり、ロスを基点に世界各地を旅行している。調査したいことはまだ山とある。だが馬齢を重ねて74歳となり手持ち時間は少ない。一橋大学の同窓会報である如水会報7月号によれば故城山三郎の最後の言葉は「一日即一生」であったらしい。一時間、一日を大切にして力強く生きていきたい。
古枯の木― 歴史愛好家。本年5月トルコ旅行のあと6月ロスの近現代史研究会で「トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして」と題して講演をおこなった。


 

トルコ女性のヘッドスカーフ

トルコ女性のヘッド・スカーフ
 
                       古枯の木
            
2007年5月17日から31日までトルコを訪問した。主な目的はトルコの英雄アタチュルクに敬意を表するのと彼が現在いかに評価されているかを知るためだった。18日にイスタンブールに着き、19日からトルコ3千キロのバスツアーが始まった。19日は偶然にもトルコの独立記念日であり、しかもバスは彼が力戦奮闘したガリポリ半島の古戦場をめぐるものだった。各古戦場は休日のためもあって見学者で満ちあふれていた。「アタチュルクは生涯一度も戦争に負けたことがない」と熱意を込めて説明するバスガイドやアタチュルクの銅像の前でひざまずく老人もいた。先生に引率された小学生は「アタチュルク万歳」を叫んでいた。小生がトルコ訪問の目的を告げると「アタチュルクは偉大であった」と握手を求めてくる青年もいた。

トルコ滞在中のある日、スーパーでアタチュルクの絵葉書2枚求めカートに入れて歩いているとき、トルコの青年3人が「それは誰か知っているか」と言って近づいて来た。答えるとその絵葉書と筆者に向かい挙手の礼をした。アンカラのアタチュルク廟に詣でたとき、売店でアタチュルクのポスターを買った。売り子がトルコ訪問の目的を訊いたので、アタチュルクに敬意を表するためにわざわざ来たと言ったら、「サムライ、サムライ」と叫び金は要らぬと言う。

トルコの街にはいたるところに国旗が掲げられていた。国旗とともにアタチュルクの肖像画の並んでいるところもあり、乗ったタクシーの運転手が肖像画を指して何度も「アタチュルルク」「アタチュルク」を繰り返していた。

アタチュルクは現在も大変高く評価されている。彼は軍事、政治、外交の天才であった。が同時にイスラム世界における宗教革命の先駆者でもあった。ここでキリスト教とイスラム教の関係に触れたい。キリスト教とイスラム教の対立の歴史は長くしかも根深い。キリスト教ではキリストの福音と神の愛を説き、霊魂の救済と倫理道徳の涵養を使命とする。マーチン・ルターに始まる宗教改革を起して古い宗教的権威を否認し、ルネサンスの嵐を呼び起こした。これに対してイスラム教はキリスト教を敵視し、神の啓示を文書にしたためたとするコーランを国法としてそれを科学の中心に据えている。632年マホメットが最後の説教でマホメットの後に神の啓示を伝える預言者は最早出現せず、また新しい教義も生まれないと説いた。イスラム信者は今でもこれを固く信じ、アラーの神のみを正義とし、極端に教条主義的で妥協を許さず、イスラム教徒がいかなる宗教に改宗することを禁じ、信教の自由を一切認めない。キリスト教は自助努力により、時代とともに進化してきたが、イスラム教徒は現在に至るも“マホメットの時代”に住んでいるのだ。

だがこのようなイスラムの世界にも変化はあった。1870年代、数千年にわたる“後進未開”の状態を脱却して、西洋的文化や制度の導入、西洋的教育の奨励、立憲運動の推進を初めて唱えたのはアフガニスタン出身でエジプト人のエッディン(J ed Din)とエジプト知事のサイト(Said 1854 –63)である。だが彼らはイスラム教がイスラム世界の停滞の理由とはしなかった。

これに対しアタチュルクはイスラム世界の後進性はイスラム人の心の中にあるイスラム教が原因であり、これがイスラム世界の人知の発展や国家繁栄の重大阻害要因であると道破したのだ。イスラム教徒でありながらイスラム教を批判したのは彼が最初であると思う。イスラム教の支配する世界でイスラム教徒を相手にかかる発言をするのは非常に大きな勇気と覚悟を必要としたであろう。

ここでアタチュルクの生い立ちを簡単に述べたい。ムスタファ・ケマル・パシャ(Mustapha Kemal Pasha)(1881-1938)が本名である。ケマルはトルコ語で“完全”(perfection)を意味するがこれは小学校でいつも算数のテストが100点と完璧であったため先生が与えたもので、アタチュルクはこれを生涯の誇りとしていた。パシャはオスマン帝国の文武高官に与えられた称号で、軍人なら将軍というところであろう。アタチュルクは現ギリシャのサロニカの生まれで、母親は息子をイスラム教の坊主にしたいと願ったが、彼はイスラム坊主の腐敗、堕落を知悉しており、坊主よりも陸軍幼年学校から各種軍学校を経て最後は陸軍大学校を卒業するという軍人への道を選んだ。同期には後に陸軍大臣になりドイツに味方してトルコを破滅させたエンベル・パシャがいる。

1914年6月28日ボスニア州のサラエボでセルビア人青年がオーストリアの皇太子夫妻に向け放ったたった1発の砲声がわずか1カ月のうちに全ヨーロッパの戦争に発展した。第1次世界大戦である。トルコはしばらく洞ヶ峠を決め込んで戦塵外にいたが、8月30日東プロイセンに侵入した10数倍のロシア軍をドイツ軍参謀本部の鬼才ルーデンドルフがタンネンベルグで包囲粉砕した。これに幻惑された陸相のエンベル・パシャは無分別にも11月11日連合国に対して“ジハード”と称して宣戦布告したが、アタチュルクは彼のドイツ不信論から参戦に強く反対した。だが一旦戦端が開かれるとアタチュルクはダーダネルス海峡のガリポリ半島で分かれて進み、合して撃つという1点集中主義の戦術で10カ月以上も連合軍を悩まし続け最後にはこれを撤退せしめた。連合軍のこの作戦を企画したのは海相のチャーチルで彼はそのため海相の地位を追われた。後年チャーチルはアタチュルクを評し、「お前がいなかったら世界の歴史は変わっていただろう」と述べている。その軍功により彼は“首都イスタンブールとダーダネルスの救済者”と呼ばれ名を馳せることになった。

ドイツの敗北によりトルコは連合国に休戦を乞うよりほかに道なく、18年10月31日ムドロスの休戦条約が調印された。19年5月15日名目上の戦勝国であるギリシャが大ギリシャ主義に酔ってアナトリア(小アジアのこと、トルコ語でアナトリアとは東から太陽の昇る地域を意味する)の西半分を要求して西部のイズミールに侵入した。これではトルコ人の住むところがなくなってしまう。でもトルコの戦力は枯渇していたので、アタチュルクは戦力持久の方針に決した。農民にも協力を呼びかけ、ギリシャ軍の補給が伸びきった地点で果敢な反撃を試み、アンカラの北50キロ、サカルヤ(Sakarya)の会戦で大勝利を博した。その後, トルコ得意の軽騎兵隊がギリシャ軍をイズミールに追い海に落とした。ギリシャ軍5万人のうち、4万人が殺された。トルコ人はこの戦争を“トルコの独立戦争”と呼んでいる。このときアタチュルクは天敵であるソ連のレーニンともある種の協定を結んでトルコの安全を図った。なおアタチュルクはサカルヤの勝利が大変嬉しかったようで、彼の馬を“サカルヤ”と名付けた。

22年11月1日700年以上も続いたオスマントルコが正式に消滅し、23年10月29日トルコ共和国が誕生すると彼は初代の大統領に選出され、アタチュルクの称号を賜った。アタはトルコ語で「父」であり、チュルクは“Turkish”、つまりアタチュルクはトルコ人の父を意味する。彼は23年10月から死ぬまでの15年間(38年11月10日死去)深い慈悲心と鉄のような意思をもってトルコ人によるトルコの建設に邁進した。彼が目的としたのはトルコ帝国の再建ではなくて、トルコ人のためのトルコの建設だった。政教を完全に分離してこれを不磨の大典とし、宗教が国家権力や個人の公的生活に介入することを禁止し、全宗教学校を閉鎖し、公立の小学校、中学、高校を設立した。宗教省、宗教警察、宗教裁判所も廃止した。すべてのイスラム法を廃棄し、モスクの所有になる土地を没収してこれの国有化を断行した。信教の自由を認め、世襲の帝政を廃し、婦人に参政権を与え、一夫多妻制を禁じ、文字の改革も断行した。

これらはイスラム教に対する完全な反逆であり、革命であった。イスラム教はしばしば国政からベッドルームのことまで事細かに干渉、規制するといわれるが、アタチュルクはイスラム教の持つ束縛、制限、桎梏を極力排除しようとした。だが彼はイスラム教そのものを完全には否定せず、必要最低限はこれを残した。なぜなら完全に否定するとトルコ国民はバックボーンやアイデンティティーを喪失し、倫理道徳も見失って、無色透明の民族に陥る恐れがあったからだ。

アタチュルクの断行した諸革命の中でファッション革命とでも呼ぶべきものについて触れてみたい。彼は宗教と深い関係のある服装やファッションをすべて禁止した。婦人のチャドル(chador またはabayaともいう)着用を禁止した。イスラム国では今でも既婚婦人は黒か白のチャドルを着て、夫以外の他の男性にその姿を見せない。6世紀マホメットが婦人の髪はセクシーだからこれを隠せと命じた。それ以来ヘッド・スカーフで女性は髪を隠すようになったが、アタチュルクはこれの使用も禁じた。一般的に女性は自分の好きなドレスが着られないと非常な苦痛を感じるようだが、アタチュルクはこの点でも女性の解放者であった。さらにフェズと呼ばれる男性のトルコ帽の使用も禁止した。これは円筒形の帽子で赤色が多く、頭のテッペンから房の下がったものである。

今回トルコを訪問する前にこれらはすでにトルコの社会から消滅しているだろうと想像していた。ところがチャドルやヘッド・スカーフが復活しているのだ。マーケットではフェズも売られている。フェズを一つ買おうと思って値段の交渉をしたが、余りに高いことをいうので止めた。店を出るとき店員が笑顔で「ドケチ」「守銭奴」「貧乏性」などと叫んでいた。

これらは完全にアタチュルク革命への逆襲である。ヘッド・スカーフを着用する女性の比率は現在27%であると聞いたが、この比率はさらに上昇する傾向にあるらしい。女の子が8歳になったらヘッド・スカーフの着用を義務とする町も出てきた。公立学校の女生徒たちがヘッド・スカーフをしてイスラム教の歌を歌っている光景がいたるところで見られるそうである。農村の女性がヘッド・スカーフを着用するとお祈りなどに時間をとられて農業の生産性が降下し、さらに農地の荒廃に至るケースもあるそうだ。アタチュルクが“イスラム文明の裏切り者”であるとして反アタチュルク旋風が吹いているという人もいる。特にアラブ諸国がその後押しをしているらしい。以前トルコ政府はヘッド・スカーフの使用は公の場所や学校でのみ禁ずるという政策だったが2008年2月憲法を改正して大学における女性のヘッド・スカーフを容認するという方向に転換した。

トルコ政界は現在親イスラム主義と世俗主義(英語ではsecularity、日本語訳はむずかしい。よくアメリカ人は“I am a secular Christian.”と言うが、これは「教会から足の遠のいたクリスチャン」の意味だろう)または自由主義に2分されている。現首相のエルドアンは親イスラムであり、現大統領のギュルもイスラムシンパだ。ギュル夫人はヘッド・スカーフの愛用者だが、大統領府という公の場所でヘッド・スカーフを脱ぐかどうか。

トルコのイスラム回帰にEUの加盟問題が関係しているかもしれない。加盟のためには35もの交渉項目があり、そのうち8項目は現在凍結されている。一つの問題が解決されるとさらにまた別の問題(トルコ人はこれを皮肉を込めてホームワークと呼んでいる)が提起され、これが無際限に続く。結局イスラム国は加盟不可能ではないかと考え始める人が増えてきた。トルコ訪問中に見たアンカラの英字紙はEU加盟はrealityではなくてillusionになってしまったと報じている。もしEU加盟が不可能ならば当然ながらアラブ諸国に向かう傾向が出てきても不思議ではない。

トルコからの帰途ドイツで購入したHerald Tribune紙は現在トルコでは従来オフリミットであった領域にイスラム勢力が浸透しつつあり、世俗主義に大きなひずみが生じているという。公立学校でイスラム教の授業が復活し、政教分離が音を立てて崩壊しつつあるとも報じている。チャドルやヘッド・スカーフの着用者数が増加しているとも記している。同紙は最後に面白い逸話を引用している。それは次の通りだ。あるとき一人の少年が湖でボートを漕いでいた。そこに突然マホメットとアタチュルクが現れた。二人は少年に対しボートに乗せてくれと依頼した。ところが乗れる席は一つしかない。しばらく考えた後、少年はマホメットを乗せることに決めた。理由はアタチュルクには才覚があり、どんな困難にも対処しうるが、マホメットにはそのような力がないとのことだった。

一体トルコはどちらの方向に進むだろうか。トルコ国民の77%は現在の世俗主義、自由主義、民主主義を擁護しているといわれる。だがこの国にイスラム革命の起こらぬ保証はない。なぜなら77%の国民が現体制を支持していても、革命とはその歴史に照らしても明らかのように一般大衆、人民大衆が行うものではなくて、いつも少数の精鋭分子によって行われるからである。ある人はいざとなればトルコ陸軍が出てきてイスラム化を阻止するという。確かに1960年と1980年の2回にわたり陸軍が武力により阻止した。だが武力にも限界がある。強力なトルコ陸軍とはいえいつまでも同胞に対して銃口を向けられるものではないからだ。


古枯の木 歴史愛好家、ロス在住、2007年6月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“トルコ歴史紀行―アタチュルクを中心にして”と題して講演を行った。著書に『アメリカ意外史』『日本敗れたり』『ゴールドラッシュ物語』『楽しい英語でアメリカを学ぶ』など。








                     

太平洋戦争と日系人の苦悩

ゴールドラッシュとジョン万次郎
         古枯の木

 カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。この金塊は今でもコロマの博物館に展示されているがこれがアメリカと世界の歴史を変えたのである。金を産出した地をゴールドカントリーと呼んだが、これは南北250キロにも及ぶ。その最南端の町にはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来た。彼らの働きぶりには各民族の特性が現れていて面白い。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身やって来た。メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者だった。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持した。シナ人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していた。
 アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は1人もゴールドラッシュに来ていないと記している。日本人が来なかったのは鎖国のためだ。だが少なくとも1人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへーブンの町で教育を受け、航海術まで学んだ。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったが、1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。各種情報を精査の後、カリフォルニア行きを決心しホイットフィールドに別れを告げた。海路サンフランシスコに来て、現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働いたが、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができた。
 ゴールドカントリーは超ワイルドな男たちの世界だった。良い鉱区が分刻みで減少していたため鉱区を巡る紛争が多発し、復讐劇であるリンチ裁判が横行し、娯楽に飢えた鉱夫たちはネクタイ・パーティーと呼ばれた絞首刑を見るのを楽しみにした。人種差別が激しくシナ人やインディアンは人間の数に入らなかった。シナ人の雑役夫の日給は25セント。しかもこの地にはひどいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるスコップが1本60ドルもした。ホテルでトーストが1枚1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルといわれたほどだ。金はあるにはあったが、鉱夫たちはこのインフレと好きなギャンブルのために稼いだカネのほとんどを使い果たしてしまった。
 彼らゴールドハンターは若干の例外を除いて金持ちにはなれなかった。だが彼らは多くの人々から深く尊敬されている。それは彼らの勇気とパイオニア精神のためだ。白人の支配する世界で白人を相手に働いた万次郎であるから通常人の倍以上の用心、努力、交渉力を要求されたであろう。
 1850年万次郎はホノルルに来て、金で稼いだカネでボートを購入してアドベンチャー号と名づけ、ホノルルに置いてきた漂流仲間2人と共に沖縄に帰国した。アドベンチャー号は沖縄近海から沖縄本土への上陸目的を果たすためのものだった。
 その後、黒船来航に直面した徳川幕府に雇われ、中浜万次郎と名乗った。
 1860年咸臨丸が海を渡った時、万次郎は通訳や航海士として活躍した。一方、幕府に対しては攘夷の無謀を説き開国を薦めるなど万次郎が近代日本の黎明期に果たした功績は測りしれない。同時に万次郎がゴールドラッシュの時に示した素晴らしい才覚、未知の世界にチャレンジする冒険心、素早い決断力などは高い賞賛に値する。
2006年9月コロラド州のコロラドスプリングズでジョン万次郎大会がありこれに出席した。万次郎5代目の中浜京さんにゴールドラッシュで示した万次郎の商才について触れたところ、中浜家の一族郎党の中で彼ほど商才のある者は誰もいないでしょうと言って笑っていた。万次郎を助けた船長の5代目ボブ・ホイットフィールドは日本人の筆者がゴールドラッシュの中の万次郎を研究していることを大変喜んでくれた。
 コロラド大会の後、万次郎が育てられた東部のヘアへーブンに飛んだ。地元の歴史協会の人たちにいわゆる“万次郎トレール”を案内してもらった。この中には14歳の万次郎が小学校の1年生と一緒に勉強した学校、野球を楽しんだ隣接のグランド、彼が寄宿した船長の家、英語を個人的に教えてくれた先生の家などが含まれる。さらに町のミリセント図書館で多くの資料に目を通すことができたし、地元の人たちが開催してくれた座談会にも出席できた。
 ゴールドラッシュの万次郎については未だ不明な点が多い。彼の入った金山さえも分かっていない。当時のゴールドハンターの多くは数人が分業と協業により採金したが万次郎が誰と採金したかは判明していない。採掘した金をいかに隠すかが大きな課題だったが万次郎がどのようにこの問題に対処したかも知られていない。最近ゴールドカントリー全体の風化が激しい。しかも筆者の年齢のことも考えると“ゴールハンター万次郎の研究”をなんらかの形で早くまとめたいと思っている。

古枯の木
歴史愛好家、在米35年、著書に『ゴールドラッシュ物語』など。2008年2月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“万次郎余話”との演題で講演を行った。

続太平洋戦争と日系人の苦悩

続太平洋戦争と日系人の苦悩
古枯の木
                 

昨年9月“太平洋戦争と日系人の苦悩”というエッセイを文窓に掲載してもらったが、そのとき、まったく同じものを数人の友人、知人に流した。するとシカゴに住む友人から“日本人はルーズベルトの日系人収容について余り知らないから何らかの形でこれを日本で発表したらどうか”と言ってきた。そうだ。約1年まえ、日本のある大新聞社が何かの特集の中でルーズベルトはアメリカ全土の日系人を収容所に送ったようなことを書いていた。すぐこの新聞社にアドバイスを送ったが現在までなしのつぶてである。

日本でどのように発表するかについては、しばらく考えたあと、一橋大学の同窓会報である如水会報に投稿することに決めた。そしてこれが本年2月号の同報に掲載されたのである。題名は“アメリカの日系人”。ただ字数が1,600字に制限されていたため原文をかなり縮小せざるをえなかった。このエッセイを巡りいろいろな反響があったが、以下の二つだけを皆さんに紹介しておきたい。

1. アメリカ軍が2度までも救出に失敗したテキサス部隊の救出に日系人の442部隊が成功したというのは通説である。だがこの通説はアメリカ軍のついた真っ赤な大嘘。アメリカ軍はドイツ軍の勇敢で苛烈な反撃を恐れて救出に赴かず、最初から“ジャップ”の442部隊に丸投げした。
2. ルーズベルトは当初、戦時中のアメリカ軍捕虜と日本軍捕虜の交換を考えていたが、日本兵が簡単に捕虜にならないことを知った。そのため日系人を収容所に入れて日系人とアメリカ軍捕虜の交換を実現しようとした。これが日系人収容の真相である。

もし上述の1.が事実であるとすれば、嘘を捏造したアメリカ軍人は軍人の風上にも置けぬ卑劣な人間であったと言わざるをえない。また2.に関し、ルーズベルトの日系人収容の方針については論理一貫せぬ点が多い。当時アメリカの中西部と東部にもかなりの日系人が住んでいたが、彼らは収容の対象にはならなかった。収容の事由の一つが日系人が“敵性外国人(enemy alien)”であることにあったが、彼らに“敵性”はなかったのか。他の収容の理由が“軍事上の必要性”にあったが、ハワイに住む日系人は一人も収容されなかった。ではハワイは西海岸よりも軍事上の必要性が低かったのか?そんなことはない。ハワイにはアメリカ太平洋艦隊の基地が厳存したのだ。

これらは筆者の知らなかったことであり、驚きでもあった。このあとも貴重な新説が出てきたらお知らせしたい。

古枯の木。アメリカ在住35年、著書に“日本敗れたり”“アメリカ意外史”など。

ゴールドラッシュと万次郎

ゴールドラッシュとジョン万次郎
         古枯の木

 カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まる。この金塊は今でもコロマの博物館に展示されているがこれがアメリカと世界の歴史を変えたのである。金を産出した地をゴールドカントリーと呼んだが、これは南北250キロにも及ぶ。その最南端の町にはロスから車で5時間もあれば行ける。
 金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来た。彼らの働きぶりには各民族の特性が現れていて面白い。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身やって来た。メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者だった。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持した。シナ人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していた。
 アメリカで刊行されているゴールドラッシュ関係の書籍の多くは、ロシア人と日本人は1人もゴールドラッシュに来ていないと記している。日本人が来なかったのは鎖国のためだ。だが少なくとも1人だけ日本人ゴールドハンターがいた。それはジョン万次郎である。
 万次郎は1841年、14歳のとき漁に出て足摺岬沖で漂流、鳥島に漂着し、幸運にも米捕鯨船のホイットフィールド船長に助けられ、アメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへーブンの町で教育を受け、航海術まで学んだ。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったが、1849年9月捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にした。各種情報を精査の後、カリフォルニア行きを決心しホイットフィールドに別れを告げた。海路サンフランシスコに来て、現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働いたが、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができた。
 ゴールドカントリーは超ワイルドな男たちの世界だった。良い鉱区が分刻みで減少していたため鉱区を巡る紛争が多発し、復讐劇であるリンチ裁判が横行し、娯楽に飢えた鉱夫たちはネクタイ・パーティーと呼ばれた絞首刑を見るのを楽しみにした。人種差別が激しくシナ人やインディアンは人間の数に入らなかった。シナ人の雑役夫の日給は25セント。しかもこの地にはひどいインフレが襲っていた。現在スーパーで9ドルも出せば買えるスコップが1本60ドルもした。ホテルでトーストが1枚1ドル、それにバターを塗るとさらに1ドルといわれたほどだ。金はあるにはあったが、鉱夫たちはこのインフレと好きなギャンブルのために稼いだカネのほとんどを使い果たしてしまった。
 彼らゴールドハンターは若干の例外を除いて金持ちにはなれなかった。だが彼らは多くの人々から深く尊敬されている。それは彼らの勇気とパイオニア精神のためだ。白人の支配する世界で白人を相手に働いた万次郎であるから通常人の倍以上の用心、努力、交渉力を要求されたであろう。
 1850年万次郎はホノルルに来て、金で稼いだカネでボートを購入してアドベンチャー号と名づけ、ホノルルに置いてきた漂流仲間2人と共に沖縄に帰国した。アドベンチャー号は沖縄近海から沖縄本土への上陸目的を果たすためのものだった。
 その後、黒船来航に直面した徳川幕府に雇われ、中浜万次郎と名乗った。
 1860年咸臨丸が海を渡った時、万次郎は通訳や航海士として活躍した。一方、幕府に対しては攘夷の無謀を説き開国を薦めるなど万次郎が近代日本の黎明期に果たした功績は測りしれない。同時に万次郎がゴールドラッシュの時に示した素晴らしい才覚、未知の世界にチャレンジする冒険心、素早い決断力などは高い賞賛に値する。
2006年9月コロラド州のコロラドスプリングズでジョン万次郎大会がありこれに出席した。万次郎5代目の中浜京さんにゴールドラッシュで示した万次郎の商才について触れたところ、中浜家の一族郎党の中で彼ほど商才のある者は誰もいないでしょうと言って笑っていた。万次郎を助けた船長の5代目ボブ・ホイットフィールドは日本人の筆者がゴールドラッシュの中の万次郎を研究していることを大変喜んでくれた。
 コロラド大会の後、万次郎が育てられた東部のヘアへーブンに飛んだ。地元の歴史協会の人たちにいわゆる“万次郎トレール”を案内してもらった。この中には14歳の万次郎が小学校の1年生と一緒に勉強した学校、野球を楽しんだ隣接のグランド、彼が寄宿した船長の家、英語を個人的に教えてくれた先生の家などが含まれる。さらに町のミリセント図書館で多くの資料に目を通すことができたし、地元の人たちが開催してくれた座談会にも出席できた。
 ゴールドラッシュの万次郎については未だ不明な点が多い。彼の入った金山さえも分かっていない。当時のゴールドハンターの多くは数人が分業と協業により採金したが万次郎が誰と採金したかは判明していない。採掘した金をいかに隠すかが大きな課題だったが万次郎がどのようにこの問題に対処したかも知られていない。最近ゴールドカントリー全体の風化が激しい。しかも筆者の年齢のことも考えると“ゴールハンター万次郎の研究”をなんらかの形で早くまとめたいと思っている。

古枯の木歴史愛好家、在米35年、著書に『ゴールドラッシュ物語』など。2008年2月近現代史研究会(今森貞夫主宰)で“万次郎余話”との演題で講演

愛情の表現ー日米の差

愛情の表現―日米の差

                            古枯の木

 昔アメリカでマーケティングの仕事をしていたときエド・ハントというハンサムで気のいい男をナショナル・セールス・マネジャーとして使っていたことがある。アメリカ南部の貧農のせがれでタクシーやバスの運転手をしながら学校を卒業した。西部劇に出てくる正義漢の“いいやつ”がぴったりの男だった。
 このエドは太平洋戦争の勃発とともに志願して米海軍に入り諜報部に配属された。1942年秋、潜水艦とゴムボートで房総半島の一寒村に一人で上陸した。上陸する前に潜水艦の潜望鏡で走る横須賀線の電車を見せられ、この電車の一等車と二等車(現在のグリーン車)の中に米軍のために働く中国人や朝鮮人のスパイが多数乗り込んでいると教えられた。ミッドウエイ作戦の秘密はこの車両からも漏れたと聞いたらしい。房総半島上陸の目的は東京湾を出て行く日本の輸送船を潜水艦に報告することだった。このときエドは通信機器、当面の食料、双眼鏡、手旗、ナイフ、友軍機に連絡するためのミラー、魚を釣るための釣針、釣糸などを与えられた。彼の戦争体験を聞くといつも時間の経つのを忘れたものだ。
 このエドに一人息子がいた。名前はエド・ハント・ジュニアーという。大変な秀才で後に軍関係では一番難関といわれるデンバーの空軍士官学校に入学するが、エドはこの息子が10歳になるとロスから南へ車で3時間のところにあるサンディエゴの学校に突然転校させてしまった。筆者は幼い息子を不憫に思い、転校の理由を訊くと親元を早く離れて一日も早く自主独立の心を涵養させることが肝要であり、これこそが真の親の愛情だという。
 一方日本ではどうだろうか。世の親たちは一日でも長く子供を手元に置いて親に面倒をみさせるのが真の愛情だと考えていないか。これは子供に対する日米の大きな愛情表現の差異である。子供のためにはどちらの方法がベターであろうか。
 でも親が子を思う気持ちは洋の東西を問わず変わりない。エドは毎週末3時間をかけて息子に会いに行っていた。息子に会わぬとその週が暮れぬという。金曜日の夕方はいつもそわそわしていたのを今も鮮明に覚えている。ときには早退させてくれと言って筆者を困らせてこともある。週末はよく息子と遊んでいたらしい。あるとき息子と一緒に海に潜り、たこをたくさん捕ったがどのように料理すべきか教えてくれとわざわざサンディエゴから電話で訊いてきた。またあるとき湖で息子を泳がせていたら、通りがかりの人から湖には毒蛇が多いので泳いではだめだと告げられた。エドは自分の身の安全も考慮せずにズボンと靴をはいたまま湖に飛び込んだ。親が子を思う気持ちは日米間にまったく差異はない。
 房総半島での任務を終えて後任者と交代したとき、エドは浜松の沖合いで潜望鏡を通じて工場の工員たちが夕方遅くまで野球をするのを見て楽しんだ。同僚とどちらが勝つかの賭けもしたそうな。

古枯の木。歴史愛好家、特に日米関係に関心あり。在ロス。著書に『日本敗れたり』など。
 

英語のむずかしさ

英語のむずかしさ

                        古枯の木
                         
旧制中学1年生のとき敗戦となり、それまで禁止されていた英語教育が復活した。英語を勉強することは未知の世界を探検するような楽しみがあって大いに興味をもったものだ。日本語に時制は現在、過去、未来の三つしかないが、英語には六時制もあると聞いたときのnice surpriseは今も忘れることができない。しかも英語の勉強は極めて安価な未知の世界の探検だった。また英語は日本語よりもはるかに論理的であるため論理的思考の発展に寄与したかもしれない。
 
筆者のアメリカ生活はトータルで35年ぐらいになるが、英語の読み、書き、話す、そして聞くなかで一番むずかしいのは依然として聞くことである。なにしろ20歳ぐらいまで外人と話す機会がなかったため耳の訓練が大変遅れてしまった。この点、耳も熱いうちに打つ必要がある。一方一番やさしいのは書くことである。これは自分の持てる語彙と文法力によって大体好きなように書けるからである。
 
ヒアリングの能力を向上させるための良い方法はないかとあるアメリカ人に相談したところ速記を習えと教えてくれた。速記では耳に全神経が集中するからである。2年余り速記を学校で勉強したが、その効果ははっきり分からぬ。
 
わが家にはアメリカと日本で教育を受けた子供が3人いる。ほぼ完璧なbilingualである。彼らによると日本の学校で教える英語はAmerican EnglishではないしQueen’s English でもないという。完全なJapanese Englishを日本の子供は習っているそうだ。筆者の英語もJapanese Englishの域を出ぬという。
 
英語について日頃感じていることをつれづれなるままに書いてみたい。今述べた日本英語が純粋な英語の領域を常に蚕食しているように思える。例えば英語で日本語に帰化したものが随分あるが、本来の英語の発音を可能な限り残せばいいものを日本的にmodifyしている。ビジネスの正しい英語発音はビズニスだ。(このコンピューターは発音記号を表示できないので残念ながらカタカナによる)レディー(lady)は正しくはレイディー、メジャーはメイジャー、コンテナはコンテイナー、セフティーはセイフティー、ベビーはベイビー、これらは枚挙にいとまがない。
 
またアクセントの位置が変化してしまったものもある。以下アクセントは太字で表示する。アドバイスという英語はないのに放送局は平気でアドバイスと言っている。ディスプレイも同じこと。単純な日本語の発音に比較して英語の発音は複雑でむずかしい。日本人の舌が長い間に退化してしまったかもしれない。大学で講義をするとき学生に“俺はretarded tongue(退化した舌)の持ち主で俺の英語の発音はJaplish(Japanese とEnglishのmixture)だから柔軟性をもって聞いておれ”と言って笑わせたこともある。筆者の友人でアメリカに来て弁護士になった人がいる。彼も英語の発音は困難だと言う。あるとき電話で“This is an attorney.”と言ったところ相手が“Hey, Tony, how are you?”と答えたそうだ。AttorneyがTonyと間違えられたわけだ。
 
街で見る英語も随分いい加減なものが多い。例えば午前10時をA.M. 10とする。正しくは10:00 a.m.であり、日本に来る外国の旅行者はこれを見て笑い出す。日常生活でもゴルフのシングル、スキンシップ、ケースバイケース、野球のメイクドラマ、シルバーシート、オールドミス、ニクソンショックなどは英語に直訳できぬ。Grand Open, grade up もいい加減な英語の典型。
 
和製英語としての市民権を与えられていながら本来の意味とはまったく異なる意味に使われているものがある。Pay offは本来完済の意味。例えばpay off national debt。だが日本の金融界はまったく別の意味に使用した。いろいろの図書で調査をし、さらに金融に通じている学識あるアメリカ人に尋ねてみたが日本的意味はどこからも出てこなかった。Life lineも同じことで日本では生活の基盤となる電気、ガスなどの意味に使用しているようだが、これはあくまでも船から溺れている者に投げる命綱であり、また船からの転落を防ぐために船の周りに張られた綱などである.
 
一見したところ意味不明のカタカナも多い。アンケートは何語かな。英語ではopinion poll。マンツゥーマンはone on oneが正しい。one on one private lesson という広告をよく見る。フライドポテトはFrench fries、ガソリンスタンドはgas station、ベッドタウンはcommuter town、commuterは通勤列車のこと。ミスコンテストはbeauty pageant、これらは枚挙にいとまがない。
 
英語にならぬ日本語も多い。先輩、後輩は和英辞典に苦しい訳語が載っているが、英語にならない。そのようなコンセプトがアメリカ人の間にないからだ。アメリカ人には同じ学校の出身者でも縦の関係は存在しない。“俺はお前の先輩だ”などと先輩風を吹かせたら笑われてしまう。よく日本人は米を主食とするといわれるが、主食という英語はない。パンは彼らの主食ではない。昔、日本の車のディーラーの社長がアメリカに来て、リセプションのとき、“俺は義理人情によって車を販売している”という言葉を英訳しろと言われて困ったことがある。先日はありがとうございました、今後ともよろしく、ただいま、いただきます、会社員、おかげさまで、行政指導(アメリカは規制か自由の二者択一があるだけで、極めて曖昧模糊で日本的な指導なるものは存在しない)などは英語にならぬ。そんなコンセプトや事実がアメリカには存在しないからだ。
 
日本人に理解困難な英語もある。クラシック音楽はclassical musicというし古典的美人はclassical beautyになっている。一方classic movie, classic car, classic artなどの英単語もある。Classicalとclassicの違いを調査したが、まったく分からぬ。日本に対する注文はorder from Japanといい、order to Japanとはいわない。“本の13ページを開けよ”はOpen your book to page 13. であり、at page 13とはいわない。Love of natureは自然に対する愛であり、of は“対する”と解釈すべきである。Offは普通離れたことを意味するが、ときには状態を示す。He is better off now. は彼は今ベターな状態にあることを示す。You are to blame.はあなたは責めるべきではなくて、責められるべきの意味になる。Remember Pearl Harbor. To hell with the Japs. これは真珠湾攻撃のあとに有名になった言葉である。To hell with the Japs. は“日本人を地獄に落としてやれ”を表す。“地獄に落ちよ”は一般的にGet the hell out of here. と言う。
 
“お会いできることを楽しみにしています“はI am looking forward to seeing you. と言うが、to see you は誤りである。なぜかは知らぬ。同様にThis company is committed to preserving energy. と言う。I suggested him to go.は誤り。I suggested him that he should go.とせねばならぬ。Explain やdiscuss にabout は付けぬ。よく日本人はPlease explain about it. Let’s discuss about it.と言うがこれはいずれも誤り。

英語には歴史的背景を知らなくては理解が困難なものがある。Two bitsとはコインの25セントのこと。往時アメリカでは小銭の必要なとき1ドル銀貨を割って使用した。1ドル銀貨の1/8がone bitであり、two bitsは1/4。1ドルの1/4は25セントである。1ドル、2ドルのことを1 buck, 2 bucksという。これは昔、アメリカの紙幣がbuckskin(羊の皮)でできていたことの名残。ドル紙幣のことをgreenbackというがこれはかつて紙幣の裏側がグリーンであった歴史的事実による。COPは警官のことだが、これは以前警官のバッジが銅(copper)でできていたため。

I will hit the hay. は寝ることを表す。アメリカの西部開拓時代、ホテルの数は極めて僅少で、それも大きな町に限られていた。したがって、開拓者たちは、野中の百姓の一軒屋を訪ねて一晩の宿を依頼することがよくあった。だが百姓家にもベッドはたくさん無かった。応対に出たワイフが、申し訳なさそうな顔をして、“あいにくベッドの余分は無いけれど、馬小屋の枯れ草の上ではどうでしょうか”と答えることが多かった。枯れ草を打つとはそれ以来寝ることを意味するようになった。アメリカ人との夕食のあと眠くなると筆者はよくこの表現を利用した。するとアメリカ人はHave a sweet dream. と返してきた。

アメリカ人はよくPut your John Hancock.というが、これは“サインをください”を意味する。1776年7月2日に独立宣言が議会を通過し、4日にこれに署名がなされた。独立宣言を起草したのは後にアメリカ第3代の大統領になるThomas Jeffersonであっため皆彼が最初に署名するものと期待していた。ところが当日John Hancock(1737-93)が最初にサインをしてしまい、しがも大書したのだ。彼は独立宣言の起草には全然関与していなかった。でもそれ以後John Hancockは署名を意味するようになった。
 
英語に特有のしゃれた表現もある。アメリカでは昔からblueberryが目によいとされている。太平洋戦争中、戦闘機のパイロットであった息子に何度もこれを送り続けたという有名な母親の話がある。Very goodと言う代わりに最近berry, berry goodと茶化すアメリカ人が多い。筆者は昔からblueberry が好きでよく食べてきた。そのためかどうかは知らぬが74歳の今でもメガネは要らぬ。Give me the bad news. はレストランで食事を終わり請求書を請求するときによく使われる。ステーキの焼き方にはwell done, medium, medium rare, rareなどがあるがbloody and moving (血がしたたっていて動いている)はrareのことである。Just Marriedは新婚ほやほや。あるとき自動車のボディーに次のように書かれているのを発見した。She has got me today. I will get her tonight.これは簡単に理解できますね。We have come a long way, baby. は、われわれは長い時間と多くの労力を費やしてやっとここまで来たという意味である。筆者は1990年代の初め、1645年に創設された由緒ある日本企業のアメリカ法人で働いたことがある。その頃、アメリカ人の日本企業に対する関心が高く、各地の大学や協会で講義やスピーチを求められた。会社が古いことを強調するために、冒頭によくこの表現を用いた。アメリカ人はこれを喜び拍手喝采してくれた。どうもこれはアメリカ人の好きな言葉らしい。
 
簡にして要をえた表現も大切だ。Brevity is the soul of wit.とはシェイクスピアの残した有名な言葉である。筆者はアメリカで会社の経営中、いつも部下に対し、レポートは一枚でbrief and to the pointでなければならないことを強調してきた。敗戦後の日本帝国を解体したマッカーサー元帥は部下に対しレポートはいつも1ページであることを厳命し、2ページにわたるものは一切読まなかったそうである。あるアメリカの語義学者(語義学は英語でsemanticsという)はレポートに関し次のように言っている。A report is like girl’s mini skirt. It must be short enough to be interesting, but long enough to cover the subject. 無条件に賛成できますね。“会議中”という表札に日本の大商社が意味不明の長たらしい英語を書いていた。この場合アメリカでは“Meeting in Progress”という。使用中なら“IN USE”でいい。年中無休はopen seven daysまたはnever closeで分かるだろう。
 
英語を書くことは一番やさしいと冒頭に言ったが、英訳上気をつけなければならないことが多い。あるとき“彼の運動神経はすばらしい”をHe has an excellent athletic nerve.としたらアメリカ人教師から人間の体の中に運動神経という神経は存在しないぞと教えられた。確かにそのような神経は人体にはない。またタバコは身体に悪いはSmoking cigarettes is bad for health. とすべきだろう。タバコそのものが悪いのではなくて吸うことが悪いのだから。

英語の文法も時代とともに変化する。最近よく使われる言葉にhealthyがある。筆者の学生時代healthyは個人的なことには使用できぬと教えられた。従って彼女の健康状態はよいはShe is in good health. といい、She is healthy. とはいわぬと学んだ。だがこの法則は最近完全に打ち破られている。昔、アメリカの夜間大学で英語の勉強をしたとき、アメリカ人はよく“それは私だ”と言う場合It’s me. と言うが正確にはIt’s I. ではないかと教授に質問したことがある。教授は後者が文法的には正しく、It’s me.と言うほど文法はまだ軟化、俗化していないとのことだった。

本に書かれている英語でも実際には使用されぬものも多い。1967年夏、一橋大学の岩田一男教授が“英語に強くなる本”を出版され、ベストセラーになった。この中で岩田氏はトイレでノックされたとき、“I am here.”はこっけいであり、“Someone in.”と言うべきであると述べておられる。だがSomeone in.は聞いたことがない。多くのアメリカ人に訊いたがそんなことは言わぬと言う。ノックをしたとき普通は“Wait your turn.”が返ってくるが、あるとき“Can’t you smell me?”と返事したやつもいる。本に書かれた英語だからといって頭からこれを信用することは危険である。
 
アメリカに35年も住んでいながら英語は一向に上達せずその道は厳しく長い。今でも通訳を依頼されると便所に飛び込んで逃げたくなる。通訳をしていて一番困るのは話す人が日本語でなにを言わんとしているのか理解できぬときである。一方少しでも英語の素養のある人の通訳はやりやすい。中学生のときから英語は好きで勉強してきたつもりだがいつも不勉強を嘆いている。ときには英語不適格者かとも思う。いずれにせよ英語の学習は道半ばであり、年齢のことを考えると日暮れて道遠しの感さえある。だが英語の学習に王道は無く、毎日歩一歩を進めるのが凡才の最適の英語学習方法であろう。

(古枯の木 英語の勉強を趣味とする者。ロスに永住予定。著書に“楽しい英語でアメリカを学ぶ”など)