2009年1月30日金曜日

イデオロギーとは何だったのか

イデオロギーとは何だったのか
    古枯の木

 わが日本国民は多くの長所を持つと同時に短所をも有する。短所のうちの一つはあらゆる文明の実験者として他人の唱道する原理、原則に飛びつき、貪欲に取り入れ、しかも主体性、自主性なくこれに溺れることである。ソ連が平和のチャンピオンになるとそれにのった。また近時アメリカがグローバリゼーションのラッパを吹くと同じように小型で借り物のラッパを吹いた。ここで日本の敗戦後の偉大なエセ科学であった共産主義のイデオロギーについて私見を開陳しておきたい。
 
 祖国日本は100年近く共産主義のイデオロギーの悪夢、呪詛にさいなまれてきた。その間に浪費した時間、エネルギー、金銭はどれぐらいに達するであろうか。この悪夢から国民が開放されたのは、1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊したときである。第2次大戦終了後40年間も恐喝と圧力で西欧陣営の結束を破らんとしたソ連がアメリカとの軍拡競争、経済戦争に敗れ西側の経済援助を必要とするに至った。民主主義が冷戦で共産主義に勝ったのである。諸悪の根源が資本主義にあり、明日にでも共産政権が実現するかのように宣伝してきた無責任な日本のマスコミや進歩的文化人はどのような責任をとったであろうか。

 ここに有名な歴史的事実がある。共産主義の抑圧下にあった東ドイツで1980年代の初めに深刻な食糧危機が襲った。人々はスターリンギフトと呼ばれる粗末なアパートに住み、卵1ダースを買うのに長い行列を作って月給の152パーセントを支出しなければならないような羽目に陥ったのだ。それにもかかわらずわが国の進歩主義者はこの事実に目を覆い共産主義を賞賛し続けた。共産主義に裏打ちされたソ連の軍隊は絶対に略奪、暴行、強姦などしないと主張する大学教授がいた。そのような人格高潔な軍隊が世界のどこに存在するだろうか。

 イデオロギーにはイデーが含まれている。それは何千、何万年後には実現するかもしれない理想、幻想を意味する。それは夢とごまかしの世界であり、虚構であり神の世界である。マルクス理論の根本は、“人がその能力に応じて働き、その必要に応じて取る”社会の実現だった。人の能力といっても測定不能のものであり、人の必要、欲望は最大無限のものである。かかる妄想や神秘的世界は、到底この世界では実現不可能の夢の世界である。このような地上の楽園が明日にでも実現するかのごとく説いて、世の善男善女を騙したのだ共産主義のイデオロギーだった。

 学問とはレアリティー(reality)の追求である。レアリティーを追求せずに夢を追ったマルクス説は非学問的とも言いうる。司馬遼太郎はマルクス理論を一つの“宗教的真実”と喝破したがけだし名言であろう。かかる実現不可能な宗教的真実であっても、それは資本主義を攻撃するための戦術理論としては非常に有効であり、ある種の訴求力をもっていた。

1980年代よく仕事で中欧、東欧、ソ連に出張した。働いても働かなくても同じ給料だから人々の労働意欲はまったく低い。生産性が低いため貧困が支配し、共産党がすべてをコントロールしていた。進歩的学者がこの世のパラダイスと礼賛していたこれらの国で発見したものはすべて共産主義の奇形児に過ぎなかった。共産主義などこの地球上のいかなる場所でも実現していなかったし、また今後とも実現することはないだろう。

 日本人は古来海外の文物を輸入するのに極めて鋭い触覚を持っていた。そのためその背後に存在する原理、原則、精神などを深く考慮せずに外形のみを真似てきた。それにしてもいったん吸収した文物を廃棄するときのスピードも速かった。マルクスの理想、夢そして戦術理論の中には資本主義の負の部分を指摘した価値ある見解もあるのだが今日、日本人は誰もこれに見向きもしない。進歩的学者が信奉していた剰余価値説、唯物史観、階級闘争などは海の底に溺死してしまったのだろうか。マルクスはロンドン郊外のハイゲート墓地に埋葬されているとのことだが、彼は日本人のこのような性情に苦笑していることだろう。

 古枯の木―歴史愛好家、著書に『日本敗れたり』など。ロス在住。



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